チョコレート狂騒曲
その日は朝から、何もかもがいつもとは違っていた。
午前八時。
「おはようございます」
この時間はまだ校内の清掃活動をしている筈のれいかが、二年二組の教室の扉を開けて入ってきた。
教卓の正面、脚を組んでやよいの机に腰掛けていたあかねが振り返り、
「おはようさん。何や、れいか、今日はえらい早い……な……」
挨拶と同時に、固まった。
「れいかちゃん……どうしたの、それ」
やよいは目を見開いて、れいかの抱えた荷物を凝視する。
「それが。いつものように清掃活動をしていたら、一年生が次々にやってきて、この通り」
掃除どころではなくなりました、と苦笑して、れいかは両手に抱えた荷物を自分の机の天板に置いた。
荷物の内訳は、美しく包装され、リボンをかけられた小箱が四つ。
今日の日付は、二月十四日。
所謂、聖バレンタインデー。
「学校にお菓子を持ち込むのはどうかと思ったのですが、皆さんとても真剣な様子でしたので、無碍に断るわけにもいかなくて」
そう言いながら、れいかは小箱を一つ一つ、丁寧に鞄にしまった。
「れいかちゃん……凄いね」
「ああ……ちょっと予想外やったな」
ぼそぼそと言葉を交わしながら、やよいとあかねは、クラス内の空気が少し変わったのを感じた。主に、男子生徒達の。
がらがらっ
「おはよっ、みんな!」
サッカー部の朝練を終えたなおが、元気よく教室に入ってきた。同じく、きれいにラッピングされた小箱を幾つも抱えて。
「おはようさん。……こっちはまあ、予想通りやな」
「……だね」
二人はさして驚きもせず顔を見合わせて頷き合った。
「おはようございます、なお」
「おはよ、れいか。やー、参ったよ」
隣の席で普段通りに挨拶をするれいかに、なおは少し高めのテンションで応えながら、抱えた荷物を机の上に置いた。色とりどりの小箱に袋、合わせて五個。
「学校にお菓子、って、よくないのは分かってるけど。ごめん、今日だけは見逃して」
チョコレートを鞄の中に手早く収めながら、なお。
「ええ。私も、今日は仕方ないと思いますよ」
そう答えるれいかの事情をまだ知らないなおは、サンキュ、と単純に感謝して微笑んだ。
「……なあ、やよい。この教室、めっちゃバッドエナジー感じんねんけど。気のせいとちゃうよな?」
「うん……私もそう思う」
二人は教室の後ろにたむろする男子生徒の群れをちらりと盗み見て、溜息をつく。
Ding-Dong, Ding-Dong
「セーーフっ! だよね!?」
チャイムと同時に駆け込んできたみゆきは、この時点で完全に話題に乗り遅れたのだった。
* * *
「……考えてみれば、さ」
いつものように五人揃って、中庭の東屋でのランチタイム。
「なおちゃんとれいかちゃんって、七中の五大スターのうちの二人だもん。当然っていえば当然だよね」
やよいはそう言って、唐揚げを一つ、口に入れた。
「七中の、五大スター?」
厚焼き卵をフォークに突き刺して、みゆきが首を傾げる。
「三年の元生徒会長、入江先輩。同じく三年の、男子バスケのキャプテンだった人……名前は忘れたけど。二年は、今の生徒会長のれいかちゃん、女子サッカーのエースのなおちゃん。それから、一年の男子サッカーの桐谷くんってコが、カッコいいって評判だよ」
「へぇ……そうなんだ」
つらつらと説明するやよいに、卵焼きを頬張りながら感心するみゆき。
「ああ、あの一年のコね。あたしも見たことあるけど、確かにいい動きしてたよ」
カッコいい云々とは無関係なコメントをするなお。
「ホンマよう知っとんな、やよい。一体どこでそんなネタ仕入れんねん」
焼きそばをちゅるっと飲み込んで、あかね。
「クラスとかで、結構みんな噂してるよ? 私、ほかの人が話してることに聞き耳たてちゃう癖があるから」
自然と耳に入って来ちゃうんだ、と、やよいは微苦笑しながらそう言った。
「そんなこと言われてもなぁ……」
眉をハの字にして、困惑した表情を浮かべるなお。
「スター扱いするより、『先輩と一緒にプレーがしたいです!』って言って、サッカー部に入ってくれた方が嬉しいんだけどな」
うち本当にメンバーかつかつでさ、と、五人の中で一番大きな弁当をいち早く食べ終わった彼女は、弁当箱の包みをきゅっと結びながらボヤいた。
「クラスの男子どもには聞かせられへん台詞やな、ホンマ」
「……緑川先輩!」
苦笑するあかねの背後から、不意に呼ぶ声がして。
五人が一斉に振り返ると、一年生と思しき女子生徒が四、五人、緊張した面持ちで立っていた。
用件は、一目瞭然。
「ほれほれ。早よ行ったりや、みどりかわせーんぱい!」
「うるさいな。わかってるよ」
そう言って冷やかすあかねを軽く睨め付け、なおは弁当箱を置いてゆっくりと立ち上がり、訪問者の元へと歩み寄った。
「……入江会長やなおは、ともかく」
黒塗りの弁当箱に塗り箸を収めながら、れいか。
「そこに何故私の名前が挙がるのでしょうか」
理解に苦しみます、と、小さく溜息をついて。
「容姿端麗、成績優秀。誰にでも優しい生徒会長。スターでなかったら何やっちゅうねん」
本気でそんなことを言うれいかに、あかねは半ば呆れたようにツッコんで、
「去年は副会長で一年やったから、騒がれへんかっただけやがな」
最後の一切れのチャーシューを頬張って、ごちそうさんでした、と手を合わせた。
「あの……実は、私も」
最後のプチトマトを飲み込んで、やよいは弁当袋とは別の紙袋を開いた。
「作ってきたんだけど。みんなに、いつもありがと、ってことで」
出てきたのは、一人分ずつ透明な袋に色とりどりの細いリボンで丁寧にラッピングされた、チョコレートのシフォンケーキ。
「お。サンキュ!」
「わ。ありがとう!」
まずは、あかねとみゆきに一つずつ。
「すごいね、やよいちゃん……お店のケーキみたいだよ」
きめの整った断面に、ふわふわ極上の柔らかさのケーキは、やよいの隠れた女子力の高さを雄弁に物語っている。
「こんなの作るの、大変だったんじゃない?」
「まあ、ね。でも、食べて貰う人のこと考えながら作るのって、結構楽しいんだ。去年は、作っても貰ってくれる人がいなかったし」
みゆきのベタ褒めに、やよいは少しの照れと、少しの苦笑いを混ぜて、
「だからね、こうしてプレゼントできる人がたくさんいて、今年はウルトラハッピーだよ?」
けれど満足そうに、そう答えた。
「あれ? やよい、去年ウチに作ってくれたやん……おお? もしかして、ウチだけに作ってくれたとか?」
「…………そう、だよ……他にあげられる友達がいなかっただけ、だけど」
あかねの冷やかしを、やよいは複雑な表情ではぐらかす。
「れいかちゃんも、良かったら。もうこういうの、うんざりかもしれないけど」
「いいえ」
そのやよいがおずおずと差し出したケーキの包みを、れいかは両手で丁寧に受け取って。
「やよいさんのお気持ちですから。とても嬉しいですよ?」
ありがとうございます、と、柔らかく微笑んだ。
「……ただ、私の全く存じ上げない、私のことをよくご存じの筈もない方からの好意というのは、いったいどういう風に受け止めればいいのか―――」
「……あのっ」
れいかの溜息を遮るように、背後から声がして。
振り返ると、一年生と思しき女子生徒が二人、緊張した面持ちで立っていた。
「お食事中にすみません、あの、青木会長に―――」
「もう終わりましたから、大丈夫ですよ。何でしょう?」
『青木会長』は、す、と優雅な動作で立ち上がり、ちょっと失礼します、と仲間達に断って、訪問者たちの方へと歩み寄った。
「……五大スター、な。そんなんが仲間内に二人もいる、っちゅうのも、凄い話やで」
「ほんと、すごいね、二人とも。大人気だね」
青木会長の元には更に何人かの女子生徒が近付いて来るのが見えるし、振り向けば先刻呼び出されていったなおの周囲にはもう人垣ができていた。
「あの。日野先輩!」
また、不意に背後から呼ぶ声がして。
振り返ると、これも一年生と思しき女子生徒が一人、紙袋を手に立っている。
「ん、何や? ウチにもチョコくれるんかいな」
「はいっ」
「な!? ちょ、ホンマに!?」
冗談めかした問いを極上スマイルと元気な返事で肯定されて、あかねは危うくベンチから転げ落ちそうになった。
「あ、初めまして、あたし、バスケ部の池田アヤっていいます! バレー部の練習、いつも隣から見てます! えっと……その……頑張ってください!」
一大決心で発せられたであろう言葉と深い一礼とともに、紙袋が差し出される。よく見れば、ショートヘアの間から覗く耳たぶが、真っ赤になっていた。
「……そんなん言われたら、めっちゃ頑張ってまうやん」
おおきにな、と、照れくさそうに破顔して、あかねは紙袋を受け取った。
バスケ少女は、勇気がそこで尽きてしまったのか、ありがとうございました、と一言言うと、踵を返して猛ダッシュで走り去っていった。
その背中を、呆然と見送るあかね。
あかねの反応を、固唾を呑んで見守るみゆきとやよい。
「……別に、カッコつけたいから頑張ってるわけやない、けど」
そう言って振り向いたあかねは、
「やっぱ。自分が頑張ってんのをちゃぁんと見てくれてるモンがおる、ちゅうのは、嬉しいもんやな」
とても嬉しそうに、少し照れくさそうに、穏やかに微笑んでいた。
―――結局。
昼休みだけで、なおが八個、れいかが六個のチョコレートを追加で獲得し、二人とも鞄に入り切らなくなるという事態が発生。
二年二組には、ますます男子たちのバッドエナジーが充満する結果となった。
その後:なおとれいかの場合 あかねとみゆきの場合 やよいの場合
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