日曜日はあなたと
きんこーん
酷く金属的で無機質な呼び出し音。
私は基本的に彼女の全部が好きだけど、月影家のこのチャイムの音だけはなかなか好きになれない。
ほどなく、がちゃり、と錠が開く音がして、
「いらっしゃい」
彼女が出迎えてくれる。
「ごめんねー、休みの日なのに」
「私は別にいいけど。ももかの方こそ、いいの? 学校も仕事もが休みの日なんて珍しいでしょ。てっきり遊びに行きたいって言うかと思ったけど」
彼女はそう言いながら、私が靴を脱いで揃えるのを待って、玄関にほど近い自分の部屋へと通してくれる。部屋の真ん中に小さな座卓と座布団が2枚セッティングされていて、勉強会の準備万端といった風だ。
「大丈夫。私はゆりと一緒に過ごせるだけでYeah! めっちゃハッピーホリデー★だから」
「ももか・・・勉強しに来たのよね?」
彼女は眼鏡をくいっと上げながら、眉間に皺を寄せて言った。
ああ、折角の美人が台無し。・・・そうさせてるのは私だけど。
「もちろん」
私は真剣に頷いた。
「試験はまだ先だけど、直前に勉強できるとは限らないし、ね。この間みたいなことはもうこりごりよ」
テスト期間中仕事ができない分の皺寄せは、その前後にやってくる。かくして、前回の試験で私は、試験前に仕事の予定が詰まる→勉強ができない→テストで惨敗→追試の嵐→仕事できない期間が延びる→終わってから仕事ラッシュ―――という無間地獄に嵌った。
辛かったんだから。ほんとに。仕事が忙しくて彼女には会えないし、たまに会えたと思ったら勉強でビシビシしごかれるばっかりで、ちゅーどころかぎゅーもキャッキャウフフもお預けだし。
「・・・そう。なら、いいわ」
彼女が入り口に近い方の座布団へ陣取ったので、私はその斜向かいに腰を下ろした。
「日曜の真っ昼間から邪なこと考えてるようなら、私も付き合い方を考え直さなきゃいけないかと思ったけど」
「あ。じゃあ、真っ昼間じゃなかったらOK?」
「・・・私、急用を思い出したの。悪いけど帰ってくれる?」
「ごめんなさい真面目にやります勉強したいです数学教えてください」
慌ててテーブルに額を擦りつけてお願いすると、彼女は軽く溜息をついて、それから小さく笑った。
「で。数学の、何?」
んん、そんな優しい顔されたら俄然やる気がでちゃう。
「数Bのね、指数関数のとこ、いちばん最初の授業休んじゃったから、次に学校出てきたときにはもう先に進んでて何が何だかさっぱり」
私は、教科書と、宿題になっている問題集の真っ白なページを開いた。
「じゃあ、本当に一番最初からいくわね」
そう言って彼女はノートの白いページに「x2」と書いた。
「『指数』というのは、この肩の小さい『2』を指す用語ね。じゃあ、2の2乗は?」
「4」
22=2×2=4
私が答えると、彼女はノートにさらさらと数式を書き留めた。
「2の3乗は?」
「8」
23=2×2×2=8
彼女のシャープペンシルが、紙の上を滑らかに走る。シルバーの、いかにも機能的なデザインのそれは、彼女にとても似合っているといつも思う。
「じゃあ、2の10乗」
「えーっと・・・・・・・・・」
210=2×2×2×2×2×2×2×2×2×2=
私が必死に計算している間に、彼女はそこまで書き上げて、
「1024?」
「正解」
最後に答えを書き足した。
「ももか、今、どうやって計算した?」
「どう、って・・・2を10回掛けようと思ったら、23×23=64、これで6つでしょ?あと4つ、22×22=16。で、64×16=1024」
「はい、よくできました。流石ももか、話が早いわ」
大したことないことだとは分かっていても、彼女にそんな風にさらっと褒められると嬉しくなる。
「今ももかがやったのは、2を10回掛けるのに、6回と4回に分けて掛け算したのよね。つまり、こういう計算をしたってこと」
210=26×24=26+4
「あー。何か授業で見たことある気がする」
「そう。これが、教科書のここ、『指数法則』のこれね」
am・an=am+n
彼女はそう言って、私の教科書に手を伸ばしてくるっと丸をする。
「ふんふん?」
「それから、さっきの計算、こういう方法もあるの。2を10回掛けようと思ったら、2×2のペアが5つ、と考えて、(2×2)の5乗。つまり」
(2×2)5=(22)5=210
「これが、ここの、これ」
(am)n =am・n
彼女はまた、私の教科書にくるっと丸をする。
「どう?」
「うん、わかった・・・と、思う」
「じゃ、このページの練習問題やってみて」
「はーい」
私はすっかりやる気でシャーペンをノックしたけれど、そういう時に限って芯がない、というのはお約束。しかも、筆入れを開けてみて初めて、昨夜えりかが私の部屋にやってきて私の替芯をケースごと持って行ったことを思い出した。
「ごめん、ゆり、芯ちょうだい」
彼女は仕方ないわね、という顔をして、自分の筆入れからプラスチックのケースを取り出し、手渡してくれた。
「・・・『F』?」
ちょっと、これは予想外。
「見たことはあるけど、使ってる人って初めて見たかも」
「そう? だって、HBやHじゃ、普通すぎて面白くないでしょ」
彼女はくすりと笑って、悪戯ぽくそう言った。
「そんな理由?」
「それもあるけど。一番は固さかしらね。柔らかいのは好きじゃないけど、Hじゃ固すぎるし」
言われてみれば、彼女には柔らかい芯より固い芯の方が似合っている気がする。
「ところで、Fってどういう意味?」
私はケースから芯を一本取り出して、自分のシャーペンに入れた。
「『firm』のF。固い、とか、しっかりしてる、とか・・・あ、もう一本取っていいわよ」
「ほんと? ごめん、ありがと」
「一本じゃ足りないぐらいビシビシやるから」
「えーっ」
しまった、と思った時にはもう二本目を頂戴した後だった。
「はい、じゃあ、さっさと解いて。先は長いわよ」
「・・・はーい」
してやったり、という風に微笑む彼女に、私は素直に従った。
(2時間15分経過)
「・・・で、両方の底を揃えたら、2-x>21.5になるでしょ?」
うん、綺麗に揃ってるよね。ゆりの爪。もう一寸伸ばして手入れしたらすごい綺麗だと思う。
「y=2-xのグラフはこういう曲線で、右下がりだから」
うん、カーブが綺麗だよね。
「yが21.5より大きくなるxの範囲は、ここ」
甘皮の処理するだけでもずいぶん違うんだけどな。
「x=-1.5よりこっち側になるわけだから・・・ももか?」
「・・・んー?」
彼女はいきなり私の頬をむにっとつまんだ。
「・・・聞いてる?」
「・・・きいひぇる」
「で。ちゃんと頭に入ってる?」
「じぇんじぇんはいっひぇない・・・ほみぇんなひゃい」
「もう。仕方ないわね」
正直に言うと、彼女は意外にすんなりと許してくれた。
「ま、いいわ。ここは来週やるかやらないかのところだし、無理に今できるようにならなくても」
「えーっ!」
私はばたりと後ろに倒れて床に転がった。
「ダマされた・・・宿題だと思って必死にやってたのに・・・」
「人聞きの悪い。最後の方は全然必死じゃなかったじゃない。予習できたんだから良かったでしょ?」
彼女は涼しい顔で私の非難をさらりと受け流した。
「うー」
集中が切れた途端、いろいろな欲求が私の中で頭をもたげる。
「・・・お腹すいた」
「乾パンならあるわよ」
・・・非常食ですか。
「やだーもうちょっと愛情のこもったものがいいー」
「ももか・・・」
子どものように駄々をこねる私に、苦笑する彼女。
「そうだ、手料理! ゆりの手料理食べたいー」
私は芋虫のようにごろごろと彼女の傍まで転がって、
「・・・だめ?」
上目遣いにおねだりをしてみた。
彼女は小さく溜息をつき、
「・・・パスタでいい?」
そう言ってふいと微笑むと、ゆっくりと立ち上がった。
「マジで!? ほんとに作ってくれるの!?」
私も飛び起きて、キッチンへと向かう彼女の後についていく。
「あり合わせで作るから、大した物はできないわよ?」
「ゆりの作る物なら絶対美味しいに決まってる」
「・・・あまりプレッシャーかけないで」
彼女は苦笑しながら、ダイニングの椅子の背に掛けられていたエプロンを手に取ると、さっと身につけ、ポケットからゴムを取り出してその真っ直ぐな黒髪を後ろで束ねた。
きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!
何その新妻スタイル!
うなじがステキ!
ちょっと、私萌え死にそうなんですけど!
「ももか」
鍋に水を張って火に掛け、塩を入れたところで、彼女はこちらを振り返った。
「今から私、刃物と火を使うから、そこで大人しくしてて。間違っても後ろから抱きついたりしないで頂戴」
むむっ。ゆりってば、もしかしてエスパー?
「・・・はーい」
釘を刺されてしまったので、私は大人しくテーブルについて待っていることにした。
何かを洗うような水音がしたかと思うと、包丁がまな板をとんとんと小気味よく叩く音が聞こえてくる。テンポは凄く速い。
それから、麺を茹でつつ、切った食材を炒めにかかる。
普段全く料理をしない私にも、彼女の手際が素晴らしく良い、ということは分かった。うちのお母さんなんかは、料理してる最中はもっと右往左往したり冷蔵庫をばたばた開け閉めしたりと忙しないし、一つ一つの動きもこんなに手早くない。
・・・まったく。どこまで完璧超人なんだろう、この人ってば。
あ、いい匂いしてきた。これって、
「ナポリタン?」
「ええ」
彼女はフライパンを揺すりながら、ちらりとこちらを見た。
その流し目に思わずどきりとする。
「違うのがよかった?」
「ううん。大好き」
私がそう答えると、彼女は流し目のままふわりと微笑んだ。
・・・うん、好き。
すごく好き。
自分でも持て余しちゃうくらい、好き。
彼女の後ろ姿を眺めながら、頬杖をついて、暫くそんなことをぐるぐると頭の中で巡らせる。
「ももか」
と、彼女の呼ぶ声が私を正気に戻した。
「ごめん、お皿出してくれる?」
「あ、うん」
言われて私は、食器棚から丁度よさそうな大きさの皿を二枚取り出してカウンターに並べた。そこに、彼女の手で出来たてのナポリタンが盛られてゆく。
「おおー。すごーい!」
パスタもだけど、トングを操る姿まで決まってる彼女がね。
「それからフォークとスプーン、そこの引き出しから取って、テーブルで待ってて」
「はーい」
言われた通りにテーブルで待っていると、彼女が料理を運んできた。
しかもスープ付き。
「こっちはインスタントで悪いけど」
エプロンを外しながら、彼女。
「あと、うちにはタバスコとか粉チーズとか、置いてなくて」
「ううん、無くても平気。・・・凄い。美味しそう。感動的!」
私の差し向かいに座った彼女は、大げさね、と苦笑した。
とりあえず合掌・いただきますをして、最初の一口。
「んーっ! おいひい! 最高!」
「・・・残り物でそんなに絶賛されると、何だか恐縮するわね」
残り物、と彼女は言うけれど、これは立派な「喫茶店のナポリタン」。強いて言うなら、ベーコンとかじゃなくてあらびきウインナーを小さく切って入れてあるところに、あり合わせで作りました感が出てるかな。
「そこがいいんじゃない。冷蔵庫にある物で絶品愛情手料理。ザッツ・恋人のステイタス!」
「・・・食べながらそんなに喋ってたら、服にケチャップ散るわよ」
あ。赤くなった。
「はーい」
素っ気ない物言いは、照れ隠し、だよね。
あんまりからかってご機嫌を損ねるのは本意ではないので、私は暫し黙ってナポリタンを堪能することにした。
ぱんっ!
合掌。
「ごちそうさまでしたー」
小学生よろしくそう言うと、私が食べ終わるのを見計らっていたかのように、目の前にマグカップが差し出される。中身は、淹れたての少し濃いめの紅茶。
「あ。ありがと」
「ミルク持ってくるから、一寸待ってて」
彼女はそう言って、私の皿を下げると、牛乳のパックと自分の分のマグを持って戻ってきた。
お先にどうぞ、と言われて、私はパックの牛乳を勢いよくマグの紅茶に注いだ。こうすれば、スプーンで掻き回さなくても十分だから。
「ん。今日も美味し」
彼女の家で飲むこのノンシュガーのミルクティーの味を覚えてからは、缶やペットボトルのミルクティーは何だか薬臭くて甘ったるいばかりで、飲む気がしなくなった。
「ももか、何を出しても美味しか言わないわね」
品のある仕草で紅茶を口にしながら、彼女が苦笑する。
「美味しくない物は美味しいとは言わないよ?」
私はマグカップの中身を半分ほど飲み干し、頬杖をついて彼女の顔をじっと見つめた。
「・・・何?」
「んー・・・なんか、ね」
頬杖はそのままに、私は彼女の方へ片手を伸べる。
「いいな、と思って」
求めに応じるように、彼女が自分の手を重ねた。
彼女の手は、私のそれよりも少しだけ冷たい。
「何が?」
紅茶をすすりながら、彼女が短く問う。
「・・・いつもは、さ。ほんのちょっとの時間しか一緒にいられないじゃない?」
私はその手を捉え、テーブルの上に組み敷いた
「だから、こんな風に、勉強して、食事して、お茶飲んで、って、普通のことをなんでも一緒にやって、二人でいるのが当たり前みたいに過ごせて」
彼女の華奢な指に、自分のそれを絡め、弄ぶ。
「そういうのって、いいな、と思って」
彼女の手は、逃げようともせず、私のするがままに任せている。
「・・・そうね」
柔らかに、彼女は微笑んだ。
学校では―――他の人のいる前では滅多に見せない表情。
私にはよく見せてくれる、のだけど。
「日曜日がいつもこんなだったらいいのに」
「・・・そうね」
また。『そうね』って。
「それだけ?」
もう一寸何かコメントしてくれても罰は当たらないと思う。
彼女は、何のこと?という風に首を傾げた。
「ゆり、私が何言っても『そうね』しか言わない」
「・・・そう?」
『ね』が取れただけじゃん!
「うん」
私は溜息をついて窓の外を見た。陽は西に傾いて、辺りをオレンジ色に染めている。時計の針は、もう夕刻。小学生はおうちに帰る時間だ。
「・・・そろそろ、帰らなきゃ、ダメかな。お母様も、そろそろ帰って来られるでしょ」
彼女のお母様は駅の売店で働いている。シフトによっては夜まで仕事があるけれど、今日は昼間ずっと不在だった。ということは、私達が二人きりでいられる時間もそろそろ終わりということで。
「ああ。母なら、今日は帰らないわよ」
彼女はさらりと言った。あまりにもさらりと言うものだから、
「・・・え?」
私は反応が一瞬遅れた。
「母の従姉にあたる人が事故で入院してね、今朝から泊まりがけでお見舞いに行ってるのよ。遠方だし、私は一度も会ったことのない人だから、私はついて行かなかったの。学校もあるし、ね」
呆気にとられる私に、彼女は淡々とそう言って、軽く頬杖をつき。
「・・・だから、今日は、この家に、私一人だけ」
口角だけを上げて、微笑んだ。
その表情が、とても妖艶に見えて。
眼鏡越しに私に向けられる視線が、意味深に思えて。
―――もしかして、私は。
誘惑されている?
そう考えるだけで、体の奥が熱くなる。
「明日の夕方まで、ね」
―――いや。
彼女の言葉はただ、事実を述べているだけ。
過剰に期待すれば、落胆に変わるのが落ちだ。
きっと、私の気のせい。そう自分に言い聞かせる。
「・・・で。ももかは、そろそろ帰るのね?」
その口調は、どこか挑発的で。
気のせい、なんかじゃない。
明らかに、確信犯。
「・・・家に電話する。OK出たら、ってか、絶対OK貰うから。泊めてくれる?」
速くなる呼吸を辛うじて抑えながら、私はそう言った。
「いいの? 明日は学校よ?」
揶揄するような視線と口調で、彼女。
「大丈夫。鞄と制服、えりかに届けさせる」
「・・・仕方ないわね」
彼女がくすりと笑う。
その表情は、私には酷く蠱惑的に映った。
―――私達の日曜日はまだ、終わらない。
《fin.》
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