Shut Your Dream
ワンス・イン・ア・ブルー・ムーン、水母の骨、優曇華(うどんげ)の花。
洋の東西を問わず、珍しい希なことを例える表現はいろいろあるが。
knock-knock
出勤の支度を整えた北風あすかが、早朝、まだ眠っているみなみの寝室のドアを控えめにノックする。これも中々に珍しい光景だった。まず、あすかの方がみなみよりも先に起きていること、しかも食事も着替えも済ませているなど、そうそうあることではない。そして何より、二人が寝所を異にしているということがそもそも滅多にないことである。
knock-knock
もう一度、極力小さな音でノックをする。
返事は、ない。
「みなみ?」
そっとドアを開け、隙間から呼びかけてみる。
やはり返事はない。
あすかは静かに部屋の中へと身を滑り込ませ、忍び足で、ベッドの枕元へと近付いた。
「……」
そして、無言のまま少し屈み込んで、みなみの寝顔を窺い見る。顔色を見るには少々光が足りなかったが、少なくとも苦しげな様子は見えない。すこぶる穏やかな寝顔である。耳を澄ませば、小さな寝息が聞こえる。特に速くもなければ、乱れてもいない。
「ちょっと、失礼……」
小声で一応断って、右手でみなみの額に触れる。普段と比べれば少し熱いが、昨夜ほど酷くはないようだった。
「んん……」
もぞもぞと、みなみが寝返りを打つ。
あすかは慌てて手を引っ込めた。
「……」
再び、規則正しい寝息。
みなみの具合を見て、行ってきます、の声をかけてから出かけようと思って来てみたものの、安らかな眠りを邪魔するのはどうにも憚られ、あすかは暫しその場に立ち尽くす。ちら、と時計を確認し、結局このまま黙って出かけることに決めて、踵を返した、その時。
「……はるか……」
みなみの声が聞こえて、あすかの体が動きを止めた。
そして、もう一度みなみの方を振り返る。先刻と何ら変わらず、一定のリズムで上下するブランケット。彼女が目を覚ます気配はない。
みなみが口にした言葉に、あすかは覚えがあった。
ハルノ・ハルカ。みなみが通っていた全寮制の学園で出会った、彼女の一つ下の後輩の名。彼女が学園での思い出を語るとき、その名を懐かしげに、そしてとても愛おしげに口にするのを、何度も聞かされ。その度毎に、あすかは何か言いしれぬ焦燥感を覚えるのだった。
そして、今。その焦燥感はいつにも増して強烈にあすかを苛む。
あすかは再び、みなみの顔を覗き込んだ。穏やかで、そして、幸福そうな------この世の幸福を全て集めたような、寝顔。その安らかさとは裏腹に、あすかの中で昏(くら)い感情が頭をもたげる。
彼女を、夢の世界から引き摺り戻せ------何かが、頭の中でそう命じるのが聞こえて。
あすかは、眠るみなみに口吻けた。
「---------っ」
いきなり舌を捻じ込む、強引なキス。咥内の熱さに、彼女が病人であることが脳裏を過ぎったのはほんの一瞬。そんなことは関係ないとばかりに、舌の根を深く絡める。
「------、っふ------」
唇を食み、また舌を添わせる、その合間に、苦しげな息遣い。
みなみの指先が、あすかのシャツの腕を握り締めた。
「ぁ------さ、んっ、」
逃れようと左右に振られる首を抱き込んで、抗議の言葉に無理矢理蓋をする。重ねた唇の間から漏れる湿った音に、高まる欲望。このまま滅茶苦茶に抱いてしまいたい衝動をどうにか抑えて、あすかはようやく彼女を解放した。
「……もうっ! これじゃ、別々に寝た意味がないじゃない、ですかっ」
枕に頭を預けたまま、肩で息をしながら、呆れたように言うみなみ。
「……ん。そだね」
その瞳が自分を------自分だけを、映していることを確かめて、あすかは安堵する。
「そうだね、じゃありません。伝染ったらどうするんですか」
そう言ってみなみが吐いた溜息は、まだ熱っぽさを帯びていた。
「そしたら。みなみが看病してくれるんだよね?」
「その時に私の風邪が治ってたら、前向きに検討します」
少しむっとしたように、みなみ。
あすかは、手厳しいなぁ、と苦笑して。
「だって。みなみの寝顔があんまし可愛いからさ、つい」
そう言って、彼女の顔を覗き込み、自分の額を彼女のそれに重ねた。
「……どうしたんですか」
不意に、みなみが問う。
「何か、ありました?」
あすかの心臓が跳ねる。
「……なんで?」
さぁっ、と、頭から血の気が引く音が聞こえる気がした。
「何か。あったように、見える?」
あすかは努めて平静を装い、そう問い返す。
「いえ。何となく、ですけど」
何でもないならいいんです、と、みなみは表情を和らげた。
「……ほんと。鋭いなぁ、みなみは」
あすかは観念したように苦笑して、
「ちょっと、嫌な夢、みちゃってさ」
そして、少しだけ、本当のことを白状する。
実際は夢ではなく、妄想のようなものだけれど。
「みなみを、他の人に取られちゃう夢」
「……そんなの」
みなみは少し困ったように柔らかな微苦笑を浮かべ、手を伸ばしてあすかの頬に触れた。
「ただの、夢。ですよ」
いつも、あすかの突飛な言動に振り回されては機嫌を損ね、けれど結局最後には絆されて全てを赦す。そういうとき、彼女は決まってこういう表情をした。
「私は、どこにも行きませんから」
あすかの中で持て余すほどの愛おしさが、涙になって溢れそうになる。自分にこんなウエットな感情があることに、あすかは彼女と出会って初めて気付かされた。
「……うん」
それから、自分とは無縁だと思っていた、嫉妬や執着、独占欲といった昏い感情を、人並みに持ち合わせていることに。
「まだ。少し、熱いね」
あすかは、頬に触れていた指をみなみの首筋へと這わせた。
「脈も、ちょっと速い」
くすぐったそうに、みなみが肩を竦める。
「お医者さんみたい」
「お医者さんだってば」
海獣のだけどね、とあすかは付け加えた。
「その割には感染症に対する危機感が薄くていらっしゃるようですが」
「あーあー聞こえなーい」
普段と変わらない軽口の応酬に、気持ちが少し軽くなる。
くすくすと、お互いに笑いあって。
「……そろそろ、出かけなきゃ」
あすかはちらりと時計を見た。
「なるべく、早く帰ってくるから」
そして、みなみの額に軽く口づけ。
行ってらっしゃい、という彼女に見送られて、寝室をあとにした。
車に乗り込みながら、
(帰りに、何か買ってこよう------何がいいかな)
まだ出勤もしていないというのに、あすかはもう帰りのことを考えていた。
(美味しくて風邪にいいもの------フルーツとか、かな)
大切な彼女のために------そして、彼女の幸せな夢をぶち壊した、罪滅ぼしに。
そんなことを思いながら、北風あすかは車のキーを回した。
《fin.》
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