From the Abyss
雨の中を、五月雨は走っていた。
普通の雨ではない。敵艦隊の放つ、砲弾の雨である。
低く重い発砲音、砲弾が風を切る音、着弾が水面を叩く音。自分の背丈よりも高い水柱がいくつも立ち上がる、その間を縫うように、全速力で之字運動を繰り返しながら、五月雨はひた走る。
その気になれば、全力で戦闘海域を離脱、逃げ切ることもできる。しかし五月雨がそうしないことには、理由があった。
敵は重巡一に軽巡二と駆逐三の打撃部隊、片やこちらは軽巡一に駆逐三の対潜哨戒部隊、しかも不意打ちを喰らってすでに駆逐艦二艦が小破・大破。目下無傷の五月雨と旗艦の五十鈴が敵の注意を引きつけながら、傷ついた僚艦が戦線離脱するまでの時間を稼いでいるところである。
「っ、こっち向いて!」
五月雨の十二・七センチ砲が火を噴いた。
ともすれば傷ついた仲間を狙おうとする敵に、挑発するようにちょっかいを出しては、逃げる。
激しさを増す砲撃、水飛沫が視界を遮る。
白い航跡を成し、迫り来る魚雷。
急旋回でそれをかわす。
あと少し、もう少しーーー
「!」
突然の、衝撃。
足元が弾け、熱いと思ったのは一瞬。
轟音が耳を突き抜け、脳を吹き飛ばされるような感覚。
それきり、五月雨の意識は途切れた。
*
ふと気付くと、五月雨は闇の中にぽつんと立っていた。
ふと気付くと、ということは、それまで意識がなかったか、あるいは眠っていた筈なのに、何故だか五月雨は立っていた。自分の足で。
五月雨ははっとして、自分の体を見た。足先から脚、腹、腕、手、指先。どこにもかすり傷一つなく、白い制服は破れているどころか汚れ一つついていない。艤装も、砲身の先に至るまでぴかぴかである。ーーーぴかぴかである、というのもおかしな話だ。辺りは暗いはずなのに、何故か自分の姿ははっきりと見えている。それでも確かに、辺りは一面闇なのだ。
おかしい、といえば、足元。
水面、ではあるけれど、波一つなく、水鏡という言葉の通り、鏡のように滑らかだった。そして何より、今の今まで、僚艦たちとともに敵艦隊と交戦していたはずなのに、敵の姿も、僚艦の姿も、見あたらない。見渡す限りーーーといっても、どこまでが見えていてどこからが見えていないのかすらよくわからないのだがーーー誰もいない。何もない。
五月雨自身もまた奇妙なことに、不安も恐怖も感じていなかった。冷静である、というのとは違う。何も感じていないのだ。たとえば、鎮守府の談話室の前を通ったときに、たまたまそこに誰もいなくて、ああ、誰もいない、というような、そんな感覚。
とりあえず、このまま突っ立っていても仕方がないと思い、五月雨は歩を進めた。『歩を』進める、というのは言葉のあやで、艤装を着けて水上にあるのだから、実際は艤装の力で推進しているのであるが。
ーーーどれくらい、進んだだろうか。
遠くに、何かが見える。
何かが、水面に浮かんでいる。
敵か、味方か。それとも全く無関係の何かか。判然としないそれの正体を見極めるべく、五月雨は近づいてゆく。
水面に浮かんで見えたのは、連装砲の山だった。連装砲を配した、艦娘の艤装。幾つもの大型の砲が小柄な艦娘にも背負えるようにしつらえられた、非常に特徴的なそれに、
「っ、」
五月雨は、見覚えがあった。
「夕張……さん?」
駆け出す五月雨。鏡のように静かだった水面が、心が、激しく波打つ。
「夕張さんっ、」
激しい戦闘をくぐり抜けて来たのか、艤装は歪にひしゃげ、砲身がことごとく折れ、あるいは曲がっている様が、遠目にも分かる。
「夕張さん!」
叫びながら、全速力で水上を疾走する。背中のタービンが悲鳴のように唸りを上げた。
「夕張さん!」
五月雨の目が、大きな艤装に埋もれるように横たわる艦娘の姿を捉えた。制服は焼け、あるいは破れ、もはや衣服の用を成していない。下半身は既に水の中に没していて、上半身だけが辛うじて水面に浮いている。
「夕張さんっ!」
五月雨は、艦娘の周囲をぐるりと旋回しながら減速すると、ゆっくりと彼女に近づいた。麹塵(きくじん)色の髪、煤と血で汚れた顔は、確かに彼女の知る夕張のそれで。
「夕張さん」
傍らに跪き、その顔をのぞき込んで、名を呼べば。
「……ゆうばり、さん……?」
うっすらと、目が開いた。
「……夕張、さん」
「……さみだれ、ちゃん……?」
夕張は昏い空を仰いでいた首をゆっくりと、少しだけ、横に巡らすと、その目に五月雨の姿を映した。
「っ、どうして……?」
上擦り、震える、五月雨の声。
「……ごめん」
やられちゃった、と、吐息のように、夕張。
「っーーー」
伸ばした手のひらが夕張の頬に触れた瞬間、五月雨は息を呑む。
血の気のない彼女の頬は、見た目以上に冷たかったーーー既に、この世のものではないかのように。
「夕張、さん」
温度のない肌を暖めるように、五月雨は両手で彼女の頬を包み込んだ。
「帰りましょう、一緒に。……私が、引っ張ります、から」
裏返りそうになる声を懸命に押さえながらそう言う五月雨に、夕張は小さく首を横に振り。
「……私、は……たぶん、もう、駄目。……だから」
緩慢な動作で、ゆっくりと、持ち上げた右手で、頬を包む五月雨の手に触れた。
「お願い。私と……一緒に、来て」
ぇ、と、か細い音が、五月雨の唇から漏れる。
「独りは……ひとりで、沈むのは、怖いの。五月雨ちゃんと、離れたく、ない……から。だから」
お願い、と。
囁く夕張の瞳から一筋、涙が零れた。
「…………だれ」
呟いて、五月雨は、夕張の頬を包んでいた両手を引いた。
その手を追いかけるように、夕張が手を差し伸べる。
「……さみだれ、ちゃん」
「……あなたは、誰」
今度は少しだけはっきりとした口調で、五月雨。
「……え?」
夕張は、困惑したように眉根を寄せ、力なく苦笑する。
「五月雨、ちゃん。何言っ」
「夕張さんは」
夕張の言葉を遮って、五月雨はゆらりと立ち上がり。両腕を、力なく体の横にだらりと垂らして、足元に横たわる夕張へと視線を落とした。
「夕張さんはーーーいちど、機械いじりを始めたら、ご飯も、お風呂も、寝るのもすっぽかして、夢中になって。いくら私が、ご飯はちゃんと食べてくださいね、ってお願いしても、次にはまた、同じように何もかもすっぽかすし、お部屋だって、いつも由良さんに片付けなさい、って怒られて、ぴかぴかに掃除するけど、またいつのまにか物が床いっぱいに広がってて」
わなわなと震えていた五月雨の声に、少しずつ、熱が宿り。
音のない世界に、その声だけが響きわたる。
「いつも、そうやって、同じことばかり、繰り返して。いくらお願いしても、ごめんね、って言いながら、でもちっとも聞いてくれなくて。だから」
息を深く、吸い込んで。
ゆっくりと、吐いて。
「ーーーだから。私が、あの時みたいな、あんな思いはもう嫌です、って、いくら言っても」
真っ直ぐに、夕張の目を見た。
「夕張さんはきっと、また。同じことを、繰り返すんです」
枯茶色の瞳は、何の感情も映さず、ただ呆然と見つめ返す。
「私がいくら嫌です、って言っても。私がどんなに泣いても。夕張さんは、とても優しくてーーーけど、とても、残酷なひと、だから」
勿忘草の色をした五月雨の瞳から、はらり、と涙が一筋、流れ落ちた。
「だから。夕張さんは、一緒に沈もう、なんて、そんな優しいことは、きっと、言ってくれない。自分を見捨てろ、なんて。私に、一人で生きろ、なんて。そんな酷いことを、きっとまた、言うに決まってるんです」
ーーーだって、夕張さんたら、いくらお願いしても、ちっとも聞いてくれないんだもの。
五月雨はそう言って肩を竦め、泣きながら、小さく笑って。
「……それで」
きり、と表情を引き締めた。
「あなたは、誰」
夕張は、答えない。
虚ろな目で、五月雨を見ている。
「五月雨ちゃん、」
「やめて!」
ようやく口を開いた夕張を、五月雨は強い口調で遮った。
「夕張さんの、声で! 勝手に、私の名前を呼ばないで!」
「……さみだレ、ヂャン……」
夕張の声が、次第にささくれ立ち。
「ヲいで……一緒ニ、沈モゥ」
枯茶色の瞳は不気味な青白い光を放ち、体全体が次第に仄昏い黄色の燐光に包まれる。
「やめてぇっ!」
五月雨の十二・七センチ連装砲が火を噴いた。
反動があって、耳をつんざく轟音と同時に、からだごと全部持って行かれるような衝撃。
五月雨は再び、意識を手放した。
*
「……………れ」
声が、聞こえる。
「………か、五月雨………!」
誰かが、呼んでいる。
体を、揺すられている。それも、かなり乱暴に。
「……れ! 目をあけ……!」
目を開けろ、と言われて。
その通りにしようと思うけれど、瞼が酷く重くて。
「五月雨! しっかりせい! 五月雨!」
やっとのことで、瞼をこじ開ければ、
「五月雨ーーー」
誰かが、顔を覗き込む。
その向こうには、眩しい青空。
「ーーー吾輩が、分かるか?」
「………」
とねさん、と。
声にしようにも、喉はひゅうひゅうとか細く鳴るばかりで。唇の動きだけで答えれば、その人はうむ、と頷き、安堵の笑みを浮かべた。
「よく頑張ったな、五月雨……帰ろう。夕張も、心配しておるぞ」
髪を撫でるその人の指の感触と、その人が発したゆうばり、という四文字に、五月雨は僅かに口角を上げて微笑んだ。
やがて、ふわりと体を持ち上げられるような感覚があって。
風が、頬を撫でる。
ーーーそういえば、つい先刻まで、何かとても悲しい夢を見ていた気がするのだけれど。
それがどんな夢だったのか、どうしても思い出せなくて。
考えているうちに、五月雨の意識は再び、眠りに落ちていった。
《fin.》
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