49th Year

When I Grow Too Old To Dream


 マルマルフタマル。
 真夜中を過ぎたこの時間、普段ならば、ごく一部の例外ーーー夜間哨戒部隊、護衛や輸送任務に赴いている姉妹の帰りを待つ者たち、夜戦馬鹿、機械馬鹿ーーーを除けば、ほぼ全てのものが眠りについている頃。
 が、今日は少し様子が違っていた。
 艦娘たちの寮はどこもかしこも明かりが灯り、眠るどころか何となく落ち着かない雰囲気が漂っている。
 そして、鎮守府管理棟一階の司令室。

「では。失礼いたします」
 鳳翔は一礼し、扉を閉めた。
 司令室の中央に、大きなテーブル。その上には天板いっぱいのサイズの海図が画鋲で留められており、深海棲艦の根城を示す赤いピンが幾つも刺さっている。
 そして今、そのテーブルの端には、鳳翔が持ってきた土瓶と湯飲み、そして白飯の塩むすびが数個、皿に盛られて鎮座していた。
「……さて」
 女提督は肘掛けに両手をついて、黒い革張りの椅子から身を起こした。一面の白に、僅かに黒とグレーの混じる引っ詰め髪。しゅっと通った鼻筋、薄い唇、眉間の縦皺、丸眼鏡。若い頃はさぞ美しかったであろうと思われる容姿で、レンズの奥の鋭い眼光とぴんと張りつめたような隙のない姿勢は、軍人然として頼もしい。
「折角だから、頂くとするかね。大淀」
 老提督の隣に座っていた秘書艦代理の大淀は、はあ、とあまり気の乗らない返事をした。
 まあ、無理もない話である。
 ▲■海域における深海棲艦の本拠地攻略がいよいよ大詰めとなり、精鋭中の精鋭による連合艦隊が決戦を挑むべく朝一番に鎮守府を出港してからずっと、提督とともにこの司令室に詰めているのだ。それから今まで、朝昼晩と運ばれてくる食事を取りながらずっと座りっぱなし、気を張りっぱなしなのである。齢七十を過ぎていながら顔色一つ変えず、まだ何か食べようかという気がある提督の方が規格外といっていい。
「空腹は思考を悲観的にするからね。無理でなければ何か腹に入れときな」
 食べることも仕事のうちだよ、と。
 そんなことを言われては断るわけにもいかず、はあ、とまた気のない返事をして、大淀は差し出された皿から塩むすびを一つ取り上げ、のろのろと口に運んだ。
 そんなことをしている間に、老提督は小ぶりのむすび三つを腹に納め、茶を飲み干して、うんともすんとも言わない無線機を難しい顔でじっと睨んでいた。


 動きがあったのは、そのおよそ二十分後、マルマルヨンサン。
『あーあー、こちら第一艦隊旗艦金剛ネ。Hey,提督、Can you hear me?』
 ノイズ混じりの明るい声が、スピーカーから聞こえてくる。
 提督は勢いよく立ち上がると、無線の操作卓に屈み込み、卓上に据え付けられたマイク握り締めた。
「こちら司令室。……ああ、よく聞こえるよ」
 努めて冷静に、答える。
『OK。耳の穴かっぽじってよく聞くネ。我が艦隊は敵泊地を攻撃、地上施設ならびに駐留艦隊を撃破、殲滅。鬼退治は成功、Mission Completeネ! 尚、我が艦隊の損害は、小破二、中破七、大破一、沈没はゼロ。大破の榛名も自力で航行できるし、ボロボロだけどみんな元気ネ』
 隣の席で、重苦しい顔で死んだ魚のような目になりかけていた大淀が、ぱっ、と顔を輝かせた。
「そうかい……よくやった。ご苦労だったね」
 老提督が表情を和らげたのは、ほんの一瞬。
『これから帰投するヨ。母港到着予定は、そうね……breakfastに間に合うかどうか、ってとこネ』
「了解。道中、くれぐれも油断するんじゃないよ」
 すぐに、声音を険しくする。
『I know. 艦隊決戦は、おウチに帰るまでが艦隊決戦ネ!』
 艦隊決戦と遠足を一緒にするな、と、小言をつく前に通信は途切れた。
「作戦、成功ですね」
「まあ、ひとまず、ね。まだ、終わりじゃないけれども」
 声を弾ませる大淀に、老提督は難しい顔のまま言葉を続ける。
「第三・第四艦隊は、引き続き母港と撤退中の艦隊への敵襲を想定して待機させ------」
 無線の操作卓に屈み込んだ姿勢から、身を起こした途端。
 老提督は苦悶の声を上げて、その場に崩折れた。
 もがくように卓へと伸ばされた手がそこに置かれていた書類の束を掻き落とす。
「!? 提督!」
 驚いた大淀は、文字通り椅子を蹴飛ばして立ち上がった。


*     *     *


 司令室の、隣。
  KNOCK-KNOCK
「……ミツコ、寝てる……?」
 金剛が様子をうかがうように仮眠室の扉をそっと開け、小声で囁く。奥の窓のカーテンレールに、ハンガーに吊された詰襟の上着が掛かっているのが見えた。
「……起きてるよ」
 畳敷きの六畳間に敷かれた煎餅布団の中で、老提督はもぞりともせず不機嫌そうな低い声で応えた。
「決戦艦隊がボコボコにやられて帰投して、旗艦がまだ顔も見せに来てないってのに、グースカ寝てる馬鹿がいるもんか。大体、on duty の時は提督とお呼びと何回言ったらわかるんだい。それからノックはせめて三回にしな。二回はトイレノックだっていつも言ってるだろう。しかも何だい、ノックして返事を聞かずにすぐ扉を開けるなんて。それじゃ何のためのノックだかわかりゃしないよ」
「……ワーオ。思ったより元気そうネ、心配して損したワ」
 立て板に水のごとき小言に、金剛は大げさに肩をすくめる。
「当たり前だろ。たかがギックリ腰くらいでショボくれてたまるかい」
 ふん、と鼻を鳴らして、老提督。
「で。ドックは、済ませたのかい」
「Yes,ma'am. 私はほとんど無傷だったから、先にちゃちゃっと入らせて貰ってきたネ」
 金剛は上がり框に腰を下ろすと、ロングブーツを脱ぎにかかった。ドックから出たばかりとあり、戦装束は下ろしたての新品のようにパリっとして、白い色には一点の曇りもない。
「他の子たちは」
「みんな無事帰って来て、今、順番にドック入りしてるネ。夕立だけは無傷でピンピンしてるけど。榛名は大破してる癖に大丈夫デス大丈夫デスってうるさいから、問答無用で一番最初にドックへぶち込んで来たネ」
 金剛が答えると、老提督はそうかい、と抑揚のない声で相槌を打つ。
 ブーツの中から露わになった素脚は、生娘のそれのように細く引き締まり、肌は白く滑らかだった。
「さて。それじゃ、中破したテートクのメンテもするネ」
 金剛は老提督の側にぺたりと座ると、掛け布団を捲り、うつ伏せになれと促した。
「痛む?」
「大丈夫だよ、こんな風に動いたりしなきゃね……ぁっっ」
 老提督が口の速さとは対照的に緩慢な動作でうつ伏せになると、金剛はまず、きっちり留められたペンシルスカートのウエストを緩めた。布団で寝ていてもきっちり制服を着込んでいるあたりがいかにもこの提督らしくて、小さな笑みが零れる。その腰を、背中を、金剛の掌がワイシャツ越しに探り、緩やかに、撫でるように、動く。こういう時は筋肉にあまり強い刺激を与えてはいけないということを、彼女はよく心得ていた。
「……歳は、とりたくないね」
 老提督は自分の腕に頭を乗せ、溜息混じりに零した。
「大事な作戦の、最後の詰めがまだちゃんと終わってないって時に、このザマじゃね。指揮官失格だよ、まったく」
「そんなに自分を責めなくてもいいネ。だいいち------」
 金剛は不意に言葉を途切れさせる。顔は見えないが、どうも笑いを噛み殺しているようだということだけは判った。
「……何さ」
 老提督が訝しげに問う。
「------こんなことで提督失格なら、とーーーっくの昔に失格になってるネ。ぎっくり腰じゃなくて、秘書艦と『夜戦』のしすぎで一日寝込んだりして」
 ころころと笑いながら言う秘書艦に、老提督はぐふ、とかうぐ、とか、意味不明な音を発して、
「……古い話を持ち出すんじゃないよ」
 呻くように、抗議の声を上げた。


 暫し、沈黙が降りて。
 朝の強い光が、薄いカーテン越しに淡い光となって小さな部屋を満たしている。微かに遠く、聞こえる艦娘たちの声。金剛の手は、老提督の背を根気よく、軽やかに動き回り、ワイシャツが小さな衣擦れの音をたてる。
「……すまないね」
 ぽつり、と、老提督が零した。
「My pleasure. それは言わない約束ネ」
 金剛がふ、と口元を綻ばせて微笑む気配がして。
 また、沈黙。
「……あたしは」
 また、老提督がぽつり、と零す。
「こんな風に、老いぼれて、どんどんダメになっていくばっかりだ。……ね、金剛。あんたは、活きがいいんだから、誰か、もっと若くてしゃんとした、あんたに似合いの人を見つけてもいいんだよ」
 と、背中に触れていた手が、離れ。
「何もこんな、老い先短いババアにひっついてなくても。世の中にはもっと、若くていい人がいくらでもいるんだし」
 老提督が次の言葉を零すより先に、

  ぺしこーーーーーんっっっ!

 銀鼠色のその頭を、金剛の平手がはたいた。
 それはもう、高らかな音をたてて。
「だっ! 〜〜〜〜っ、ちょ、いきなり何てことすんだい! こっちは仮にも年寄りだよ!」
「こんな時ばっかり年寄りぶるのfairじゃないネ! それに今のはミツコが悪いヨ!」
 老提督が怒りの声を張り上げるのに負けじと、金剛が、彼女には珍しく酷くヒステリックに喚いた。
「もっと若いの若いの、って。何なの!? まるで私が、若けりゃ誰でもいいと思ってるみたいネ! 人を侮辱するにもほどがあるヨ! 私はミツコじゃなきゃダメなのに!他の誰かのものになれなんて------」
 そして、荒い語気で、早口でまくし立て、
「------そんなの、酷すぎるネ……」
 ふと言葉を詰まらせ、声を震わせる。
「……ほんっ、と、酷い、ネ……」
 途切れ途切れの言葉の間で、しゃくり上げ、すすり泣き。
「……金剛」
 背中で聞いていた老提督は、布団の上でもぞもぞと身を捩り、なんとか仰向けになると、俯いてぽろぽろと涙を落とす金剛の顔を見上げた。
「その、言葉が。……どれだけ、私、を、悲しませる……か。ちゃんと、知るべき、ネ……」
「金剛」
 老提督が、彼女の頬へと手を伸ばす。糊のよく効いた、ワイシャツのカフスには、深紫色の石が輝くカフスボタン。金剛の瞳によく似たそれは、銀婚式の記念に彼女から贈られたものだ。
「……ごめん」
 伸ばした手は、僅かに届かない。
「……ミツコのバカ。いけず。おたんこなす」
 足りない距離は、金剛が詰めた。
「……ごめん。今のは本当に、あたしが、悪かった」
 深い皺の幾つも刻まれた硬い手が、屈み込む金剛の頬に触れる。
「あんたが、あんまりいい女だから、さ」
 目元に残る涙を指で拭いながら、老提督は微苦笑を浮かべた。泣き笑いのようなそれは、普段は強面の彼女が滅多に見せることのない表情で。 
「つい、不安になってね。どんどん老いぼれて、ガタがきて、駄目になってくばっかりのあたしとじゃ、いくら何でも釣り合わないんじゃないか、ってさ」
「……ミツコは、いい女ネ」
 すん、と鼻をすすって、金剛は、
「昔も十分いい女だったけど、今の方がもっといい女ヨ。ぴちぴちのお肌だけがいい女の条件じゃないネ。それに」
 頬に触れる老提督の手に自分の手を重ねて、目を閉じ。
「最初から、分かっていたことネ。私は歳をとらないのに、ミツコだけが歳をとって、お婆ちゃんになっていくことも。そうやって歳をとって、いつか私を置いて行ってしまうことも。------それでも」
 ------それでも私は、ミツコがいいネ。
 そう言って、閉じられた瞼の間から、また涙を零した。
「金剛……」
 老提督は、愛おしげに目を細め。
「!? Nooooooooooっっっ!」
 添えていた手で、金剛の頬を思い切り抓った。
「Oh……人がせっかくRomanticに愛を囁いてるのに、ヒドいネ」
「何がロマンチックだい。勝手に人を先に殺すんじゃないよ」
 散々引っ張られた頬を元に戻すように押さえる金剛に、老提督はすっかり普段の頑固婆の体でふん、と鼻を鳴らした。
「艦娘のあんたは、いったん海に出ればいつ沈んでもおかしくないんだよ。あたしが先に死ぬとは限らないじゃないか。まして、あんたほどの艦が出て行かなきゃならないような場所は、どんな化け物が棲んでるかも知れないような所なんだ。この度だって、どれだけ気を揉んだか------」
 老提督はそこまで言って、はっと口をつぐんだ。
 金剛は一瞬きょとんとした顔をして、すぐに何かを察したように破顔した。
「心配、してくれたんだ?」
 老提督は殊更に眉を顰めると、天井を見上げた。
「…………」
 暫く黙って頃合いを見て、金剛の方をちらり、と伺い見れば。
 待て、と言われた飼い犬のように、期待に満ちた眼差しを向けられ。
「……あたしゃ、やっぱり、提督失格だよ」
 観念したように、溜息を一つついた。
「あんたの言った通り、艦隊決戦は母港に戻るまでが艦隊決戦。でっかい戦いにひとつ勝ったからって気は抜けない。どこに別働隊が隠れてるかわからない。いつ、誰が、どんな不意打ちを喰らうかわからない。そういうものに、指揮官は神経を尖らせてなきゃいけない、なのに」
 そして、右腕を額の上に載せ、
「あの時のあたしときたら。あんたからの通信を受けて、あんたの無事な声を聞いて、すっかり気が抜けちまって、それでこのザマさ。みっともないったらありゃしない。……ああ」 
 ------つくづく、歳は取りたくないね、と。
 噛みしめながらそう言って、また一つ、深い溜息をついた。
「……Wow,」
 老提督の言葉にじっと耳を傾けていた金剛が、ぽつり、と漏らし。
 じわり、と満面に、笑みが広がる。
「私、愛されてるみたいネ」
 身を乗り出し、横たわる人の顔をのぞき込み、喜びと、ほんの少し揶揄いの色を滲ませて、金剛が問えば。
「何だ、そんなことも知らなかったのかい」
 老提督は丸眼鏡のレンズ越しに金剛を睨むと、唸るように、突っ慳貪な物言いと仏頂面で返した。
「……勿論、知ってたネ」
 金剛は蕩けるように微笑んで、老提督のワイシャツの胸元に頬を擦り寄せ。
「------I always knew it,」
 うっとりと呟いて、目を閉じた。
 流れるセピア色の髪を、老提督の手が三度、撫でる間に。
 彼女は静かに、寝息を立て始めた。

《fin.》

  


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