傷跡


 00の襲名メンバー、それも前田敦子クラスのビッグネームとなると、入浴から就寝までのルーティーンワークもそれなりに煩雑になるものだ。少なくとも、ぴかぴかの新人研究生の頃のようにはいかない。
「あっ」
 風呂上がりのひととき、スキンケア用品のボトルをドレッサーの卓上に並べて鏡に向かった敦子は、何かに気付いて思わず声を上げた。
「何?」
 すかさず智恵理が反応する。意識の高さの現れなのか、彼女は髪の量も肌の手入れに使う品数も敦子より多いのに、いつも敦子より先にグルーミングを終えてゆったりと寛いでいるのだ。今も、その長い美脚を床に敷いたラグの上に投げ出し、目の前に浮かべたホロスクリーンで雑誌を眺めながらストレッチに勤しんでいたところだ。
「絆創膏、剥がれかけてる」
 敦子は鏡を覗きながら、右眉の上を指でつついた。ぱっと見には目立たないが、そこには眉のラインに沿って肌色の医療用絆創膏が貼られていた。
「どうしよう、もう取っちゃってもいいかな? 自然に剥がれる頃には治ってる、ってドクターも言ってたし」
「……手で剥がすのは、自然に剥がれるのとは違うわよ」
 智恵理は眉根を寄せて、やめといた方がいいんじゃない、とたしなめる。
「あっ」
 また頓狂な声を上げる敦子。智恵理はもう雑誌どころではない。 
「ちょっと引っ張ったらポロっと取れちゃった」
「剥がしたの!?」
 とうとう智恵理はスクリーンを消して立ち上がった。
「や、ちょっと引っ張っただけだってば。えっと、きっともう剥がれる時が来てたんだよ、うん」
 そうして、誰にともなく言い訳する敦子の肩に手を置いて、後ろから彼女と一緒に鏡を覗き込む。
「あ、ほら。治ってる治ってる」
 傷のあった場所を指の腹で撫でながら、敦子。
 智恵理は目を凝らし、
「……跡」
 敦子の耳元で呟いて、自分の手で彼女の顔に触れた。
「残ってる」
 右眉のすぐ上に沿うように、短く白い線。一度切り裂かれた皮膚が再生したその痕跡を、智恵理は指先で辿った。
「うん。でも、思ったより全然目立ってなくて」
 よかった、と暢気に言う敦子に、智恵理は眉間の皺をさらに深くした。

 この傷が敦子の顔に刻まれた日のことを、智恵理は鮮明に覚えている。

     *     *     *

 芸能に対する規制が厳しい星や全面禁止の星でのライブは、大抵の場合DES軍との戦闘をともなう。故に、00ファンの間ではメンバーの戦闘スタイルや活躍ぶりが話題になることもしばしばである。
 例えば、10代目宮澤佐江はALSのパイロット筆頭、11代目板野友美は足技・関節技を駆使した白兵戦を得意とする。たかみなと優子は地上でも空中戦でも、ALSでも自由に暴れ回るオールラウンダー。
 そして、園智恵理はフライング・プレート−−−−略称FP、通称セリーという−−−−の扱いに長けており、華麗なフットワークでDESの追尾ミサイルを振り切り、隙あらば巧みな剣捌きで無人攻撃機を切り裂く、「蝶のように舞い、蜂のように刺す」スタイル。
 それとは対照的に、およそアイドルとは思えない雄叫びをあげて猛スピードで真っ直ぐに突進する14代目前田敦子の戦いぶりを評して、ファンがつけた渾名は「剛剣イノシシ」。イノシシというのはかつて地球に生息し、いまは古典や古生物学の教科書にその名を残すのみの動物で、敵に出会うと猛スピードで突進し体当たりを仕掛ける習性があったとされる。
「うああああああああああっっっっ!」
 現に彼女はたった今、自らの強烈なきららの輝きを盾に、DESの無人パワードスーツが放ったミサイルの一群に正面から突っ込んだ。歯を食いしばり、衝撃に備える。
 光の壁の向こうで、ミサイルが次々に爆ぜた。轟音、爆音、衝撃、圧力。それでも敦子はスピードを緩めない。静音設計の筈のFPセリーが、悲鳴を上げる。
 弾幕を突き抜ければ、眼前にはDESの機体。
「私達の、邪魔を−−−−」
 敦子はマイクサーベルを構えた。剣技、と呼べるような代物ではない。ただただ、サーベルをしっかりと握りしめる、それだけだ。
「するなあああああっっ!」
 彼女の気合いとともにサーベルの刀身がほんの一瞬、爆発的に大きさを増した。巨大な機体を一薙ぎにできるほどの光の奔流が、DES機を両断する。
 間があって、巻き起こる爆発。
 敦子を護るように、きららが盾を作る。
「たっ!?」
 不意に、右目の上を何かが掠めたような鋭い痛みが走った。敦子はバランスを崩しそうになったが、辛うじて踏みとどまる。研究生の頃だったなら、間違いなく転落していただろう。あの頃と比べれば、FPセリーの扱いにも随分慣れた。
 体勢を立て直し、辺りに視線を巡らす敦子。舞台がずいぶん遠く、小さく見える。いつの間にか随分離れたところまで飛んできてしまったようだ。と同時に、DES機がまた一体、舞台に近づこうとしているのが目に留まる。
「っ!、 駄目−−−−!」
 敦子は再びFPセリーを加速させた。
 トップスピードに乗ろうかという時、
「痛っ、」
 右目に痛みを感じ、急減速する。汗が目に入った時の痛みに似ているが、少し違う気もした。
 と。
 不意に足下ががくりと揺れた。FPセリー同士が連結する時のそれだ。
「敦子!」
 すぐに肩を抱き寄せられ、耳元で声が聞こえる。
「大丈夫!? しっかりして!」
 モニター越しではない、生の声。
 智恵理の声だ。
「智恵理!? ちょっ、声おっきい! っていうか、急に何!?」
「……よかった。意識はしっかりしてるのね」
 少し安堵したように、智恵理が言う。
「意識、って」
「出血が酷いけど。頭とか打ったりしてる?」
「……出血?」
 まるで訳が分かっていない様子で、敦子。
「気付いてないの?」
 智恵理は眉を顰めた。
「顔半分、血だらけよ。ホラー映画のモンスターみたい」
 えっ、と驚いて、敦子は右手で自分の顔に触れた。ぬるりと滑る感触がして、掌が真っ赤に染まる。
「うわぁ! 何これ!?」
「ほんとに気付いてなかったの!?」
 信じられない、という風に、また顔をしかめる智恵理。
「とにかく。このまま一旦バックステージに引き上げるわよ」
 彼女はそう言って、自分の衣装のベストを脱ぐと、無造作に敦子の頭から被せた。
「わぷっ!?」
 突然視界を奪われ、頓狂な声を上げる敦子。
「そんな血だらけの顔、ファンに見せられないでしょ」
「……そんなに、酷い?」
「ええ、酷いわね。皆に笑顔どころか恐怖を届ける……っ、」
 智恵理がFPセリーを急旋回させた。そして敦子の肩を抱いたまま、DESの追尾ミサイルを振り切るように、曲芸飛行を繰り広げる。
「ひょあぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっ!?」
 自分の操縦では絶対にありえないFPセリーの激しい動きに、敦子が情けない声を上げた。
「『鈴子、聞こえる? 敦子が負傷、重傷ではなさそうだけど、出血が酷いわ。今連れて行くから、治療の準備よろしく』」
 智恵理は簡潔に通信を終えると、ミサイルが後ろを付いて来ていないことを確認し、フライングゲットのバックステージデッキへと滑り込んだ。


 バックステージでは、ステージマネージャーの鈴子がドクターと二人の医療スタッフとともに待ち構えていた。
「智恵理さん! あっちゃん! こっちへ!」
 鈴子の誘導に従って、智恵理はFPセリーを減速させる。敦子に被せていたベストが智恵理の手で剥ぎ取られ、血まみれの顔が露わになると、控えていた研究生達がひっ、と息を呑んだ。当の敦子は、自分は大丈夫だといわんばかりに元気よくFPセリーから跳び降りたが、すぐに智恵理に肩を押され、尻餅をつくようにパイプ椅子に腰を落とした。
「私は大丈夫! まだやれるよ! こんなのかすり傷だし−−−−」
 顔半分を覆う血をスタッフに寄ってたかって拭かれながら、敦子は握りしめた拳をファイティングポーズのように構える。
「わかったから落ち着きなさい! ボクサーじゃあるまいし」
 苛立ったように智恵理が敦子の拳を両手で押さえ込む。
「んー……これは」
 ドクターは白衣のポケットに手を突っ込んだまま敦子の顔を覗き込んだ。
「そう深い傷じゃないけど、浅くもないわね。もしかしたら、一寸跡が残るかも」
「跡!?」
 絶望的な声を上げたのは智恵理。当の敦子は、早くステージに戻りたくて仕方がないと全身で訴えている。
「まあ、幸い、っつーか、刃物でやったみたいに綺麗にスッパリいってるから、たぶん治りも早いし、そんな目立つ跡にはならないと思うけどね。場所も、眉のすぐ上だし」
 コンシーラーで綺麗に隠れるっしょ、と、消毒液を含んだ綿で傷口を拭いながら、ドクターは他に外傷がないかを丹念に検分した。
「顔に……傷跡……」
「……もしかして。ドクターストップ、ですか」
 譫言のように呟く智恵理をよそに、敦子は不安げにドクターに尋ねる。
「んー、にゃ。顔面の切り傷だし、休んだからって綺麗にくっつくわけじゃないからね。傷口が開かないようにちゃんと処置すれば、出て良いわよ」
 敦子の傷口に薬を塗り込みながら、ドクター。
 よかった、と心底安心したように呟く敦子。
「そんな! だって、あんなに血が出てたのに!?」
 智恵理は抗議の声を上げる。
「頭の近くは血流が活発だからね。ちょっとの傷でも大出血するものなのよ……っと、これでよし」
 ドクターは傷口に絆創膏を貼り終えると、敦子に軽くデコピンを見舞った。
「たっ!? ……ありがとうございました!」
「ちょーっと待ってください!」
 勢いよく立ち上がろうとした敦子を制したのは、鈴子だった。彼女は敦子らとともに襲名メンバーとして暫くステージに立った後、早々に卒業を決め、念願だったスタッフとしてのスタートを切ったところだ。
「気持ちは分かりますが、今のあっちゃんをそのままステージに戻すわけにはいきません」
 メガネをくい、と上げながらそう告げる鈴子。
「なっ!? 鈴子、なんで−−−−」
 食ってかからんばかりの敦子の鼻先に、鈴子は手鏡を突きつけた。
「髪の毛も衣装も血でベトベト。顔の血もまだ全部は拭ききれていませんし、メイクはボロボロ。天下の14代目前田敦子をそんな姿でファンの前に送り出すわけにはいきません」
 さすがの敦子も返す言葉が見つからず、浮かせた腰を再び椅子に落として大人しくなる。鈴子は素早くタブレットを操作して現況を確認した。
「いま丁度M04に入ったところです。戦闘は続いていますが、DES軍の無人機も地上の兵士も全て無力化できる見通しですし、このまま援軍が来ないと想定して……そうですね、M08の『てもでもの涙』に照準を合わせて準備しましょう。智恵理さんとのデュオ曲ですから、楽しみにしているファンも多いですし」
「そんなにかかるの!?」
「かかります。その絆創膏の定着を待ってからシャワーで血を綺麗に洗い流して髪を乾かしてメイクとヘアメイクをやり直しますしメイクはその絆創膏が隠れるように丁寧にやらなければなりませんから」
 鈴子に息継ぎなしで一気に畳み掛けられ、敦子は叱られた子犬のように静かになった。
「それまでは、沙苗さん」
「はっ、はいっ!」
 不意に名を呼ばれて、声をひっくり返らせたのは、宮本沙苗。敦子の本名と一字違いのアナグラムのような名を持つ彼女は82期研究生で、目下敦子のアンダーを任されている。
「今日のセットリストとフォーメーション、各曲の振りと歌詞。全て頭に入っていますか?」
「っ、はい!」
 イエス以外の答えは想定していない、といわんばかりの鈴子に、敦子のアンダーガールは背筋を伸ばして即答した。そうでなければ、14代目前田敦子のアンダーは務まらない。
「では、あっちゃんのアンダーに入ってください。2分で衣装チェンジ、次の曲から出ます」
「はいっ!」
「智恵理さんは」
 仲間達の頑張って、の声に送られながら踵を返して楽屋へ向かう沙苗の背中を見送って、鈴子は智恵理の方へ視線を向けた。
「かなり動揺しているようですが、行けますか? 無理そうならアンダーを立てますが」
「……馬鹿にしないで」
 値踏みするような鈴子の視線に、智恵理は眉を釣り上げる。
「そりゃ、敦子のことは心配だけど。だからって舞台に穴を開けるなんて、あり得ないわ」
「結構です」
 鈴子は満足げに微笑んで、
「では、智恵理さんも血の付いた衣装を大至急着替えて、沙苗さんと一緒に次の曲から出てください。智恵理さんが笑顔で出て行けば、あっちゃんに大事ないことが他のメンバーにも伝わる筈ですから」
 最後は少し揶揄うようにそう言った。
「なっ−−−−」
 予想外の攻撃に、かっと頬が熱くなるのを抑えきれない智恵理。
「智恵理」
 返す言葉が咄嗟に見つからず、口をもぞもぞと動かす彼女に、敦子が声を掛ける。
「ありがと。それから、ごめんね。すぐ行くから、それまで沙苗ちゃんのこと、よろしく」
「……言われなくても。ちゃんとフォローするわよ」
 智恵理は小さく溜息を落とすと、敦子に向かって微苦笑し、ひらりとスカートを翻して楽屋へと走っていった。

     *     *     *

「そんな顔、しないでよ」
 鏡の中の敦子が、苦く笑って言う。
「……悪かったわね、こんな顔で」
 智恵理の眉間には、ベテラン悪役俳優ばりの深い皺が刻まれていた。
「この、皺。折角の綺麗な顔が台無しだよ?」
「………」
 その皺を指先でつつく敦子を、鏡の中の智恵理が睨み続ける。
「もう。智恵理ってば、大げさなんだから」
 困ったようにへらりと笑う敦子。
「こんなちっちゃい傷、どうってこと」
 智恵理は口を固く結んだまま、敦子の肩に乗せていた手を離し、
「ないって、ぇぇぇあぁぁぁあっあぁぁ!?」
 両拳をぐっと握り締めると、敦子の頭を力一杯挟み込む。
「痛い痛い痛いちえっ、ちょ、ちえっいだだだ痛い痛い」
 足をばたばたさせて藻掻き痛がる敦子が椅子から滑り落ちても、
「いだだだいだあぁぁストップストップぢえりぃぃぃぃ!」
 智恵理は握り締めた拳に全身全霊を込めて、
「まっまっだめだめむりぃぎあぁぁやべでやべでちょっ」
 その頭にぐりぐりと捻り込んだ。
「いだだぢぇでぃああぁぁいだいだいだっ!……っっ……」
 やっとのことで解放された敦子は、フローリングの上にぐったりと伏せて肩で息をしている。智恵理も余程力を入れていたのか、仁王立ちで敦子を見下ろしながら同じように肩で息をしていた。
「ちょ、智恵理ひどいよ!−−−−」
 目尻に涙を浮かべ、抗議の声とともに顔を上げた敦子は、息を呑む。
「……酷いのは、どっちよ」
 智恵理は今にも泣き出しそうな顔で、
「こんなちっちゃい傷? 大げさ? 大したことない?」
 わなわなと震える唇の間から、温度のない声を絞り出し。
「私、たぶん、一生忘れない。敦子の顔に、その傷ができた日のこと」
 彼女の大きな瞳を見る間に満たした涙は、やがてはらり、と頬を伝って流れた。
「智恵理−−−−」
「あの日のライブで。敦子が急にFPセリーのスピードを落として、顔を血だらけにしてふらふら飛んでるのが見えた時。私……心臓が、止まるかと思った」
 震える声で紡がれる智恵理の言葉。敦子はフローリングの床に座り込んだまま、その顔を見上げている。
「大きな怪我じゃない、って分かってからも、本当は、震えが止まらなくて。あの時、バックステージで泣き崩れずに我慢した自分を誉めてやりたいくらいよ」
「……智恵理」
「それなのに。当の敦子は、かすり傷だとか、大したことないとか言ってちっとも反省してないし」
 そう言って泣きながら苦笑する智恵理を、敦子は頭から冷水を浴びせられたような心持ちで見た。
「……イメージが、重なるの。あの時見た、血だらけの敦子の顔が」
 俯き加減の智恵理の表情が、翳(かげ)りを帯びる。
「銃声−−−−お父様が暗殺された時の、あの音と」
「智恵理」
 敦子はゆっくりと立ち上がって、
「ごめん」
 そして、俯く智恵理の頬に自分の頬を重ね、両腕で彼女をそっと抱き締めた。
「私、ぜんぜん気付かなくて。智恵理にずいぶん酷いこと、しちゃった」
 敦子の温かな手のひらが、智恵理の背中をゆっくりと撫でる。
「ごめんね、智恵理」
 智恵理は目を閉じて、敦子の声に耳を傾けた。
 −−−−智恵理。
 毎日、大勢の人間に、数え切れないほど名を呼ばれるけれど。
 ごめんね−−−−ちえり。
 自分の名を、こんなにも柔らかく、温かな響きで呼ぶひとを、智恵理は他に知らない。
「……駄目よ」
 うっかり何もかも許してしまいそうになる自分にブレーキをかけて、智恵理はそう呟いた。
「そんなこと言ったって、また敦子はきっと無茶して、私に心配かけるんだわ。人の気も知らないで」
「! そんなこと−−−−」
 しない、と強い口調で言いかけて敦子は、自分よりも少しだけ高いところにある智恵理の顔を見上げたが。
「−−−−うん、もしかしたら、そう。かも……しれない」
 急にトーンダウンして、俯いた。
「私。夢中になると、つい、頭に血が上っちゃって、周りのこと、見えなくなって−−−−また、きっと。智恵理に心配かけちゃうと思う」
 嘘をつくことが極端に苦手な敦子はそう言って、智恵理の背に回した腕を離し。
「……ごめんね」
 今にも消えそうな声で呟いて、智恵理から離れるように一歩引いた。
 と、
「待って!」
 今度は智恵理がそう言って、敦子を抱き寄せた。
「……ごめん」
 頬を重ねて、智恵理が囁く。
「ちょっと、言い過ぎた。いま、私」
 感情のままに棘のある言葉を投げつけてしまった時は、すぐにこうして謝る。できれば、早い方がいい。人づきあいの苦手な智恵理が、敦子と過ごしたこの数年間でやっと身につけた術だ。
「……ううん。だって、本当のことだもん。それに」
 敦子はゆっくりとした口調で言って、
「智恵理は、すぐ我慢して溜めこんじゃうから。こんな風にちゃんと、泣いたり怒ったりして欲しいかな」
 智恵理の頭を撫でながら、ありがと、と囁いた。
「……凪沙」
 智恵理の口から、思わずその名が零れた。
 00の襲名メンバーは、生まれ持った名前を卒業するその日まで封印し、いついかなる時も襲名した名を名乗らなければならず、周囲の人間もまた、もとの名を呼ぶことは許されていない。智恵理とて、いくら敦子と深い仲であっても、滅多なことではその名を呼んだりはしない。
 何故なら。
「凪沙」
 一度その名を口にしてしまえば、
「なぎさ」
 想いが堰を切って、どうしようもなくなってしまうから。
「……お願い」
 智恵理は彼女を抱き締める腕に力を込める。
「わたしの前から、いなくならないで−−−−お父様、みたいに」
「……智恵理」
 敦子−−−−凪沙は、大きな子供をあやすように智恵理の肩をゆっくりと撫でながら、
「大丈夫。私、智恵理の側を、絶対離れないから。智恵理より先に、ステージを降りたりしない。智恵理より先に、死んだりしない」
 彼女らしい、力強く、それでいて真摯な声音で、そう言った。
「っ、」
 海の色をした智恵理の双眸から、大粒の涙が零れた。
 ぽろぽろ、ほろほろ。
 目元を濡らす涙を、凪沙の華奢な指先が拭う。
「智恵理」
 呼ばれて顔を覗き込めば、言葉と同じ真っ直ぐさで見つめる茜色の瞳に出会う。
 そのまま吸い寄せられるように、
「−−−−」
 唇に、ただ触れるだけのキスをして。
 瞼を開ければ目の前に、凪沙の右の眉。
 そのすぐ上に、例の傷跡はあった。
 小さな白い跡を、智恵理は指先で丁寧に、何度も繰り返し辿る。
「……智恵理。くすぐったい」
「今、上書きしてるから。もう一寸我慢して」

 −−−−これから先、この傷跡を見るその度ごとに、今日の日のことを思い出すように。

 上書きって何、と首を傾げる凪沙をよそに、智恵理は暫しの間、彼女の傷跡を撫でては口づけを落とした。

(Fin.)


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