どこまでも澄み渡った南国の空の青と、深い色を湛えた海の蒼。 ひろいひろい海の上、他には船陰も人影もなく、ただただふたりきり。 五月雨と、大きく船体を傾けた一隻の巡洋艦。 実際には全くのふたりきりというわけではなかったし、遠くに島影もあったけれど、あくまでもこれは、夢の話。 ―――ひとの体と魂を持って生まれ変わった今も、五月雨が繰り返し夢に見る、光景。 体の半分までもが水の下に沈んでしまったあのひとの、両手を掴んで必死に引っ張るけれど、自分よりひとまわりもふたまわりも大きな、しかも既に半分沈んでしまっている相手を曳航などできるはずもなく。 『……もう……から…………って………』 言葉にならない言葉を残し、南国の強い日差しの中、あのひとは昏い水の底へと沈んでいった。 「やっ――――――、っあっ!」 薄闇の中、五月雨は身を跳ね起こした。 心臓は破裂しそうなくらい―――まるで全力航行を続けてオーバーヒート寸前の缶のように―――激しく脈打って、体中にはべっとりと脂汗。 「うー……、ん……」 隣の布団で、涼風が寝ぼけた声を上げ、寝返りを打った。暫しむにゃむにゃと謎の音声を発していたけれど、眼を覚ます気配はなさそうだ。 自分が今いるのが白露型姉妹の居室だと分かって、五月雨は安堵の溜息をついた。ただ、彼女の異変に気づいてくれそうな繊細さを持ち合わせた二人の姉は、揃って遠征に出掛けている。生憎、というべきか、幸い、というべきか、残っているのは所謂繊細なタイプとはお世辞にも言い難い姉妹ばかり。夕立にいたっては、すぐ隣で眠っているにもかかわらず絶賛大爆睡中。 誰の眠りも妨げずに済んだ、と胸をなで下ろし(五月雨はそういう子である)、乱れた呼吸を整えるように深い呼吸を一つ、二つ繰り返し、五月雨はそっと寝床を抜け出して、姉妹たちの眠る部屋をあとにした。 湯沸室に立ち寄り、コップ一杯の水で喉を潤して―――実際、喉はからからに乾いて、気管の壁と壁がくっつきそうだった―――五月雨はそっと駆逐艦寮を抜け出した。通用口から表に出ると、まだ八月だというのに、残暑はまだまだ厳しいというのに、もう虫の音が聞こえる。その音の出所と思しき草叢の横をすり抜け、五月雨は海岸の方へと歩みを進めた。 海の見えるところまで来ると、さすがに虫の音は聞こえない。聞こえるのは、ただただ寄せ返す波の音ばかり。頭上に広がる満天の星が昏い海とぶつかり途切れる場所が、水平線だ。 後ろを振り返れば、自分が今抜け出してきた駆逐艦寮。こんな時間に明かりが点いている部屋など、殆どない。せいぜい各階のトイレと湯沸室くらいである。 五月雨は再び歩き出した。常夜灯のおかげで、歩き回るには十分な明るさだ。これなら、いくらドジっ娘五月雨といえども、滅多なことでは転ばないだろう。 駆逐艦寮の隣は、軽巡洋艦娘たちの宿舎である。こちらも当然ながら明かりが点いている部屋など殆どないが、五月雨の視線はただ一点のみに注がれていた。 軽巡寮の、一階のいちばん奥の、角部屋。 夕張の部屋だけは、皓々と明かりが灯っている。 こんな時間に―――こんな時間まで、何をしているのか。深夜アニメに見入っているのか、機械いじりに没頭しているのか、その両方か、はたまた作業の途中で机に突っ伏したまま寝落ちているのか。ほんとうのところは分からないけれど、 (―――よかった) 窓から漏れる明かりは、夕張がそこにちゃんと居るという証だから。 五月雨は小さく、安堵の溜息を漏らした。 明かりの灯る部屋は、二階にもう一つ―――そういえば確か、天龍率いる第三艦隊が夜明け前に帰投の予定だったはず、と思い至る。きっと、龍田が寝ずに帰りを待っているのだろう。 「……五月雨ちゃん?」 窓を見上げてそんなことを考えていると、不意にそう呼ぶ声がして。 小さな声だったけれど、確かにそう聞こえて。首を巡らせば、軽巡寮の通用口の方から夕張が駆けてくるのが見えた。 「ゆ……ばり、さん?」 「あー。やっぱり、五月雨ちゃんだ」 どうして、と、吐息混じりに呟く間に、夕張は五月雨の元へと辿り着いて。 「どうして、って、どっちかってと私の方が聞きたいな。それ」 苦笑しながら、そう言って、 「びっくりしたよ? カーテンの隙間からちらっと外見たら、五月雨ちゃんがいるんだもん」 「……ごめんなさい」 俯いて、消えそうな声で答える五月雨の、 「ん、それはいいんだけどさ。それより、そんな格好で出てきちゃ、風邪ひいちゃうわよ」 キャミソールの背中に、ふわりと上着を羽織らせた。 フードの付いた、洗い晒しの木綿のパーカー。 「残暑、っていっても、やっぱり夜の海風は冷えるから」 夕張がそう言って、五月雨の肩を、上着越しに、暖めるようにそっと摩り。 ね? と軽く首を傾げ、語りかけるのに促され、五月雨は俯けていた顔を上げ。 夕張の少し困ったような微笑みに出会うと、双眸から、ぶわっ、と涙を溢れさせた。 「えっ、ちょっ……五月雨ちゃん!?」 狼狽えたのは夕張。 「ああああ……ちょ、っと」 混乱気味に、所在なさげに暫し両手をばたばたとさせ、 「あの……えっと、なんか、その……」 やがて、踏ん切りがついたというように、五月雨の小さな体を胸に抱き寄せて。 「……ごめん」 肩を落として、ぽつり、と言った。 「……なん……ぇっ、ゆうばりさ……っが、あやまんん、で……っか」 夕張のTシャツの肩口に顔を埋めたまま、しゃくり上げながら五月雨が問うと、 「え? うー、んー……なんとなく……?」 何とも頼りない答えが返ってくる。 「ゅうばりさ、んは……わるっ、ない……ですっ」 五月雨は小さくかぶりを振って、夕張のTシャツの背を握り締めた。 「だっ、て……わる、いっ、はっ―――」 『悪いのは私なんです』 その言葉に、夕張は眉を顰める。 ただ、今は何も言わないで、海の色をした柔らかな髪に片頬を埋め、震える小さな背中を撫でながら、五月雨が泣きやむのをじっと待った。 「五月雨ちゃん」 胸元で聞こえる息遣いが、穏やかに、規則正しく落ち着いた頃。 「何かあったの、って。訊いてもいい?」 五月雨を抱く腕はそのままに、夕張が、問うた。もっとも、答えには大方の見当をついているのだが。 「……夢を、みたんです。また、あのときの」 俯き加減に、夕張の肩口に顔を押し当てたまま、五月雨。 「うん」 あのとき、って、いつの、とは、訊かない。 「……わかってるんです、本当は。ただの夢だ、って。だけど」 五月雨がこんな風に悪夢に囚われるのだって、何もこれが初めてではないのだから。 「うん」 彼女の言葉を遮ることなく、夕張はただ黙って、頷く。 「どうしても、確かめたくって」 「うん?」 「それが本当じゃない、って。ただの夢だ、って。夕張さんは、ちゃんとここにいる、って。でも……」 「……うん」 「けど、こんな時間にお部屋に押し掛けるの、やっぱり、悪いと思って」 「別に、いいのに。五月雨ちゃんなら、何時だって」 五月雨の頭の上で、夕張が苦笑する。 「だから」 それには答えず、五月雨は言葉を継いだ。 「せめて、外から、部屋の明かりだけでも、って、思って」 「……そ、っか」 夕張は抱く腕に少しだけ力を込めて、ごめんね、と呟いた。 「夕張さんのせいじゃ、ないです」 腕の中で、五月雨がいやいやをするように首を振る。 「夕張さんは、悪く、ないです」 「や、それが……そうでも、ないんだよ、ね。結構」 五月雨を胸に抱き込んだまま、夕張が口を開いた。 胸元で、五月雨が小さく首を傾げる。 「悪い奴だよ、私。少なくとも、五月雨ちゃんが思ってるよりは」 片頬を五月雨の髪に埋めたままで、夕張は続ける。 表情は、見せないで、 「……今、だって」 五月雨の、肩の丸みを、掌で何度もなぞるように、撫でて、 「ごめん、なんて言いながら。ほんとは私、ちょっと、嬉しいと思ってる」 背中を流れる柔らかな髪を、指先で梳いて。 「五月雨ちゃんの頭の中には、今、私しかいないんだ、とか、私に会いにきてくれたんだ、とか……んん、ちょっと、っていうか、ほんとは、かなり嬉しかったりして、ね。五月雨ちゃんが、こんなに苦しんでる、っていうのに……ほんと」 酷い奴でしょ? と、自嘲気味に、微苦笑した。 「そんなこと、ない、です」 五月雨は、夕張の肩口に顔を擦りつけるように小さくかぶりを振り、 「夕張さんは、優しい、です……優しすぎる、くらい」 腰に回した両腕に、ぎゅっと力を込めた。 「……それから」 夕張は応えるように、五月雨の、文字通り春の雨を集めたような繊細な髪に手を添え、その小さな頭を抱き寄せる。 「五月雨ちゃんが、もう一人の私―――沈んじゃった『夕張』のこと、今も忘れないで、こうして、覚えててくれることも」 「そんな―――こと。だって、私―――」 「ううん」 何か言おうとする五月雨を強く抱き寄せて、夕張はその言葉を遮った。 「救い、っていうのには、ね。いろんな形が、あるんだよ。だから」 ―――ありがとう、と。 囁くような、感謝の言葉を。 五月雨の耳元へと、届けた。 「っ、―――」 そして、再び声を殺して涙を流す五月雨の肩を、背中を、優しく撫でた。 腕の中で五月雨がもぞもぞと動くので、夕張は腕の拘束を緩めた。 「……ごめんなさい」 夕張のTシャツの胸元に作ってしまった涙の染みに指で触れながら、五月雨は申し訳なさそうに肩をすぼめる。 「ううん。……そろそろ、中に入ろうか」 夕張はそう言って、ぽんぽん、と五月雨の肩を軽く叩いた。五月雨ははい、と頷いて、そろり夕張の顔を窺い見る。 「明日は珍しく演習も遠征も一緒だもんね」 夕張さんのちょっといいとこ見せなくっちゃ、と、普段通りの屈託のない微笑みを見せるその人に、五月雨も、はい、期待してます! と笑顔で返した。 「じゃ、今から朝までしっかり寝なきゃ……どうする? 五月雨ちゃん、私のところに来る、それとも、みんなの所に帰る?」 と、宿舎の方へ向きかけた足を止めて、夕張が問う。 「……夕張さんと、一緒がいいです」 少しはにかんで五月雨が答えると、 「そう言ってくれると思った」 えへへ、とやはり少し照れたように、夕張は笑った。 そうして、ゆっくりと、二人で宿舎に向かって歩き出す。 「夕張さんのお部屋は嫌です! とか言われたらどうしようかと思った」 「言いませんよ、そんなこと。ただ―――」 「えっ」 八歩進んだところで、夕張が凍った。 「たっ、ただ!? 何!?」 「……もう少し、お片づけした方がいいかとは、思います」 「あー……はい、善処します」 思いの外ダメージが小さかったので、ほっと胸をなでおろす。 二人は再び歩き出し。 「そのお返事、この間も聞いた気がします」 「う」 軽巡寮の通用口の奥へと、消えていった。 ―――苛烈な痛みを伴う、忌まわしき記憶が。 女神の加護もて、ふたりを繋ぐ思い出の絆とならんことを。
《fin.》
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