春と夏の狭間の、とある週末。 学校は、休み。 撮影も、ない。 両親は、不在。 おまけに妹まで、お隣の親友宅にお泊まり、とくれば。 私は速攻で、ゆりに電話をした。 眠りの底から浮き上がって、最初に気付いたのは、窓の外から時折聞こえてくる、ばしゃばしゃ、と、車が水を跳ねる音。ああ、外は雨なんだな、って、目を閉じたまま、ぼんやりと思う。 目を開けると、カーテン越しに差し込む光が、室内の闇をずいぶんと薄めていた。見上げた壁の時計は、七時ちょっと過ぎを指している。せっかく朝寝坊できるチャンスなのに、思ったより早く目が覚めてしまったのは、ちょっと勿体ない気がした。 ―――左半身が、温かい。 うっすらと目を開ければ、彼女がぴったりと寄り添って、寝息をたてている。寝顔は、隠れてちょっとしか見えない。一度意識してしまうと、左の胸元にかかる彼女の寝息がくすぐったく感じられた。 もっと、ちゃんと、両手でぎゅっと抱き締めたいけど、左腕には微妙に彼女の頭が乗っていて、動かしたら起こしちゃいそう。 彼女の頭にそっと頬を擦り寄せれば、私と同じシャンプーの香り。 ・・・つまんない。 彼女の家に泊まった時は、彼女の髪も枕も、彼女のシャンプーの香りがするけれど、自分の家で、自分のベッドだと、残念ながらその楽しみがない。・・・ま、昨日からさんざっぱらいちゃいちゃしまくっといて、楽しみがない、も無いもんだけどね。 携帯のアラームじゃなく、自然に目が覚めて、彼女が傍にいて、温もりを感じて―――これって、最高の幸せじゃない? 文句なんか言ったら、罰が当たるよね、絶対。 空いている右手で、私は彼女の髪に触れた。彼女が自分でいつもそうしているように、横顔にかかる髪を、耳の後ろへ流す。 艶やかな、彼女の髪。 一房摘んで、指にくるくると巻き付けてみた。摘んだ手を放すと、しゅる、と解けて落ちる。 腰が強くて、真っ直ぐで、変な癖がなくて。まるで、彼女自身みたい。 髪質って、その人を表すの? だとしたら、私は? ―――すごい癖があって、なかなか真っ直ぐにならない。けど、意外と扱い易かったりして。 ・・・結構、当たってる、かな。 「う・・・ん」 そんなことを思っていると、鼻に掛かった声を漏らして、彼女が身じろいだ。 あー、起こしちゃった? 「ふ・・・」 髪を弄る手を止めて様子を見ていると、彼女は深い呼吸を一つし、私の左胸に顔を埋めるようにして、再び眠りの中に落ちていった。 「う」 ・・・こっ・・・ これは・・・ ちょっと・・・ かなり・・・ ・・・凄いかも! 二人きりで朝を迎えるのは初めてじゃないけど、よく考えたら、たいてい彼女の方が先に起きてるし。私が先に目を覚ましても、私が動いたらすぐ目を覚ましちゃうし、そうでなかったら、悪い夢みてうなされてるし。こんな、蕩けたような無防備な寝顔を見るのって、もしかしたら、初めてかも。 「・・・ゆり?」 「・・・んん・・・」 試しに、そっと名前を呼べば、もぞり、と身じろいで、返事ともつかない返事を返す。やっぱり、起きない。 余程、疲れてる? ・・・そりゃ、ま、そうよ、ね。やっぱり。 宵の口―――お風呂のあたりから、ずっと・・だもんね。 起こすのは、少し可哀想、かな。 だけど、もう一寸、寝顔がよく見てみたくて。 彼女の顔に掛かる髪を、指先で払い、流すように、撫で付ける。 額から、こめかみ。耳朶の、後ろを辿って、うなじへ。 「ん・・・」 彼女はくすぐったそうに軽く首をすくめて、私の肌に頬を擦り寄せた。 その仕草が可愛くて、もう一度、指先を耳朶の周りで遊ばせれば、 「・・・ももか・・・くすぐったい」 長い睫の間で、見上げる瞳が光る。 先刻の可愛い仕草は見られなかったけど、起こさないように、と思う必要がなくなったので、私は両手でちゃんと、ぎゅっと、彼女を抱き締めた。 「おはよ」 「・・・お早う」 気怠さを帯びた声で、彼女。 「・・・いま、何時?」 「七時過ぎ」 まだ少し眠そうな目元に口付けながら答えると、彼女は何の感慨もなさそうに、そう、と呟いた。 その声が酷く気怠そうで、ちょっとだけ、罪悪感。 「もうちょっと、寝る?」 尋ねると、ん、と彼女は曖昧に答えて、 「・・・寝ようと思えば、眠れるけど・・・」 そこまで言って、言葉が途切れた。疲れている所為なのか、単に寝起きだからなのか。今朝の彼女は、いつもと比べて、回転が随分ゆったりとしている。ついでに言うと、吐息混じりに囁くような声が、妙に色っぽくて、ぐっと来たり。 「・・・けど?」 こつり、と額を重ねて、続きを促せば、 「・・・なんだか、勿体ない気もするわね」 そう言って、目を細める。 「? 勿体ない、って。何が?」 その真意を量りかねて、そう尋ねたら、 「・・・だって」 彼女は少し照れたように、微笑んだ。 「折角、ももかが、隣にいるのに」 「っ―――」 ―――どうしよう。 すごく、可愛い。 「隣、で、いいの?」 そんなこと、言われたら。 調子に乗っちゃうよ? 「上じゃなくて?」 私は抱き締める腕を少し緩め、体を捻った。そんなに力を入れたわけではないけれど、彼女はいとも簡単に組み敷かれてくれる。 「・・・もう」 少し呆れたように呟く彼女の、微笑みをかたどる唇を軽く食んで、開いた隙間にするりと舌を滑り込ませる。ゆっくりと口内を愛撫すれば、彼女の舌と吐息が、ゆっくりとそれに応えた。 窓の外で、がらがら、と空が鳴る。 「・・・雷?」 キスの合間の呟きに、 「ん。雨も降ってる」 私が軽く答えると、彼女は少しだけ残念そうに、そう、と零した。 「別に、いいけどね。今日はどこにも行かないで、ずっとこうして二人でイチャイチャしてたい」 私は、彼女の頬に自分の頬を重ねて、耳朶を甘く噛んだ。 肩が、ぴくりと跳ねる。 「ゆり以外の人と会うのも、話すのも、面倒くさいし」 「・・・ももかったら」 仕方ないわね、という風に、くすり、と笑う彼女。 「駄目?」 「駄目、じゃ、ないけど。お腹空かない?」 「・・・お腹空いた?」 逆にそう尋ねれば、 「私がももかより先に『お腹が空いた』って言ったこと、ある?」 返り討ちに遭った。 いつの間にか、頭の回転数がずいぶん上がってるみたいデスネ。 「・・・ない、です」 私は素直にそう言って、くすり、と笑う彼女を抱き締めた。 と、腕の中で、彼女がもぞもぞと身じろぐ。 「何?」 「・・・そういえば、眼鏡」 どこにやったかと思って、なんて、首を巡らして。 放っておくと、ベッドから這い出して探しに行きそうだったから。 「いいじゃん、別に」 私は彼女の頭をかかえるように抱いて、 「眼鏡があったら、いちゃいちゃするのに邪魔じゃん?」 彼女の目頭に、キスを落とした。 『・・・なんだか、ね。安心するのよ、眼鏡があると』 いつか、彼女が言っていたことを思い出す。 『世界と自分との間に、壁が一枚、あるみたいで』 だから。 ―――二人きりのときは、掛けないで? 「それに」 息の掛かる距離で、互いの瞳を覗き。 「眼鏡がなくても見えるくらい近くに、ずっと、いるから」 ね? と問えば、 「・・・ん」 満足そうに、微笑んだ。 「ん、じゃあ―――」 仕切り直して、もう一度、彼女の唇に口づける。 催促するように上唇を咥え、歯列を舐め。 ゆっくりと、舌を潜り込ませる。 浅く、深く。 歯茎を、その裏を。口蓋を、舌の根を。 先刻よりもずっと貪欲に、口の中を縦横に愛撫しながら、水の中で息継ぎをするように、切羽詰まった呼吸をする。 ―――『溺れる』って、こういうこと。 首に巻き付くように回された彼女の手が、縋るように、私の肩を撫でた。 「・・・ねえ」 苦しい息遣いの間で、彼女に問う。 「これから。どうして欲しい?」 熱に浮かされたように、視点の定まらない瞳で、見上げる彼女。 「・・・で」 「ん?」 「名前・・・呼んで」 「っ―――」 胸が、じくり、と痛んだ。 「・・・ももかに名前呼ばれるの、すごく、好き・・・だから」 愛おしい、と思う気持ちは、あまりにも過ぎると、痛みに変わる。 彼女と出逢ってから知ったことの、一つ。 「・・・それだけ?」 殊更に不満の色を込めて、そう問い返せば、 「あとは・・・ももかの好きにして」 なんて。 急に、艶っぽい声に変わるから。 「それ、狡くない?」 ちょっと抗議してみるけれど、誘惑するような彼女の微笑に、 「ま、いいや・・・言質とったからね? ほんとに、好きにしちゃうから」 覚悟してね? と、負け惜しみのように言って、私は彼女の首筋に顔を埋めた。 ―――眼鏡だけじゃ、なくて。 「ゆり」 その身に纏わりついた昏いもの、全部、 「―――ゆり」 私の前では、脱ぎ捨てて。 「ん・・・もも、っ」 抱き締めさせて。 ―――あなたの、全てを。
《fin.》
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