サタデーナイト・シンドローム


 真夏には猛威を振るっていた太陽も、日を追う毎に衰えを知り。
 熱帯夜のまとわりつくような生ぬるい空気もアスファルトから立ち上るむっとした熱気も、今ではもう遠いものになり、街路樹の葉をさわさわと揺らす夜風が、耳にも肌にも心地よい。歩道を照らす街灯の明かりや店のウインドウの光は冴え冴えとして、行き交う人々の足取りもどこか軽やかに見えた。
「ひゃっ!?」
「おっと」
 不意によろめいた五月雨を、夕張が素速く抱き留める。前から歩いて来ビジネススーツの一団を避けた拍子に、サンダルの足元がもつれたようだ。白いワンピースの裾が、ふわりと翻る。
「大丈夫? ……んー、いくら雰囲気だけ、っていっても、やっぱワインはまずかったかしらね」
 夕張は苦笑しながら、五月雨がちゃんと両足を地につけて真っ直ぐに立つのを確認して、手を離した。
「うー……酔ってない、です、もん」
 可愛らしくぷっと頬を膨らませた五月雨の、
「酔ってなくたって、何もないところでつまづくの、いつものことですし。あんまり子供扱い、しないでください」
 説得力があるのかないのかよくわからない言い分に。
「え、あー、いや、うん、ほら、子供じゃなくても、お酒って強い弱いがあるし……ね、うん」
 夕張は少々押され気味に、答えた。
 本日の二人の行動は、由良が最近見つけたというクラブハウスサンドが美味しい店でのランチに始まり、水族館、ショッピングときて、最後は大淀お奨めの、小さいけれど雰囲気のいいイタリアンレストランで夕食。有り体に言えばデート、それも、かなり気合の入ったデートである。夕張にしてはーーー基本的に機械にしか興味を示さない彼女にしては、上出来だと褒められてもいい。だから、彼女の服装が、スレートブルーのサマーニットにスキニージーンズという、あまり気合いの感じられないものだとしても、情状酌量の余地があっていいというものだ。
「うん、そっかー、酔ってないんだ。じゃあ、エスコートとか、いらない、よね……そっかぁ……うん、残念」
 夕張はわざとらしくそう言って、五月雨を支えていた手を離した。いかにも残念そうな表情を、半笑いの口元が台無しにしている。
「う」
 五月雨は、離れていくその手を目で追って。
「……夕張さん、意地悪です」
 眉根を寄せ、少し唇を尖らせて、上目遣いに、恨みがましい視線を夕張に向ける。その愛くるしさに軽く目眩を覚えながら、夕張はごめんね、冗談よと小さく笑って、左の手を差し伸べた。


 具だくさんのサンドイッチやハンバーガーって、どうすればこぼさないで綺麗に食べられるんだろうね、とか。 
 海の中があんなに綺麗なものだなんて思いもしませんでした、とか。
 あのお店もう一回行ってみたいね、とか。
 指を絡め、手を繋いで。
 歩道を行き交う人々の邪魔にならぬよう、できる限り寄り添って。
 いつものように、今日の感想や世間話、他愛もない話をしながら、駅までの道を二人で辿る。ただ、今日は何故か、駅が近づくにつれて五月雨の口数が少なくなっていくことと、何か思うところがあるような彼女の表情が、何とはなしに夕張の気に掛かっていた。
「ーーーよね」
「…………」
 そして、駅舎に着く頃の五月雨は、もうすっかり上の空で。
「……五月雨ちゃん?」
「……! ふぁいっ!?」
 明日って確か、パン屋さんのバイトの日だったわよね、という夕張の問いが聞き取れなかったのはどうも、家路を急ぐ人々の雑踏のただ中にあったから、というわけではなさそうである。
「ーー五月雨ちゃん」
 白露姉妹の住まうマンションのほうへ向かう電車の、ホームへと向かう階段の手前で、夕張は足を止めた。
 倣って、五月雨も立ち止まる。
「何か、心配事? それともーーー」
 私、何か、悪いことしたかな、と。
 不安げに首を傾げる夕張の、繋いだ手から力が抜ける。
「! いいえっ、そう、じゃ、なくてっ」
 五月雨は慌てたようにそう言って、夕張の顔を見上げ、
「…あ、あの……」
 俯いて、自分の手よりもひとまわり大きな夕張のそれを、きゅっと握り締め。
「えっと……どっ、」
 小さな声で、
「どうしても……帰らなきゃ、駄目、ですか?」
 俯いたまま、そう言った。
「え」
 その意味するところを察して、夕張は息を呑む。
「……シンデレラは、嫌、です。え、っと……魔法が、解ける時間になっても。一緒に……いたい、です」
 五月雨は少し辿々しく、振り絞るようにそう続けた。
「……五月雨、ちゃん?」
 夕張が、呼ぶ。
 五月雨は、答えない。
「ーーー五月雨ちゃん」
 夕張はおずおずと、右手を五月雨の顔へと伸ばし。
  むにっ
「ひゃっ!?」
 ほんのり赤く染まった柔らかな頬を、優しくつまんだ。 
「……その、台詞。五月雨ちゃんが考えたんじゃ、ないでしょ」
「うー」
「いかがですか? 五月雨さん」
 その顔をのぞき込むようにして、悪戯ぽく問う夕張に、五月雨は観念したように、ひゃい、と答えた。
「うん。で、そういう気の利いた台詞を考えられそうなのは。時雨、のイメージとはちょっと違うし。……村雨、かな?」
 むにむにと弾力のある頬の感触を堪能しながら、夕張が、
「ひゃい、そうれふ」
 どう? と水を向ければ、五月雨はあっさりと白状した。
「ふんふん。で、涼風あたりが、面白がって焚きつけたりとか」
「うー……ひゃい」
「……ああ、それで。さっき何だか上の空だったのは、その台詞をちゃんと言えるかとか、いつ言おうかとか、いろいろ考えてたから。かな?」
「ひゃい、ひょのとおりれふ」
 そうしてひととおりのことを聞き出すと、夕張は満足げにほくそ笑んで手を離した。五月雨は少し恨めしそうに眉根を寄せ、引っ張られた頬を元に戻すように自分の掌で押さえて、うー、と唸っている。
「と、いうことは……ねえ、五月雨ちゃん」
 不意に、夕張の声音から、戯けの色が消えた。
「私がこのまま、五月雨ちゃんをうちにお持ち帰りしちゃっても。お姉ちゃんたちに怒られたりはしない、ってことよ、ね?」
 そして、頬を押さえる五月雨の手を、そっと包むように触れて、
「……お持ち帰り。しちゃって、いいかな」
 真摯な眼差しで、穏やかにそう言うと。
「……はい」
 どうぞ、お持ち帰りください、と。
 五月雨は少しはにかみながら、けれど嬉しげに、微笑んだ。



 日付が変わって、夕方。
「ただいまー……ひゃあぁぁぁっ!?」
 白露姉妹が住まうマンションに戻った五月雨は、玄関でサンダルを脱ぐか脱がないかのうちに、廊下を突進してきた涼風に腕を掴まれ、強引にリビングへと連行された。
「ひゃっ!?」
 そして、床の上に置かれた栗饅頭のようなクッションに、ぼすん、と勢いよく座らされる。リビングの大きなテレビでは、色とりどりの着物に身を包んだ落語家たちが客席に笑いを巻き起こしていた。
「おかえり、五月雨。待ってたわ?」
 待ちかまえていた村雨がソファから立ち上がり、にっこりと微笑む。
「た……ただいま」
 おずおずと答える、五月雨。
 この一連の騒々しいやりとりに、ソファに座って膝の上に広げた雑誌をぼんやりと眺めていた時雨は、何事かと一旦は顔を上げたものの、またすぐに視線を雑誌のページへと戻した。ちなみに、夕立と白露は今のところ不在の模様である。
「で、五月雨」
 村雨は五月雨の前に正座すると、これから始まる尋問に備えてテレビのボリュームをぐっと下げ、こほん、と咳払いを一つしてから口を開いた。
「昨夜は無事、夕張んとこにお泊まりできたのよね?」
「え? あ、うん」
 五月雨はまだ少しどぎまぎしながらも、幾分落ち着いた様子で頷いた。
「そう。……で、どうだったの?」
「? どう、って?」
 村雨の問いはあまりにも簡潔、というより、遠回し過ぎて、五月雨には何のことを聞かれているのかが全くわからなかった。
「どう、って。そりゃおめぇ、決まってんだろ。夕張とヤったのかってことだよ!」
 涼風がそう言うと、マグカップで紅茶をすすっていた時雨が、ぶぼっ、と、あまり行儀がいいとは言えない音を立てた。我関せず、といった素振りをしつつ、その実しっかり聞き耳をたてているようである。
 ちなみに、当の五月雨はというと、何がなにやらさっぱり分からない、という風に首を傾げ。
「涼風、それ直球すぎ、っていうか品なさすぎ」
「あんだよ、直球だろうがカーブだろうが、言ってるこたぁ同じじゃねーか」
 眉を顰める村雨とせっかちな涼風のやりとりを、ぽかんとした表情で聞いていた。
「……とりあえず、質問を変えましょ。ーー五月雨?」
 村雨は気を取り直し、こほん、とまた咳ばらいを一つして、五月雨を見た。
「はいっ」
 その真面目腐った様子に、五月雨は思わず背筋を伸ばす。
「夕張さんの所で、何して過ごしたの?」
「そりゃアレだよな、ナニして過ごしたに決まってっよな?」
「……涼風はちょっと静かにしてて」
 どう? と水を向けられて、
「あ……うん、えっと」
 五月雨はゆっくりと話し始めた。
「最初にちょっとだけ、お部屋のお掃除して」
「あー。だろうなー。鎮守府の夕張の部屋もきったなかったもんなー」
「あ、ううん、さすがに、あんな感じじゃなかったよ? 機械も工具もなかったし。ただちょっと、雑誌とか新聞とか散らかってただけで」
 涼風の茶々入れで肩の力が抜けたのか、リラックスした風で、五月雨。
「それから、一緒に映画のDVD観て。きょうの私のパン屋さんのバイトがお昼からだから、けさは少し朝寝坊して、ブランチ作って」
「ストーーップ!」
 五月雨の話を、不意に村雨がぶった切る。
「今端折ったとこ! もうちょっと詳しく聞きたい」
「……ブランチはパンケーキとカフェオレで」
「違うそこじゃない」
 首を傾げながら言う五月雨に、村雨はがっくりと肩を落とした。
「だーかーらぁ! あたい等が聞きたいのは夜の話だよ、夜!」
「え? ……ああ!」
 焦れたように涼風が問うと、五月雨は合点がいったという風に頷いた。
「映画は子ブタが主人公でね」
「ちがうそこじゃねぇぇぇぇ!」
 涼風は頭を抱えて天を仰いだ。ソファでは、時雨が膝を抱えて肩を震わせている。顔は雑誌で隠れて見えないが、きっと笑いを堪えるのに必死に違いない。
「いいか? 五月雨。あたいらが聞きたいのはなぁ、その映画と、ブランチの間の話なんだよ!」
「えっと……」
「だーかーらー!」
 それでもまだピンと来ないで、きょとん、とする五月雨に、涼風はヒートアップする。こうなるともう、誰にも止められない。
「夜! ベッドで! 夕張に何かされたかって話だよ!」
 そして放たれた、どストライクのド直球。
「え? ………………あぁ………ぁ」
 最初の『え』は、質問の意図を解り兼ねる、の意。
 次の『ああ』は、質問の意図が解った、の意。
 そして最後の『あ』は、記憶の中に思い当たる節がある、の意。
「されたのか!? 何かされたのか!?」
 かあっ、と音がしそうな勢いでみるみる顔を真っ赤に染め、湯気まで吹き出しそうな五月雨の様子に、涼風は思わず身を乗り出した。村雨はきらりと目を光らせ、今の今まで笑いを噛み殺していた時雨は、思わず真顔になって五月雨を見る。
「されたんだな!? 何されたんだ!? ちょ、言ってみろよ!」
「ちょ、涼風。そんなにがっつかないの……で、五月雨。実際のとこ、どうなの?」
 大興奮の涼風をたしなめつつ、自分も興味を隠しきれない村雨。
 俯く五月雨の、長い髪の間から覗く首も耳も、赤い。
「…………ら」
 助け船を出すべきか否か。暫し考えていた時雨の腹が、出す方向で決まりかけた頃。
 五月雨が、蚊の鳴くような声で何かを言った。
「え!? 何だって!?」
「……うで、まくら」
「……………………は?」
 鼻息荒く身を乗り出した涼風だが、五月雨の発した単語を耳が捉えると、まるでコンセントを抜かれた掃除機のように動きを止めた。
「重くないですか、って、言ったんだけど、大丈夫だから、って……それで、結局、朝、目が覚めるまで、ずっと」
 赤い顔で俯いたまま、もじもじと話す五月雨。あー、そう、と、気の抜けた相槌を打ったのは村雨。時雨はまた雑誌に顔を埋めて肩を震わせている。
「っ、ちょ! そんだけかよ! もっと他にあんだろ!」
 気を取り直し、食い下がる涼風。
「……あ、えっと……夜寝るときは、うでまくら、だったけど。朝、気がついたら、その、両手で、ぎゅ、って、されてて」
「だぁっっ! そんなんじゃ! なくて! あるだろ! もっと!!」
 今にも血管がぷつりと音を立てて切れそうな涼風の勢いに、五月雨は思わず首をすくめて、
「……あ、えっと……はい、おやすみのキスと、おはようのキス、も」
 してもらいました、と。
 なぜか敬語で、答えた。
 完全に腰砕けになった涼風はカーペットの床に突っ伏し、村雨は盛大な溜息をつく。
「ーーー五月雨」
 熱を帯びた両頬を手のひらで隠すようにして俯いたままの彼女に声をかけたのは、こっそりとひとしきり笑って落ち着きを取り戻した時雨だった。読みかけの雑誌をテーブルに置いて、五月雨の元へと歩み寄り、
「大事に、してもらってるみたいだね」
 その頭にそっと手を乗せ、穏やかに微笑みかければ。
「……うん」
 五月雨は頷いて、ふにゃり、と目を細めて微笑んだ。
「あー、もー……何やってんだ、あのどヘタレ軽巡」
「まあ、いいじゃないか。夕張らしくて」
 突っ伏したままボヤく涼風を宥めるように時雨がそう言うと、
「……ま、それもそうね……」
 村雨が盛大な溜息とともに零した。
「この子相手に欲情してがっつけるとしたら。それはもう、夕張じゃない別の生き物だわ……」

《fin.》

  


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