「今日の撮影、キャンセルになっちゃったんだよね」
「そう」
 よかったわね、って言っていいのかしら。
 昼休みの中庭で私が切り出すと、ゆりは文庫本から一瞬だけ視線を上げ、そう言ってまた文庫本へと視線を戻した。薄い、薄いリアクション。一リットルの水に、角砂糖を一個だけ溶かしたみたいな。
 ……ま、そこがいいんだけどね。
 素っ気なさの中にある微かな甘さ、私だけに分かればいい。
「うん。最近ずーっとスケジュール詰まってたし、ラッキー、って感じ? ……あー、たまには放課後に制服デートとかしてみたいなー」 
 うん、と伸びをしながら、宙に向かって私がボヤくと、
「いいわよ」
 隣から、合いの手みたいに、彼女の声がした。
「えっ」
 嘘。
「マジで?」
「ええ」
 涼しい横顔で、ゆり。
「ほんとに? だって、前一回大騒ぎになって、もうこりごりって感じだったじゃん?」
 ちょっと名前が売れてしまった私は、うっかり街を歩けば、声をかけられ、写真を撮られ、野次馬に囲まれる。だから、放課後制服デートなんて夢のまた夢。ただちょっと願望を口にしてみただけ、なんだけど。
「大丈夫」
 彼女は文庫本をぱたんと閉じると、
「人目につかなければ、いいのでしょう?」
 ほんの少しだけ−−−たぶん、慣れない人では分からないくらい、ちょっとだけ−−−口角を上げて、自信たっぷりに微笑んだ。


Secret Garden


 放課後、掃除当番を終えて教室に戻ると、ゆりは例によって文庫本を読みながら待っていた。
「お待たせ」
 なんて言ってみたけど、この時を待ちに待ってたのはたぶん私の方。楽しみすぎて、午後の授業はまるっきり頭に入ってこなかったくらい。そんなことうっかり喋ったら放課後デートが緊急勉強会に変わりそうだから、絶対言わないけど。
「で。どこ行くの?」
「まだ内緒」
「えー」
 校門を出ても、ゆりはまだ、私をどこに連れて行ってくれるのかは教えてくれなかった。どこに向かっているのかわからないまま、私は彼女について歩く。
「この道……駅の方?」
「ええ」
 彼女は短く答えて、
「今にわかるわ」 
 少し悪戯ぽい微笑みを浮かべた。
 彼女の足は、駅前の賑やかな繁華街へ向かう道を逸れ、高架をくぐって駅裏の方へと向かい。
 大小のビルが並ぶ通りから、細い路地へと入った。民家や電柱やゴミステーションがごちゃごちゃと並ぶ小さな通りは、歩道もなければセンターラインも引いてなくて、車一台がやっとの感じ。
「着いたわ」
 と、彼女は一軒の店の前で立ち止まった。
「……これって」
 濃緑の蔦の葉の間から覗く赤煉瓦の壁に、チョコレート色の木の扉。ドアと同じ色の枠のガラス窓から見える店内の明かりは、暖かなオレンジ。入り口に置かれた看板には、流れるような字体で『Secret Garden』。
「カフェ?」
 女子高生には、ちょっと敷居の高い。
「っていうより、喫茶店かしら」
 昔ながらのね、と彼女は小さく笑い、ドアの取っ手に手を掛けた。ちりん、と軽やかな鈴の音がして、重そうな扉が開く。
 コーヒーのいい香りがして。
 最初に目に飛び込んでくるのは、マホガニー色のカウンター。たくさん並んだ丸いガラスの器具は、たぶんコーヒーを淹れるのに使うやつ。どうやって使うのかわかんないけど。そしてそのカウンターの向こうには、黒ベストにネクタイ、銀縁眼鏡にロマンスグレーの優しそうな小父さまが一人。
「やあ。ゆりちゃん、久しぶり。いらっしゃい」
「ご無沙汰しています」
 あら、いい声……って。
 え?
 まさかの顔パス?
「お友達と一緒かい?」
「ええ」
 と、面食らってるところに話を振られたもんだから、
「え、あ、はいっ、く、来海ももかですっ」
 うっかり自分から名乗っちゃって。
 しまった、と思ったけど、
「いらっしゃい。ごゆっくり」
 おじさまはそう言って、にっこり笑っただけだった。
 店内のお客は他に、ハンチング帽に白い髭のお爺さまが一人いるだけ。ゆりは店の一番奥のテーブルを選ぶと、奥側の椅子に腰を下ろした。お店に入る時、彼女はいつもそうやって、私が入り口に背を向けて座れるようにしてくれる。
「もう。お忍びの人が名乗っちゃ駄目でしょう」
「あー、うん、そだね。ゆりの知り合いなら、名乗らないと失礼かな、って思っちゃって。つい」
 少し呆れたように言う彼女に、私が正直に答えると、
「……ももからしいわね。ま、この店なら大丈夫だと思うけど」
 彼女はそう言っていつもの微苦笑を浮かべた。
「それよ、それ。吃驚した、ゆりってば、なんかすごい常連さんみたいなんだもん」
「気に入って、貰えたかしら」
 ふふ、と笑ってそう言う彼女の、伺うような視線に。
「うん。すごく」
 頷いて答えると、彼女はよかった、と安堵の笑みをこぼした。
「じゃあ、何か注文しましょうか」
 そして、テーブルの端に立ててあった縦長のメニューを手に取ると、革のハードカバーを開いて、私の方へ向けてくれる。
「うー……ん、」
 コーヒーだけで一ページ、紅茶で一ページ、街中のチェーンのカフェでは見たことないような単語ばかり。たまーにブルーマウンテンとかダージリンとか、聞いたことあるようなのも出てくるから、豆の種類とか茶葉の種類だってことは分かるけど、正直さっぱり。
「わかんないや。何かおすすめの、ある?」
 モデル仲間や事務所の人が相手なら、知ったかぶりで適当に頼んじゃうとこだけど、ここは素直に彼女に頼る。
「そうね」
 彼女はメニューに視線を落とし、少し考えて。
「ももかの好きそうなのっていったら、この辺りかしらね」
 紅茶のページを指さした。整った、綺麗な指先が示すのは、『セイロン・ハイグロウン』という見出しの下にある『ヌワラエリヤ』の文字。
 ……うーん。やっぱ、何のことかさっぱりわかんないぞ。
「ん。じゃ、それ」
「甘いものは?」
 彼女の手が、ページをめくった。今度は、フルーツジュースと、私もよく知ってるようなスイーツの名前が並んでいる。
「おすすめは?」
「ワッフル」
「じゃ、それ」
「自分で選ばなくていいの?」
 スイーツの名前くらいさすがに分かるでしょ、と苦笑するゆり。
「初めてのお店では、慣れた人の言うこと聞くもんでしょ。それに」
 私はテーブルに頬杖をついて、
「折角ゆりがエスコートしてくれるんだもん。乗っからなきゃ」
 彼女の顔をのぞき込んだ。
「……そう。そういうことなら」
 彼女は少し安心したように、愉快そうに微笑むと、無言で小さく手を挙げ、カウンターに向かって目配せをする。
「ヌワラエリヤのミルクティーと、コロンビア。それから、ワッフルとホットケーキをお願いします」
 水の入ったグラスを運んできたロマンスグレーの小父さまは、メモも取らずに頷きながらオーダーを聞いて、はいよ、とカジュアルに微笑んだ。
 ……ほんと、顔馴染みなんだなぁ。チェーンのカフェじゃ、どんなに通い詰めたって、こんな風にはいかないもんね。
 オーダーが済んで一段落すると、店のBGMが耳に入ってくる。たぶんクラシック、モーツァルトとかバッハとか、そのへんの感じ。どこから流れてるんだろうと思って辺りを見回すと、カウンターの中の壁面にスピーカーとデッキが収めてあった。ちょっと古くて木目調の、すっごい高そうなやつ。
「落ち着かない?」
 きょろきょろしている私を見て、ゆりが尋ねる。
「ううん、すっごい落ち着く」
 シックな色の内装や年期の入ったファニチャー、ちょっと暗めの照明。全体的に古めかしいからか、なんだか時間の流れが止まってるみたい。
「お待ち遠様」
 そうこうしているうちに、店主の小父さまがオーダーしたものを運んで来た。
「ヌワラエリヤと、コロンビアね。ワッフルはどちらかな」
「あっ、はいっ」
 私が小さく手を挙げて答えると、小父さまは無言で微笑んでワッフルを私の前に、パンケーキをゆりの前に置いた。……あ、『パンケーキ』じゃなくて『ホットケーキ』か。
「ごゆっくり」
 ミルクピッチャーと、ナイフにフォークに、シロップ。全てをテーブルの上に置くと、小父さまは銀縁眼鏡の奥で微笑み、そう言ってまたカウンターの奥へと戻っていった。
「どうぞ」
「じゃあ。いただきます」
 ゆりの短い言葉に促されて、私はティーカップに手をかける。紅茶の銘柄とか全然わかんないけど、なんか色も普通のティーバッグの紅茶とは違う気がする。なんていうか、艶のある感じ? 
「いい香り」
 顔を近づけるだけで、ふわりと香る。
 ゆりお薦めの紅茶、まずはストレートで一口。
「わ、え、紅茶ってこんな香りするんだ」
 ミルクを入れて、もう一口。
「……美味しい」
 渋みがまろやかになって、でも香りは負けてなくて。
「当たり、だったかしら」
 伺うような視線を投げる彼女に、
「うん、当たり当たり、超好み!」
 そう答えると、彼女はよかった、と笑んでコーヒーを一口流し込んだ。
 どうしよう。なんか、ニヤニヤが止まらない。
「……何?」
 カップ越しに、少し怪訝そうな顔でゆりが問う。
「ん。好きな人が自分の好みを分かってくれてるのって、すごい嬉しいな、って思って」
 私が言うと、彼女はんぐ、と何か言いかけて軽く噎せた。
「……そういうこと、こんな所で言わないで頂戴」
「えー。仲良し女子高生の、微笑ましいフツーの会話じゃん?」
「もう」
 彼女は軽く眉根を寄せて、照れ隠しのようにまた一口、コーヒーを流す。
 ……そういえば、
「ところで。そのコーヒー、いつも頼やつ?」
 あの小父さま、ワッフルはどっち、って聞いたけど、飲み物は何も聞かずに当たり前みたいに置いていったよね。
「ええ」
「なんていうの、それ」
「コロンビア」
「一口ちょうだい」
「どうぞ」
 お言葉に甘えて、差し出されたソーサーからカップを手に取る。
 うわ、ブラックだ、これ。
「……ふんふん。なるほど」
 一口すすって、丁重にカップをお返しする。
「どう?」
「んー。わかんない」
「……」
 あ、今ゆり、心の中でずっこけた。ポーカーフェイスは崩してないけど、内心、カクッて、コントみたいに。
「や、だってさ。撮影の時にはそこらへんのカフェのカプチーノとかキャラメルマキアートとか買ってもらって飲むけど、豆の種類なんか考えたことないもん」
 私がちょっと拗ねてそう言うと、
「まあ、私も本当はよく分からないんだけど」
 彼女はくすりと笑い、
「これだって、飲みやすいから、って以外に大した理由はないのよ」
 軽く肩をすくめてそう言うと、また一口、コーヒーを流した。
 ……うん、やっぱ、絵になるなぁ。
 レトロな喫茶店でコーヒーを飲む姿が絵になる女子高生、月影ゆり。
「ところで、私の紅茶、なんて名前だっけ」
「ヌワラエリヤ」
「ヌラワエリりゃ?」
「言えてないわよ」
「もー、なんでそんなややこしい名前なの。日本語? それ」
 私はぶーたれながらメニューに手を伸ばして、
「そんな訳ないでしょ。産地はスリランカ」
 紅茶のページを開いて、文字で確認した。
「あ、そっか。メモしとこ」
 それから手帳を出してメモをする。カレンダーの今日の日付、午後行くはずだった撮影の予定を線で消した、その下に。
「そこまでしなくても」
 微苦笑する彼女。
「だって。ゆりのおすすめだし」
 −−−貴女に関わるものなら、どんな小さなことでも。
「ちゃんと覚えときたいもん」
 なんて、ね。恥ずかしいから、全部は言わないけど。
「……そんなに気に入られると恐縮するわ」
 割と適当に薦めたのよ、と、ゆりは眼鏡の真ん中を指でくいっと押し上げた。何かばつの悪いことがある時、そうやって眼鏡を直すのが彼女の癖だ。
「いーの。直感、ってことでしょ」
「その上に書いてある、ウヴァとかディンブラっていうのでもよかったのよ」
「じゃ、次来たときそれにする」
 また連れてきてくれるよね? って、手帳を閉じて訊くと。
 彼女はそうね、と、小さく破顔した。
「……さて。じゃ、そろそろこっちにいっちゃおうかな」
 テーブルに視線を戻して、ワッフルと対面する。レトロな喫茶店に似合いのシンプルなそれは、ちょこんと乗っかったバターが少し溶けかけてて、美味しそう。彼女の前には、ホットケーキ。パンケーキじゃなくて、ホットケーキ。これまたシンプルに、バターが乗ってるだけ。
「ゆりはホットケーキなんだ?」
 一緒じゃないんだ、って、ちょっと寂しさを覚えたのは一瞬。
「ええ。ももかなら、両方食べたいって言うかと思って」
 半分ずつどう? って。
 ホットケーキを切り分けながら小さく首を傾げる彼女に見蕩れて。
「やった」
 ああ……ほんと、
「さっすがゆり。分かってるぅ」
 このひとのこと、好きなんだわ。私。



 店を出て、私たちは元きた道を歩いて戻る。賑やかな繁華街から外れたところだけあって、通勤ラッシュの時間でも人通りはまばら、すれ違うのは犬の散歩してる小父さんかスーパー帰りのママチャリくらい。
「いいお店だったね……って、ゆりには行きつけのお店だっけ」
「まあ、ね。でも、気に入って貰えてよかったわ。正直、ちょっと心配だったのよ」
 古くさい店だし、と苦笑するゆり。
「レトロ、って言おうよ。そこ」
 軽くツッコんで、私も笑う。
「私、さ。今、公式プロフィールの好きな飲み物『キャラメルマキアート』って書いてるんだけど。書き換えちゃおうかな、ヌワラエリりゃに」
「……せめて、ちゃんと言えるようになってからの方がよくないかしら」
 他愛のない話をしながら、ゆっくりと、歩いて。
「『ヌらわエリヤ』?」
「『ヌ・ワ・ラ・エリ・ヤ』」
 次の交差点で、私たちは分かれる。私は右へ、彼女は直進。
「『ヌ・ワ・ラ・エリ・ヤ』?」
「よくできました」
 あと、十メートル。
「よし。絶対覚える」
「そのやる気、英語と数学にも回してほしいわね」
 五メートル。
「む……善処します」
 ゼロ。
 二人同時に、足を止めて。
「……家まで。送っていくわ」
 私が口を開くより先に、彼女はそう言って、右の道−−−私の家のある方へと足を踏み出した。滅多にないことだけど、ふたりで出かけて夕暮れ道を帰るとき、彼女は必ずこうして私を家まで送り届けてくれる。今日はまだ明るいし、人通りもない訳じゃないから、
「え。いいの?」
「折角だから。最後までエスコートさせて頂戴」
 期待してなかったぶん、ちょっとしたサプライズ。
「やった。超嬉しい!」
「大袈裟ね」
 もう暫く、一緒にいられる。そのことを素直に喜んで、私は彼女の申し出に甘えた。

 ……とはいえ、元々歩いていける距離のこと。フェアリードロップ−−−−私の家までたどり着くのに、そう時間はかからなかった。
「今日は、ありがと」
 店の前で立ち止まり、体ごとゆりの方に向き直る。
「制服デート、楽しかった」
 私がそう言うと、柔らかく微笑んだ彼女は、
「……今日のあの、店は」
 いつものようにまた明日、とあっさり踵を返す代わりに、ぽつぽつと話しはじめた。
「子どもの頃、よく行ってたの。元々、父の行きつけの店で、父に連れられて」
 −−−ああ。
 そうか。
「けど、近頃、少し足が遠のいてて。そうなると、ちょっと敷居が高くて」
 これを言うために、ゆりはここまで来たんだ。
 わざわざ、遠回りして。
「……だから。今日は、付き合ってくれて」
 ありがとう、と。
 そう言ってほろ苦く微笑む彼女を、
「ゆり−−−」
 私は思わず、抱き締めた。
「っ、ちょ、っと、ももか、」
 戸惑う彼女。大丈夫、この程度のスキンシップ、女子高生なら普通にあるあるだから。
「ありがと。そんな大事な場所に、私を連れてってくれて」
 彼女の肩に顎を載せて、耳元で囁くと、
「……ん」
 彼女は短く答えて、手のひらで、私のジャケットの背に触れた。
「また、連れてってくれる?」
「……勿論」
 短いけど、十分な答えに満足して、私は彼女を抱く腕を緩めた。
「……やっぱ、私」
 そしてふと、思いついたことを口にする。
「プロフィール書き換えるの、やめるわ」
「どうしたの? 急に」
 きょとん、とした顔で、別にどっちでもいいと思うけど、と彼女。
 うん。ゆりはもう少し、モデルとしての私の仕事にも興味を示そうね?
「ん。ただ、ね。私が本当に好きなものなんて、ゆりだけが知ってればいいことだし、って思って」
 私がそう言うと、
「……そう」
 彼女は眼鏡の弦を指で押し上げながら、素っ気なく答えた。
「……それじゃ、私はそろそろ失礼するわ」
 あー、照れてる照れてる。
 パッと見、普通の人には照れてるってわからないと思うけど。
「ん。じゃ、また明日ね」
 私がひらひらと手を振ると、彼女は僅かに口角を上げて微笑み、くるりと踵を返して歩き始めた。そうして四軒向こうの角を曲がるほんの一瞬、見送る私と目が合った気がして。
 彼女の姿は夕暮れの向こうに消えていった。


 私の好きなのがキャラメルマキアートじゃなくてミルクティーだってことも、彼女の思い出の店のことも、私が紅茶の名前を未だにちゃんと言えないことも。
 なにもかも全部、しまっておこう。
 彼女と私の、秘密の花園に。


《fin.》

  


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