ストイック・プリンセス
ノーブル学園 学生寮 寮則(抜粋)
第二十一条 体調不良者の扱い
寮生が体調不良を訴えたときは、状況によって次のような措置をとるものとする。
一、安静・休養によって回復が見込まれるときは、休養室で休養するものとする。寮職員は、昼夜を問わず、体調不良者を常時観察し、必要な処置を行う。
二、寮生本人が医師の受診を希望した場合、又は寮職員がその必要があると判断した場合は、保護者の了承を得て、学校医の診察を受けることができる。
knock-knock-knock-knock
それなりの音量でノックされる、休養室のドア。
中からの返事は、ない。
knock-knock-knock-knock
もう一度、ノック。
やはり返事は、ない。
だが、天ノ川きららが現在休養室で休んでいることと、彼女の他に体調不良者がいないことは分かっていたので、紅城トワは構わず−−−とはいっても、場所柄を考えて静かに−−−扉を開けた。
室内は薄暗く、一見すると無人のように思われた。ただ、よく見れば天井の常夜灯だけは灯されているし、ベッドの上の布団はちょうど人間一人分の大きさに盛り上がっている。トワはそっと室内に入ると、できる限り音をたてないように注意深く扉を閉め、
「……きらら?」
布団の塊に向かって、ごく小さな声で、ルームメイトの名を呼んだ。
返事はない。ただ、布団の橋から少しだけ頭が覗いているのが見えたので、そこにきららが居るのは間違いなかった。顔はすっぽりと隠れていて、眠っているのか起きているのか、そこまでは分からない。
トワは部屋の端にあった木製の椅子をベッドサイドに運ぶと、そこに腰を下ろし、持参した文庫を開いた。部屋は暗かったが、廊下から漏れ来る光と常夜灯のおかげで、なんとか文字を読むことができそうだ。彼女は長い脚を組み、背もたれにゆったりと凭れて、文庫の活字を追い始めた。
……ぱらり
やがて、ページを繰る微かな音。
再び降りる、沈黙。
……ぱらり
また、ページを繰る微かな音。
訪れる、沈黙。
……ぱらり
「……あーーーーーー! もう!」
ベッドの上の布団が突然がばり、と捲れ、きららが姿を現した。トワにとっては見慣れた、いつものパジャマ。彼女の豊かな長い髪は、いつものツインテールではなく、左の肩から前へと流され、一本の緩やかな三つ編みに纏められている。
「あら。ごめんなさい、起こしてしまいました?」
トワは開いたページからきららへと視線を移すと、のんびりとした口調でそう言った。悪びれた様子は、欠片ほどもない。
「別に。ずっと起きてたもん」
不機嫌そうに答えるきららに、
「そう」
それならよかったわ、と。
トワは全く動じることなく、華やかに微笑んだ。
「……とりあえず、電気つけて」
額に手を当て、前髪を無造作に掻きあげながら、きらら。
「お易いご用ですわ」
「〜〜〜っっ! あたしのためじゃなくって! トワっちの目のため! んな暗いところで本なんか読んでたら目ェ悪くなるっしょ!?」
ゆっくりと立ち上がり、ふふ、と笑って応えるトワに、きららは気の強い小型犬の如く喧々と吠えた。
ぱちん、と音がして、天井灯がともり。
「きらら。思ったより、元気そうですのね」
「……あのねぇ」
安心しましたわ、と、柔らかに言うトワに、きららは毒気を抜かれたように脱力した。
「病人が部屋真っ暗にして返事もせずに寝てたら、遠慮して入ってこないっしょ、ふつう」
「そうですの?」
再び椅子に腰を下ろし、きょとん、として首を傾げるトワ。
「そうなの! ……あー、もう……」
彼女にこの世界の「普通」を要求するのがそもそも間違いだと、今更気付いたきららは、がっくりと肩を落とし、諦めたように再び枕に頭を預けた。
「ああ。……もしかして、私、お邪魔でしたかしら?」
はたと気付いたようにトワが言うと、きららは口ごもりながら、別にそういうわけじゃない、と呟いた。
「あー! ほんと、ヤんなっちゃうったら!」
「……そんなに、辛いんですの?」
いささか荒れ模様のきららの態度に、トワは軽く眉を顰め、心配そうにその手をきららへと伸ばす。
「辛い、っていうか……あ。トワっちの手、冷たくて気持ちいい」
「きららの顔が熱いだけですわ」
熱を持った額にそっと触れる掌の感触に、思わず目を閉じれば、きららの荒んでいた気持ちも不思議と鎮まった。
「……なんていうの? 自分が、嫌。すっごく」
そして、少しずつ。自分の思いを、吐露する。
「じぶんで自分が、許せない、っていうか、さ」
ぽろぽろ、ぽろぽろ。
瘡蓋が、剥がれるように。
「何か、ありましたの? そんな、自分が許せないほどの、大きな失敗が?」
きららの額に載せた掌はそのままに、首を傾げるトワ。
「そんなんじゃ……ううん、やっぱ、失敗だね、これ。体調崩して、熱出しちゃったの」
「そんなことはありませんわ。いかなる人間も、病原体の前では等しく無力だと、最近読んだ本にも書いてありましたし」
「……ちょ、トワっち。いったい、どんな本読んでんのよ」
重々しく、真顔でそう言うトワに、きららは思わず吹き出した。
そしてひとしきり、喉の奥でくつくつと笑ってから、深い呼吸を一つして。
「……うん。でも、やっぱ、あたしにとって、体調崩すってのは、大失敗なんだよね」
目を閉じて、そう言った。
トワは反論しない。きららの次の言葉を、辛抱強く、待つ。
「ちっちゃい頃−−−キッズモデルやってた時に、ね。他のモデルの子たちが、よく休んでたわけよ。熱出したとか、水疱瘡になったとかいってさ。そしたら、急に予定が変更になったりして、スタッフさんとか、すごいバタバタしてんの。それ見ながら、子供心にも、『モデルが病気で休むと、ほかの人にすごい迷惑かかるんだ』って思ってた」
目を閉じたまま、ゆっくりと語る、きらら。瞼の裏に広がるのは、幼い頃の情景なのだろう。
「大人はみんな、『子供だから仕方ない』っていってたけど、あたしには関係ないって思ってた。だって、あたしは『キッズモデル』になりたいんじゃない。『トップモデル』になるんだから、ってね」
「……きらららしい、ですわ」
ふ、と、トワが小さく破顔する。
「んでも、あるとき、あたしも風邪、ひいちゃって。でも、みんなに迷惑かけたくないから、無理して、我慢して、ずっと黙ってて。とうとう肺炎になっちゃってさ」
「まあ……ハイエン、て、大変な病気ですのよね?」
前に読んだ本に書いてありましたわ、と、トワは眉を顰めた。勉強家の彼女は、この世界のことを知ろうと、ありとあらゆる種類の本を片っ端から読んでいる。
「うん。軽く死にかけた」
戯けた風で、へへ、と笑うきらら。
「で、しばらく入院しなきゃいけなくなって」
一転、苦しげに眉を顰める。
「……そしたら、あたしだけじゃなくて、ステラまで、ずいぶん長いこと仕事休ませちゃった。大事なショーがあったのに、ドタキャンして、あたしに付き添ってくれて。そのせいで、これだから子持ちはダメだ、とか、随分酷いことも言われたっぽい。……ま、ステラはあーいう人だから、あたしにはそんなこと、絶対言わないけど」
きららはそう言って、黙り込んだ。
トワは何も言わず、指先でそっと、きららの頬にかかる髪を払う。
目を閉じたまま暫く黙っていたきららはやがて、深く吸い込んだ息を長く、吐いた。
「……だから。あたし、決めたんだ。あたしは絶対、風邪ひかない。体調崩して仕事に穴あけるなんて、プロ失格だもん。病気して、自分どころかステラにまで仕事休ませるような、あんなこと、もう二度と、絶対しない、って。……それ、なのに」
−−−ほん、っと。やんなっちゃう。
そう言って、腕で目元を隠したきららの声は、少しだけ、震えていた。
ずび、と軽く鼻をすする音がする。
「……きららは」
ゆっくりと、トワが口を開く。
「ほんとうに、真面目ですのね」
きららの頬の熱を吸い取るように、冷えた指の背を押し当てながら。
「自分を厳しく戒め、高みを目指すのは、きららの美徳の一つ、ですけれど」
絹のような、柔らかな声で。
「そんなに自分を追い詰めては、身も心も持ちませんわ。かつてそのことを私に教えたのは、他でもない、あなたたちではありませんか」
「……そーいえば。そうだったね」
きららは懐かしむように呟く。トワが今のトワになったのはつい最近のことの筈なのに、彼女とはもうずっと前から、こんな風に時を共にしていたような、そんな気がした。
「ですから。きららはもっと、自分を甘やかしてもよろしいのではなくて?」
人にばかり言って自分がお留守では駄目ですわ、と、悪戯ぽくトワが笑う。
「えー。難しいこと言わないでよ」
つられて、きららも笑い。
「そんじゃあ、さ。トワっちが甘やかしてよ、あたしのこと」
そう言って、トワの顔を見上げた。
「……そんな、こと」
−−−お易いご用、ですわ。
トワはとびきりに甘い声で、答えて。
とろけるように、微笑んだ。
*
……ぱらり
静かな部屋に、ページを繰る微かな音。
訪れる、沈黙。
……ぱら、り
木製の椅子の背にゆったりと凭れ、長い脚を組んだトワ。
文庫のページを片手で繰る所作が、少し辿々しい。
ベッドからは、微かな寝息。
……ぱらり
活字を追う彼女の、右の指先は、本のページを押さえ。
左手は、ベッドの中。
眠るきららの、その手の上に。
……ぱらり
消灯時刻まで、あともう少し。
それまでは、このままで。
……ぱらり
《fin.》
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