Faith


  ガレオンの朝は、意外に早い。
 早寝早起き、三度の食事。海賊というヤクザな商売の割に、クルーの生活パターンは健康そのものである。一番最初に寝床を抜け出すのは、ジョー。常に心身の鍛練を心がけている彼は、朝の静寂の中で精神を統一し、それから体を動かし汗を流すのを常としている。
 次に起き出すのは、ハカセ。ガレオンの台所を一手に預かる彼は、朝から食欲旺盛なクルーのため、早くからキッチンに立ち朝食の準備を始める。彼のアシスタントを務めるアイムは、毎朝決まって、彼がキッチンに入ってからぴったり十分後に姿を現す。
 マーベラスとルカは全くストイックでも勤勉でもなかったが、寝坊すれば食いっぱぐれてしまうので、朝食が出来上がるまでには必ずダイニングにやって来る。

 今日も概ね、いつもと変わらぬ朝が動き出す。


「・・・あら?」
 今朝も例によってハカセに十分遅れてキッチンに現れたアイムは、調理台に並んだ皿を見て、首を傾げた。
「ハカセさん、お皿が一つ足りませんが・・・?」
 クルーは、五人。しかし、並んだ皿は四枚。
「ああ。さっきルカから連絡あって、朝食いらないって言ったから」
 ジャガイモの皮を剥いていたハカセが、さらりとそう答える。
「えっ・・・!?」
 アイムは驚きに目を見張った。
 三度の食事には真っ先に飛んでくるルカが。
 放っておけばジョーやハカセの皿のものにまで手を伸ばす、あのルカが。
 朝食がいらない、などと、自分から言うなんて。
「・・・そういえば、今朝はわたくしよりも随分早く起きていらっしゃったようですが・・・それで、そのルカさんは、どちらへ?」
「ん。たぶん、見張り台じゃないかな・・・あ、アイム、そこの人参刻んで貰っていいかな? 二ミリの厚さで銀杏切りね」
 剥いたジャガイモの芽を丁寧に抉り取りながら、ハカセ。
「え? あ、は、はいっ」
 さらりと出された指示に、アイムは慌てて従った。ルカが食事をいらないなどという天変地異の前触れのような事態にも動揺したが、それに全く動じていないハカセの様子にもまた面食らった。
「? ・・・ああ、そうか。アイムは初めてなんだね。確かに、僕らも初めての時はびっくりしてルカを問い詰めたりしたけど」
 何がなんだかわからない、という風なアイムの様子に、ハカセは苦笑しながらそう言った。
「具合が悪いとか、そんなんじゃないから、心配しなくていいよ。朝食が終わったら、上に行って直接ルカに聞いてみたらいい。僕の口から聞くよりその方がいいと思うし、アイムになら、ルカも素直に教えてくれると思うよ」
 僕らにはなかなか教えてくれなくて、もう少しで殴り合いの大喧嘩になるとこだったけどね、と、肩をすくめて。そんなことを言っている間に、ハカセは大きなボウル一杯分のジャガイモを一口サイズに切り終えた。
「・・・はい」
 アイムも人参一本を刻み終えて、やはり何が何だかわからないまま、一応頷いた。本当は、すぐにでも見張り台に駈けていってルカに問いただしたかったけれど。
 ―――『朝食が終わったら、上に行って聞いてみるといい』
 ハカセがそう言うのなら、やはりそうした方がいいのだろう。何とはなしにそんな気がして、アイムは朝食の支度に専念することにした。

 食卓に、カリカリのベーコンと黒胡椒の効いたポテトサラダに、分厚いフレンチトーストが並ぶ頃、マーベラスとジョーが姿を現した。
「おう、旨そうだな・・・ん?」
 マーベラスの目が、一箇所だけ何も置かれていない席に留まる。
「ルカはどうした?」
「見張り台にいらっしゃるそうです。朝食は不要だ、と」
 アイムがそう答えると、マーベラスはそうか、と納得した風で、それ以上は何も言わなかった。
「・・・そんな顔をするな、アイム」
 テーブルの上に両肘をつき、顔の前で手を組んだ姿勢で、ジョーが静かに言った。
「ルカが何を考えているのか、俺達の口から教えてやるのは吝かではないが、やはりあいつの口から直接聞き出すのがいいだろう。何の先入観も持たずに、真っ新な状態で聞いてやれ」
「・・・はい」
 曖昧に微笑んで、アイムは頷いた。


 いつもより一人少ない食卓で、いつもより随分静かな朝食を終えて。
「後は、僕がやっとくから」
 いつものように、アイムが空になった皿を重ねてキッチンへと運ぶと、袖を捲って洗い物態勢のハカセがそう言った。
「え?」
「ルカんとこ。行くんでしょ?」
 首を傾げるアイムに、ハカセは皿の汚れをへらで掻き取りながらそう続ける。
「え、あ、はい・・・ですが」
「食事の間じゅうずっと、『気になって仕方がない』って顔、してたからさ」
 どちらかといえば、人の心情―――特に女性のそれには疎いハカセにもはっきり判るほどに、顔に出ていた、そう思うと、アイムは急に気恥ずかしくなっって、熱くなる頬を両手で押さえた。
「・・・・・・すみません・・・」
「あ、そうだ。一寸待って」
 消え入りそうな声で言うアイムをよそに、ハカセはふと何かを思いついた様子で、キッチンの隅に置かれた野菜庫の中からジャガイモを一個拾い上げると、軽く水洗いしてから彼女に手渡した。
「ルカのところに行くなら、これ持ってくといいかも」
「え? ・・・あ、はい・・・・・・それでは、お言葉に甘えて」
 アイムは何が何だかわからなかったが、ハカセに言われるがままにジャガイモを受け取り、ぺこりと頭を下げてキッチンを後にした。

 見張り台の上は、強い風が吹いていた。
 空は青く高く、遠いヘイジー・ブルーの山並みが幾つもの稜線を描いている。昨日降り立ったばかりのこの星は、火山活動が活発なまだ若い惑星で、山の幾つかが噴煙を上げていた。
「ルカさん」
 そこに目当ての人の姿を見つけ、アイムはごく自然に声をかけた。
 当のルカは、人の近づく気配をーーーそれが誰のものかということもーーー察知していた様子で、姿を現したアイムに視線を向けた。
「・・・そろそろ、来る頃だと思ってた」
 擦り切れた古いマントに身を包んで床に座り込んだまま、ルカは微苦笑しながら答える。
「朝ごはんは?」
「終わりました」
 簡潔な問いに、アイムが簡潔に答えると、ルカはそう、と軽く相槌を打った。
「・・・お邪魔、でしたでしょうか」
 そして、背筋の伸びたいつもの美しい立ち姿で、アイムが問うと、
「うん、まあ・・・けど」
 ルカは髪を軽くかき上げて、
「その、顔。訳を聞くまで帰らない、って、書いてある」
 苦笑しながら、そう答えた。
「よくお分かりですね」
 満更でもなさそうに微笑んで、アイム。
「そりゃ、ね・・・少し、長い話になるけど。それでもいいなら」
 ルカは観念したようにそう答えて、マントの前合わせを広げて、左腕を横に開いた。
「おいで」
 促されるままに、アイムはルカの傍へ歩み寄ると、その隣に腰を下ろす。
 と、ルカは彼女の肩を抱き寄せ、その背中をマントで包み込んで、
「ぼろっちっくて悪いね。一応、洗ってはあるけど」
 痒くなったりしたらごめん、と、少し戯けて言った。
「・・・暖かいです」
 小さくかぶりを振って、アイム。
 ごわごわとした分厚いマントは、確かに冷たい風をよく遮った。あちこちが継ぎはぎだらけの、分厚いぼろ布。この船に乗る前に使っていたものだと、ルカ自身から聞かされたことがある。洗ったというけれど、もとの色が何だったのか―――おそらくは、キャメルだろう―――分からないほど黒ずんで、所々に血の跡と思しき、大小の赤黒い染みがある。ルカがこれまで歩んで来た道程を、彼女自身が何も語らずとも、このマントが何よりも雄弁に物語っていた。
「・・・夢を、ね、見たんだ。昔の」
 深い呼吸を一つして、ルカは口を開いた。視線は、空を見ている。
「昨日、久しぶりに地上に降りて、街を歩いたせいかな。勿論、あたしの住んでたとこは、あんなに綺麗じゃなかったけどね」
 ルカの言葉で、アイムは前の日のことを思い起こした。
 ガレオンを泊め、食料の買い出しを兼ねて二人で探索に出かけた街は、食べ物や日用品を売る屋台が立ち並び、行き交う人でごった返し、活気に溢れていた。が、ルカに促されて周囲をよく見れば、膝を抱え、背中を丸めて路上に座り込む物乞いや、鵜の目鷹の目で「獲物」を物色する子供たちの姿がちらほらと見られ。
『たぶん、そう遠くないところに、スラムがあるね。間違っても、そんなとこに足を踏み入れるんじゃないよ』
 ―――好奇心は猫を殺す、って。確かそんな諺、あったよね?
 街を歩きながら、ルカがそう言ったのを、はっきりと憶えている。
「・・・どのような、夢。でしたか?」
「どんなも何も、いつものやつよ」
 アイムが問うと、ルカは溜息混じりに、つまらなそうに、答える。
 ルカの言う『いつものやつ』とは、彼女が貧民窟で暮らしていた頃の夢だ。空腹を抱え、或いは渇きに耐え、或いは寒さに震え、或いは追い立てられて、逃げ惑い。けれど最後は必ず、冷たい雨に打たれながら幼い妹の死に際を看取って終わる、そんな夢。
「・・・っていっても、最近、あんまり見なくなってたんだよね。前は、ほんとに、頻繁に見てたけど」
ルカは、空に向けていた視線を自分の掌に落として。
「あの子が死んだ時、あたし、干からびちゃうんじゃないかってくらい涙流して、世の中の全部を呪った。絶対、一生、忘れない。あたし達を踏みつけにした奴らを、帝国と、帝国の尻馬に乗っかってぬくぬくしてた連中を、あたしは絶対許さない、って。そう思った。のに」
 そう言って、右手で髪をかき上げた。
「ふと気がつくと、さ。いつの間にか、そういう気持ちが薄れてちゃってる自分がいるんだよね」
 チェストナッツの髪はさらさらと零れ落ちて、再び彼女の横顔を隠す。
「マーベラス達と出会って、この船に乗り込んで。仲間ができて、暖かい部屋があって、寝床があって、眠ってる間に襲われる心配もなくて、毎日三食、おなかいっぱい食べれる。時々帝国の奴らとドンパチやるけど、毎日けっこう楽しくて―――いつのまにか、あの子のこと、思い出すことが少なくなってる」
「ルカさん・・・」
 ―――過去の辛い出来事を、思い出すことが次第に少なくなる。
「忘れちゃ、いけない・・・忘れたくない、のに」
 まるで忘れてしまった、というわけではなく。ただ、時が経つにつれ、怒りも、悲しみも、灼けつくような鋭い痛みも、重い疼きも、激しい慟哭も、ヴェールを一枚隔てたように、どこか遠く、鈍いものになって。
「最初の頃は、あの子のことが一時も頭から離れなかったのに。最近じゃ、気がつくと、一日に一度もあの子のことを考えなかった、なんてこともあるんだ・・・酷い、よ、ね」
 (人は、それを)
 日々を心穏やかに過ごすことができるようになる。
 (『心の傷が癒える』と、呼ぶのですわ)
 けれどその言葉は胸にしまって、アイムはただ黙って、ルカの横顔を見つめた。
「この世でいま、あの子のことを憶えてるのは・・・あの子だけじゃなくて、たくさんのチビ達が、どんな風に生きて、どんな風に死んでいったか、憶えてんのは、あたしだけなのに。そのあたしがあの子達のこと忘れちゃったら、あの子達の生きたしるしが、本当に、何もなくなっちゃうじゃん?―――だから」
 ルカは再び天を仰いで、アザー・ブルーの空に向かって手を伸べ。
「あの子達のこと、忘れないように。食べるものも、雨風をしのぐ家も、焚き火をする薪も無くて、妹と、身寄りのないチビたちと、肩を寄せあって耐えてたあの頃のこと、忘れないように。時々、ここで、こうして過ごしてんだよね」
 ―――ばっかみたい、でしょ?
 空気を掴むように拳を握り締め、そう言って、自嘲気味に、笑った。
「・・・ルカさん・・・は」
 アイムは小さくかぶりを振って。
「優しい方、ですね」
 ゆっくりと、言葉を探しながら、答える。
「それと。とても、真面目な方。です」
 ルカは遠くへ遣っていた視線を手元に戻して、
「・・・・・・アイム」
「はい」
「・・・『真面目』って言葉の意味、ちゃんと分かってる?」
 居心地悪げに両手で髪をかき上げながら、尋ねた。
「はい。少なくとも、人並みには」
 涼しい顔で答えるアイム。
「・・・っ、んなこと言われたの、初めてだし・・・大体、泥棒掴まえて『真面目』って。どうなの? それ」
 ルカはますます落ち着かない風で、頭を掻きむしる。
「堅気の人が聞いたら怒るんじゃん?」
 髪の間から僅かに覗く耳朶が、ほんのりと赤い。
「わたくしの、ごく個人的な感想です。・・・ルカさんがご不快に感じられるのでしたら、取り消しますが」
「・・・や、ご不快、ってのとは、ちょい違うんだけどさぁ・・・」
 ルカは暫く、頭を抱えて、あー、とか、うー、とか唸っていたが、
「・・・けど、アイムがそう言うんなら。そう・・・なの、かも、しんない」
 やがて、降参、といった体で、苦笑しながらそう言った。
「では。他の方がご存じない、わたくしだけが存じ上げているルカさん、ですね」
「ん・・・そういうことになる・・・か、な」
 満足げに微笑むアイムに毒気を抜かれたように、釣られてルカも小さく笑った。
 そうして暫く、二人で微笑みあって。
 ふいにアイムは、ルカの腕を取ると、大事なものを抱えるように抱き締めた。
「アイム?」
「・・・ルカさん」
 そうして、肩に凭れるように頬を寄せるアイムに、どしたの? と問いながら、ルカは彼女の髪に顔を寄せた。
「・・・わたくし、今日、皆さんに少し、嫉妬してしまいました」
「うん?」
「ルカさんが、食事はいらないと仰ったと聞いて」
 穏やかな口調で、アイムは語り始める。
「わたくし、とても驚いたんです。けれど、ハカセさんも、ジョーさんも、マーベラスさんも。すぐに、ルカさんが何をお考えなのかお分かりになった様子で、とても落ち着いていらっしゃって。わたくしだけが、何も知らなくて・・・わたくしだけが、ひとり取り残されたような。そんな気がして」
 ルカはようやく合点がいったように、ああ、と頷き。
「あいつらには、ちょっと話したことあるからね・・・そっか。ごめん」
 そう言って、自分の腕を抱くアイムの手に自分の手を重ね、少し癖のある黒髪に、鼻先を擦り寄せた。謝罪の言葉を、自分は大して悪くないのに、こんなにもすんなりと口にするルカを、他のクルーが見たならば、さぞかし驚くことだろう。
「・・・頭では、解っているんです」
「うん?」
「皆さんのほうが、ルカさんとのお付き合いが長いのですから。当然、皆さんの方がルカさんのことをよくご存じだ、ということくらい」
「んん・・・ま、そうかも、ね」
 軽く頷いて、ルカはアイムの頬に手を伸ばした。
 掌で頬を包み込むように触れるその手に促され、アイムが顔を上げれば、ルカの顔がゆっくりと近付いて。
 アイムの眼がゆるりと閉じられれば、唇を啄むようなキス。
「・・・・・・けど」
 幾度かの口吻けのあと、諭すように、ルカ。
「ただ長いこと一緒にいりゃいい、ってわけでもないよね。それは、あたし達が一番よく知ってる」
 でしょ? と問えば、アイムは頷くような、曖昧な動作で目を伏せた。
「・・・はい」
 俯き加減のその顔を、ルカは不意に、ぐいと力を込めて上を向かせ、もう一度口付けた。
 今度は、深く。
 不意を打つ口吻に、アイムが狼狽えたのはほんの一瞬。唇を押し開いて滑り込んできた舌を、彼女はすんなりと受け入れた。
「、ん―――」
 ルカの舌が彼女のそれを絡め取るように翻弄すれば、アイムは少し息苦しそうに喉を鳴らし、ルカの腕に縋る手をぎゅっと握り締める。
「・・・それから、さ」
 唇が離れ、名残を惜しむようにもう一度、軽く啄んで、
「それって、頭だけじゃなくて。体でも、よーく解ってるよね?」
 ルカはにやりと笑って、そう言った。
「っ、! ルカさん!」
 アイムは頬を赤く染め、してやったりという風に笑うルカに、少し上目遣いに咎めるような視線を投げる。
「あれ、違った?」
「もうっ・・・!」
「あは・・・・・・いや。マジな話、さ」
 ひとしきり笑って、ルカはアイムの額にこつりと自分の額を重ねた。
「たぶん、世界で一番あたしのことよく知ってんの、アイムだと思う―――もしかしたら、あたし自身よりも」
 先刻とはうって変わって、真剣に。
「キスした後の惚けた顔とか、今みたいにデレデレした顔とか、他のやつらになんか絶対見せらんない。ってか、見られたら恥ずかし過ぎて死ぬ」
「ルカさんったら・・・」
 アイムはくすり、と笑う。
「あたしはアイムのこと、他の誰よりもわかってる、って。言えなくもないけど、まだまだ知らないこともいっぱいあるな、とも思うし・・・例えば、アイムがこんなにやきもち妬きだなんて、今まで知らなかったし?」
「・・・それは、自分でも初めて知りました」
 冷やかすように言われて、アイムは少し跋が悪そうに苦笑した。
「でも、そんな風に、新しいこと知る楽しみがいっぱいある、って思うと、それもいいかな、って」
「・・・そうですね」
 アイムはやっと、得心がいったように微笑んだ。
 ルカも、微笑みで応える。それこそ、他のクルーに見られたなら『恥ずかし過ぎて死ぬ』と言うに違いないような、甘い微笑みで。
「・・・随分、お邪魔してしまいました」
 やがて、ルカの腕に絡めていた手を解きながら、アイムが言った。
「お昼と夕食は、どうなさいますか?」
「ん、今日は、要らない。夜もここで寝ると思うけど」
 ぼろ布のマントから抜け出し、ゆっくりと立ち上がる彼女の動作を目で追いながら、ルカ。
「アイム、ひとりで寝れる?」
「どうでしょう・・・寂しくなったら、こちらに押しかけてしまうかもしれません」
 多分に揶揄いを含んだ問いに、アイムは動じることなく、優雅な立ち姿に極上のロイヤルスマイルできっちりと返した。
 ルカも愉快そうに笑み返す。
「あ。そういえば―――」
 と、唐突に思い出したように、アイムはスカートのポケットに手を突っ込み、
「ハカセさんが、ルカさんの所に行くならこれを、と仰ったのですが」
 首をかしげながら、ジャガイモをルカの前に差し出した。
「げ」
 頓狂な声を上げ、ルカは眉を顰めながら差し出されたジャガイモを受け取る。
「参ったね・・・ハカセに見透かされてるとか」
「何ですか?」
 マジないわ、と額に手を当ててボヤく彼女に、アイムはますます首を傾げた。
「・・・貧民窟じゃ、煮炊きをする薪もなかなか手に入んなくてさ」
 ルカは丸いジャガイモを矯めつ眇めつ話し始め。
「市場でちょろまかしてきた芋とか人参とか、生のまんま囓ったりしてた、って。ちらっと喋ったことあるんだわ・・・ほんと、ハカセってば」
 そんな小っさいことよく憶えてるね、と、肩を竦めて苦笑した。
 ルカの言葉に耳を傾けながら、静かにその様子を見つめていたアイムは、おもむろにルカの前に跪くと、ルカの手を、握ったジャガイモごと自分のほうに引き寄せ。
 屈み込んで、その麦藁色の果皮に白い歯を立て、齧り付いた。
「っ!?」
 驚きに目を見張るルカをよそに、彼女は少し俯いて、皮のついた生のジャガイモを咀嚼する。
「ちょ、アイム・・・!?」
 真剣な面持ちで顎を動かすアイム。お世辞にも、美味しいものを食べているようには見えない。
「・・・生野菜サラダには、あまり向かないお味ですね」
 やがて彼女は、やっとのことでそれを飲み下し、絶句するルカの手を、ゆっくりと放し。
「これで。わたくしの方が、ハカセさんより一歩リード、です」
 そう言って、華やかに微笑んだ。
 呆気にとられていたルカは、我に返り、彼女の台詞を反芻して、
「・・・アイムって、結構・・・つか、かなり、負けず嫌い・・・?」
 まだ少し呆然としたように、そう呟いた。
「はい。それは、自分でも存じています」
 アイムは満足げに頷いて、ゆっくりと立ち上がると。
「・・・それでは。お邪魔いたしました」
 ルカに向かって深々と頭を下げ、長いスカートを翻して見張り台を後にした。


 暫くぼんやりと、アイムの背中が消えた辺りを眺めていたルカは、やがて、手元に残ったジャガイモの、小さな歯形に目を落とし。
 ふ、と微笑んで、その歯形の上から豪快に齧り付いた。
 青臭さと泥臭さの混じるその味は、確かに、貧民窟で息を殺して暮らしていた昔を思い出させるけれど。これからはきっと、ジャガイモを見る度に、こんな不味いものに果敢に齧り付き、懸命に飲み下すお姫様の姿を思い出すことになるのだろう。
 ―――人は移ろい、変わってゆく。
 そのことを、受け入れたくない、受け入れてはいけない、と思っていたけれど。
 例えばこんな風に、変わっていけるのだとしたら。
 それも悪くない、と、ルカは思った。

《fin.》

  


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