一年ほどの約束で、あすかが教授として勤めている大学に。
「ノーブル学園高等部二年の、海藤みなみと申します。この度はインターンシップの受け入れを快諾くださり、ありがとうございます」
 三年前に海で出逢ったマーメイドが、女子高生になって現れた。


セイレーン


「思ったよりも、大きな船ですね」
 桟橋に立ち、これから乗り込む調査船を見たみなみが言った。彼女の出で立ちは、ライトブルーの繋ぎに、ブライトオレンジの救命胴衣、白いデッキシューズと軍手。さらさらストレートの髪は、一本の三つ編みに纏められている。繋ぎが真新しいことを除けば、一端の調査員だ。
「うん。岸からすぐ近く、っていっても、海の上で夜明かしすることになるからね。あんまり小さいのじゃあ、ちょっと不味いかな、って」
 一方、指導教官の北風あすかはというと、色あせたカーキ色の繋ぎ姿で、尻のポケットに無造作に突っ込んだ軍手も黒ずんでいる。見た目は一介の調査員だが、海洋生物学の世界では世界で名の通った研究者である。ついでに言えば、その変人っぷりでも有名らしい。
「ほんとに地味な調査でびっくり、っていうか、がっかりするかもよ?」
「でも。研究って、そういうものですよね?」
 桟橋から船に乗り移りながら、言葉を交わす二人。
「せっかくのインターンシップなんだし、ほんとは、もうちょっとフィールドワークらしいのに連れてってあげたかったんだけど。大きな船で、底引き網使ったりとか」
「充分です」
 ありがとうございます、と礼を言うみなみの微笑みに、あすかの胸がじくり、と痛んだ。
(本当のことを言ったら、幻滅されるかな)
 みなみに体験させる調査にこれを選んだ理由が、
(二人だけでできる調査がこれしかなかったからだ---なんて)


*    *    *


 河口から一キロほど離れた場所に停泊し、二人は調査の準備を始めた。あすかは甲板をうろうろし、みなみは船倉に所狭しと並べられたコンピュータの画面を睨んでいる。
「どう?」
 甲板から、あすかが覗き込む。
「プログラムは問題なく走ってます……け、ど、ええと、窒素濃度だけ数値が入ってきてません」
 居並ぶ画面を注意深く、素早く確認しながら、みなみが答える。一定のリズムを刻むように、下から上へと、数字の羅列がスクロールしてゆくディスプレイ。一つだけ、「density/nitrogen」と表示されたそれだけ、「error」の文字の行進が続いていた。
「えーっ! もう、しょうがないなぁ……ちょっと待って」
 あすかは船倉へ降りてくると、物入れから何やらケーブルのようなものを引っ張り出し、再び甲板へと上がっていった。
 ほどなくして、エラーを表示していたディスプレイが、数字を刻みはじめる。
「入りました」
「今日の日没って、何時だっけ」
「十八時二十四分です」
「OK、じゃあ、もうすぐだし、もう記録開始しちゃって? データがちゃんと記録できてるのを確認したら、晩ご飯にしよう」 


 みなみが船倉から出てくると、あすかは甲板に胡座をかき、小鍋とアウトドア用のバーナーで湯を沸かしていた。
「すみません。博士に食事の支度、させてしまって」
「博士、はやめてよ。二人きりなんだし」
 あすかでいいよ、と苦笑する彼女の前には、徳用袋入りのロールパンとマーガリン、プラスチックの俎板に乗せられたハムとチーズのブロックに、大きめのナイフ。二つ並んだステンレスのマグカップには、それぞれ使い捨てのコーヒードリップが一つずつ乗っている。
「それに、支度、ってほどのもんでもないし、さ。ただ並べただけ。あとはセルフでどうぞ。ハムとチーズはお好みで、パンに挟んでも、別々に食べても。……あ」
 小鍋の熱湯を二人分のドリップに注いだところで、あすかははたと手を止めた。
「ごめん、何も聞かずにコーヒー淹れちゃった。砂糖もミルクもないんだけど、大丈夫だったかな」
「ええ。大丈夫です」
 ブラックでいただきます、と。あすかの差し向かいに腰を下ろしながら、みなみが答える。胡座ではなく、正座を少し崩した横座りで。
「そういえば、船酔いは大丈夫? 気持ち悪くない?」
 淹れたてのコーヒーからふわりと立ち上る、芳香と白い湯気。
「はい、船には乗り慣れてますから。もっと小さくて揺れる船だと、酔うかもしれませんけど」
「……みなみちゃんて、さあ」
 マグカップを手渡しながら、あすか。
「ほんとに高校生?」
「……そんなに幼く見えますか? 私」
 両手でカップを受け取ったみなみが、心外だ、という風に小さく眉を顰める。
「いや、逆、逆。……高校二年っていうからさ、正直、もっと役に立たないと思ってたんだよね」
 あすかはナイフを手に取り、ブロックのハムとチーズを薄く削り取ると、二つに割ったロールパンの間に挟んだ。
「でも、さ。今日だって、大して何も教えてないのに、機械のエラーチェックとかプログラムの動作確認とか、ちゃんとできてたし」
「それは。文字で書いてありますから、誰でもわかります」
 みなみは軽く恐縮しながらそう言うと、あすかに倣って、ナイフでハムとチーズを削る。
「それがそうでもないんだってば。それに、船酔いもしないし、ブラックコーヒー無理とか文句言ったりしないし。こないだなんか、国際電話の取り次ぎまでしてくれたでしょ。ほんと、下手な院生とかよりやふにはふひょ」
「……過大評価しすぎです」
 パンを頬張りながら喋るあすかに、
「後で幻滅するかもしれませんよ?」
 みなみは苦笑混じりにそう言って、ブラックのコーヒーをすすった。


*   *   *


 その後ふたりは、眠気覚ましにコーヒーをすすっては再び持ち場に戻る、を繰り返し、順調にデータやサンプルを収集していた。あすかは甲板で時間帯ごとに各深度の海水サンプル採取、みなみは船倉でコンピュータの監視とサンプルの解析。
 だが、マシントラブルというものは不意に訪れるものである。

 ヴゥ………ン

 深夜十二時、突然、電源が落ちた。
 甲板を照らす作業灯が消え、辺りを暗闇が包む。
「ひぇっっ!?」
 あすかは思わず声を上げた。岸からそう遠くない場所に停泊しているとはいえ、光源の何もない海上である。
「ちょっと、勘弁してよぉ、ほんと」
 危険を伴う作業中でなくて本当に良かった、と胸をなで下ろしつつ、あすかは上を見た。船の存在を周囲に示すマストの標識灯は、生きている。続いて後ろを振り返る。船倉へ続く階段の入り口付近は、真っ暗だった。それは、コンピュータを含め、船倉にある光源が全滅しているということに他ならない。
「あちゃー……これは……データもパーかなぁ」
 絶望的な気持ちになりながら、あすかはポケットから懐中電灯を取り出した。中太マジックほどの小さなLED灯だが、何もないよりはましである。
「みなみちゃーん、大丈夫?」
 船倉の入り口へ近づきながら、あすかはそのよく通る声で呼びかけた。
 返事は、ない。
「……みなみちゃん?」
 電気系統が落ちている今、窓も何もない船倉は文字通り漆黒の闇である。あすかは一抹の不安を覚えつつ、懐中電灯の明かりを階下に向けた。
 LEDの僅かな光に浮かび上がる、救命胴衣のオレンジ。
 ところ狭しと並ぶ機械の間、床に伏した人影。
「みなみちゃん!?」
 あすかは驚き、短い階段を転がるように駆け下りた。
 みなみは床にへたり込み、背中を丸め、両腕で自分の体を抱いてうずくまっている。やはり、返事はない。
「みなみちゃん! 大丈夫!?」
 あすかはみなみの横に跪き、懐中電灯を無造作に床へ投げ出すと、彼女の肩を抱き寄せ、その顔をのぞき込んだ。
「……大丈夫、です」
 絞り出すように、みなみは答えた。
 抱き寄せたその肩は、小刻みに震えている。
「全然大丈夫そうに見えないってば! 船酔い? それとも、転んでどっか打ったりとかした?」
 畳みかけるように尋ねるあすかに、みなみは小さくかぶりを振った。
 床に転がった懐中電灯の光が、俯いたみなみの横顔に陰影を刻む。
「……私……」
 やっと開いた唇から、微かな声が漏れる。
「うん?」
「……暗闇が、駄目なんです……子供の頃から」
 消えそうな声で、彼女は続け、
「克服できた、って、思ってたんです、けど……突然、真っ暗になったら、足がすくんで、動けなくなって」
 やっぱり、駄目でした---と。
 目を伏せたまま、苦しげに、自嘲する。
「……ん。そっか」
 あすかは安堵したように深く息を吐き、みなみの肩を抱いていた手を離すと、彼女を正面から抱き締め直した。
「……大丈夫」
 腕に力を込め、しっかりと抱き寄せて、もう一方の掌で、みなみの背中を、肩を、ゆっくりと撫でる。 
「大丈夫、だから」
 みなみの両腕が、おずおずと、あすかの背に縋る。
「……大丈夫」
 音の消えた船倉で、微かな衣擦れの音だけが、ねっとりとした闇を揺らした。
「……あすか、さん」
「うん?」
「ごめんなさい……幻滅、しました?」
 暫くあって、少し落ち着きを取り戻したみなみが、あすかの胸元に額を押し当てたまま、問うた。
「幻滅? どうして?」 
 肩を撫でる手を止め、あすかが問い返す。
「役に立つ、って。折角、誉めて貰ったのに」
「……ああ」
 あすかは先刻の会話を思い出した。みなみが懼れていたのはこれだったのかと、少し得心がいく。
「暗いところが怖い、なんて。子供みたいで」
 可笑しいですよね、と、自嘲するみなみ。
「そんなこと、ないよ」
 あすかは軽い口調で答えて、みなみの頭を撫で。
「駄目なとことか、弱点とか。ちょっとくらいあった方が、いいんじゃない? 人間らしくて、さ」 
「……そう、ですか」
 弱々しく答えるみなみに、
「そうだよ。あたしなんて」
 頷いて、その髪に頬を埋めた。
「料理できないし、書類の締め切りとか守れないし、寝相も悪いし、おみやげとか選ぶセンス最悪でいっつも怒られるし」
「……それ、ちょっと違う気がしますけど」
「そうかな」
「そうですよ」
 互いの顔は見えないが、互いに相手が笑っているだろうということは察しがついた。
「それじゃあ。私の弱点、知られてしまったついでに、もう一つ。白状しますね」
 いつもの調子を少し取り戻したみなみが、悪戯ぽく続ける。
「ほんとは私、ブラックコーヒー、苦手なんです」
「え。そうなの!?」
 その衝撃は思いの外大きかったようで、あすかはみなみを抱く腕をはっと弛め、その顔をのぞき込んだ。
「ちょ。それだったら、言ってくれれば、ミネラルウォーターそのまま飲めばいい話だし、眠気覚ましとかいってあんなガブガブ飲ませたりしなかったのに」
 なんでそんな遠慮すんのさ、と眉を顰めるあすかに、
「……遠慮、なんかじゃ、なくて」
 みなみは少し逡巡して、
「子供扱い、されたくなかったから、です。あすかさんには」
 伏し目がちに、
「ちゃんと、大人として。私を、みてほしかったから」
 苦笑混じりに、そう言った。
「------『みなみ』」
 不意に、あすかの右手が、みなみの頬に触れる。
「……あたしは、みなみを子供だなんて思ったこと、ないよ」
 左手が、もう一方の頬を包み。
 ゆっくりと、上を向かせた。
「そう思えたら、どんなに楽だったか」
 みなみの目が、驚きに見開かれる。いつも飄々としているあすかの、こんなにも切羽詰まった表情をみたのは初めてだった。
「出会ったときから、ずっと」
 あすかの顔が、近づく。みなみはゆるりと目を閉じた。
 ほんの一瞬、唇が触れあう。
「……初めて、ですね」
 頬を包むあすかの手に自分の手を重ね、うっとりと、みなみが呟く。
「呼び捨てで、呼んでくれたの」
「ずっと、自分に言い聞かせてたからね。みなみ『ちゃん』はまだ子ど……ティーンエイジャーだ、手を出しちゃダメだ、って。でなきゃ」
 あすかはそう言って、再び口吻けた。先刻よりも長く、
「、んっ------」
 深く。
「……ほら。こんな風に、歯止めがきかなくなっちゃう」
 唇を離し、力なく、苦く、あすかが笑う。
「だから、みなみちゃん。逃げるなら、今のうちだよ」
 みなみは、ゆるりと目を閉じると、
「……構いません」
 あすかの手にぎゅっと頬を押し当て。
「『みなみちゃん』じゃなくて。ひとりの大人として、私を、扱ってください」
 そう言って、あすかの目を見た。
「……言ったね。後悔しても」
 知らないから、と呟いて。
 みなみが答えより先に、唇を塞いだ。
「っ、ん------」
 性急な舌の動きにあわせて、みなみの肩が小さく跳ね、喉が鳴る。
 あすかは左腕で彼女の背中を抱き込んだ。応えるように、あすかの背中に回されたみなみの両手が、洗い晒しの繋ぎを掴む。
 撫で上げられる口蓋が。擦れる歯茎が、絡まる舌が、熱い。
「は、っ------」
 唇が離れると、ふたり、水の中で息継ぎをするように、切羽詰まった息をして。
「……これ、邪魔だね」
 取っちゃおう、と、あすかはみなみのライフジャケットを剥ぎ取りにかかった。
「……いいんですか?」
「いいよ。船室内だし、船泊まってるし」
 少し心配げなみなみをよそに、あすかは手際よくバックルを外し、
「大丈夫、船が揺れるほど激しいこと、しないから」
 へらりと笑ったのは一瞬。
「! そっ------っ」
 抗議の声もろとも、みなみの唇を塞いで、前のめりに倒れ込んだ。



 懐中電灯の、仄暗い光の中。
「あすか------さ、」
 みなみの瞳が、夜の水面のように、揺れる。
「……みなみ」
 名を呼べば、すぅ、と、愛おしげに細められる、双眸。
 白い腕が、あすかの首へと伸べられる。
(------ああ)
 セイレーン------人間の美女の上半身に魚の下半身を持った、神話世界の海の魔物。その美しい歌声で、海を征く数多の船乗りたちを魅了し、惑わせ、破滅へと導いた、半人半魚の妖婦。
(これは、確かに)
「------ぁ------さん」
 妖しくも甘美なその誘惑に溺れた船乗りの気持ちが、
(負けちゃう……かも)
 今ならば、理解できる。
 乱れた呼吸の合間に漏れる、みなみの声を聞きながら、あすかはぼんやりと、そう思った。

《fin.》



  


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