メビウスの恋人


「荒潮は」
 ペンキの剥げた錆色のボラードに腰掛け、ぼんやりと海を眺めながら遠征に出かけた姉妹たちの帰投を待っていた朝潮が、不意に口を開いた。
「艦娘に生まれ変わる前のことを覚えていますか」
「生まれ変わる前、ねぇ」
 唐突な問いを投げる朝潮の横顔を、窺う。濃藍色の双眸は、遙か遠くを見つめたままだ。
「イエスでもあるし、ノーでもわるわねぇ」
 朝潮の真意は一体どこにあるのか。量りかねつつ、荒潮はそう答えた。
「ニュ------あの海で沈むまでのことなら、嫌ってくらい覚えてるけど。その後のことは覚えてないわ」
 気付いた時にはこの姿になってたわね。そう言って、荒潮は小さく肩を竦める。
「……そうですか」
 朝潮は普段と変わらぬ折り目正しい口調で、
「私も、です」
 遠くを見つめたまま、相槌を打った。
 再び降りる、沈黙。
 この生真面目な長姉は、いったいどうしてそんなことを唐突に問うたのか。考えたところで、奔放な思考回路の持ち主である荒潮には知る由もなかった。仕方がないので、朝潮の視線の先に自分も目を遣る。本日は天気晴朗、波もなし。穏やかな海面が、ちらちらと陽の光を照り返す。時折吹き抜ける柔らかな風が、頬を撫でながら二人の間を通り過ぎてゆく。
「……荒潮」
 また、朝潮が名を呼ぶ。
 まるで、そこに居ることを確かめるように。
「なぁに?」
 ふわふわと、荒潮は答える。
「もし、貴女が私より先に沈んでも。私は、貴女の後を追いませんから」
 荒潮は思わず朝潮の方を見た。言うことが突拍子もなさすぎて、何と言えばいいのかわからない。姉妹の中、どころか艦隊の中でも群を抜いて糞真面目なこの長姉は、時折こんな風にとんでもないことを言い出すのだ。彼女の中では筋道を立てて考えた結果なのだろうが、その糞真面目な思考回路ゆえに、最終的に出てくる言葉はしばしば、凡の者達の理解の斜め上を行く。
「……私が沈んだら、なんて。縁起でもないこと言うのねぇ」
 やっとのことでツッコみどころを見つけた荒潮は、急にどうしたの、と、普段通りのおっとりとした口調で苦笑混じりに言った。朝潮の最もよき理解者である彼女は、このくらいで機嫌を損ねたりはしない。
「すみません。けど、これは前から思っていたことで」
 朝潮もそのことをよく心得ているからこそ、安心して考えたことをそのまま口にできるのだ。
「深海棲艦は、海の藻屑と消えたかつての軍艦たちの怨念が具現化したものだと言われています」
 もしも、の話の次は深海棲艦。それでも、朝潮の真意を知るために、荒潮は辛抱強く耳を傾けた。
「私たち艦娘も、沈めば深海棲艦になると言われています。そもそも、艦娘も深海棲艦も根源的には同じものではないか、とも」
 遠くを見つめながら、朝潮。
「そういえば。そんなこと、聞いたような気もするわねぇ」
 その視線の先を、荒潮も見遣る。
「だから私達も、あの南の海に沈んだ後、この姿に生まれ変わるまでの間、深海棲艦として生きていたのかもしれません」
「そうねぇ……そうかも、しれない」
 目の前に広がる、どこまでも穏やかな海と空。
「怨みも怒りも、そうなるのには十分、あったもの」
 それとは裏腹に、凄惨な最期の光景が脳裏に蘇る。
「けれど私達は、鉄でできた軍艦だった頃の記憶は持っていても、その後のことは全く覚えていません。……と、いうことは。仮に貴女が沈んだ後、私が後を追ったとしても、深海棲艦になってしまった私達は、お互いのことを覚えてもいなければ、仮に出会ったとしてもそのことにすら気付かないのではないでしょうか」
「そんな------」
 ------そんなことは、ない。私なら、きっと貴女を見つけられる。
 そうとは言えず、荒潮は黙って言葉を飲み込んだ。実際、何も覚えていないのだ。海の底に沈んでから、この姿で再び日の光の下に生を受けるまで、深海棲艦として生きていたであろう年月のことを。
「------そう、ねぇ。たぶん」
 爆ぜる爆弾、飛び散る肉片。見る間に屑鉄となって沈む僚艦たち。まるでゴミのように、海へと撒き散らかされる人々。
「そう、なんでしょうね」
 沈む直前に見た、地獄絵図のような戦場の光景と血の匂いは、嫌というほど覚えているのに。その後のことは、何も知らない。
「ですから。もしも貴女が私より先に沈むようなことがあったなら、私は後を追ったりはしません。その代わり」
 風に踊る髪を片手で押さえながら、朝潮は横顔で言葉を続け。
「この海を隅から隅まで探し歩いて、必ず貴女を見つけます。深海の駆逐艦を片っ端から沈めて、そうすれば貴女がもう一度、艦娘に生まれ変わることを信じて。絶対に見つけると」
 ------約束、します。
 そう言って彼女は、荒潮の方へと向き直った。
 真っ直ぐに見つめる、濃藍色の瞳。
「っ、」
 さしもの荒潮も、言葉に詰まった。頬が一気に熱くなる。色恋の話にはとことん疎い朴念仁の癖に、時々こんな風にどストレートの剛速球を投げてくる、朝潮という人はこういう人だ。姉妹たちの艦隊は、まだ戻ってこない。これ以上ないほど真っ赤に染まった顔を他の誰にも見られずに済んだのは、幸運だったと思う。自分では朝潮のこういう言動には十分慣れているつもりでいたが、まだまだ甘かったと思い知らされる。
「……そう……そうねぇ」
 何とか自分を落ち着かせ、涼しい顔を装って。
 殊更に素っ気ない風で、相槌を打ち、荒潮は思案を巡らせた。
「気持ちは、有り難いけど。そういう約束なら、丁重にお断りするわぁ」
 そして、彼女がいつもの間延びした口調でそう言うと、朝潮は鳩が豆鉄砲を食らったように目を丸くした。そして、みるみるうちにその顔を落胆に曇らせ、そうですか、と力なく呟く。
「……そりゃ、ね。もし、朝潮ちゃんが私より先に沈んだら」
 荒潮はすぐに言葉を継いだ。朝潮を悲しませるのは、本意ではない。
「その話が本当だとして------ううん、ただの噂だったとしても。朝潮ちゃんにもう一度出会える可能性がちょっとでもあるなら、私も後なんか追わないで、深海棲艦を沈めまくるわよ。いつか当たり籤を引いて、朝潮ちゃんがまた、艦娘に生まれ変わるまでね。------だけど」
 そして、彼女にしては少し早口に、続ける。
「それは、私がそうしたいから、そうするの。約束したから、じゃなくて、私が朝潮ちゃんを取り返したいから。私は私の欲しいもののために動くの。ただ、それだけ。私は『約束』なんて言葉で縛るのも、縛られるのも嫌。だから」
 息を継いで、荒潮はちら、と朝潮を見遣った。
「先に沈んで深海棲艦になった私を、もし迎えにきてくれるなら。『約束だから』なんて言わないで」
 目を見開き、耳をそばだて、荒潮の言葉のたった一音節も聞き漏らすまいとする彼女と、一瞬視線が合う。
「ただ『会いたかった』って言ってくれたら。嬉しいわぁ」
「……荒潮らしい、ですね」
 朝潮は少しくすぐったそうに、微苦笑した。
 目の前の入り江を、海猫の群が横切る。遠くに、姉妹たちの遠征艦隊の影が見えた。
「では。その時は、そういう風に言います。やk、んっ、」
「……」
 約束します、と言いそうになって慌てて口をつむぐのを、荒潮は聞き逃さなかった。一度沈んで全く違う姿形に生まれ変わっても、性分というのはそう簡単に変わらないようだ。

 遠くで、豆粒みたいな朝潮型の制服がぶんぶんと手を振るのが見える。

 ------それならば。

 たとえまた海の藻屑になって、再び生まれ変わったとしても。自分たちはきっと、もう一度出会って、また同じように求めあい、想いあえるだろう。
(いまの失言未遂は、気付かなかったことにしてあげる)
 それを咎めたからといって朝潮の約束したがりの糞真面目が直るわけでもないし、そもそも彼女のそういうところもひっくるめて、荒潮は彼女のことが愛おしくて仕方ないのだ。
 荒潮は隣の朝潮に倣って腰掛けたボラードから立ち上がると、少しずつ大きくなる姉妹たちの艦影に向かって手を振り返した。


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