漣の声

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 「・・・で、さ。エリコ様ったらさ、にっこり笑って、私に、今日中にその『どうにか出来そうな人』を探して連れて来い、って言うんだよ」
 昨日の出来事を一通り話し終え、私は頬杖をついて、特大の溜息をついた。
「それが宿題だってさ」
「それで、昨夜から徹夜で調べたり考えたりしていたのね」
 ここは、マーファ神殿の相談室。向かいの席で、シマコさんは頷きながら私の話を聞いてくれている。神殿のシスターの中でもシマコさんの人気は抜群で、シマコさんを指名して相談に訪れる人も結構多いから、本当は大忙しの筈なんだけど。
「うん。だけど、全っ然わかんなくってさ。もう、頭が煙吹きそう・・・」
 テーブルに突っ伏した私の頭を、シマコさんの手が優しく撫でてくれた。
 癒される・・・。
 えへへ。
 幸せ。
「・・・ねえ、ノリコ」
 撫でられる感触にうっとりしていると、上からシマコさんのエンジェルボイスが降ってきた。
「うん?」
「その幽霊騒ぎの原因、エリコ様は、わかっていらっしゃるのよね」
「うん。それが何なのかは、教えてくれないけど」
「その上で、ノリコに『どうにかできそうな人』を『連れて来なさい』って、仰ったのよね」
 噛みしめるようなゆっくりとした口調で、シマコさん。
「うん」
「と、いうことは・・・その、『どうにかできそうな人』は、ノリコの近くにいるのではないかしら」
「え?」
 私はむくりと起き上がって、シマコさんの顔を見た。
「例えば」
 一寸考えて、シマコさん。
「シスター・ウェムラ様を、今日中にエリコ様の所へ連れて行くことが、ノリコにできるかしら」
「・・・今日中どころか、一ヶ月あっても無理だと思うよ」
 シスター・ウェムラ様といえば、このマーファ神殿の一番偉い人だ。顔ぐらいはちらっと見たことがあるけれど、話したこともないし、そもそもどうやったら面会できるのかすら分からない。
「だから、エリコ様が『今日中に』『連れて来なさい』と仰った、ということは、ノリコがそうすることができる人、ということなのではないかしら。ノリコが言えば、すぐにでも一緒に魔術師ギルドに行ってくれるような、親しい間柄の」
 そうか。
 エリコ様の頭の中には、模範解答があるわけで。もしも、その模範解答が私にはとても手の届かないものだったら、そんなことは言わない筈だ。
「なるほど。さっすがシマコさん!」
 美人で優しくて、おまけに頭もいい。もう惚れ直しちゃう!
 じゃあそれは誰なんだ、って考えるより先に、ただひたすら感心。
「・・・それで、ね」
 シマコさんの口調が少し、慎重になる。問題の核心にいよいよ迫ろうという時、シマコさんは決まってこういう話し方をする。
「もしかしたら・・・それは、私のことではないか、と思うの」
「え」
 徹夜明けの私の頭は、シマコさんの言葉を理解するのに、ゆっくり五つ数えるくらいの時間を要した。
「え、えっ、ええっ------」
 シマコさんが? この幽霊騒ぎを『どうにかできる』人?
「とにかく、エリコ様の所へ行ってみましょう」
 混乱している私に、シマコさんは微笑んでそう言うと、優雅な所作でゆっくりと椅子から立ち上がった。

 魔術師ギルドにて。
「ふーん。よくできました・・・って言ってあげたいところだけど」
 エリコ様は、私とシマコさんの顔を交互に眺めた。
「その顔を見ると、正解に辿り着いたのはシマコの方だけみたいね」
 さすがエリコ様・・・まあ、私もポーカーフェイスはあまり得意じゃない、って自覚はあるけど。
「では、やはり------」
「あーーーストップストップ!」
 言いかけたシマコさんを、エリコ様は素早く遮った。
「シマコ。これはノリコちゃんの宿題なんだから、答え言っちゃ駄目よ」
「えーっ。私だけ蚊帳の外ですかーーー?」
 シマコさんがもう少し早口だったら、一寸くらいは答えが聞けたかもしれないのだけど。品のある、おっとりとした話し方が仇になったかもしれない。
「文句言わないの。ノリコちゃんだって、自力で手がかり一つ見つけられないまま、答えだけ聞いたって、面白くないでしょ」
 うぐ。痛いところを突くなぁエリコ様。
「・・・そりゃ、まあ・・・そうですけど」
「そんな顔しないで」
 ヒントぐらいあげるから、とエリコ様は顎に手を当て思案する。
「じゃあ・・・そうね、これがヒント。『シマコの特技は何でしょう』」
「シマコさんの、特技・・・・・・・・・踊り?」
 とりあえず、最初に思いついた単語を口にしてみる。シマコさんて、確か東方のナントカっていう伝統舞踊の踊り手だって聞いたことがある。実際に踊ってるとこを見たことはないけどね。
「あの部屋でシマコが踊ったら、物が飛んでこなくなると思う?」
「・・・思いません」
 だよねえ。むしろ余計何か飛んできそう。
「まあ、明日の午後、もう一度マーチさんのところへ伺うから、その時までに調べておきなさいな。シマコ、そういうわけだから、明日、一緒に来てくれるかしら」
「分かりました」
 エリコ様が言うと、シマコさんは神妙な面持ちで頷いた。

 次の日も、よく晴れていた。
 エリコ様とシマコさんと私の三人で、改めて件の幽霊屋敷を訪ねた。呼び鈴を鳴らすと、この間と同じメイドさんが現れる。
 その視線がシマコさんに留まった瞬間、メイドさんの表情が曇ったように見えた。
「ようこそ、いらっしゃいました・・・奥様とお嬢様が、お待ちかねです」
 けれど、そこはプロというべきか。メイドさんはにっこりと微笑んで、私達三人を中へと招き入れた。

「ごきげんよう」
 応接間の入り口で、エリコ様は恭しく頭を垂れた。
「お約束通り、何とかできそうな人間を連れて参りました」
 その後ろから、シマコさんが進み出る。
「お初にお目にかかります。シマコ・トゥドゥと申します」
 スカートを軽くつまんで、お辞儀をする仕草も美しい。
 マーチ夫人とアヴリルさんの表情が曇った。
 まあ、魔法使いが『私達じゃどうにもなりません』なんて言っといて、連れてきたのがシスターだったら、『やっぱり悪霊だったのか』って、思うよね。普通。シマコさん曰く『死霊払いの法力は、相当に徳のある司祭さまでなければ使えない』そうだけど、そんな事は一般の人にはわかんないし。ってか、私も知らなかったけどね。
「・・・私が本日お伺いしましたのは、母なるマーファの僕として、ではございません」
 何か言いたげな夫人とお嬢さんに、シマコさんは静かな口調でそう言った。
「声なき、小さな者の代弁者として、私はここに参りました」
「? それは、どういう------」
 マーチ夫人が首を傾げる。表情が、すごく不安そう。
 だよねえ。私も最初訳がわかんなくて、知らない場所に置いてけぼり食ったみたいだったもん。
「とにかく、行ってみましょう。そうは言っても、まだ百パーセント解決できるという確信があるわけではありませんの」
 エリコ様はそう言って、(いかにも腹に一物抱えているように)微笑した。

「こちらです」
 マーチ夫人と娘さんに導かれ、私たちは二階へと続く階段を上った。
 階段を上がると、一昨日と同じように、一人の老婦人が廊下の中程に佇んで、窓の外を眺めているのが見えた。老婦人は近づく私たちに気付いてか気付かないでか、くるりと私達に背を向け、すたすたと廊下を歩いてゆき、一番奥の部屋へ、すぅっ、と入ってゆく。
「・・・シマコ、どう?」
「ええ。確かに」
 エリコ様の問いに、シマコさんは短く答えて頷いた。
 なんか、ツーと言えばカーみたいな感じで、ちょっと面白くないけど。
 そんなことを考えているうちに、私達は問題の部屋の前にやって来た。やはり一昨日と同じように、アヴリルさんが鍵を開けてくれる。
「さて、ノリコちゃん」
「はい?」
 呼ばれて振り返ろうとした私を、エリコ様は背後からいきなり羽交い締めにした。
「ちょっ! な、何するんですか!」
「だって。こうしないと、ノリコちゃん、飛び出していくでしょ」
 私達がそうしている間に、シマコさんはしずしずと部屋の中へ足を踏み入れた。
 ソファに置かれていたクッションが勢いよく飛んでくる。
「あーーーっ!」
 私は思わず声を上げた。
 シマコさんは両腕で顔を隠すようにしてガードする。
 クッションは、床にぽとりと落ちた。
『------』
 シマコさんは虚空を見つめ、語りかけるように言葉を発した。
 否。
 語りかけているのだ、と思って見るから、言葉のように聞こえる気がするだけで、それは私の知っているどんな言葉とも違う、奇妙な音だった。人語とはかけ離れた雑音のような音が、あのシマコさんの口から発せられていることに、何とも言えない違和感を覚える。
 そうしていると、今度は、本棚の本がひとりでにするりと抜け出して。
「シマコさんっっ!」
 次々に、シマコさんめがけて飛んでくる。
「放してくださいっ! ってか放せーーーーっ!」
「い・い・か・ら。シマコに任せて大人しく見てなさいっ」
 私は羽交い締めにされたまま暴れたけれど、エリコ様の腕はなかなか解けない。そうしている間にも、飛んできた本はシマコさんにどかどかと当たり、床に落ちてゆく。顔面強打、なんてことはさすがにないけれど、かなり痛そう。
『------』
 シマコさんは再び、虚空に向かって語りかける。
『------』
 何を言っているのかは、やっぱりわからない。ただ、懸命に何かを伝えようとしていることだけは、何とはなしに伝わってくる------ような気がする。
 と、本の「攻撃」が止んだ。
『------』
 シマコさんの視線が、窓辺のロッキングチェアに留まる。
 もちろん、人の姿はどこにも見あたらない。
『------』
 柔らかな声は、不思議な言葉を紡ぎ続けている。
 私を拘束していたエリコ様の腕が解けた。
「・・・あの・・・これは、いったい・・・」
「古いお屋敷には、精霊が棲んでいる。そんな話を聞かれたことは、ありませんか」
 不安げに問うマーチ夫人に、エリコ様はゆっくりとした口調で答える。
「精霊・・・・・・ですか?」
 マーチ夫人とアヴリルさんは、まだ半信半疑よく分かっていないような、そんな顔で、エリコ様の言葉を繰り返した。
「ええ。彼女はその、精霊と話しています」

 部屋に足を踏み入れた瞬間、シマコは、剥き出しの敵意が自分に向けられるのを感じた。
『出てけ!』
 顔面めがけて飛んでくるクッションを腕で防いで、
『待って。お願い、話を聞かせて』
 姿の見えない相手に向かって、シマコは訴えた。
 こんどは、本が飛んでくる。
 ぶつかってくる、固い表紙。腕に、肩に、痛みが走る。
『ここはメイの部屋だ! メイのものにさわるな!』
 声がする。
 声、といっても、耳から聞こえてくるのではない。頭の中に、メッセージが直接流れ込んでくるのだ。
『触らないわ。だから、お願い。姿を見せて。私に、お話をきかせて』
 シマコは語りかける。人である彼女は、口から発する音で、言葉を紡ぐ。
『うそつけ!』
『嘘じゃないわ。あなたの大切なものを、私は、傷つけない』
 彼女は、心を開いた。
 壁を取り払い、何者をも拒まず、全てを受け入れる用意をする。
 それは、神の御前に立ち、神託を請うときの心持ちにも似ていた。
『私は、あなたとお話がしたいだけなの』
 本の「攻撃」が止んで、心の中に、感情が流れ込んでくる。
 苛立ち。
 怒り。
 嫌悪。
 ------悲しみ。
 そんな感情が、混然として、流れ込んできた。
『姿を見せて------あなたのお話を、きかせて?』
 シマコがそう言うと、辺りに満ちていた敵意が、すぅ、と、潮が引くように消えてゆき。
 窓辺に置かれたロッキングチェアの上に、小さな人型が姿を現した。
 茶色いぼろ服を纏い、手のひらほどの、子どものような姿をしたそれは。
 ブラウニー------古い屋敷に棲まう精霊。
『こんにちは。会えて嬉しいわ』
 シマコは優しく、語りかけた。
『綺麗なお部屋ね』
『・・・メイは、きれいずきだから』
 ブラウニーが答える。まだ少し、むっとしているようだ。
『かえってきたとき、部屋がきたなかったら、がっかりするだろ』
 足元に散らばった本がふわりと宙に浮かび、本棚へと戻ってゆく。
『あなたは、メイさんが大好きなのね』
『だいすきだよ。おいら、メイが赤ちゃんのときから、いっしょだもの』
 ブラウニーが言うと、シマコの前に、ひとりの少女が姿を現した。先刻挨拶を交わした、故人の孫娘------アヴリルに少し似ているだろうか。
 少女はベッドの上に這い上がると、チェストナッツ・ブラウンのおさげ髪を揺らしてぴょんぴょんと飛び跳ねる。
『まあ。ずいぶんお転婆さんなのね』
 その様子に、シマコはくすくすと笑った。
『そうだよ。だから、いつもしかられて、閉じこめられて、ないてたんだ』
 と、部屋の様子が一変する。
 小綺麗なベッドやソファが姿を消し、代わりに現れたのは、埃を被ったがらくたの山。薄暗い部屋の床で、先刻のおさげの少女が膝を抱えて泣いている。
『だから、おいらが、台所からおかしをくすねてきたり、ドアのかぎを開けたりしてやったんだ』
 ブラウニーは、えへん、と言うように胸を張った。

「精霊というものは、本来、精霊界という別の世界に棲んでいて、現世に姿を現すことはありません。たとえ仮に姿を現したとしても、その存在は不安定で、すぐに精霊界に還ってしまいます」
 エリコ様が解説を続ける。
「ですが、何らかの力によって、現世に繋ぎ止められてしまう精霊もいます。この古屋の精霊の場合は、恐らく、メイリーンさんとの絆によって」
「絆・・・ですか」
 マーチ夫人は、狐につままれたような顔で、エリコ様の言葉をなぞった。
 ま、エリコ様はどっちかっていうと腹黒タヌキだと思うけど。
「有り体に言えば、メイリーンさんの、お友達だったのでしょう。そして、そういう精霊は、拠り所にしていた人間が亡くなってしまうと、不安定なまま現世に繋ぎ止められ、精霊界に還ることができなくなります。そのような存在を、我々は『狂った精霊』と呼んでいます」
「精霊が・・・狂って・・・?」
 マーチさん母娘のような普通の人にとっては、たぶん、『あなたのお家には精霊が棲んでいますよ』っていうことだけでも十分驚きだろう。その上更に、おたくのお祖母さんは精霊とお友達でしただの、その精霊はお祖母さんが亡くなったせいで狂ってしまいましただの、一度に信じろというのは無茶な話だ。私だって、精霊が『狂う』なんて、今度のことで初めて知ったわけだし。
「ですから、彼女は今、その狂った精霊を何とか正気に戻し、元の世界に還そうとしているわけです」
 そう言って、エリコ様は、シマコさんをちらりと見遣った。
「お、お母さま! あれ!」
 と、アヴリルさんが吃驚して声を上げる。
 部屋の中を見ると、ベッドの上で小さな女の子が大はしゃぎで飛び跳ねているのが見えた。
「あ、あれは・・・アヴリル? いえ------」
 マーチ夫人はそう言って首を傾げる。
「古屋の精霊は、自分の懇意にしていた家人が亡くなると、その人の在りし日の姿を幻で見せることがあるそうです」
 その問いに答えるように、エリコ様。
「・・・では、あれは------」
「------お祖母さま?」
 そう言っていると、今度は寝室だったはずの部屋が物置みたいになった。さっきの女の子が、こんどは床の上で膝を抱えて泣いている。亡くなったお祖母さんの思い出を、ずっと辿ってるのだろうか。
 だとしたら、何だろう------何だか、とても、切ない。
『あなたたちは、とても仲良しだったのね』
 シマコは微笑んだ。
『うん。・・・だけど』
 少女の姿が消え、部屋は元の姿に戻った。
『メイが大きくなって、この家からいなくなっちゃって------もう一度かえってきたとき、メイはとっても、かなしそうだった』
 それは、彼女が結婚して------そして、幼子を連れて、戻ってきた時のことだろう。
『おいらは、メイがかえってきて、うれしかったけど、メイは、うれしそうじゃなかった』
 今度は、窓辺のロッキングチェアに、乳飲み子を抱いた女性が現れた。片側で緩く束ねられた、柔らかく波打つチェストナッツの髪。暗く、どこか疲れたような表情をしている。
『おいら、前みたいにおかしをくすねてきたり、花をつんできたりした。そしたら、メイはわらってくれたけど、やっぱり、さみしそうだった』
 ブラウニーから、悲しみの感情が流れ込んできた。
『ずっと、ずっと、さみしそうだった』
 ロッキングチェアに揺られていた若い母親の長い髪は次第に短くなり、艶やかな栗色に白いものが混じり始める。張りのあった頬には少しずつ皺が増え、ぴんと伸びていた背筋が丸くなった。
『ずっと------ずっと』
 老女となったその人は、どこか空虚な眼差しを、窓の外へと向けている。
 ゆらゆら、ゆらゆら、ロッキングチェアに揺られながら。
 やがて老女の姿はすぅ、と消えて。
『・・・おいらじゃ、だめなのかな』
 小さく揺れる無人のロッキングチェアの上に、ブラウニーがしょんぼりと項垂れて、佇む。
『メイの、さみしいの。おいらじゃ、なおせないの、かな』
『そんなこと、ないわ』
 ブラウニーの話にじっと耳を傾けていた------音声ではないので、あくまでも比喩的な表現だが------シマコは、ゆっくりと言葉を紡いだ。
『あなたが、いなかったら。きっと、メイさんは、もっと、ずっと、淋しかったと思うわ。あなたがいてくれて、良かった、って。メイさんはきっと、思っているはずよ』
 俯いたブラウニーに、噛んで含めるように、シマコ。
『あなたが、メイさんのことが大好きなのと一緒で、メイさんも、あなたのことが大好きだったはずよ』
 そうでなければ、精霊使いの資質のない者が、こんな風に精霊と心を通わせることなど、できる筈がない。
『・・・じゃあ、さ。メイは、どうして、かえって、こないのさ』
 ブラウニーは悲しげにそう問う。
『------人は誰も、いつか、旅立たなければならない日が、来るわ』
 シマコは一瞬逡巡して、言った。
『あなたも、本当は、知っているはずよ。メイさんのお父さんやお母さん、そのまたお父さんやお母さんが、そうだったように。人には、いつか、天に召される日がやって来るの』
 ------ただ、信じたくないだけなのだ。
『・・・じゃあ』
 暫く黙っていたブラウニーは、ぽつりと言った。
『メイは、もう、かえってこないの?』
 心に流れ込んでくる、その寂しさと悲しみに、シマコは言葉に詰まる。
『メイには、もう、あえないの?』
『・・・・・・そう、ね』
 シマコは、頷くより他になかった。精霊と話すということは、心を開き、通わせるということである。隠し事も、嘘をつくことも、適当にお茶を濁すことも、できはしない。
 ブラウニーは黙り込んでしまった。
『だけど、この家は、これからもずっと、ここにあるわ。メイさんの愛した、この家は。それから、メイさんの子どもや、お孫さんたちもいる。人は、そうやって、命を受け継いでいくものよ』
 シマコの言葉に、しかし、ブラウニーは静かに首を振った。
『しってるよ。でも、メイはここにはいないし、その子たちは、メイじゃない』
 流れ込んでくる、諦めにも似た、乾いた悲しみ。
『・・・そう・・・ね』
 それ以上、何と返していいか。言葉を探しあぐねて、シマコは黙ってしまった。
『うん。だから・・・おいらも、かえるよ』
 ブラウニーはシマコの顔を見て、寂しげに微笑み、
『ありがとな』
 そう言って、ロッキングチェアの上から飛び降りたかと思うと、その姿がすぅ、と虚空に消えた。
 同時に、ブラウニーの気配も辺りから消え。
 シマコの双眸から、我知らず、はらはらと涙がこぼれ落ちた。

 暫くの沈黙のあと、シマコさんはゆっくりと振り返った。
「シマコさん・・・」
 泣いていたのか、拭いきれなかった涙が、頬や目尻に光っている。
 悲しげで、どこか少し寂しげなその表情に、私は掛ける言葉を奪われた。
「お疲れ様、シマコ。・・・で、どう?」
 エリコ様が簡潔に問う。
「・・・還りました」
 目を閉じ、深呼吸を一つして、シマコさんも簡潔に、そう答えた。
「そう」
 頷いて、エリコ様は部屋の中へ足を踏み入れ。
 ------もう、何も起こらない。
「これにて、一件落着です」
 両手を広げてこちらを振り返り、そう言った。
「ああ・・・ありがとうございます、本当に」
 その時の、マーチ母娘の安堵の笑顔とは酷く対照的な、シマコさんの沈んだ表情が、私の脳裏に焼き付いた。

 三人で並んで歩く、マーチ邸からの帰り道。
「一つ、聞いていいですか」
「何?」
 私の問いに、エリコ様は首を傾げた。
「どうして、あれが悪霊じゃなくブラウニーの仕業だって、わかったんですか」
「聞きたい?」
「・・・はい」
 にやり、と口角を上げるエリコ様の表情に、私は一瞬『いいえ』と言いたい衝動に駆られたけれど、そこはぐっと堪えて、後学のために素直に教えを乞うことにする。
「ノリコちゃんは、あれが悪霊だ、っていうことに、違和感はなかった?」
 エリコ様はそう問い返してきた。どうやら、本気で教えてくれようとしているらしい。
「えーと・・・まず、幽霊にしては、えらく血色がいいな、と思いました。それから、何で真っ昼間に出るのかも」
「他には?」
「あとは・・・物が飛んできたり壊れたりしたって割には、部屋の中が綺麗だったこと、でしょうか」
 私はとりあえず、感じたままを口にした。
「うん。正解」
 よくできました、と戯けたようにエリコ様は言った。
「ファントムにしろスペクターにしろ、幽霊は肉体を持たない精神体。あんなにはっきりとした姿形があるはずがないわ。それに、あの部屋。夜な夜な物音をたてたり、近づく人間に物をぶつけるほど『霊』が暴れているのに、ティーカップとか置物とか、あんなに沢山ある壊れ物が壊れていないし、破片の一つも落ちていない。おかしいでしょう?それから、チャ・ザの司祭の話もね。司祭クラスの人間が霊に歯が立たないってのもおかしいし、祓うのに失敗して、霊に怒鳴られて追い返されたっていうのもおかしな話だわ。死霊祓いに失敗した司祭は、逆に悪霊に取り憑かれるのが普通なのに」
 私は頷いた。
「あれが悪霊ではない、って判断したところは解りました。じゃあ、ブラウニーだ、って判断したのはどうしてですか。あと、あの時唱えた呪文って何だったんですか」
「あれはね。『センス・オーラ』といって、その場に働いている魔法の力や精霊の力を感じ取る呪文よ。もしもそこに悪霊が居るなら、部屋の中に負の生命力を感じる筈だし、それ以外の何かだとしたら、その力を感じる筈だと思ってね」
「・・・それで、ブラウニーの力をお感じになったのですね」
 黙って私達のやりとりを聞いていたシマコさんが、静かな口調で言った。
「ええ。一連の出来事と、その事実を鑑みて私が出した結論は、『メイリーンさんに執着のあるブラウニーの仕業』。試しにノリコちゃんを部屋に放り込んだら、ブラウニーの力がぐっと強くなったし、ね」
「・・・・・・・・・」
 なんか、思い出したら急に腹が立ってきたんですけど。ほんの一瞬でも、この人を尊敬した私がバカでした。
「まあまあ、そう怖い顔しなさんな」
 危険はないと踏んでのことだから、と、エリコ様は悪びれもせずに言った。
「何でそんなことが言えるんですかっ」
「だって。メイリーンさんに執着してるブラウニーなら、彼女の大事な物を壊したり、部屋を散らかしたりすることはしないだろうし。侵入者に怪我させちゃったら、大事な部屋が血で汚れるじゃない」
 ・・・確かに、その通りでございます。その通りだから何か余計に腹立つんですけど。
 腹は立つけれど、それを言ったところで軽くあしらわれるだけのような気がして、私は黙って歩く。
 エリコ様は、膨れる私の横で、今度は本物のポルターガイストが見てみたいわね、なんて不穏なことを言っていた。

 学院の前でエリコ様と別れ、私はシマコさんと一緒にマーファ神殿への道を辿った。
「ねえ、シマコさん」
「・・・・・・・・・」
 シマコさんは思考の淵に沈んだままで、私の呼びかけにも気付かない。
「・・・シマコさん?」
「はっ・・・ごめんなさい、何?」
 もう一度、もう少しだけ大きな声で呼びかけると、シマコさんは驚いたように振り向いた。
「・・・何か、このへんに引っ掛かってる、って顔してる」
 私は自分の胸のあたりをとんとん、と指さしてそう言った。
「あの精霊と話してから、ずっと、だよね」
「・・・よく、分かること」
 シマコさんは苦笑する。
「そりゃ、シマコさんのことだもの」
 私はそれだけ言って、シマコさんをじっと見た。シマコさんが自分から話してくれるのを、待つ。
「・・・あのブラウニーは・・・本当に、救われたのかしら」
 やがて、シマコさんはぽつりと口を開いた。
「・・・私は、精霊のことはよくわからないけど。精霊界に還れないってさ、精霊にとっては苦しいことなんでしょ。それを、ちゃんと精霊界に還してあげたんだから、良かったんじゃないのかな」
 私は思ったままを言葉にする。還れなくて、暴れるほど苦しかったのなら、その苦しみを取り除いてあげることが救いだろう。
「・・・単純すぎる?」
 シマコさんは微笑んで、小さく首を振った。
「いいえ。それは、その通りなの、だけど------」
 言い淀むシマコさん。私は、その次の言葉を気長に待つ。
 ゆっくりとした歩調にあわせて、ゆっくりと流れていく、街の景色。
 マーファ神殿までは、あともう少し。
「・・・精霊には、寿命や、死、という概念が無いわ」
 シマコさんは重い口を少しずつ、開いてくれた。
「だから、短命な私達人間が、そんな彼らと絆を持つことは。もしかしたら、彼らにとって、とても酷なことなのでは、ないのかしら」
 シマコさんの言葉の、真意を量りかねて、私は口をつぐんでいる。
「ともに過ごした年月が、長ければ長いほど、別れは辛くなるわ。だから------
 だから、いっそ、最初から出逢わなかった方が、幸せだったのかも、って」
 ------ああ。
 そうか。
 シマコさんという人は、そういう人だった。
「・・・そんなこと、ないよ」
 思わず歩みを止めた私に合わせ、シマコさんも足を止めた。
「少なくとも、私だったら、そうは思わない。そりゃ、別れは辛いけど、それでも、出逢って、一緒に過ごした日々は、その別れの痛みと引き替えにしてでも、得る価値があると思う。別れが辛いのは仕方ないけど、ともに過ごした日々があるから、いつか来る別れにも、たぶん、耐えられるんだ」
 私は、言葉の一つ一つにありったけの想いを込めて、
「だから・・・大丈夫」
 シマコさんの目を、じっと見る。
 少し、間があって。
「・・・ええ」
 シマコさんはゆっくりと頷いて、微笑した。
 「ありがとう、ノリコ」
 私も微笑んで応える。
 そして私達は、どちらからともなく、再び歩き始めた。
「・・・よーし。私も、魔導の修行、がんばるぞー」
「どうしたの、急に」
 拳を突き上げる私に、シマコさんはくすくすと笑った。その表情に、もう、先刻のような重苦しさはない。
「目標ができたからね。エリコ様が使った、あの魔法。『センス・オーラ』っていったっけ? あれが使えるようになれば、シマコさんの見てる世界が、私にも見えるようになるんだよね」
 私がそう言うと、シマコさんは一瞬きょとんとした顔をして、それから、楽しみにしてるわ、と言って笑った。

 角を曲がれば、もうマーファ神殿は目の前だ。

----漣の声・終


・・・ありがちな話ですが。シマコさんに、精霊と言葉を交わして涙してほしかったんです、はい(笑)
マーチ家のブラウニーがあまり危険な物を投げてこなかったのは、懐いていた相手がお婆ちゃんだからでしょうかね。
某トムスさん家ではフォークとかナイフとか容赦なく飛んでましたから。

シマコさんにはあんまり、というか、全然、攻撃系の魔法は会わない気がしますね。
ファイア・ボルトをぶちこむシマコさんとか想像できませんな(笑)


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