微 熱


 太陽が少しずつ元気を増し、夏服がそろそろ待ち遠しいような、そうでもないような。
 そんな季節の、とある放課後。
「しっつれいしまーす! 二年二組日野あかねどぅえっす! ウチの黄瀬やよいがお世話になっとりまーす!」
 がらがら、と引き戸を勢いよく開ける音に負けない音量で、あかねは名乗りを上げた。
「・・・日野さん。元気よく挨拶するのはいいけど、もう少し静かにやって貰えないかしら」
 ここ一応保健室だから、と苦笑しながら椅子を回して振り向いた先生は、推定アラサー、ひっつめ髪に丸眼鏡の、気っ風のいい姐さんタイプ。
「へへー。えろうすんません」
「・・・そういえば、さっき休み時間に四人で押しかけてきた時『静かにしなさい』って一緒くたに怒ったけど、よく考えたら大騒ぎしてたのはあなたと星空さんだけだったわね」
 青木さんと緑川さんに悪いことしたわ、と、先生は冗談めかして言いながら、
「ま、今は黄瀬さんしかいないことだし、大目に見ましょ」
 小さく肩を竦めて、やよいへの面会を許可した。
 三床あるベッドの、一番奥。あかねは、彼女にしては大人しい足取りで近付き、彼女にしては静かにカーテンを開け。
「やよいー。具合どや?」
 そして、彼女にしては小さな声で話しかけた。
「・・・。」
 当のやよいは、顔を半分毛布に隠し、上目遣いに少し拗ねたような視線をあかねに向ける。目が潤んでいるのは、熱の所為。別に、泣かされたわけではない。
「? 何や、どうした?」
「・・・わざとでしょ」
「何がや?」
 悪戯に成功した子どものように、ニマニマと笑いながら、あかね。
 ―――保健室に入ってくる時、あかねは「『ウチの』黄瀬やよい」と言った。
 彼女の言う『ウチの』には、二通りの意味用法がある。
 一つは、『私の家の』或いは『私たちのグループに属する』= our の意。
 もう一つは、『私の』= my の意。
 この二つの意味用法は、発話の際のイントネーションの違いによって区別される。そして、先刻あかねが用いたのは、前者ではなく後者だった。先生は前者、『私たち仲良しグループに属する』の意だと解釈したようだが、あかねの使う言葉を十分に聞き慣れているやよいの耳には、明らかに後者に聞こえた。
「・・・こんなとこで、そういうこと、言わないでよ・・・」
「そーゆーことって、何や?」
 相変わらずニマニマと、揶揄うように、あかね。
 明らかに、確信犯。
「・・・・・・ばか」
 やよいは消えそうな声でそう言って、頭から毛布を被ってしまった。
 あかねはくすりと笑って、通学鞄を二つ、ベッドサイドの椅子の上に置く。
「んで。具合どや? 鞄持ってきたけど、帰れそうか?」
「・・・ぅん・・・」
 やよいは吐息混じりに答えて、再びもそもそと顔を覗かせた。
「黄瀬さん」
 と、あかねの後ろから、先生の声がかかる。
「帰るなら、お家の方に迎えに来ていただいた方がいいと思うのだけど。どなたかお家にいらっしゃる?」
「あ・・・うち、今、誰もいないんです」
 やよいはのろのろと起き上がりながら答えた。毛布をはぐる、手をついて、体を起こす。気怠げな、一つ一つの動作。いつもはきちんと締められている制服のネクタイが今は緩められていて、第一ボタンが開いている。やよいがそんな風に制服を着崩しているのを、あかねは初めて見た気がした。
「うち、母と二人きりで・・・その母が、今日から泊まりで、北海道に、出張なんです」
 そして乱れた髪を片手で気にしながら、少し億劫そうに、それでも丁寧に選んだ言葉を並べる。
「そう・・・」
「大丈夫、です・・・歩いて、帰ります。家、そんなに遠くないですから」
 先生が次の考えを纏める前に、やよいは努めて朗らかにそう言った。
「うーん・・・」
「ほんなら、ウチ、送っていきますわ」
 あかねが畳み掛けるようにそう言うと、先生はそれならまあ、と頷いた。



 いつもの通学路を、少し違う感覚で、家路につく。
 いつもよりゆっくりと、文字通り熱に浮かされたように、ふわふわと歩く。手には、スケッチブックだけを抱えて。
 鞄は、隣を歩くあかねが持っている。
「どや? しんどくないか?」
「・・・ん」
 しんどかったら早よ言いや? と、あかね。学校を出てからまだ五分ほどしか経っていないのに、この同じ台詞をもう三回も繰り返している。
「・・・そういえば・・・」
 やよいがふと、思い出したように口を開いた。
「あかねちゃん。今日、クラブは?」
 いつものやよいなら、あかねが『送っていく』と言った時に即尋ねるところだ。今日の彼女は随分と回転が遅いようである。
「ああ。今日、顧問のセンセがふたりとも出張でおれへんねん。センセが、顧問がおらんのに生徒だけで練習すんのはアカン、ちゅうから」
 あかねは自分の鞄とやよいの鞄、一つずつ掛けた両肩を軽くすくめ、
「大会近いのに練習なしとかありえへん、って、最初は不満タラタラやったけどな。・・・ま、そのお陰でこうしてやよいの付き添いできるんやから、センセに感謝せな、な?」
 そう言って、破顔した。
 自分に向けられたその笑顔に、やよいはまた熱が上がっていくような、そんな感覚を覚えた。



 いつもより少し時間を掛けて、やよいの自宅マンションの、玄関扉の前まで辿り着き。
「ありがとね、あかねちゃん」
「・・・」
 やよいがにこやかにそう言うと、あかねは眉をひそめて、困ったような、少し怒ったような顔をした。その理由にまったく思い当たるところがなく、やよいは不安げに顔を曇らせた。
「アホぅ」
「いたっ!」
 所在なく立ち尽くすやよいの額に、あかねは不意にデコピンを一発食らわせ、
「あのなぁ。そんなしんどそうな顔でありがとうとか言われて、大人しゅう帰れるかいな」
 盛大に溜め息をついて、そう言った。
「え、でも・・・」
「でももイモもあるかい。ええから早よドア開けや」
 躊躇うやよいに、少し突っ慳貪に言うあかね。
「・・・今日、母ちゃんおれへんのやろ? 誰もおらん家に、病人一人放っぽって帰れるかいな」
「そう、だけど・・・」
 それでも渋っていたやよいだが、あかねがふいと表情を和らげ、
「やよいがちゃぁんとご飯食べて、薬飲んで寝るの見届けたら、大人しゅう帰るから。な?」
 半ば懇願するようにそう言うと、ようやく小さく頷いて、玄関の鍵を開けた。
「おっ邪魔っしまーす」
「・・・あ、鍵。閉めておいてね」
 このへんも結構物騒だから、と、先に玄関に上がったやよいが振り返る。
「おぅ」
 軽く返事をしたものの、団地暮らしはおろか留守宅に独りという経験すらほとんどないあかねには、鉄の扉のサムターンを回して鍵をかけるという行為はとても新鮮だった。
 がちゃり、と無機質な音がして、鍵が締まる。
(・・・なんや、嫌な感じやな)
 そう思いながら軽く眉をひそめ、あかねはやよいの後に続いた。
 案内された―――というより、勝手についてきた―――やよいの自室は、突然の訪問にもかかわらず綺麗に片付いていて、少なからずあかねを感心させた。
「あの・・・あかねちゃん?」
 と、やよいの鞄を肩にかけたまま辺りを物珍しそうに見回していたあかねに、やよいが声をかける。
「ん?」
「・・・わたし、パジャマに着替えようと思うんだけど・・・」
「ああ。ええよ?」
 おずおずと言うやよいに、あかねは二人ぶんの鞄を勉強机の足元に置きながら、ごく軽く応えた。
「・・・や、だから・・・ね?」
「だから、って何や。えぇから早よ着替えや?」
 奥歯に物が挟まったような物言いをするやよいに、少し苛立ったように、あかね。
「だーかーらー! あっち向いてて!」
 あまりの伝わらなさに、やよいが痺れを切らせて声を張った。
 ああはいはい、と、あかねは少し面倒くさそうに後ろを向く。
「そんならそうと最初っから言やぁええねん」
「・・・見ないでね?」
「見るかいな。っちゅーか、体育の時なんかいっつも一緒に着替えてるやんか。何で今更気にすんねん」
「・・・わたしだけ、ってのが、ヤなんだってば」
 熱のせいか、普段ならもっと小気味よいリズムで進む筈の掛け合いが、今日は少し辿々しい。
「あかねちゃんも一緒に着替えるなら、いいけど」
「何でウチが着替えなあかんねん」
 ブツブツ言っているうちに衣擦れの音が止んで、もういいよ、と声がかかる。振り向くと、制服はきちんとハンガーに掛けられていて、やよいはグレープフルーツ色の丸襟パジャマに身を包み、その上からいつも学校で着ているカーディガンを羽織っていた。
「? ちょぉ、どこ行くねん」
 ベッドに入るのかと思いきや、部屋を出て行くやよいにあかねが訝しげに声を掛ける。
「・・・台所」
「水くらいやったらウチが汲んで来たるで?」
 やよいの後をついて行きながら、あかね。
「・・・氷枕」
「そんなん、病人が自分でやることとちゃうやろ。ウチに任してやよいは寝ときや?」
「ん・・・ありがと。でも」
 ―――結構よくあることだし、慣れてるから、と。
 廊下の収納からゴムの氷枕を取り出しながら、やよいは小さく笑った。
 そして、台所に来ると、その言葉通り慣れた手つきで、冷凍庫から取り出した氷と水道の水をゴム枕に入れ、空気を抜いて口を金具で密封した。
「水入れたら、氷溶けへん?」
「水入れないと氷がごつごつして痛いし、枕に穴あいちゃうから」
 やよいの答えに、へー、と感心しながら、あかねは氷枕を持ってキッチンを出てゆく彼女の後に続いた。やよいはそれからリビングのキャビネットを開け、救急箱から体温計を取り出して、再び自室へ戻ると、普段使っている枕を自分で作った氷枕と取り替え、ヘアバンドを外してベッドの中に潜り込んだ。
 程なくして、ぴぴっ、と小さな電子音が聞こえる。
「どや?」
「・・・三十八度五分」
「学校で測った時より上がってるやん」
 言いながら、あかねはやよいの額にそっと掌を添えた。
「・・・あかねちゃんの手・・・冷たくて気持ちいい」
 うっとりとしたように、吐息まじりにやよいが言う。
「ウチの手は普通や。やよいが熱いねん。・・・顔もさっきよりしんどそうやし」
 あかねが額に触れる手を頬へと滑らせると、やよいはゆるりと目を閉じた。
「なんか、無理矢理押し掛けてみたけど、やよいが全部自分でやってもうて、ウチ結局あんまし役に立ってへんなぁ」
「・・・ううん」
 苦笑しながら言うあかねに、やよいは小さく首を横に振り、
「ついて来てくれて、嬉しかった」
 ありがとう、と微笑んだ。
「・・・ほな、病人は早よ寝ぇや」
 あかねは照れ隠しのように殊更に素っ気なく言うと、やよいの額にかかる髪を無造作にかき上げた。
「寝て起きたら・・・ちっとは、楽になるとええな」
 けれどすぐに優しい声音に戻るあかねに、やよいは素直に頷いて、目を閉じた。



 ―――どれくらい、眠っていたのだろう。
 やよいが眠りに就いた時には、窓から射し込む光が部屋を満たしていた。今、窓の外は真っ暗で、辺りを照らしているのは人工の光だ。
 喉の渇きを覚えて、やよいはベッドに肘をついてゆっくりと起き上がった。体が、酷く重い。熱はまったく下がっていないようだ。むしろ、先刻よりも上がっているかもしれない。測ってみよう―――とりあえず、水を飲むのが先。
「お、やよい。目ぇ覚めたか?」
 と、自分を呼ぶ声が、聞こえた。
 見ると、あかねが勉強机の椅子に座ってこちらを見ている。
「・・・・・・あかねちゃん? どうして―――」
 少し掠れた声で、ぼんやりとした様子で、やよいが尋ねる。
 眠るのを見届けたら帰る、あかねは確かそう言っていた筈では―――
「何でて。せやから病人たった一人で放っぽって帰れるかいなて言うたやろ。何べんも言わすなや」
 アホぅ、といつもの調子で、あかね。
「ぁ―――」
 不意に、やよいの瞳から涙が零れ落ちた。
「!? ちょお! 何で泣くねん!?」
 あかねは慌てて立ち上がり、
「何やぁ・・・ウチ、そんなにキッついこと言うたか・・・?」
 狼狽えながら、恐る恐るやよいの顔を覗き込む。
 やよいが首を横に振ると、
「ほんなら、何や・・・苦しいんか?」
 あかねはそっとやよいの背中に手を添えて、ゆっくりと撫でた。涙は、我知らずぽろぽろと溢れ出す。
「・・・なんでもない」
「そんだけ泣いとって、何でもないことあるかぃ」
 かぶりを振るやよいに、少し困ったように、あかね。
「・・・あの、ね」
 やよいは掠れ気味の声で訥々と、囁くように、
「・・・あかねちゃん、私が寝たら帰る、って、言ってたから。窓の外、真っ暗だし、あかねちゃんも帰っちゃって、またいつもみたいに、一人なんだと、思ってたから。あかねちゃんの顔見たら、何だか、ほっとしたっていうか・・・ほんと、ごめんね。こんなことで泣いちゃって」
 そう言って、苦笑した。
「・・・『こんなこと』やあらへんで?」
 あかねはそう言って、パジャマの袖口で涙を拭うやよいの頭にぽんと手を載せた。
「それでのうても病気ん時は心細いのが当たり前やのに、こんな人気のない家に独りぼっちなんてな。ちょっとぐらい泣いたかて、ちっともおかしいことあらへん」
 そして、幼い子供にそうするように、くしゃり、と髪を掻く。
「それどころか。やよいは何でもひとりでできて、ホンマ偉いわ。ウチなんか、よう真似せん」
「・・・そんなこと」
 ないよ、と、消え入りそうな声で、やよい。
「そんなことあるて。・・・せやから、病気ん時ぐらい甘えてええねんで? っちゅうか、ウチが甘やかしたいねん」
 あかねは軽く笑ってそう言うと、熱を持ったやよいの額に、自分の額を押し当てた。
「家にはさっき、やよいん家に泊まるて電話しといたから。今日はずっと、ウチが傍についとったる。やよいがいつ目ェ覚ましてもええように、朝までずっと、傍におるで」
「っ―――」
 あかねの言葉に、やっと涙を拭い終わったやよいの大きな瞳から、再び大粒の涙が零れ落ちた。
「あぁ・・・また泣きよる」
 ホンマ泣き虫やな、と、あかねは愛おしそうに、揶揄うように笑って、指の背でやよいの涙を丁寧に拭う。
「とりあえず。なんか欲しいもの、あるか?」
「・・・水」
 鼻をすすりながらやよいが答えると、あかねはお安い御用や、と微笑んで立ち上がり、
「あー・・・すぐ戻って来るから、な。ええ子で待っときや?」
 そして、少し悪戯ぽい笑みを浮かべてやよいの頭をくしゃりと撫で、台所の方へと姿を消した。 
 ―――彼女の気配が、たとえ一時でも離れてしまうことが、寂しい。
 そう思ったのが、顔に出てしまっていただろうか?
 熱のせいだけではなく火照る頬を両手で押さえながら、やよいはすっかり温くなってしまった水枕に再び頭を預けた。

《fin.》

  


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