Half


「いやー。ホンマ、みんなで一緒に買いに来て正解やったわ」
 駅前の目抜き通りを歩きながら、あかねが言った。
「危うくみゆきが大失敗するとこやったもんなぁ」
「……ちょっと数字が間違ってただけだもん」
 はっぶっぶー、と、いつもの口癖とともに拗ねてみせるみゆき。
「100センチは、一寸、とは言い難いですね」
 落ち着いたトーンで、れいかが冷静にツッコミを入れ、
「『ちょっと』は漢字で『いっすん』、つまり約3センチですから」
 100センチは『一寸』とは言い難いですね、と、駄目押しのように繰り返した。
「大体な。エプロンと三角巾と巾着袋いっぺんに作るんやで? それで材料の布が50センチておかしいやろ」
「……作ったことないからわかんないもーん」
 あかねちゃんのいじわるー、と、みゆきは可愛らしく口を尖らせた。
「でも、可愛い布が見つかってよかった。なおちゃんがいいお店教えてくれたおかげだね」
 と言って、買ったばかりの布が入った紙袋をきゅっと抱き締めたのは、やよい。
「みんな、何買ったクル?」
 みゆきのパーカーのフードから、キャンディが顔を覗かせた。
「布だよ。こんど、学校の家庭科の授業でね、エプロンを作るの。その材料の布を、買ったんだよ」
 幼い子どもに言い聞かせるように、ゆっくりと、みゆき。キャンディの保護者がすっかり板に付いたようである。
「あたしが……ってより、うちの母ちゃんがよく行ってるからね、あの店」
 謙遜するように、なお。
「駅裏の細い道沿いだし、大きな看板もないから目立たないけど、手芸やる人の間ではけっこう有名らしいよ」
「なおのお母様もなおも、裁縫が得意ですものね」
 そして、合いの手のように、れいか。
「母さんはともかく、あたしは、得意っていうか、慣れてるだけだよ。……それはそうと、あかね?」
 また謙遜するようにそう言って、なおは上機嫌で前を歩くあかねに声を掛けた。
「何や?」
「そんな分厚い生地買っちゃって、だいじょうぶ?」
「え?」
 なおの問いに、あかねは首を傾げた。あかねが選んだのは、ブルーデニムの厚手の生地だ。
「大丈夫? って。こんだけ分厚かったら、店で使うても、ちょっとくらい鉄板に当たったかて熱ぅないし、焦げたり溶けたりせぇへんやろ。店で使うエプロンにはもってこいちゃうか?」
「あー……そうじゃなくて。縫うの大変じゃないか、ってこと」
「え!?」
 思わず足を止めた、あかねの声が裏返る。
「角っこの処理とか、折り重ねて縫うからさ。布が厚いと難しいと思うんだよね」
「なお! それ、なんで買う前に教えてくれへんかったんや!」
「教えるもなにも。あかねったら、『これやー!』って速攻で決めてレジに走ってたじゃん」
 ずずい、と迫るあかねに、なおは少し辟易しながらツッコんだ。
「まあまあ、あかねさん、落ち着いてください」
 窘めるように、れいか。
「『一丈の堀を越えんと思う者は、一丈五尺を越えんと励むべきなり』といいます。敢えて難しいことに挑むのは、決して悪いことではないと思いますよ?」
「や、敢えて挑んでるわけやないんやけど……で、一畳が何やて?」
 畳がどないしてん、と、首を傾げるあかね。
「あー、一丈って、畳じゃなくて……ざっくり言うとね、三メートルの川を跳び越えられるようになりたかったら、四メートル跳べるようにトレーニングしろってこと」
 全く理解できていない風のあかねに、なおはいかにも彼女らしい解釈で説明を加えた。
「ま、何事もハードルは高く設定しろ、ってことだよ」
「家庭科にそんな修行いらんわ! っつか、何でなおがそんな難しい言葉知っとんねん! アホ友やと思っとったのに、この裏切りモン!」
「だってれいかの格言いつも聞いてるから。ってかあかね、今あたしにすごい失礼なこと言ったよね?」
 拳を振り回すあかねに、眉を顰めるなお。一丈五尺は正確には四メートル半ですが、というれいかの呟きは、二人の耳には届かなかった。
「あかねちゃん。一緒に居残り頑張ろうね!」
 みゆきがそう言って、あかねの肩をぽんぽんと叩く。
「まだ居残りって決まってへんわー!」
「まあそう言わずに。やよいちゃんも―――」
「あ、えっと……私、裁縫って結構得意なんだ……」
 ごめんね、と可愛らしく苦笑して、やよいはするりと居残り同盟(仮)を抜け出した。客観的に見れば、やよいが謝るべき要素は何一つないのだが。

 と、その時。

 不意に、空に暗雲が立ちこめる。
 空の一点を中心に、渦を巻くように広がり、瞬く間に空を覆い尽くす黒い雲。明らかに、自然現象ではありえない。
 そして、周囲を行き交う人々が、ばたばたとその場に倒れ、あるいは座り込み始めた。
「―――!」
 五人の表情が険しくなった。

「何だかすごくいやな感じクル!」
 叫んで、みゆきのパーカーのフードに潜り込むキャンディ。
「皆の衆、気をつけるでござる!」
 代わって、やよいの紙袋からポップが飛び出した。
「嫌な気配がするでござる―――向こうの方角から!」
 彼が示したのは、先刻黒い雲が出現した中心点の辺り。
「みんな、行くで!」
 あかねの掛け声で、五人は一斉に駈けだした。

 ビル街を駆け抜け、歩行者天国で賑わう界隈まで来たところで、倒れ伏した人々の中、スクランブル交差点の真ん中に一人佇む人影が目に飛び込んだ。
 バッドエンド王国、三幹部の一人、マジョリーナ。
「……やっと来ただわさ、小娘ども!」
 マジョリーナはにやりと笑った口元から乱杭歯を覗かせてそう言った。
「こっちはあんたに用なんかあれへんわ! 何で出てくんねん!」
 不敵に笑うマジョリーナにびしっ!と人差し指を突き出して、あかねが叫ぶ。
「こっちは大ありだわさ! いでよ、アカンベー!」
 マジョリーナは一際高らかに叫び、足元の掃除機―――よくある、一般家庭用のそれだ―――を依代にして異形の怪物を生み出した。
「みんな!」
 みゆきの掛け声を合図に、五人はパクトを取り出した。
「「「「「プリキュア・スマイルチャージ!」」」」」
 コマンド・ワードに応えるように光が迸り、『伝説の戦士』が顕現する。
「みなさん、気をつけてください!」
 れいか―――姿を変えた今は、キュアビューティ―――の、凛としたソプラノが警告を発する。
「先ほどのマジョリーナの口ぶりといい、こんな所にわざわざ掃除機を用意していることといい、明らかに何か企んでいます!」
「わかった! ……って、いっても」
「……何をどう気をつけたらいいの……?」
 元気よく返事をしたものの、首を傾げて戸惑うハッピーとピース。
「そんなん、考えても仕方あれへんわ!」
 サニーが跳んだ。
「そうだよ。相手が何を企んでたって、こっちは―――」
 マーチは低く構えた姿勢から、
「―――直球勝負!」
 勢いよく地を蹴り、真っ直ぐに、怪物のもとへ走り。
「はっ!」
 そして、サッカーのスライディングタックルの要領で、巨大な掃除機の怪物の足を払った。
「でりゃぁっ!」
 そこに、はるか高みから、叩きつけるようなサニーの踵落としがヒットする。
  うおぉぉぉぉぉっっ!
 怪物が、苦悶するような咆哮を上げた。
 が、次の瞬間、
  ぶぉぉおんっっ!
 怪物の背中から強烈な突風が吹き出し、サニーとマーチを弾き飛ばす。甲高い破壊音がして、叩きつけられた二人の体が、通り沿いに立つファッションビルのウィンドウを突き破る。
 ハッピーとピースが跳んだ。
「とりゃ―――っ!」
  ぶぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!
 巨大な掃除機の巨大なパイプが吸引をはじめ。
「「ひゃぁぁぁぁぁぁぁ!」」
 二人の体が吸引器に吸い付けられた。
「いたたたたた! 髪!髪!ちぎれる〜〜〜!」
 不幸なことに、ハッピーのツインテールの片方が吸引パイプの中に吸い込まれてしまったようだ。これは普通の掃除機でもかなり痛いはず、まして相手が化け物サイズなら、推して知るべし。
「はっ!」
 と、死角から飛び出したビューティが、怪物の胴に回し蹴りを見舞った。
 一瞬、怪物の動きが止まる。
「でぇぇりゃぁぁ!」
「たぁぁぁぁっっ!」
 そこに、態勢を立て直したサニーとマーチが飛び込む。
 二人の跳び蹴りが同時に入れば、吹き飛んだ怪物の体が、轟音をたててオフィスビルにめり込んだ。
「はぶっ」「ぶへっ」
 解放されたハッピーとピースが地面に落ちてくる。
「だからあれほど気をつけてくださいと言いましたのに……皆さん、大丈夫ですか?」
「や、いまのは策略とか関係あれへんと思うで?」
 溜息混じりに言うビューティに、首を傾げながらサニーがツッコんだ。
「大丈夫、まだまだいけるよ!」
 腕をぐるぐると回しながら、マーチ。
「敵は掃除機ですから、吸い取りと排気に気をつけてください。あとは、長いパイプと……そうですね、まだ見せていませんが、電気コードがあると思われます。恐らく、背中あたりに」
 真剣な面持ちでそう言って、ビューティは皆の顔を見渡した。
「OK!」「よっしゃ!」「ファイト!」「おー!」
 まるでバレーボールのタイムアウトのような掛け声で応えて、五人の戦士は再び散開し、怪物を囲んだ。
 じゃっ、という摩擦音がして、怪物の背中から一本の黒い触手のようなものが飛び出した。標的は、マーチ。
「はっ!」
 マーチは待ち構えていたように、その触手を両手でがっちりと掴むと、
「そりゃあぁぁ!」
 自分の体がそれに絡め取られるより先に、全力で走りながら引っ張った。怪物の巨体がバランスを失い、ずずん、と地響きをたてて倒れる。
「こいつホンマに電気コード出して来よった!ビューティの言うた通りや」
 怪物の胴に肘鉄を見舞って、鼻で笑いながら、サニー。
「鬼さんこちらー!」
 むくりと起き上がった化け物の足元で、ピースが手を叩いて挑発する。
  うぉぉぉぉんっ!
 咆哮を上げ、掃除機の化け物は巨大な吸引ホースを彼女めがけて降り下ろした。
「ひゃっ!」
 ピースは紙一重でそれをかわす。アスファルトが砕け、飛び散る黒い石つぶて。
「りゃぁーっ!」「はっ!」
 その隙に、ハッピーとビューティの踵落としが決まった。
  きしゃぁぁぁぁぁっ!
「アカンベー!何やってるだわさ!いいからとっととやるべきことをやるだわさ!」
 マジョリーナが地団駄を踏みながら、苦悶するアカンベーを叱咤する。
「皆さん! 敵はやはり何か企んでいます! 何かはわかりませんが、気をつけてください!」
 マジョリーナの言葉に反応して、ビューティが警告を発した。
「よくわかんないけど…わかった!」
 ハッピーが答える。適当な返事に聞こえるが、これでも彼女なりに考え抜いた結果なのである。
(―――とはいえ)
 ビューティは、低く構えた姿勢から地を蹴り、
(確かに、相手の狙いが分からなければ、気をつけようがありませんね)
 うねうねと蠢く吸引ホースを掻い潜り、怪物の懐に飛び込んだ。
「今!だわさ!」
 マジョリーナの声がして。
 怪物が、自分の胴から吸引ホースを引き抜いた。
 ごぽっ、という音がして、ビューティの眼前に、底無しの闇のような丸い穴が現れる。
  ふしゅおぉぉぉっっ!
「ぁっ!」
  そして、一瞬の轟音とともに、ビューティの姿が闇に引き込まれ、消えた。
「「「「ビューティ!?」」」」
「やっただわさ!」
 四人の悲鳴のような叫びと、マジョリーナの歓喜の声が重なる。
「キュアビューティさえ捕らえてしまえば、あとはバカばっかりだわさ!」
「くっ…バカとは何や! って言いたいけど、ホンマのことすぎて反論でけへんわ!」
 拳を握りしめて、サニー。
「そんなこと言ってる場合じゃないよサニー!」
 ピースが珍しく突っ込む。
「このぉぉぉぉぉ!」
 マーチが仕掛けた。
 助走をつけ、跳躍する。
「ビューティを―――」
「おっと、長居は無用だわさ!アカンベー!」
「―――返せ!」
 マーチの渾身の廻し蹴りより一瞬早く、アカンベーが上空へ飛び上がり。
「退散だわさ!」

 マジョリーナの号令とともに、虚空に姿を消した。

「……え……」「そんな……」
 呟いて、ハッピーとピースはその場に力なくへたりこんだ。
「ビューティがー!ビューティが消えちゃったクル!」
「キャンディ、落ち着くでござる!」
 パニックを起こすキャンディを宥めるポップも、隠しきれない同様に声が上擦る。
「ちょ、そんな、嘘やろ…マジか…?」
 呆然と立ち尽くすサニー。
「っ……」
 マーチは息をぐっと呑み、
「れいかぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
 そして、絶叫した。

 ―――どれくらいの時間、そうしていたのか。
 実際にはせいぜい一、二分くらいのものだろう。しかし、残された六人には重苦しく、随分と長い時間のように思えた。
「…あれ?」
 呆然としていたピースが、ふと我に返って呟いた。
「どした?」
「街が…元に戻ってないよ…?」
 その言葉に、皆は一斉に顔を上げた。暗緑色の空、淀んだ空気、音のない街。アカンベーとの戦いで壊れた建物もそのままだ。
「ほんまや。…でも、何で…?」
  辺りを見回しながら、サニー。
「そんな…戦いが終わったら、いつもちゃんと、元に戻るのに…」
 心許なげに、ハッピー。
「それは、バッドエンドの力がまだ及んでいるからでござる」
 そう言ったのは、ポップだった。
「…ということは、ビューティ殿を拐ったアカンベーは、まだこの世界にいるに違いないでござる。この空の下の、街のどこかに、まだ―――」
 ポップの言葉が終わらないうちに、マーチは走りだした。
「マーチ!」
「って待てぇ! ひとりで先走んなアホぅ!」
 サニーが、慌てて後を追う。遅れて、ハッピーとピースが、キャンディとポップを拾い上げて後に続いた。
 だが、生身の時でも抜群の俊足を誇るマーチとの間は開くばかりで。
「あかん、マーチに全力でブッちぎられたら、誰もついていかれへんやん!」
 必死に走りながら、苛立ったように、サニー。
「しからば、拙者が―――変化!」
 声と同時に、ピースに抱き抱えられていたポップの姿が煙に包まれ、一羽の燕に変わった。
「マーチ殿は拙者に任せるでござる!」
 そう言い残して、燕は走るプリキュア達を置いて風を切り飛んでゆき、あっという間に見えなくなった。


 暗い空の下を、マーチはひた走りに走る。振り払っても振り払っても、樟気に満ちた空気はねっとりと体にまとわりついてくる。人気のないビル街は、どれだけ走っても同じ風景で、出口のない無間地獄のようで。
 ―――このまま、永久に、どこにも辿り着けないのではないか。
(れいか……れいか!)
 不意に湧き起こる恐怖をねじ伏せる、呪文のようにその名を心の中で呼んで、マーチは自分を奮い立たせた。
「マーチ殿!」
 突然聞こえてきた声に、マーチは足を止め、振り向きざまに身構えた。
 近付いてくるのは、一羽の燕。
「待たれよ! マーチ殿!」
 聞き覚えのある声と語り口に、マーチは警戒を解く。
「……ポップ」
 燕はマーチの周囲をくるりと旋回し、ぼん、という小さな破裂音とともに煙に包まれた。そして、見慣れたポップの姿が現れる。
「マーチ殿。落ち着くでござる!」
「……止めても、無駄だよ」
 マーチは険しい表情のまま、低い声で、唸るようにそう言った。
「いくらポップの言うことでも、これだけは聞けない。あたしは―――」
「見くびられるな!」
 ポップは声を荒げた。
「かけがえのないものの為に命懸けの戦いを挑まんとする者を。助太刀こそすれ、引き止める道理など、持ち合わせてはおらぬでござる!」
 そして、その小さな体と可愛らしい姿にはあまりにも不似合いな、力の籠もった、悲愴な声で、そう叫んだ。
 “たとえ無茶でも! ……それでも、行かねばならぬでござる”
 キャンディが、バッドエンド王国に連れ去られた時。
 “拙者にとっては、たった一人の―――たった一人の、妹でござる!”
 邪悪な力に蹂躙し尽くされたメルヘンランドで、涙を流しながらそう言った、彼の言葉を思い出す。
「……ポップ……」
 マーチは、憑きものが落ちたような表情で、呆然と呟いて。
「あたし……どうしたらいい? どうすれば……れいかを、助けられる?」
 そして、今にも泣き出しそうな声で、そう言った。
「人の持つ魔力には」
 ゆっくりと、ポップが口を開いた。
「それぞれに、決まった色がござる。ハッピー殿なら桜色、マーチ殿は若草色。戦装束の色は、その現れにござる。そして、それはバッドエンド王国の者達も同じ事。アカオーニは臙脂色、ウルフルンは闇色。そして、マジョリーナのそれは、深緑」
 空を見上げるポップ。倣って、マーチも空を見上げた。
「さすれば、マジョリーナと、その使い魔たるアカンベーのある処は」
 ポップは西の空を指さした。その先には、暗緑色―――草木の緑とは異なる、禍々しさを含んだ、濁った緑―――の雲がある。
「…あの雲の、下」
 そう言って、マーチが息を呑む。
「絶対、とは言い切れぬでござるが」
 頷いて、ポップはマーチの頭の上に跳び乗った。そして、その豊かな髪にしっかりとしがみつくと、それを合図にマーチは再び走り出した。

     *     *     *

 目を開くと、辺りは、闇だった。
 横たえていた身を起こすと、人並み以上の回転速度を誇るビューティの頭脳がフル回転を始める。辺りは、光の欠片もない、漆黒。自分の目が本当に開いているのかどうかも、よくわからない。自分の息遣いより他には音もなく、風もない。
(ここは……アカンベーの体内?)
 巨大な掃除機の姿をしたアカンベーに吸い込まれたことは鮮明に記憶しているが、その時の衝撃で、一瞬意識が飛んだような気がする。本当に一瞬だったのかは、定かではない。もしかしたら、もっと長いこと気を失っていたかもしれない。見たところ、外傷はないようだが―――と、ここで一つの疑問。
 完全な暗闇の中で、なぜ自分の姿が見えるのか。
 答えはすぐに分かった。自分の体が、微かに発光しているのだ。
(プリキュアが『光の戦士』と言われる所以、でしょうか)
 自らの掌を見つめながら、ビューティはそんなことを思った。
「っ―――! みなさん!?」
 ふと、仲間のことに考えが至り、声を張り上げ呼びかける。
「みなさん! 返事をしてください!」
 返事は、ない。
「ハッピー! サニー!」
 ひとりひとり、名を呼んでみる。
 返事は、ない。
「ピース! キャンディ! ポップさん!」
 声は反響することもなく、まるで闇の中に吸い込まれてしまうように消えてゆく。
「マ―――」
 最後のひとりの名は、呼べなかった。その名を呼んで、返事がない、という事実を改めて突きつけられたら、動揺せずにいられる自信がなかった。
「……私としたことが」
 額に手を当て、ビューティは溜息をついた。マジョリーナは何かを企んでいる、それが分かっていて、皆にもそう警告しておきながら、自らその術中に嵌ってしまうという愚を犯してしまったことを、彼女は心底悔やんだ。
「さて……こうしていても、埒があきませんね」
 もう一度溜息をついてから、ビューティは再び周囲を見回し、頭脳を回転させ始める。
(確かに私は、アカンベーの体内に吸い込まれた筈、ですが)
 手足があって自力で動き回る怪物の体内の割には、振動も音も一切伝わってこない。掌に触れる地面―――床面、というべきか―――の感触は、滑らかで、ひんやりとした無機質。
 ビューティはその場に立ち上がり、手で辺りを探りながらゆっくりと歩き始めた。行く手を阻むものは何もなく、指先に触れるものもなかったが、粘り気を帯びた闇が肌身にまとわりつくような、そんな感覚を覚える。
(この空間は一体、どうなっているんでしょう)
「っ―――」
 頭上を仰ぎ見た途端、ビューティは強い目眩を覚えた。倒れまいとして前に踏み出した右脚にもうまく力が入らず、彼女はその場にくずおれる。
(っ、これは……)
 体から、力が抜けていく。
 ビューティ・ブリザードを放つ時、心身のエネルギーがコンパクトに吸取される、その時の感覚とは、似ているようで異なっていた。冷気が体温を奪うように、辺りを満たす闇が肌から直接生気を奪っていくような、息をする度、邪悪な気に肺の中を侵されていくような、そんな感覚。
 しかし、気付いたところで、どうすることもできず、
(……このままでは……)
 不安ばかりが、増幅してゆく。
(……一体、どうすれば……)
 床についた自分の手に、ふと目を落とし、
「っ!」
 ビューティは息を呑んだ。

 ―――自分の姿が、消えかかっている。

 正確には、体から放たれる光が弱っているのだ。先刻まではくっきりと見えていた自分の手足が、今は色が薄れ、輪郭が霞み、指先は闇に溶けてしまったように欠けていた。
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
 絶叫すらも呑み込んでしまう深い闇の底で、ビューティは自分の体をきつく抱き締めた。

     *     *     *

 ゴーストタウンと化したビルの間を、マーチは夢中で走り抜ける。
(れいか)
 ―――彼女が今、どんな思いでいるか。
 どれだけ心細い思いをしているか、どんな危険な目に遭っているか、どんな苦しみを受けているか。
 考えるだけで、気が狂いそうになって。
(どうか―――無事でいて)
 振り切るように、マーチは走るスピードを上げた。
 耳元で、ひゅうひゅうと風が鳴く。
(そういえば。こんなこと、前にもあったかな)


 まだ小さい頃―――確か、小学校に上がったばっかりの頃、だったと思う。
 あたしとれいかは、ふたりでどこまで行けるか試してみよう、って、隣の町に向かって歩いて行った。こどもだけで遠くに行っちゃだめ、って、親や先生には言われてたけど、もう小学生なんだから大丈夫だよね、って。言い出しっぺは、たぶん、あたし。れいかは小さい頃から真面目だったから。
 ふたりで、手をつないで。いつもの遊び場だった公園を通り過ぎて、川沿いの土手を歩いて、橋を渡って。途中で大きな犬に吠えられて、二人で走って逃げて―――けど。
 隣町の大きな公園で、どんぐりを拾ってた時。れいかが、暗くなるからもう帰ろう、って言い出したんだ。あたしは、まだ明るいから大丈夫、って言ったけど、れいかは帰ろう、って譲らなくて。いま思えば、帰り道も来るときと同じだけ時間がかかるんだから、れいかの言うことは正しかった。やっぱ、小さい頃から、れいかは頭よかったんだね。
 そこであたし達は、けんかになって。あたしがれいかとけんかしたのは、それが初めてで。あたしは、じゃあ一人で行くからいい、っていって、れいかを置いて歩いていった。
 どこをどう歩いたのかは、ほとんど憶えてない。れいかと一緒じゃなかったから楽しくなかった、ってことだけ憶えてる。けど、なぜか知らないうちに、ぐるりと回って自分の家の近所に戻って来ちゃったんだよね。
 で、家に帰って、もうすぐご飯の支度、って頃。
『なお。今、れいかちゃんのお家から電話があったんだけどね、れいかちゃんがまだ家に帰ってないらしいんだよ。なお、あんた、今日一緒に遊んでたんじゃなかったのかい?』
 母ちゃんにそう言われて、あたしは答えるより先に家を飛び出した。
 外はもう日が暮れてて、薄暗くて。
 その頃のあたしは、夜中に一人じゃトイレに行けないくらいの恐がりだったから、いつもの公園も、川沿いの土手も、気味が悪くて、怖くて―――だけど。
 れいかが、迷子になってたら。
 悪い人に連れていかれたら、お化けに食べられてたら、川に落ちてたら、犬に咬まれてたら、どうしよう。そうでなくても、ひとりぼっちで、寒くて、おなかすいて、泣いてるかもしれない。そう思ったら、そっちの方が怖くて。途中で何度か転んだけど、痛かったけど、れいかのところに早く行かなきゃ、って、そればっかり考えて、暗い道を、泣きながら走った―――


「変化!」
 ポップの声と、ぼんっ、という破裂音で、思索に遊んでいたマーチの意識は現実に引き戻された。
  ばりばりばりばりっっっ!
 ポップが巨大な盾に姿を変えたのとほぼ同時、マーチの背後で、巨大な魔力弾が破裂した。轟音に、耳が一瞬、つん、となる。ポップの護りがなければ、彼女は背中を灼かれていただろう。
「くっ……!」
 短く呻いて、ポップは変身を解いた―――解けた、と言った方が適切かもしれない。ダメージを受け、変身が維持できなくなったのだ。
「ポップ!」
「……大丈夫で、ござる」
 心配めされるな、と、肩で息をしながらポップは答えた。
「……ケッ。クソチビが、邪魔しやがって」
 忌々しげに、吐き捨てるような声がして。
「もうちょっとでプリキュア一匹仕留められたのによぉ」
 振り向けば、街灯の上に佇む狼男。
「……ウルフルン!」
 マーチは倒れたポップを抱き上げ、狼男を睨み付け。
 踵を返し、再び西を目指して猛然とダッシュした。
「だぁっ!?」
 意表をつかれたウルフルンは、頓狂な声をあげ、一拍遅れて後を追う。
「ちょっ! おまっ、待っ!」
 そして走るマーチの背中めがけて魔力弾を放ったが、軽いフットワークでかわされ、徒に地面を砕いただけだった。
「おいコラっ! 待てっ! こーゆーのはっ! 普通! 受けて立つだろうがっ! 逃げんなっ! ゴルァっ!」
 ウルフルンは次々に魔力弾を撃ち込むが、マーチはそれらをことごとく避け、ひた走る。
「くっそだらぁぁぁぁあぁぁあぁぁ!」
 やがて、ウルフルンが謎の掛け声とともに放った渾身の一発が、やっとのことで走るマーチの足元のアスファルトを砕いた。たたらを踏んで、立ち止まるマーチ。
「くっそ……やっと追いついたぜ……」
 そして、だらしなく舌を口から垂らして息を弾ませながら、マーチの前に降り立つ。
「伝説の戦士が敵前逃亡たぁ、笑わせやがる」
「……逃げてないから」
 鼻で笑うウルフルンを睨めつけて、マーチは低い声でぼそりと言った。
「あんたの相手してる暇はないんだ。そこをどいて」
「……あぁ?」
 眼光鋭く、ウルフルンが睨み返す。
「そこをどいて。あたしはマジョリーナに用があるんだ。あんたじゃない」
 マーチが語気を強める。
「はぁ? ……ああ、あれか。マジョリーナがプリキュアの一番賢いのを捕まえた、ってぇやつか」
 ウルフルンはやっと合点がいったようにそう言って、
「っつか、何だ? お前、一人か。てめぇら五人もいて、たった一人抜けただけでもうグズグズかよ。ダッせぇな」
 腕組みをして胸を張り、下目使いに見下ろして、鼻で笑った。
「五月蠅いな! いいからそこをどいて!」
 マーチは声を荒げた。
「あぁ? 誰に向かって口きいてやがる」
 片眼を細めて、狼男。
「どいて欲しけりゃ、力ずくで来い」
 マーチはすう、と息を吸った。
 察したポップが、その腕から飛び降りる。
「そこを―――どけぇっ!」
 そして、低く屈んだ姿勢から全身のバネを一気に弾けさせ、ウルフルン目掛けて猛然と突進する。
「でぇやぁぁぁぁっ!」
 マーチの拳の渾身の一突きを、ウルフルンは正面で、両腕で受け止めた。更に拳、肘、体を返して回し蹴り、立て続けに打ち込むが、狼男にはことごとく見切られ、防がれる。
 そして、僅か生まれた隙。
 マーチの懐に、狼男が踏み込んだ。
  ばりっっ!
 闇色の魔力弾が、至近距離からマーチの鳩尾を打つ。
「っ!」
 道路脇のガードレールに背中から叩きつけられ、苦痛に顔を歪めたのは一瞬、
「……まだまだ!」
 再び、歩道の石畳を蹴ってウルフルンに飛びかかる。
 目にも止まらぬ速さで打撃の応酬を繰り広げるが、
「俺様とタイマン張ろうなんざ―――」
 パワーもスピードも、狼男の方が一枚二枚勝っていて。
「百年早ぇんだよ!」
 再び、狼男の魔力を纏った拳がマーチの鳩尾を打った。吹き飛ばされた体は、受け身を取る暇すらなく、路上駐車のワゴン車に激突する。まるで踏みつけられたティッシュの箱のように、白いボディが無惨にひしゃげた。
「くっ……まだっ―――」
 スクラップの中からマーチが再び身を起こしたところに、
「オラオラぁっ!」
 三度、ウルフルンの魔力弾が炸裂した。悲鳴すら掻き消す轟音がして、鉄屑が四散する。
「マーチ殿!」
「てめぇはすっこんでろ!」
 飛び出してくるポップを視界の端で捉えたウルフルンが、魔力弾を放つ。
 体よりも大きな魔力球がポップを呑み込み、
「うわぁっ!」
 短い悲鳴と、岩が砕ける音がして。
 それきり、何も聞こえなくなった。
「……ポップ……!」
「人の心配より、てめぇの心配したらどうだ。あぁ?」
 瓦礫の上に這いつくばって四肢に力を込め、立ち上がろうとするマーチの頭上に、ウルフルンの揶揄するような声が降り注ぐ。
「……うるさい」
「あぁ?」
 やっと絞り出したようなマーチの言葉に、ウルフルンは眉を跳ね上げた。
「一人じゃ何もできねぇクズが、粋がってんじゃねぇぞコラ」
「……そうだよ。あたしは……一人じゃ、何も、できない」
 片膝を立て、肩で息をしながら、マーチ。
「ハッ! 認めてやがらぁ」
 ウルフルンは鼻で笑った。
「人は一人じゃ何もできない。サッカーだって、リレーだって、バレーだって。生徒会だって、一人じゃできない。そんなの、当たり前だ。そんな当たり前の、どこが悪いっていうんだよ」
 言葉の一つ一つを噛みしめるように口にしながら、マーチはゆっくりと立ち上がった。上目遣いに睨み上げる眼の光は、鋭さを帯びて、
「へっ! これだから人間はどうしようもねぇクズなんだよ!」
「うるさい!」
 肩を竦めて嘲笑するウルフルンを一喝する。
「あんたなんかにわかる訳がない! 仲間って何なのか、力を合わせるってどういうことか、一人でしか何もしたことのない、あんたには! 絶対、わかる訳がない! そんな奴に、あたしは絶対! 負けない!」
「……ケッ、胸クソ悪ぃぜ」
 ウルフルンは吐き捨てるようにそう言って、
「今度こそ息の根止めてやらぁ!」
 牙を剥き、マーチ目がけて突進した。鉤爪の一撃を、マーチは後ろに跳んでかわす。立て続けに打ち込まれる拳は、両腕で受け、あるいは流し。
「でやぁぁっ!」
 カウンターの肘打ちで、狼男の顎を叩き上げた。
 思わず仰け反り、跳び退るウルフルン。二度三度、頭を振って、
「……んのヤロ……いい気になりゃぁがって!」
 憤怒の形相で、再びマーチに襲いかかる。
 激しい打撃の応酬の最中、生まれた一瞬の隙に、マーチの横面を狼男の回し蹴りが捉えた。
「っ―――!」
 目の前で景色が弾け、思考が止まったその時、
  ばりばりばりっっっ!
 一際巨大な魔力球がマーチを呑み込んだ。プラズマが荒く弾け、そのまま彼女もろともアスファルトを抉る。
「うわぁぁぁぁぁぁぁっ!」
 長い悲鳴が途切れ、闇色の魔力エネルギーが四散した後に現れたのは、深く抉られ、赤土が剥き出しになった地面。その底に倒れ伏す、マーチ。
「…へっ。他愛もねぇ」
 ウルフルンは肩で息をしながら、にやりと口元を歪めた。
「……くっ……」
 マーチの指先が、土を握り締めるように、動く。
「あ? まだやる気か」
 それを見咎めたウルフルンが、小馬鹿にしたようにあざ笑った。
「やめとけやめとけ、いくら頑張ったところで全部無駄なんだよ! てめぇの仲間とやらはもう助からねぇよ。アカンベーの腹ン中は完全な闇だ。伝説の戦士だか何だか知らねぇが、じきに闇に呑み込まれて跡形もなく消えちまわぁ!」
「……何……だって……?」
 マーチは呼吸をすることすらも苦痛な風で、ひゅうひゅうと喉を鳴らしながら呟いた。
「聞こえなかったか? てめぇの仲間―――キュアビューティ、っつったか。闇に呑まれて跡形もなく消えちまう、っつったんだよ!」
 肉食動物が捕らえた獲物を嬲るのを楽しむように、心底愉快そうな高笑いで、ウルフルンはそう繰り返した。
「そんな……」
 掠れた声を震わせ、マーチ。
「……そんな、ところに。あんたらは、れいかを、閉じ込めたのか」
「はぁ?」
 片眼を細めて、狼男が見下ろす。
「それがどうした」
「たった、一人で……そんな、ところに」
 一言、一言。噛みしめるように言葉を紡げば、次第に声に力が籠もりはじめ。
「……れいかに、何か、あったら」
 マーチは掌を地につけ、腕に力を込めて、その身を起こした。
「―――れいかに、何かあったら!」
 目をかっと見開き、視線でウルフルンを射抜く。
「あたしは絶対に! あんたらを!」
 そして、
『許さない!』
 そう叫んだ瞬間、マーチの体が光を放ち、爆発するような『気』が迸った。
 彼女を中心に、激しい風が渦を巻く。狼男のたてがみが踊り、巻き上げられた石つぶてが狼男の顔面を打った。

     *     *     *

(―――冷静に、ならなければ)
 床に座り込み、うずくまるように背を丸め、自分をきつく抱き締めて、ビューティはじっと恐怖に耐えていた。いついかなる時も、みっともなく取り乱してはいけない。心を鎮め、冷静に考えれば、自ずと道は見えてくる。幼い頃からそう教えられ、そして実践してきた彼女は、今も懸命にその教えに従おうとしている。
(落ち着きなさい、青木れいか。気を確かに)
 彼女は自分の脚に目を遣った。まだ、自分の姿は見えている。
(……まだ、大丈夫)
 光が全て消えてしまったわけでは、ない。掌を数回、軽く握って、開いてみる。指先から次第に光が薄れつつあるようだが、思い通りにきちんと動くし、感覚もまだはっきりしていた。
 『プリキュアの力の源は、心にござる』
 いつか、ポップが話していたのを思い出す。心の強さ、想いの力がそのままプリキュアの力になるのだ、と彼は言った。それが本当だとすれば、心さえ折れなければプリキュアは不死身、ということになる―――理屈の上では。
(……ですが)
 仮にそうだとしても、耐えているだけでは、何の解決にもならない。
(策を、練らなければ。ここから抜け出す術を)
 そう思うものの、この得体の知れない空間が一体何なのか、手掛かりがあまりにも少なすぎる。かといって、ここまで体力も気力も失われていては、探りを入れることもままならない。何より、現在進行形で体力気力が萎えつつある今、無為に消耗することは避けたかった。
(……結局、このままこうしているしか、ないのですね)
 自分では為す術もなく、ただ事態の好転を、あるいは誰かの助けを、じっと待つより他にない。こんなことは、彼女にとって初めての経験だった。
(―――いえ)
 あった気が、する。
 こんなことが、まだ幼かった頃に、一度。


 ―――あれは確か、小学校に上がる少し前、だったでしょうか。季節は確か、秋でした。
 なおと私は、ふたりでどこまで行けるか試してみようと、隣の町に向かって歩いて行きました。子どもだけで隣町に行ってはいけない、という規則が幼稚園にはあったのですが、もうすぐ小学生になるのだから少しくらい大丈夫、と冒険を決行しました。言い出したのは、なお。あの頃の私は引っ込み思案で、なおの方がずっと物事に大胆でしたから。
 ふたりで、手をつないで。いつもの遊び場だった公園を通り過ぎて、川沿いの土手を歩いて、橋を渡って。途中で大きな犬に吠えられて、二人で走って逃げて。やがて、私たちは隣町の大きな公園に辿り着きました。
 そこには大きな樫の木があって、どんぐりが沢山落ちていて。なおも私も、しばらくは夢中でどんぐりを拾い集めて。ふと気付くと、陽は西に傾き始めていました。秋の日はつるべ落とし、と言いますから、もう帰りましょう、と私は言ったのですが、なおはまだ明るいから大丈夫、と聞かなくて。暫く押し問答のようなことを続けて、とうとう私はなおを怒らせてしまって。なおはそのまま、一人で先へ行ってしまって。
 本当はなおについて行きたかったけれど、なおに嫌われてしまったと思った私は、それができなくて。かといって、来た道を一人で引き返すのは少し怖くて。それに、もしもなおが戻ってきて、私がここにいなかったら、なおが困るかもしれない。そんなことを考えていたら、一歩も動けなくなってしまって。そのうち日が暮れ始めて、だんだん辺りが暗くなってくると、ますます動けなくなって。家路につく親子連れを何組か見送りながら、少し寒くて、おなかも空いて、心細くて泣きそうになった頃、ぱっと公園灯が点いて、少しだけほっとしたのを、今でもよく憶えています―――


(―――っ)
 不意に襲いくる悪寒に、ぶる、と身震いを一つして、ビューティは過去を漂っていた意識を現実に引き戻した。寒気を感じたのは、幼い日に寒空の下立ち尽くしていた記憶を辿った所為、というわけでもなさそうである。
(いよいよ、体温の維持も難しくなってきた、ということでしょうか)
「……ふふっ」
 額には脂汗が滲み、呼吸は浅く早くなる。自分が生命の瀬戸際にいることをひしと感じながら、彼女は何故か、小さな笑みを漏らした。
(死の間際には、一生の記憶が走馬燈のように蘇る、といいますけれど)
 思い出すのは、幼馴染みと二人で冒険に出かけた、あの日のことばかり。


 ―――『れいかちゃぁん!』
 日もとっぷり暮れ、人気のすっかり無くなってしまった公園の、大きな樫の木の下で、独りぽつんと立ち尽くしていた時。
『れいかちゃん! れいかちゃん!』
 自分の名を呼ぶ、なおの声がして。
『……なおちゃん!』
 大きな声で答えると、
『……れいかちゃん!』
 暗闇の向こうから懸命に走ってくるなおの姿が見えて。
『れいかちゃん!』
 両膝と鼻の頭に血を滲ませて、涙で顔をぐちゃぐちゃにして、絶叫しながら近付いてくるその姿に、
『ごめんね! ……ごめんね』
 驚く間もなく、ぎゅっと抱き締められて。
『ごめんね……こわかったよね……ごめんね』
 なおがあんまり泣きじゃくるから、私の涙はすっかり引っ込んでしまって。
 伝わってくる温もりに、とても安心して。
『れいかちゃん……どこも、いたくない?』
『……はい』
 なおの方が余程痛そうなのに、そんなことを聞くから。
『……さむく、ない?』
『はい』
 ついさっきまで震えていたことなんて、すっかり吹き飛んで。
『おなか、すいてない?』
『……ちょっとだけ』
 二人で、顔を見合わせて、
『……あるける?』
『はい』
 笑い合って。
『かえろう?』
『はいっ』
 どちらからともなく、手を伸べて。
 昼間来た道を、来たときと同じように、手をつないで、歩いた―――


 ビューティは自分の手を見つめた。今や五指はすっかり闇に溶けてしまい、掌だけが辛うじて見えているに過ぎない。感覚も、心なしか少し薄れてきたように思える。
 と。
 不意に、腰に提げた彼女のパクトが、強烈な光を放ちはじめた。
(……何?)
 暗闇に慣らされた目には、あまりにも強すぎる光。彼女は何事かと訝しみながらも、眩しさに眼を細め、パクトを手に取り、そっと開いた。
 光を放っていたのは、石だった。
 弧を描くように並んだ七色の輝石。その中の、緑色の石だけが、強い光彩を放っている。
 翡翠色の光の刃が、粘着する闇を切り裂くように。
 何かに、共鳴するように。
「……っ、これは……」
 ビューティは、息を呑んだ。
「…………なお……?」
 そして、その名を口にした。
「近くに…居るの? どこに……なお!」
 一度、口をついて出てしまったら、
「っ、なお、なお。……なお!」
 あとは、堰を切ったように、止めどなく溢れるだけ。
「なお! なお……なお」
 彼女は翠色に光るパクトを胸に抱いて、初めて涙を流し、
「―――なお!」
 声を限りに、その名を呼び続けた。

     *     *     *

「くっ…死にぞこないが、しゃらくせぇ」
 ウルフルンは顔をしかめ、吐き捨てるようにそう言って、
「お望み通り、今度こそ息の根止めてやるぜ!」
 咆哮をあげ、マーチに襲いかかった。
 マーチは身構えもせず、その場に立ち尽くしている。
「これで―――」
 ウルフルンの手の中に魔力の塊が出現し、
「終わりだ!」
 正面から、ノーガードのマーチの体を撃つ。
 炸裂する純エネルギーの塊を、彼女は真っ向から受け止めた。腰を落とし、歯を食いしばり、衝撃に耐える。ごり、と、アスファルトが割れる音がして、足が地面に食い込んだ。
「ちっ…!」
 舌打ちをする狼男と間近で睨みあったのは一瞬。マーチは狼男の腕を鷲掴みに掴んで、
「っりゃあっ!」
 その体を振り回し、アスファルトに叩きつけた。砕けた石が飛び散り、砂煙が上がる。
「はぁぁぁぁっ!」
 立ち上がった狼男に、畳みかけるようにマーチの回し蹴りが迫る。
「くっ…!」
 狼男は咄嗟に、魔力で受け止めた。鈍い金属音がして、マーチの蹴りが弾かれる。
「でぇやぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっ!」
 マーチはそれでも、息をつく間もなく、狂ったように、魔力の盾に蹴りを打ち込み続け。
 やがて、盾の一点を中心に亀裂が走り。
 ぱりっ、と硬質な音を立て、ガラスのように砕け、散り、虚空に霧散した。
「なっ…!」
 ウルフルンの顔が驚愕に歪み、
「はぁっ!」
 次の瞬間、マーチの渾身の一撃に、狼男の体躯がくの字に折れ曲がり、ビルの壁面に叩きつけられた。轟音とともに、煉瓦色の壁材が崩れ落ちる。
「あたしの―――」
 低く呟くマーチの頭上で、風が渦巻いた。風は次第に一点に収束し、球体を成して、彼女の魔力を帯びて若草色に輝きはじめる。
 マーチはぐいと体を縮め、
「邪魔を―――」
 地を蹴り、伸ばした体をしなやかに反らし、
「するなぁぁぁぁっっ!」
 魔力球に、オーバーヘッドキックを打ち込んだ。
 若草色の光球は、瓦礫から這い上がりかけたウルフルンめがけて真っ直ぐに飛んでゆき。
 着弾した瞬間、風と光が一気に弾けた。
「ぅぐぉあっ!」
 風は渦を成して瓦礫を巻き上げ、無数の鎌鼬がそれを粉々に切り裂く。
 そして何より特筆すべきは、あらゆる影を打ち消し、全てを白に染める熾烈な光。プリキュアの力は『浄化』の力。熱や衝撃を伴うわけではないが、『邪』に対しては絶大な力を発揮する。
 やがて、光が消え、風が止み、辺りに静けさが戻ると、ウルフルンの気配と姿が消えていた。消滅したのか、或いはテレポートで撤退したのか―――おそらく、後者であろう。
「…あー…」
 マーチは試合終了の笛の音を聞いたかのようにその場にへたり込み、肩で息をしながら天を仰いだ。
 空はまだ、黒い雲に覆われている。
「…早く、れいかを…マジョリーナを探さなきゃ…そうだ、ポップ!」
 つい先刻、完膚なきまで叩きのめされたとは思えない機敏さで立ち上がり、マーチは瓦礫の中にポップの姿を探した。
「ポップ!」
 彼女の呼ぶ声に応えるように、地面の一角がもぞもぞと動いて、ポップが泥だらけの顔を覗かせた。
「ポップ! 大丈夫!?」
「…面目ない、でござる」
 ポップは苦痛に顔を歪めながら、差し伸べられたマーチの手を取り、砕けた石の下から這い出した。
「…ウルフルンは、どうしたでござるか」
「逃げられちゃった」
 たぶんね、と、マーチは肩をすくめた。
「それより。早く、れいかを助けなきゃ。……手伝って、くれる?」
 マーチが問うと、
「無論にござる」
 ポップはそう力強く答えて、彼女の頭の上に飛び乗った。

     *     *     *

 パクトの輝きが、不意に消えた。
 そのことが暗示する事実にビューティは戦慄し、息を呑んだが、落ち着いてパクトをよく見れば、翠の石は『通常の』輝きに戻っただけだとすぐに分かった。ほう、と安堵の溜息を漏らし、彼女は取り乱した思考と感情を再び落ち着かせにかかる。
 ―――大丈夫。
 なおが、近くにいる。
 きっと、自分を探してくれている。ここに、来てくれる。そう思うだけで、気力が湧いてくる。道は自ら切り拓くものだと、他人を当てにするものではないと、頭では分かっているけれど。そう思わなければ、心が折れてしまいそうで。
(……他人?)
 そう思って、ふと覚える、違和感。
(なおは)
 『他人』などでは、ない。 
 彼女をそんな、自分との関係性が希薄な人々と同列に並べていい筈がない。
(だとしたら。なおは、私の)
 ―――幼馴染み。
(それは、そう、だけど)
 それは、幼少の頃に持った親交への言及があるだけで、友達、というのと何ら変わりない。
(けれど。ただの友達、という言葉では)
 とても、足りない。
(では)
 ―――親友?
(そんな、安っぽい言葉では、なくて)
 ―――仲間。
(それは、そうに違いない、けど)
 仮に、光ったのが緑の石でなかったら―――たとえば、赤やピンクの石だったとしたら。自分はこんなにも、勇気づけられただろうか。絶望の淵で踏みとどまり、正気に戻ることができただろうか。
 そう。
 なおが傍にいてくれれば、自分は強くなれる。
(―――本当に?)
 なおがいれば―――
(違う)
 再び、コンパクトに目を落とす。
 輝く翠の石の隣で揺らぎながら弱々しく光る、蒼い石。
 自分は、なおがいるから強くなるのでは、なくて。
(なおがいない私が、あまりにも弱すぎるのだわ)
 ひとりでは、臆病で、悲観的で、頭でっかちな。
(私は、なおが傍にいて、はじめて、一人前になれる)
 勇気、希望、思い遣り。
(ひとりでは、足りないものの多すぎる、私の)
 足りない分は、
(なお―――あなたが、持ってる)
 この関係に、名前を与えるとするならば。
(なおは、私の)
 半身。
 この世に生まれる時、どこかに置き忘れてきた、自分自身の半分。
「……なお」
 引き裂かれたら、生きてゆけない。
「……なお」
 だから。
「私は、ここにいます。だから―――」
 こんなにも彼女に焦がれるのは、当然のことで。
「―――お願い。無茶だけは、しないで」
 恥ずべきことなど、何もない。
「……なおに……もしものことが、あったら。私は―――」
 次第に、朦朧としてくる意識。
「なお……っ」
 抗いがたい睡魔に、目を開くことすらままならない。
「……なお……」
 祈りのように呟いて、ビューティはとうとう意識を手放した。 

     *     *     *

「アカンベーの腹の中は完全な闇だ、って」
 マーチは、再び人の気配の失せた無機質なビル街の中を走りながら、押し殺したような声で不安を口にした。
「ウルフルンが言ってた。中にいる人間は、そのうち闇に呑み込まれて、跡形もなく消える、って。もしそれが本当なら―――」
 その先を口にするのははばかられ、
「―――急がなきゃ」
 とだけ言って、彼女は口をつぐむ。
「焦りは禁物でござる」
 マーチの頭上で、諭すように、ポップ。
「仮にそうだとしても、ビューティ殿ほどの傑物がそう簡単に呑み込まれる筈がござらん」
「ケツブツ…?」
 ポップの言葉にマーチは一瞬眉を顰めたが、彼の口振りや文脈から『傑物=強い人』くらいな意味だと判断し、問うのをやめ、
「…ポップも、そういう風に思うんだね。やっぱり」
 そう言って、苦笑した。
「? 拙者、何か間違ったことを申したでござるか」
 ポップからは彼女の表情はうかがい知れなかったが、その物言いに何か引っかかるものを感じ、そう問いただす。
「……れいかは」
 走るスピードはそのままに、ぽつり、と零すマーチ。
「そんなに、強くないよ。少なくとも、みんなが思ってるほどには。……れいかは、『勝ち目のない戦い』に、すごく弱いんだ」
「勝ち目のない、戦い……とは?」
 首を傾げるポップ。
「何かをする時、あたしなんかは、本当にできる自信がなくたって、当たって砕けろとか、やってみなきゃわかんないとかいって、一か八かで勝負しちゃうことも結構あるけど。れいかは全然違ってて」
 風の音に掻き消されそうな声で、言葉を探しながら話すマーチに、ポップもまた真剣に耳を傾ける。
「れいかは、昔から頭がよくて。……本当に頭いいから、いつでも、どんなことでも、こうすれば上手くいく、っていう『答え』がちゃんと見えてるんだ。だから、いつも自信があって、堂々としてて、みんなからも頼りにされてる。けど、どうやっても八方ふさがりで、先が見えない、上手くいく答えが見つからない、ってなった時。れいかは急に、動けなくなっちゃうんだ。滅多にないこと、だけど」
 マーチの脳裏に、幼い日の光景が蘇る。
 あの賢いれいかが、どうすることも、助けを求めることすらもできず、ただ途方に暮れ、木の下でひとり立ち尽くしていた、あの夜。
「だから―――早く、行かないと」
「……成る程」
 ポップは神妙に頷いた。
「そういえば、マーチ殿とビューティ殿は、竹馬の友でござったな」
「……チクワの友?」
 またもポップの口から飛び出す耳慣れない言葉に、戸惑うマーチ。
「幼馴染み、ということでござる。キャンディがそう申しておったのだが」
「キャンディが?」
 いったい、何をどう話したら幼馴染みがチクワになるのか。
 マーチはますます眉を顰めた。
「……また何か、間違っていたでござるか?」
「ん? あ、いや」
 ポップの問いに、間違ってないよ、と答えながら、マーチの思考は別のことに向けられていた。
 チクワ―――は、とりあえず置いておいて。
 友。
 友達。
 幼馴染み。
 どれも、れいかのことを指す言葉には違いない、けれど。
 どれも今一つ、しっくり来ない。
 もしも囚われたのがれいかではなくほかの誰かだったとしたら、こんなにも胸がざわついただろうか。
 ならば、れいかは―――
「見えたでござる!」
 ポップの叫ぶ声が、マーチの思考を断ち切った。
 はるか前方に目をやれば、本来ならば繁華街で、もっとも人出で賑わうスクランブル交差点がある場所を、覆い隠すようにそびえ立つ真っ黒な壁。一切の光を取り込み逃さない、深い闇の漆黒。
「何、あれ」
「結界でござる」
「ケッカイ?」
「囲いというか、塀のようなものでござる。闇の力を一カ所に留め、増幅するためのものでござるが、恐らく、マジョリーナが作ったぁわっ!?」
 ポップの言を最後まで聞く前に、マーチはぐん、と走るスピードを上げた。危うく振り落とされそうになるのを、必死にしがみつくポップ。
「っ、マーチ殿! 落ち着くでござる! 迂闊に飛び込んでは」
「ウカツでもなんでも! マジョリーナが、れいかがそこにいるなら、どっちみち行くしかないんだ!」
 マーチは闇の塊のような結界に向かって加速しながら、立ち並ぶビル街の切り立った壁面を斜めに駆け上がり。
「それなら、あたしにできるのは一つだけ。直球勝負で、正面―――」
 宙を舞い、全身を鞭のようにしならせ、
「―――突破あぁっ!」
 結界の壁に、拳を叩き込んだ。
  ばりばりがりっっ!
 光と闇のエネルギーが衝突し、プラズマが四方に迸る。
「うぉぉぉぉぁっっ!」
 反動で弾かれそうになるのをぐっとこらえ、マーチは結界の一点に集中し、拳と蹴りを立て続けに打ち込む。
「左!」
 ポップの鋭い声。彼女は咄嗟に体を捻り、飛来した暗緑色の魔力球をボレーシュートで叩き戻した。
「……黙って聞いてりゃ、何とも、まぁ」
 蓮っ葉な、女の低い声がして。
「頭の悪そうな台詞だね。あんたみたいな直球バカにこのあたしがしてやられたなんて、返す返すも腹立たしい」
 振り返れば、豊満な肉体を苔色のローブに包んだ女が、腕組みをして、不機嫌そうに眉根を寄せていた。
「……マジョリーナ!」
「ま、いいさ。キュアビューティと一緒に、あんたもここで始末してやるよ。今度こそね」
 ビューティ、の名を聞いて、マーチの顔色がさっと変わる。
「っ、れいかをどこにやった!」
「この結界の中さ、アカンベーと一緒にね。中は極上の闇だ、もう暫く放り込んでおけば、いい具合に骨の髄まで闇に染まって真っ黒くろさ」
 ザマぁないね、と、マジョリーナは口の端でにやりと笑った。
「……マジョリーナ……あんたは……お前だけは!」
 マーチは握り締めた拳を怒りに震わせ、マジョリーナに向かって突っ込む。
「絶対に! 許さない!」
「……小娘が。偉そうな口をたたくんじゃないよ」
 マジョリーナは鼻で笑って、ぱちん、と指を鳴らした。
 無数の魔力弾が生まれ、
「直球は通用しないってまだ分かんないのかい!」
  どどどどどどどどどどっ!
 一斉砲撃。
「呆れたバカだね。お勉強して出直して―――っ!」
 魔力光が霧散した後に現れたのは、巨大な盾。
 その上を跳び越え、マーチが迫る。
 くるり、と蜻蛉を切り、
「はぁぁぁぁぁっっ!」
 マジョリーナの頭上に、踵落としを叩き込んだ。
 苔色のローブが、アスファルトに激突する。
「マジョリーナぁぁぁぁっっ!」
「なめんじゃないよ小娘っ!」
 再び迫るマーチを、マジョリーナは魔力撃で迎え撃った。
「っ―――!」
 カウンターをまともに食らい吹き飛ばされるマーチを、魔女が更に魔力弾で追撃する。
「変化!」
 再び、マーチの前に巨大な盾が出現した。魔女の放った強力な魔力弾を敢えてまともに受けることはせず、斜めに弾いて弾道を逸らす。
「ちっ、忌々しい子ダヌキだね!」
「狸とは無礼な」
 元の姿に戻り、地面に降り立ちながら、ポップ。
「まだまだ!」
 立ち上がったマーチが、マジョリーナに向かってゆく。魔女が指を鳴らすのに応え、無数の魔力弾が生まれる。
 そして再び、魔力弾の集中砲火。
「その手は桑名の―――」
 ポップが、巨大な二枚貝に姿を変えた。
「焼き蛤でござる!」
「それはこっちの台詞だよ……ブレイク!」
 魔女がぱちんと指を鳴らすと、魔力弾は突然姿を変え、細い網目のように広がって、
「うぁっ!」
 後ろから飛び出してきたマーチを、蛤に変身したポップもろとも捕らえた。霞網が渡り鳥を捕らるえように、魔力の網は彼女の自由を奪う。
「くはっ……ぅっ……あっ!」
 全身を灼かれるようなダメージに、地面をのたうち回るマーチ。
「うっ……」
 魔力の残滓が空に消えると、変身を保てなくなったポップも元の姿に戻り、地面に倒れ伏した。
「同じ手を二度も使うと思ったかい? ほんっと、バカだねぇ」
 あんたじゃあるまいし、と、マジョリーナは吐き捨てるように笑い、おもむろに両手を頭上に掲げた。
「……ま、あんたみたいな直球バカが相手なら、こっちも、それこそ直球で十分ってもんよ」
 その手の中に、新たな魔力の塊が生まれる。
 暗緑色に鈍く光る魔力光が、ゆらゆらと掻き混ぜるような手首の動きに合わせ、渦を巻くように魔女の頭上に収束し、球体を成し、成長してゆく。
「さ、念仏でも唱えるんだね。これで―――」
「うおぉぉぉおぉぉぉぉぉお!」
 と、地面に倒れ伏していたマーチが、突如起き上がり、マジョリーナに向かって猛然とダッシュした。
「!?」
 油断しきっていたマジョリーナの、判断が一瞬遅れた、その隙に。
「おぉぉぉぉあぁぁぁぁあ!」
 獣のような咆哮を上げ、マーチは疾風の如く間合いを詰めると、マジョリーナの体に組み付き、そのまま持ち上げるようにして突進する。
「なっ……!? ちょっ、なっ!」
 その先には、闇を閉じ込めた黒い結界。
「ぅぐっ!」
 硬質の物質のような結界の壁に、突進の勢いそのままに激突し、背中に強い衝撃を受けてマジョリーナは呼吸を詰まらせた。
 そして。
「はっ!」
 マーチはマジョリーナに組み付いた腕を離し、一歩後ろに下がると、ぐっと体を縮め、全身のバネを一気に解放するように跳び上がり。
「ちょっ! バッ、やめ―――!」
 マジョリーナの手の中にある魔力球―――実際には、巨大すぎて手の中には収まっていないのだが―――に、オーバーヘッドキックを叩き込んだ。
  ごぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっっ!
 光の力を帯びた蹴りの衝撃で、闇の魔力球が爆発する。
 マーチ自身と、結界の一部、そしてマジョリーナを巻き込んで。
「あぁぁぁぁぁぁぁっっ!」
 たまらず悲鳴をあげたのは、マジョリーナの方だった。顔を押さえ、自分の腕を抱いて、地面にうずくまる。
 そして、彼女の築いた結界の表面に、亀裂が走った。
 マーチはアスファルトに叩きつけられながらもすぐに起き上がると、マジョリーナには目もくれず、パクトに気合いを込めた。
「はぁぁぁぁぁぁぁっ―――」
 足元に、魔力の塊が生まれる。マジョリーナの魔力光よりもうんと明るい、若草色に輝く、風を纏った魔力弾。
「―――いっっっけぇぇぇぇぇぇぇえ!」
 力強く輝くそれを、マーチは思い切り蹴り出す。光の弾道は、結界の表面に生まれた亀裂を正確に撃ち抜き、
  ぱりぃぃぃぃんっっ!
 甲高い音を立てて砕けた壁は、一瞬にして黒い塵と化し、消滅した。
  うぉぉぉぉぉぉんっっ!
 中に潜んでいたアカンベーが、居心地の良かった結界を突如壊され、腹を立てたかのように咆哮を上げる。
 マーチは大きく跳び退り、
「あたしから―――」
 深い呼吸を一つして、
「―――れいかを!」
 腰を落とし、拳を握り締めた。
「奪うなぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
 そして、喉が裂けんばかりの叫びとともに、彼女の全身から強烈な光と爆発的な『気』が迸り、無数の魔力弾が出現する。
「うぉあぁぁぁぁあぁぁぁぁぁぁっっっ!」
 ビューティを呑み込んだ怪物と、その足元にいるマジョリーナめがけ、現れた魔力弾をマーチは無我夢中で蹴り続けた。
  おぉぉぉんっ!
 怪物は地を揺るがすような声をあげ、苦悶しながら地面に倒れた。ばたつく手足が光球の幾つかをあらぬ方向へ弾き飛ばすが、雨霰と降り注ぐ浄化の光は確実に怪物の力を奪ってゆき。
  GRSHHHGRGRGSHHH……
 やがて、形容しがたい耳障りな音とともに、黒い霧のような樟気を吹き出しながら、怪物の姿は消滅した。マジョリーナの気配は、すでに消えている。マーチの浄化の魔力弾に滅ぼされたか、或いはテレポートで撤退したか―――恐らく、後者だろう。
 魔力弾を撃ち尽くしたマーチは、その場にばったりと倒れ。
「はっ……っかっ、はぁ……」
 地べたに背を預け、死にかけた金魚のように腹を天に向け、口を大きくあけて必死に呼吸を繰り返す。心臓は破裂しそうなほど激しく動悸を打ち、口がひとつではとても足りないくらいに肺は酸素を欲していた。手足は鉛の塊のように重く、指一本すら動かすのが億劫で、目を閉じればあっという間に意識を攫われそうになる。
「っ………れいか……っ」
 それでも彼女は僅かに残った気力を振り絞り、何とか立ち上がると、先刻までアカンベーがいた場所に向かって走り出した。

     *     *     *

 目を覚ましたビューティの視界に最初に入ってきたのは、ブルーブラックの砕けたアスファルトだった。
 ごつごつとした手触りは、得体の知れない空間の硬く冷たく無機質な、気味が悪いほど滑らかな床の感触とは明らかに異なっている。そして、先刻まで感じていた、全身をじりじりと圧迫されるような、体の内側から得体の知れない何かに蝕まれてゆくような感覚も、いつの間にか消えていた。
 ゆっくりと頭をもたげれば、次第に周囲の風景が目に飛び込んでくる。人気のないビル街、ところどころには瓦礫の山。空は濁った色の雲に覆われていたが、それでも暗闇に慣らされた目には眩しく感じられるほどに明るかった。
「―――っ」
 不意に、自分を呼ぶ声が聞こえた気がして、ビューティは気怠さに支配された体に懸命に力を込め、身を起こした。
「……れいかぁっ……!」
 もう一度聞こえる、声。

 聞き違える筈の、ない。

「―――なお!」
 彼女は叫んだ。腹に力が入らず、喉だけで金切り声を絞り出す。
「れいか!」
 声は、後ろから聞こえてきた。
 振り返ればそこには、走るマーチの姿。瓦礫に足を取られ、つまずきながら、転がるように。まるで、不器用な子犬が、母犬に向かって駈けてくるように。
「れいかぁっ……!」
 全身、擦り傷と、痣と、埃と、煤にまみれて。
 端正な顔を、涙でぐちゃぐちゃにして。
  『れいかちゃん! ―――れいかちゃぁん!』
 まだ幼かった頃、二人で冒険に出かけたあの日の光景が、蘇る。
「なお……っ」
 ビューティは声を詰まらせた。瞳から、はらりと一筋、涙が零れる。
「れいかっ……!」
 あの日より背丈も手足もずいぶん伸びた幼馴染みは、あっという間にビューティの許へと駆け寄って、跪き、その長い腕で彼女の華奢な体を強く抱き締めた。微かな汗の香り、抱き寄せられた腕の強さと、胸の温かさ。その全てが、彼女を安心させる。
「れいか……よかった……れいか、れいかぁっ」
 大きな体で、けれど、幼かった頃そのままにわんわんと泣きじゃくる幼馴染みをあやすように、彼女はマーチの背中をそっと撫でた。
「怖かった……すごい怖かった……れいかに……れいかに何かあったら、って思ったら」
 マーチは何度もしゃくり上げながら、ぼろぼろと涙を流し、
「もしかして……もし間に合わなかったらどうしよう、って。そればっか考えて……怖かった……怖かったよぉ……」
 そう言って、誰に憚ることなく、大声で泣いた。
 ビューティは、マーチの背中に両腕を回して、
「……なお」
 噛みしめるように、その名を呼ぶ。
 涙は、いつの間にか引いてしまっていた。
「……れいか……ほんとに、大丈夫だった?」
 少し落ち着きを取り戻したマーチが、鼻をすすりながら問う。
「……はい」
 抱き締める腕が緩められ、互いに顔を見合わせれば、
「怪我、してない? どこも痛くない?」
 不安げに見つめる瞳も、そう尋ねる台詞回しまでもが子どもの頃と一緒で。
「はい、私は……なおの方が、余程痛そうですよ?」
 ビューティは思わず笑みをこぼした。
「あたしは、うん、まあ。……でも」
 マーチは跋の悪さを誤魔化すように苦笑して、
「れいかの顔見たら、そんなの全部吹き飛んじゃった」
 そう言って、愛おしげに微笑んで、右手をビューティの頬に重ねる。
「……冷たい。顔色も、よくないし」
 寒かった? という問いに、
「……ええ。少し」
 ビューティがそう答えると、マーチは両腕を彼女の背に回し、もう一度、しっかりと抱き締めた。
「……温かい」
 ビューティがそう囁くと、マーチは彼女を抱く腕に少しだけ力を込めた。
「……苦しく、ない?」
「……はい」
「辛く、なかった?……怖かった?」
「ええ……とても。―――けど」
「……けど?」
 言い淀むビューティ。マーチは腕を緩め、伺うように顔を覗き込む。
「……なおが、来てくれましたから。もう、大丈夫です」
 ビューティがそう言って微笑むと、マーチも同じように微笑んだ。
「マーチ殿―――ビューティ殿!」
 呼ぶ声に二人が振り返ると、ポップが瓦礫の野を駈けてくるのが見える。
「ビューティ殿……ご無事で何よりでござった」
 彼は、ビューティの姿を認めると、安堵したようにそう言った。
「……ご心配を、おかけしました」
 すみません、と、律儀に頭を垂れるビューティ。
「ポップのおかげだよ。ポップがいなかったら、あたしは―――」
 マーチは言葉を詰まらせ、
「―――あたしは多分、れいかを助けられなかった」
 ありがとう、と。
 そう言って、また涙ぐむ。
「拙者は助太刀したまで。礼には及ばぬでござるよ」
 ポップは破顔し、少し照れくさそうに言った。
  どぉぉぉ………ん
 不意に、遠い爆音が聞こえてきて。
「!……今の、音」
「ええ」
 三人の表情が一転、戦士の厳しさを帯びる。
「街が元に戻ってない、ってことは、まだアカンベーがいるんだ」
「! では、皆さんが―――」
 マーチの言葉はポップの説明の断片的な受け売りだったが、聡明なビューティはそれだけで十分に状況を理解した。
「うむ。相手は恐らく、アカオーニでござろう」
 ポップは東の空に目を遣る。
 立ち込める、不気味な赤黒い雲。
「帰ろう、みんなのところへ。……れいか、立てる?」
「はい」
 先に立ち上がったマーチの手を取って、ビューティも立ち上がった。
「っ―――」
 視界が斜めにぐにゃりと回転し、足元から崩れそうになる。
「おっと」
 すかさずマーチが抱き留めて、彼女の脚をひょいと掬い上げた。
「! なお! ちょっ、そんな、自分で歩けますから……!」
「そんな青白い顔で大丈夫って言われても、説得力なーいよ?」
 少し戯けたようにそう言って、くすりと笑うマーチ。実際のところ、普段ならば恥ずかしさに顔を真っ赤にするところなのに、ビューティの顔色は病人のように青白いままだった。
「みんなの近くまで行ったら、ちゃんと下ろすから」
 ね? と、ねだるようにマーチが覗き込むと、ビューティは観念したように頷いた。
「じゃ、走るから、ちゃんと掴まってて。ポップも」
「合点承知の助」
 そして、来た道と同じように、ポップがマーチの頭に乗って。
「―――飛ばすよ!」
 マーチは二人に向かってそう言うと、東を目指して全速力で走り出した。

     *     *     *

「ぅがーっはっはっはぁ!」
 異形の怪物がプリキュア達を蹴散らす度に、アカオーニは心底愉快そうに高笑いした。
「マジョリーナの言ったとおりオニ! キュアビューティがいなければ、あとはバカばっかりで楽勝オニ!」
「くっ……よりによって、アカオーニにバカ扱いされるとかっ…屈辱的過ぎるわっ!」
「仕方ないよサニー、ほんとのことだもん……」
「ピース! そこ諦めたらあかん!」
 地面に倒れ伏したまま、ツッコミ合戦を繰り広げるサニーとピース。
「とぉりゃあぁぁぁぁっっ!」
「何度やっても同じオニ!」
 アカンベーに突進するハッピーを、アカンベーは長いホースで叩く。
 小柄が体は弾き飛ばされ、商業ビルのショーウィンドウを突き破った。
「「ハッピー!」」
「うゎははは! 掃除機のアカンベーは強いオニ! マジョリーナの言った通りオニ!」
 ビルの給水塔の上で、アカオーニがふんぞり返る。
「くっ……しかも、さっきと同じ手が通用すると思われてるし……ホンマ腹立つ……うぉわぁっっ!」
 歯を食いしばり、やっとのことで立ち上がったサニーを、再び掃除機の怪物が襲った。頭上からの打撃を咄嗟に両手で受けるが、受け止めきれず、再び地面に叩きつけられる。
「サニー!」
 ピースが悲愴な声を上げた。今や、立っているのは彼女だけで、その彼女も足元がふらついている。
 巨大な掃除機がぎろりと睨み付け、ホースを振りかぶった。
 一瞬の溜めがあって、
「これで終わりオニ!」
 フルスイング。

「―――変化!」

 突如、ピースの前に巨大な盾が出現した。
 ぎぃん、と硬質な音がして、掃除機のホースが弾き返される。
「どぉりゃぁぁぁぁぁぁぁっっ!」
 続けて、遙かな高みから、弾丸のようなマーチの蹴り。
 怪物は轟音をたてて地面に倒れ伏し、
「ごめん、みんな……お待たせ!」
 マーチはくるりと蜻蛉を切って、地上に降り立った。
「「「マーチ!」」」
 わっ、と歓声が上がる。
「……すみません、みなさん」
 ビルの間から、こつこつとヒールの足音がして、
「ご心配をおかけしました」
 ビューティが姿を現した。
「「「ビューティ!」」」
 さらに大きな歓声が上がる。
「なぁっ!? そんな、何でキュアビューティがいるオニ!?」
 狼狽えるアカオーニ。
「ウルフルンもマジョリーナもとっくに帰ったよ。あんたもとっととお家に帰りな!」
 マーチがそう言って、アカオーニに向かってびしぃ! と指をさす。
「うぬぐぐ……それなら、もう一度吸い込んでやるオニ!」
 行け! というアカオーニの号令に応え、アカンベーが掃除機のホースを振り上げた。
「……同じ手がまた通用すると、思っているのですか」
 私たちも随分甘く見られたものですね、と。腕を組み、頬杖をついて、ビューティは嘆息する。
「いや……その同じ手に、ウチら今まで散々やられてんねんけど」
 眉尻を下げたトホホ顔で、サニーがツッコんだ。
「吸い込むオニー!」
 ぶぅん、と、怪物のモーターが雄叫びを上げる。
「代わりに、これでも……吸い込んでな!」
 マーチは街路樹のポプラを引き抜いて、怪物に向かって放り投げた。
  がりがりごりごりごがっ!
 ポプラの木を吸い込んでしまった巨大な掃除機は、パイプを詰まらせ、苦しげに悶えるようにのたうち回る。
「サニー」
 ビューティは、ピースに何やら耳打ちをすると、今度はサニーの方に向き直った。
「私のブリザードと同時に、アカンベーに向かってサニーファイヤーを撃っていただけますか」
「ん? そら、ええけど……ええねんか? 氷溶けてまうで?」
「はい。それが狙いですから」
 首を傾げるサニーに、アルカイックに微笑むビューティ。
「わかった」
 何か策があると察したサニーは、それ以上何も言わずに頷いた。
「……できれば、少し手加減してくださると助かります」
「手加減? 手加減ね……よっしゃ、ええで?」
「では」
 ビューティのすう、と息を吸う動作で、
「「プリキュア!」」
 二人のタイミングがぴったりと一致する。
「ビューティ―――」「サニぃぃぃ―――」
「ブリザーードッ!」「ファイヤぁぁっ!……フェイントっ、と」
 強烈な冷気が怪物を拘束したのは一瞬。ふわりと飛来した火の玉が、その氷を溶かしてゆく。あっという間に、怪物は水浸しになった。
「ぐはは! 馬鹿だオニ! 火をぶつけたら氷は溶けるに決まってるオニ!」
 大口を開け、嘲笑するアカオーニ。
「ピース!」
「うん! ―――プリキュア!」
 ビューティの合図に応えて、ピースが雷雲を喚んだ。
「ピィィィィィィィィィィィィスぅぅぅぅぅサンダぁぁぁぁっっっっっ!」
 いつもより長い溜の動作から、まるで鬱憤を晴らすかのような特大の雷が放たれる。もしかしたら彼女は、根に持つタイプなのかもしれない。
  ばりばりばりばりばりばりっっっ!
 水浸しのところに高圧電流を受け、アカンベーは一瞬のうちに、苦悶すらする暇もなく、体中から黒煙を噴き上げ動きを止めた。
「なぁっ!?」
「ハッピー! 今です!」
「うっしゃぁ!」
 続いてビューティの合図で、ハッピーは気合いの言葉とともに、四股を踏むように脚を広げて立ち、腰を落として、コンパクトに力を込めた。『可愛い星空さん』しか知らないクラスの男子生徒たちに見られたら、人気がガタ落ちしそうな逞しさである。
「ハッピぃぃぃぃぃ―――」
 そして、
「―――シャワぁぁぁぁぁぁぁっっっっ!」
 桜色の魔力光の奔流が、アカンベーを呑み込み。
 樟気は黒い霧のように雲散し、あとには家庭用の掃除機が一つ、残された。
「くうっ……あともう少しだったオニ!」
 覚えてろ、と捨て台詞を残して、アカオーニが退散し。
 街は、生気を取り戻した。

     *     *     *

「……帰ったら、勉強しよ」
 帰り道、あかねが不意にそんなことを言った。
「どうしたの? あかね、さっきの戦いで頭でも打った?」
「そら、頭は打ったけど。っつかなお、今ムッチャ失礼なこと言いよったな」
 あかねはなおを軽く睨め付けて、溜息を一つつき、
「……いや、な。やっぱり、人間賢くないと、痛い目みるんやな、って」
 そして、彼女には珍しく、大人しい調子で話し始た。
「思うたんや。れいかが抜けた途端に大苦戦するし、マジョリーナにもバカばっかしやとか言われるし、挙げ句の果てにアカオーニにまでバカにされる始末や。よりによって、あのアカオーニにやで?」
 アカオーニに馬鹿呼ばわりされたのが、余程ショックだったのだろうか。あかねは、やっぱ勉強は大事やで、と、しみじみ呟いた。
「さっすがあかねちゃん! 偉い!」
 と、みゆきが合いの手のように声を上げて。
「頑張ってね!」
 れいかを除く全員をズッコけさせ、
「みゆきぃぃぃぃあんたもやぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
 あかねに盛大にツッコまれた。


「ほな、また明日な!」
「うん、また明日」
「なおちゃんれいかちゃん! バイバーイ!」
「おやすみなさい」
「また明日ね!」
 交差点で皆と別れて。
「……れいか」
 なおが、右手を差し出した。
 子どもの頃はともかく、中学に上がってからは、特にれいかが、天下の公道で手を繋いで歩くことに抵抗を示すようになり、以来、手を繋くことは殆どなくなったのだが。
「………」
 今日のれいかは、自分の左手で、すんなりとその手を取った。
 そして、二人はゆっくりと歩き始める。
 肩を並べ、ゆったりとした歩調で、無言で歩く。体はくたくたで酷く休息を欲していたし、とにかく色々なことがありすぎて、何から話して良いか見当もつかなかった。ただ、繋いだ手を握り締める強さと温かさに、心を重ねる。今はそれだけで十分な気がした。
 やがて、二人は家路を分かつ三叉路に辿り着き、どちらともなく足を止め。
 向かい合い、視線が合って、
「……じゃあ―――」
 先に口を開いたのは、れいかだった。
 れいかは、自分より少しだけ高いなおの顔を見上げる。
「……ん」
 なおは小さく頷いて、繋いだ手を、胸の高さに掲げた。
 そして、どちらからともなく手を解き。
 掌と掌を重ね。
「……また…………明日」
 れいかが、そう言うと、
「ん……また、明日」
 なおがそう応えて。
 どちらからともなく、掌を離した。
 そして、どちらからともなく、踵を返し。
 それぞれの家路を、ゆっくりと、辿り始めた。

《fin.》



蛇足のおまけ。

  


(^^) よろしければ、感想をお聞かせ下さい。(^^)

↓こちらのボタンで、メールフォームが開きます↓
未記入・未選択の欄があってもOKです。
メールフォーム

第2書庫に戻る