† 煙が目に滲みる †
真夜中と夜明けの狭間。
まどろみの中で、隣で眠るはずの彼女の温もりが消えていることに気付く。
辺りは秒針が時を刻む微かな音ですら耳につくほどに静かで。
私はのったりと頭をもたげ、闇の中に彼女の気配を探す。暗闇に慣れた目は、すぐにフットライトの仄かな明かりに浮かぶ彼女の姿を見つけた。
窓辺のテーブルに置かれたエビアンのボトルが、携帯電話の充電を知らせる小さな緑色の光を映す。彼女はグラスを片手に、カーテンの隙間から窓の外を見つめていた。彼女の表情は見えない。ただ、グラスを傾ける仕草にはどこか物憂さと気怠さが漂っているようだった。
やがて彼女は窓を離れ。
傍らのアームチェアに腰を下ろし、テーブルの上の白い箱を手に取ると、慣れた手つきで愛用の煙草を一本取り出した。我儘な彼女は、どうしてもこの銘柄でなければ嫌なのだという。いったい何がどう違うのか、煙草を吸う習慣のない私には、よくわからないけれど。
そしていつものように、これも愛用の金色のライターを手に取り。
無機質な音とともに、彼女の掌に小さな炎が生まれる。
煙草をくわえた薄い唇に、すっきりと通った鼻筋。ライターを握りしめる細い指と、ガウンの襟元から覗く長い首。ゆったりと組んだ、長い脚。オレンジ色の淡い光に映し出されるそれらすべてが、陰鬱な艶めかしさを醸し出していた。
彼女は暫くの間、ぼんやりとそのオレンジ色を見つめ。
くわえた煙草に火を点けることなく、ライターの蓋を閉じた。
再び降りる闇の帳から漏れ聞こえる、ことり、という物音と小さな溜息。
私はベッドの上でのろのろと身を起こした。
「・・・ああ」
衣擦れの音で初めて私の視線に気付き、彼女はふいと口元をほころばせた。先刻までの物憂さを感じさせないその笑顔と優しげな口調が、何だか無理をしているようで逆に私を不安にさせる。
「ごめん。起こしちゃったね」
ううん、と私は小さく首を横に振った。
「・・・どうしたの」
「うん?」
「・・・煙草。吸いかけて、止めたでしょう?」
ああ、とはにかんだように笑んで、彼女は灰皿の上に置かれた真っ新な煙草に視線を落とし。
「だって。嫌いでしょう? あなた、煙草」
そして、癖のある長い髪を大きくかき上げながら、その視線を私に向けた。
「・・・無理しなくても」
早鐘になる動悸を押さえながら、私は視線を逸らす。
「無理なんか。してないわよ、別に」
そんな私の気持ちを見透かしたように、彼女は喉の奥でくすくすと笑いながら組んでいた長い脚を解いて立ち上がり。
「私がそうしたいと思ったから、そうしたの」
ゆったりとした動作でベッドサイドに歩み寄ると、私の前に腰を下ろした。
伸べられた指先に、促されるように顔を上げる私の唇を自分のそれで塞いで。
「嫌われたくないもの。あなたに」
そう言って、極上の笑みを浮かべる。
「嫌いになんか・・・」
「嫌いになんか?」
繰り返すごとに熱を帯びるキスは、次第に長く、深く。
なれるはずがない。
嫌いになんか。
荒くなる呼吸に、途切れる言葉。
「嫌いになんか------------何?」
-------------知ってる癖に。
答えの代わりに、私は両腕を彼女の首に回して引き寄せた。
言葉を交わして語り合うよりも。
今はただ、この波に流されていたかった。
行き着く先が何処であろうとも。
------------今は、ただ。
When your heart's on fire 心燃え上がるとき
You must realize 人は思い知るの
Smoke gets in your eyes 煙が目に滲みると
《fin.》
|