Lost & Found


 レッスン室で鏡の中の自分を見て、春野はるかはあっ、と声を上げそうになったのをどうにか抑え込んだ。
「はるか?」
 どうかしたの、とみなみが首を傾げる。
「あっ、いえっ、なんでもありません、大丈夫です!」
 はるかは首を横に振った。親しい仲とはいえ、みなみは生徒会長として多忙な立場にある学園の重鎮。自分のバレエの稽古のために放課後の貴重な時間を割いて作って貰ったこのひとときを、無駄にしてはならない。
「そう? なら、いいのだけど……じゃあ、始めましょうか」
「はいっ! よろしくお願いします!」
 そう、思ったのだが。


「……今日は、ここまでにしましょう」
 柔軟体操をひととおり終え、バレエらしい基礎訓練を始めてから十分経つか経たないかのところで、みなみは溜息混じりにそう言った。
「えっ、あのーーー」
「そんなに気がそぞろでは、何も身につかないどころか、怪我だってしかねないわ。集中できないのなら、何をやっても無駄よ」
 はるかが言葉を発するより先に、ぴしゃりと、みなみが言う。はるかが思う以上に、はるかは思っていることが顔や態度に出易く、みなみは聡かった。
「……はい」
 ごめんなさい、と、はるかは叱られた子犬のように項垂れた。
「……それで? いったい、何がそんなに気になっているの」
 みなみが苦笑する。先刻の厳しい口調とはうって変わり、柔らかな物言いで。
「……いつも着けてる髪留めが、なくなってたんです。さっき、ここに来たとき、鏡を見て、あ、って、気がついて」
 項垂れたまま、訥々と言うはるか。その頭に目をやって、ああ、とみなみは得心した。そういえば、いつも彼女の前髪を留めている、花を象ったピンク色の髪留めが、今日は見あたらない。
「そんなに、大事なものだったの」
「……はい」
 今にも泣き出しそうな風で答えるはるかに、みなみはそう、と短く相槌を打つと、
「それなら、ここにいても仕方ないわ。探しに行きましょう」
 そう言って、扉に向かって歩き出した。
「えっ、あ、の」
「何してるの、早くいらっしゃい」
 どうやらみなみは、なくした髪留めを一緒に探してくれるつもりらしいーーーしかも、今すぐ。
「……! はい!」
 ワンテンポ遅れてそのことを理解したはるかは、慌ててみなみの背中を追った。

 バレエ用のレオタードから制服に着替え、二人は今日一日のはるかの足跡をゆっくりと辿り始めた。午前中の体育の授業が終わった後には確かに髪留めがあったとはるかがはっきりと記憶していたので、捜索は昼休みに訪れた裏庭の花壇からスタートすることとなる。
「その、髪留め、というのは」
 足元の石畳を注意深く見ながら、みなみはゆっくりと歩を進める。
「何か、思い入れがあるのね」
「……はい」
 その隣を、同じようにゆっくりと歩きながら、はるかが答える。
「小さい頃、お母さんが、作ってくれたものなんです」
 何も見落とすまいと、足元に目を凝らして。
「わたし、花のプリンセス、っていうお話が大好きで」
「ええ。前に、聞かせて貰ったわね」
 肩を並べ、花壇の周囲を、巡るように、歩く。
「それで、絵本のプリンセスみたいな、花の髪飾りが欲しくて。河原でお花を摘んで、髪にさしてたんですけど」
 桜色の花を象った、髪留めを探して。
「花をさすだけじゃ、すぐに落ちちゃうし、家に持って帰っても、次の日にはもう萎れちゃうし。それに、思ったんです。そんなに花をちぎって枯らすのは、かわいそうだ、って」
「優しい子だったのね、昔から」
 みなみがそう言って、ちらりとはるかの方を窺うと、俯き加減の横顔が少しはにかむのが見えた。
「……それで。私がプリンセスになるのは無理なのかな、って、悲しくて」
 花壇を一巡りし、次の花壇の周りを、ゆっくりと、歩き始める。
「そしたら、お母さんが、あの花の髪留めを作ってくれたんです。私、うれしくて。それから、ずっと」
「……そう」
 何か温かいものに触れたように、みなみは微笑んだ。
 はるかよりも少しだけ高いところにある彼女の表情を、足元に目を凝らして歩くはるかは知る由もないけれど。 
「それなら、その髪留めははるかにとって、花のプリンセスと同じくらい大事なものなのね」
 ーーー何が何でも、見つけないと。
 みなみがそう言うと、はるかは不意に足を止めた。
 少し遅れて足を止めたみなみが、はるかの方を振り返る。
「はるか?」
「……すみません」
 俯いたまま、
「私の捜し物に、みなみさんまで、付き合わせちゃって」
 ごめんなさい、と、絞り出すように、はるか。
「別に、謝ることではないと思うけど」
 微苦笑するみなみ。
「でも。……みなみさん、すごく、忙しいのに」
「元々、はるかのために使うつもりだった時間なのだから。そんな風に思う必要はないわ」
「けどーーー」
「ああ。でも、私が一緒だと鬱陶しい、っていうなら、遠慮するわよ?」
「! そんなことぜったいにありません!」
 叫ぶようにそう言って、はるかが勢いよく顔を上げると、悪戯ぽく微笑むみなみがいて。
「……ちょっと、意地の悪い言い方だったかしら」
 ごめんなさいね、と肩を竦める、その所作が、表情が、声が、やけに蠱惑的で。
「えっ、あっ、いっ、いえ」
 はるかは、知らず熱くなる頬を隠すように、また俯いた。
「あとは……そうね、花壇の中も見ておきましょう。縁沿いに、ぐるりと」
 そんな彼女の心中を知ってか知らずか、みなみはくるりと踵を返し、花壇の中を調べ始めた。少しずつ移動しながら、花を傷めぬよう、丁寧にかき分けて。
「あっ、はいっ!」
 はるかも、慌ててそれに倣った。
 放課後の校舎裏、特別教室棟からは管弦楽の音が微かに流れ、遠いグラウンドからは生徒たちの掛け声が聞こえてくる。
 ーーーかさかさ、かさかさ。
 二人は暫し、無心で花壇の花をかき分け、捜し物に没頭した。
「私も、ね」
 暫し訪れた沈黙を、みなみが破る。
「まだ小さかった頃、お気に入りのブローチをなくしてしまったことがあるの。両親にまた買ってやるから、って言われても、全然聞かなくて、泣きやまなくて」
 ーーーかさかさ、かさかさ。
 花壇を探る手は止めないで、みなみは言葉を続けた。はるかは手を止め、兎のように耳をそばだてる。
「その時、兄が。一緒に探そう、って言ってくれたの。ブローチもきっと、見つけて貰えるのを待っているから、って」
 ーーーかさかさ、かさかさ。
 緑の葉持ち上げ、枯れ葉をめくりながら。
「二人で並んで、庭の隅端から、ゆっくりゆっくり、歩いて。反対側にたどり着いたら、折り返して、またゆっくり歩いて。何度も何度も折り返して、庭の、文字通り隅から隅まで探したわ」
 心は追憶に遊んでいるように、口元を綻ばせて。
「何かなくした時、そうやって丁寧に探すことを、教えてくれたのは兄だったわ。落ち着いて、探さないところがないくらい丁寧に探せば、必ず見つかる。そう言って、ね」
「……それで、ブローチは、見つかったんですか」
 おずおずと、はるかが尋ねる。
「ええ。見つかったわ」
 みなみが答えると、はるかは心底ほっとしたような顔をした。
「見つけた時は、本当に嬉しかった。……だから、はるかの髪留めだって、必ず見つかる。探さないところがないくらい、丁寧に探せば」
 ね? と微笑みを投げるみなみに、はるかは初めて笑って、はいっ、と弾んだ声で答えた。

「……失礼しました」
 頭を垂れ、職員室の扉を閉めると、二人はどちらからともなく深い溜息をついた。
 裏庭の捜索が不発に終わり、その後校舎の一年生フロアの廊下とトイレ、渡り廊下を歩き回り、最後に職員室の落とし物担当の先生を訪ねてみたが、結局髪留めは見つけられないままだった。一時は元気を取り戻していたはるかだったが、ここにきて目に見えて落ち込んでいる。
「はるか」
 みなみはそれでも背筋を伸ばし、凛とした声で問うた。
「他に、午後になってから立ち寄った場所はない?」
「……はい」
 はるかは俯いたままかぶりを振る。
「あとはもう、バレエのレッスン室だけです」
「そうーーー、」
 は、っと。
 みなみが、息を呑む。
「はるか。あなた、髪留めがないことに気付いたの、いつだって言ってたかしら」
「……バレエの、レッスン室で。鏡をみたときーーー」
 はるかが言い終わるより先に、みなみは彼女の手を取って歩き出した。
「っ!? ちょ、みなみさん!?」
「私としたことが、迂闊だったわ」
 廊下を走る、というはしたない真似のできない生徒会長は、はやる気持ちを抑えつつ、早足で廊下を突き進んでゆき。
「……いちばん最初に、ここをよく見ておくべきだったのよ」
 たどり着いたのは、レッスン室に隣接した、女子更衣室。ここで、みなみの言わんとすることがようやくはるかにも理解できた。
「! あった! ありました!」
 更衣室の一番奥の隅、四段ボックスを幾つも並べたようなロッカーの陰に、それはあった。
 花を象った、ピンク色の髪留め。
 はるかはそれを拾い上げると、胸元でぎゅっと握りしめた。
「……よかったわね」
 その肩にそっと手を添え、みなみが微笑む。
「はい! ありがとうございました! ……えっと、あの……ほんとに、ごめんなさい!」
 はるかは勢いよく頭を下げ、ぱぁっ、と、花が咲くように笑ったかと思うと、また勢いよく頭を下げた。
「……また。どうして、謝るの」
 溜息混じりに、みなみ。
「だって、あの……あんなに大騒ぎして、一緒にあちこち探してもらって、結局私の早とちりで、みなみさんに迷惑かけちゃってーーー」
「……本当に、仕様のない子ね。何度言ったら分かってくれるのかしら」
 みなみはくすり、と笑って、はるかの手からそっと髪留めを取ると、
「今日のこの時間は元々、はるかのために空けた時間だし」
 彼女の前髪の、いつもの場所にそれを挿し。
「だいいち。その中身がどんなことでも、私にとっては、はるかと一緒に時間を過ごせること、それ自体が喜び、なのだから」
 ーーー迷惑だなんて。思うわけ、ないじゃない?
 そう言って、とびきり上等の微笑みを浮かべた。
「えっ…………ふぇぇぇぇぇっ……!」
 みなみの言うことを、またワンテンポ遅れて理解したはるかは、みるみるうちに耳たぶの先まで真っ赤になって、金魚のように口をぱくぱくと動かしている。
「ふふ。……さあ、そろそろ退校時間だわ。寮に戻りましょう」
 その様を見たみなみは満足げに笑うと、踵を返して歩き始めた。
「……はっ、え、あ、はいっ」
 立ち止まり、振り返ったみなみに、何してるの、早くいらっしゃい、と促され、ようやく我に返ったはるかは、慌ててみなみの後を追った。


 夕暮れの西日が校舎を照らす、そんな放課後。



《fin.》

  


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