YAH YAH YAH
私達は、敗北した。
砂漠の使徒の首領デューンは、少年のような容貌とは裏腹に、恐ろしい強さでプリキュアを完膚無きまでに叩きのめした。
―――いや。
幼い子どもは純粋で、迷いがなく、故に残酷だ。
何の躊躇いもなく、街を砂に埋め、森を根こそぎにし、人々を美しく、けれど無機質な水晶に変えてしまうほどに。
そう考えれば、あの風貌こそ彼には相応しい―――
ローファーの足を砂に取られながら、私は植物園を目指して歩いた。普通の砂ではない。粒子が細かく、からからに乾燥した、これは砂漠の砂だ。踏みしめた足の下でするりと流れ、歩きにくいことこの上ない。浜辺の砂とは訳が違う。団地から植物園までの道程が―――もう道など存在しないのだが―――酷く遠く感じた。
砂丘を越えるとやっと、植物園が視界に入る。コッペ様によって辛うじて護られた薫子さんの植物園は、文字通り砂漠の中のオアシスのようにも見えた。
(オアシス、というよりは)
絶望に打ちのめされた心と体は、ただ重いばかり。
(まるで、ノアの方舟ね)
私は、幼い頃図書館で読んだ、本の挿絵を思い出した。
嵐の中、荒れ狂う波に翻弄される小さな方舟で、身を寄せ合うノアと動物たち。
けたたましいえりかは、雌鶏のイメージ。
いつきは、賢くて従順な犬。
つぼみは、希望を運ぶ、白い鳩。
(じゃあ、私は?)
群れるのが嫌いな一匹狼?
―――いや。
そんな格好いいものでは、ない。
(それなら)
刺々しい無数の針で武装し、弱い自分を護っているヤマアラシ。
(・・・そんなところかしら、ね)
ヤマアラシに落ち着いたところで、私はようやく、植物園へと辿り着いた。あとの三人は、まだ戻っていないようだ。コッペ様はいつものように、静かにそこに佇んでいる。
薫子さんの姿は、ない。
「コッペ様・・・」
こんなことになってしまって、一つ分かったことがある。
―――私がいかに、彼女を頼りにしていたか。
時に、お節介が過ぎると感じたこともあったけれど、彼女は常に私のことを気遣い、見守り、導き、時に叱咤し、時に背中を押してくれた。変身する力を失ってからも度々この植物園に足を運んでいたのは、我知らず彼女の支えを求めていたからだと、あの頃の私ならきっと認めなかっただろうけど。
正直なところ、今もしこの場に彼女がいてくれたなら、こんなにも心細くはなかっただろう。
「・・・私達は、いったい、どうすれば・・・」
私はコッペ様に縋り、嘆息した。
コッペ様は、何も言わないけれど。
プリキュアにとって妖精を奪われるのと同じ―――いや、それ以上に、妖精にとってパートナーを奪われることは堪え難い苦痛の筈だ。それでも、コッペ様はデューンの前に倒れた私達を護り、ここまで連れ帰り、そのうえ跳梁跋扈するデザートデビルからこの植物園を護ってくれた。
コッペ様だけではない。シプレにコフレ、生まれたばかりのポプリでさえ、パートナーを、こころの大樹を、護ろうと果敢に戦おうとする。
彼も―――コロンも、そうだった。
今こそ、彼らの心に報いなければならないと、
今がその時だと、解っては、いるけれど。
一度折れた心は、前よりも強くなったと、思っていたけれど。
今度ばかりは、とても乗り切れる自信がない。
「・・・・・・」
と、コッペ様がゆっくりと腕を持ち上げた。
鋭い爪の指さす先に、小さな人影が三つ。先刻私がそうしたように、砂丘を越えて、こちらに近付いてくる。
私は深い呼吸を一つして、コッペ様から離れた。
そして、いつもの「強くて厳しいゆりさん」の顔に戻る。
―――そうしなければ、きっと、あの子たちも私も、潰れてしまうから。
私は植物園の外で、三人を出迎えた。皆一様に、足取りは重く、暗く沈んだ表情をしている。べそをかいていないだけ、上出来だろう。
白い鳩は、オリーブの葉を見つけることはできなかったようだ。
「・・・っづあーーーーー! 何なのこれ! もう意味わかんないよ!」
私の顔を見て、最初に口を開いたのはえりかだった。頭を抱え、髪を掻きむしりながら絶叫する。自分の気持ちをストレートに発散するタイプだ。
「弱音を吐くのは、出来ることが本当に何も無くなってからにしなさい」
一応叱ってはみるけれど、実際のところ、彼女がこうして泣いたり喚いたりしてくれるからこそ、つぼみやいつきも何とかやっていけるのだ。三人が三人ともじっと我慢の優等生では、いつかパンクしてしまう。
「まだ命があって、体が動いて、妖精が傍にいてくれるなら、まだ出来ることはある筈よ」
私は、三人の顔をじろりと見た。
「あなた達が諦めない限りは、ね」
「・・・はいっ」
つぼみが、背筋を伸ばして微かに笑む。
いつきは無言で頷き、きりりと表情を引き締めた。
今、彼女たちに必要なのは、萎えた心を叱咤してくれる人間。
そして、今の私に必要なのは、先輩風を吹かせ、強がって見せる相手。
つくづく、私達はよくできた組み合わせだ、と思う。
「・・・はーい」
えりかは口を軽く尖らせ、可愛らしくふて腐れてみせた。こういう一寸した仕草が、ももかに本当によく似ている。
―――彼女は、どうなっただろう。
やはり、他の人たちと同じように、クリスタルになってしまったのか。
彼女のクリスタルなら、さぞかし美しいことだろう。
「まずは、少し気持ちを落ち着けて。それから、作戦会議よ」
『はいっ』
三人の声が合わさる。本当に素直で、前向きで、いい子達だ。
「とにかく。中に入りましょう」
踵を返し、植物園の中へ向かう私に、三人が続く。
「・・・えりか? どうかした?」
ふと足を止めたえりかに、いつきが訝しげに問うた。
「んー・・・」
えりかは後ろを振り返り、きょろきょろと辺りを見回し、
「何だろ、気のせいかな。何でもない」
そう言って肩をすくめ、再び温室に向かって歩き出した時。
「えりかっ!」
背後から声がして、
「え?・・・にょわっ!」
振り返った瞬間、背後から近付いてきた人影に飛びつかれ、砂の上へと倒れ込んだ。
「いっ、たぁー・・・・・・って、えぇっ!?」
明堂学園のキャメルのジャケットに包まれた長身。プリーツスカートから覗く長い脚。えりかと比べると、大人と子どもほど違うプロポーション。
「もも姉っ!?」
「えりか!・・・もう、心配したんだから・・・」
「もも姉!」
砂の上で涙の再会劇を繰り広げる来海姉妹の後ろから、続々と人がやって来る。
「うぉーい! 花咲!」「いつき!」
「番くん!?」「お兄様!」
大勢の―――大群衆、というほどではないけれど、観光ツアーの団体客程度には沢山の―――人々が、この植物園を目指してやって来ていた。
しかし、何故?
人々は皆、クリスタルになってしまった筈なのに。
私は考えを巡らせた。
(助かったのは、明堂学園の生徒?)
・・・いや。
ここにいるのは、明堂の生徒ばかりではない。割烹着やスーツ姿の人、幼稚園の先生の姿もある。
「プリキュアが、強い心を教えてくれたんだ!」
つぼみに声を掛けた、大柄な男の子がそう言ったとき、私はある事実へ思い至った。
―――ここに居るのは皆、一度砂漠の使徒にこころの花を奪われた人達だ。
一度折れた心は、前よりも強くなる。それは確かなようだ。砂漠の使徒も、自分たちの行為がこんなところで仇となるとは、まさか思いもしなかっただろう。
どんなに綿密で壮大な作戦行動も、たった一つの小さな綻びから崩壊することがある。
ならば―――
「ゆり!」
不意に呼ばれ、振り返るが早いか、飛びついてくる人影。勢いに押されて、私はその場に尻餅をつくようにへたり込んだ。
背中に回された腕が、ぎゅっと私を抱き締める。
ふわりと漂う彼女の香りが、鼻腔をくすぐった。
「ももか・・・」
驚きと、喜びと、安堵と、当惑。あらゆる感情が入り乱れて、一瞬言葉を失う。
「ゆり・・・よかった・・・もう、会えない、かと、思った・・・」
頬を擦り寄せて泣きじゃくる彼女を宥めるように、彼女の背中を撫でる。
「突然、街が、こんなことに、なって・・・それって、プリキュアが負けた、ってことだ、って、思ったから・・・」
途切れ途切れに、彼女が言う。同じプリキュアの仲間と薫子さんを除けば、彼女は私がプリキュアであることを知っている唯一の人間だ。
「・・・怖かった」
掠れた声を絞り出すように、彼女はぽつりと言った。
「・・・ごめんなさい」
私は彼女の髪を撫でた。普段ならもっと艶やかで柔らかな筈のそれは、砂のせいなのか、少しごわごわした感触をしている。
「私が不甲斐ないから、こんなことになって。あなたにも、こんなに心配させて」
「・・・ううん」
彼女は小さく首を振って、
「・・・会えたから・・・・・・いい」
私を抱く腕に力を込めて、吐息混じりにそう言った。
―――私にはまだ、護るべきものがある。
制服越しに伝わる彼女の温もりと、胸の奥に沸々と湧き上がるもの。
それらが、一度は冷え切った私の体に熱を与える。
「・・・これから、どうするの?」
やっとのことで泣き止んだ彼女が、私の顔を覗き込みながら問う。
「・・・勿論。敵のアジトに、殴り込みに行くのよ」
答える私の声は、自分でも驚くほどしっかりしていた。
「こんなふざけたことをされて、黙っていられるもんですか。ここまで踏みつけにされて泣き寝入りする程、私はお人好しじゃないわよ」
彼女の頬に残る涙を指で拭って、小さく笑ってみせる。
強がりではなく、本当に。
「・・・意外。ゆりの口から、殴り込みとか出てくるなんて」
彼女もつられて笑う。
「そういうの、嫌い?」
「ううん」
彼女はかぶりを振って、
「なんか、格好いい」
再び私の頬に自分の頬を重ね、私をぎゅっと抱き締めた。
応えるように、私も彼女を抱き締める。
「ねぇ。もう・・・すぐに、行っちゃう?」
やがて腕を緩めて、彼女が問うた。
「そうね・・・あまり悠長なことはしていられないわ」
「・・・そう」
私が答えると、彼女は苦笑して、ゆっくりと体を離し。
「じゃあ、せめて」
自分の制服のリボンタイを解くと、私の左手を取り、ゆっくりとした動作でそのタイを私の手首に巻き付け、結んだ。
「私の代わりに、連れて行って」
何の足しにもならないだろうけど、と言って、彼女は少し寂しげに微笑む。
「そんなこと。・・・たぶん、今の私に一番必要なものだわ」
ありがとう、と。
いつになく素直に、私はそう言うことができた。
「じゃあ」
私は彼女に倣って、自分の胸のリボンタイを解く。
「私も、これを置いていくわ」
手を差し伸べると、彼女は小さく首を振った。
怪訝に眉を顰める私に、
「・・・なんか、やだ。形見みたいで」
彼女は渋々、小さな声でそう答えた。
「・・・勝手に殺さないで頂戴」
そんなつもりは毛頭無いから、と、私は小さく溜息をつき、手を伸ばして、引っ込められた彼女の左手を取った。
「この辺りも、デザートデビルがうろついているから」
「デザ・・・あの、頭がいっぱいある化け物のこと?」
彼女の手首にタイを巻き付けながら、私は頷く。
「本当は、傍にいて、護ってあげたいけど」
タイを結び終えると、彼女は不安げに私の顔を見上げた。
「必ず取り戻すから。あなたの家族も、私の家族も。学校も、街の人たちも、あなたが輝く舞台も、全部」
私は今にも泣き出しそうな彼女の頬に手を添えて、
「だから、気をつけて。ここで、待ってて?」
彼女の額に、そっと、口づけ。
彼女が頷くのを見届けて、私は立ち上がった。
続いて立ち上がろうとする彼女の手を引いて、二人で制服の砂を払う。
うおぉぉぉぉんんっ!
と、この世のものとは思えない、咆哮が辺りを揺るがした。
「うわぁっ!」
「きゃーーーーっ!」
現れたデザートデビルに、集まった人々は恐慌状態に陥り、一斉に温室へと走る。
ももかも、小さく息を呑む。
「・・・とりあえず、アレだけは片付けて行くから。安心して」
そう言って、駆け出そうとする私の手を、彼女が掴んだ。
「ゆりっ!」
名を呼ばれるのと、振り返るのと、ほぼ同時に、
「っ―――」
彼女の唇が、私のそれを塞ぐ。
「やっぱ、でこちゅーじゃ、物足りなくって」
呆気にとられた私に、彼女は悪戯っ子のように笑ったかと思うと、
「気をつけて」
神妙な顔でそう言って、左手首のリボンタイに軽く口づけてみせ、軽やかに踵を返して温室の方へと駈けだした。
―――つくづく。彼女には、敵わない。
いくら折れない心があったって、『世界』なんて漠然としたもののために頑張れる筈がない。
けど。
「プリキュア・オープンマイハート!」
護りたい人が、この胸にいれば。
この手に取り戻したいものがあれば。
やり直すことができる。
たぶん、何度でも。
《fin.》
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