Especially for You


 今日は特別、スペシャル・デー。
 一年一度の、大チャンス。


 バレンタインのことを歌った、そんな歌が確か、あったような気がする。


 花咲つぼみは、勉強机の上の箱を大事そうに鞄に収めた。パールホワイトの包装紙に、ピンクのリボンをかけたスリムな箱の中身は、十四年の人生で初めて手作りしたトリュフチョコレート。初めての割にはよくできたと、自分でも思う。こういうのをビギナーズラックというのだろうか。
「……よし!」
 自分で自分に気合いを入れて、つぼみはこの日、いつもより三十分早く家を出た―――が。


 学校に着いたところで、つぼみは自分の考えがいかに甘かったかを痛感した。
 校門から生徒玄関までのアプローチはすでに、黄色い声をあげる女子生徒たちの大群衆で混沌としている。喧噪に耳を傾ければ、「生徒会長」「明堂院先輩」という単語が聞こえてきて、この人垣の中心にいるのがいつきだということを確信させる。ただ、人が多すぎて肝心のいつきの姿は全く見えない。
 三十分早いくらいではどうにもならない。いつきに手が届く場所を陣取りたければ、一時間、もしかしたらそれ以上、早く家を出なければ到底無理だ。だが、早く来たところで、これだけの人の中で流されず押しのけられず無事いつきの元にたどり着くなど、自分にできるだろうか。ましてや、この人垣を押しのけかき分け進むなんて。
 それだけのことを一瞬で考え、つぼみは溜息をひとつ落とすと、人だかりの横をすり抜け、自分の靴箱を目指して歩いた。


「去年も結構アレだったけどさ」
 ボヤくように言って、えりかはお弁当の唐揚げを頬張った。
「こほひわまは、ひっほうふほいね」
「何言ってんのか全然わかんないよ」
 苦笑しながら、ななみがツッコむ。そう言う彼女の弁当は、妹とお揃いのキャラクター弁当である。
「『今年はまた、一層すごいね』……って。何のことですか?」
「今のわかったんだ!?」
 つぼみの驚異の理解力に、るみこが呆れたように感嘆した。
「アレよ、アレ」
 唐揚げを飲み込んで、えりかは廊下を指す。箸で指すなんてお行儀悪いですよ、と、すぐにつぼみに窘められた。
 教室の前の廊下は、今日はいつもと比べてひどく人の往来が多い。ついでに言えば、歩いているのは女子生徒ばかりだし、このフロアには二年生の教室しかないのに一年生や三年生の姿がやたら目に付く。
「アレみんな、いつきにチョコ渡しに行く子っしょ? 二年生になってから、ますますモテるようになったよね、いつき」
「えー、あたしの情報によると」
 クラスきっての情報通、かなえがカットイン。
「放課後は生徒会の仕事と部活の邪魔になるから、チョコの受け渡しはそれまでの時間でお願いしますって、会長サイドから声明があったらしいわよ」
「んーでもさ、これじゃご飯も食べてらんないんじゃん? ほんほ、はいへんほへ」
 言い終わるより先にシューマイを口の中に突っ込んで、えりか。
「食べながら言われてもわかんないって」
「……ほんと、大変ですね」
「なんで分かるのよ」
 るみこのツッコミを聞き流し、箸を置きつつ、つぼみはまた一つ、溜息をついた。


 冬は、園芸部にとって閑散期である。
 それでも、部長のつぼみが週に一度か二度はジャージを着て放課後の時間を過ごす程度には仕事があった。
「……つぼみ」
 校舎裏の一角、小さな山にかけられた黒いビニールをめくると、少し湿った大量の枯れ葉。腐葉土にするために、秋に皆で集めた落ち葉である。つぼみがやろうとしているのは、これを大きなフォークで攪拌する作業だった。
「……つぼみ?」
 落ち葉の山にフォークを突き刺し、えいっと持ち上げると、黒くなって朽ちかけた落ち葉から、僅かに白い湯気が立つのが見えた。発酵が進んでいる証拠である。つぼみは、微かに口元を綻ばせた。
「つーぼーみー」
 と、不意にどこからか自分を呼ぶ声がして。
 辺りを見回すが、人の姿はなく、
「こっちこっち。上、上」
 言われて見上げれば、窓から白い詰襟の生徒会長が顔を覗かせていた。
「い、いつき!?」
 目が合うと、いつきは嬉しそうににっこりと笑って手を振った。つぼみも笑顔で軍手の右手を振って応える。いつきの後ろからはがちゃんがちゃんと輪転機のせわしない音が聞こえてきて、そこが印刷室だということに思いが至る。
「生徒会のお仕事ですか?」
 大変ですね、とつぼみが労うと、いつきはうん、と頷いてまた笑い。
「印刷して、製本するのに放課後目一杯かかりそうなんだ。下校時間ギリギリか、ちょっと過ぎちゃうかもしれないけど、それでもよければ……今日、一緒に帰らない?」
 後ろを少し気にしながら、終わりの方は少し声のトーンを落として、そう言った。
「え?」

 一緒に帰ろう、って。
 いつきはそう言った?
 今日は二月十四日、聖バレンタイン・デー。大勢の女子生徒が、いつきにチョコレートを渡そうと機会をうかがっている。放課後なんて、それこそ待ち伏せのチャンスではないか。また今朝のように囲まれて、近付くどころか姿を見ることすらできないのではないか。もし近付けたとして、一緒に帰ることなど果たしてできるのだろうか。

 ―――けど。
 それは多分、いつき自身が一番よく分かっているはずで。
 そんなことは百も承知で、それでも、この特別な日に一緒に帰ろうと言ってくれるいつきの申し出を、はたして断っていいものか。

「っ、あ、はい! 喜んでっ!」
 瞬きをするほどの僅かな時間の間にそれだけのことを考えて、つぼみはぶんぶんと首を縦に振った。
「……ほんとに? 無理、してない?」
 そんなつぼみの様子を見て、いつきは少し訝ったように眉を顰めたが、
「いえっ、そんなことないです! ……嬉しいです、とても」 
 つぼみがそう言うと、いつきはよかった、と安心したように顔を綻ばせ、
「じゃ、下校時刻に靴箱のところで待ってて。もしかしたら、ちょっと遅くなるかもしれないけど」
 そんな簡単な約束を残して、再び窓の奥へと姿を消した。

 一頃よりも少しだけ日が長くなったとはいえ、下校時刻ともなるとすっかり陽も落ち、闇が辺りを支配しはじめる。
「あら、花咲さん」
 人気のない生徒用の玄関でつぼみに声をかけたのは、つい今しがた生徒の下校を促す校内放送をかけた、放送委員のクラスメイト。
「……岩男さん」
「誰かと待ち合わせ?」
 鴬嬢はローファーに足を入れながら、小首を傾げ、先刻の放送と変わらぬ澄んだ声で尋ねた。
「ええ、まあ」
 お茶を濁すような返事に悪戯心がくすぐられ、
「あ。もしかして……男子とか?」
「ひぁっ!?」
 鴬嬢が軽く冷やかせば、つぼみは声をひっくり返して狼狽える。
「そっ、そそそそんな、違います、違いますぅっ!」
「あ。その慌て方、なんだか怪しいなー」
「めめめ滅相もないです、そんなんじゃ、ないです、全然! 全然!」
 ぶんぶんと音がしそうなほど首を振るつぼみに、鴬嬢は毒気を抜かれてぷっと吹き出した。
「……うん。どっちにしても、こんな遅くに学校に残ってるの、先生に見つかったら怒られるから」
 そして、くすくすと笑いながらマフラーを巻き直すと、気をつけてね、と言い残して、夕闇の中へと歩き去っていった。

 再び、静寂が訪れる。

(そんなんじゃ、ない……です、けど)
 落ち着きを取り戻したつぼみは、鴬嬢とのやりとりを思い返した。
(だって、いつきは女の子ですし)
 ―――けれど。
 彼女の言わんとするところが、所謂、お付き合いをしている人だとか、好きな人、のことだとしたら。
(それは―――)
 つぼみは、鞄の中に仕舞った小箱のことを思う。

 がらごろがたがらごろがたがらごろがたがらごろがたがら

 と、突如、無人の廊下に鳴り響くけたたましい音が、つぼみの思考を遮った。何か歪な物を転がすようなその音は、次第にこちらに近づいて来て。
「……ごめん、遅くなって。随分待たせちゃったね」
 薄暗い廊下を、段ボールを幾つも載せた台車を押しながら、いつきが姿を現した。ぴんと伸ばした白詰襟の背筋にすらりと長い手足、王子様然とした端正なルックスと、あちこちペンキが剥げて錆の浮いたボロ台車や段ボールに印刷された『柿の種』の筆文字が、ミスマッチも甚だしい。
「あ、いいえ。大丈夫です」
「もうちょっとだけ、待っててくれる?」
 微笑むつぼみに、いつきはすぐ戻るから、と言い残すと、再び台車をがらがらと押し進めた。

 ほどなく、いつきは自分の鞄だけを持って戻ってきた。
「お待たせ」
 ごめんね、と申し訳なさそうに言ういつきに、つぼみは微笑んで小さくかぶりを振る。
「生徒会って、大変ですね。こんな遅くまで荷物運びなんて」
「え? あ、いや」
 上履きを靴箱に収めながら、いつきは少し口ごもる。
「あれは、違うんだ……個人的な荷物で、生徒会の荷物じゃなくて……えっと、つまり」
 意味を解りかね、首を傾げるつぼみに、いつきは少し逡巡して。
「あれは……チョコレート、なんだ。今日、貰った」
 観念したように、そう言った。
 つぼみは、いつきの言葉を反芻し。
 先刻通り過ぎた段ボールの山を思い出して、
「ふぇえぇっ!?」
 驚きの声を上げた。
「……さすがに、歩いて持って帰るのは無理だし。事務室でお母さんがまだ仕事してるから、車で持って帰ってくれるように頼んできたんだ」
「はあ……」
 玄関タイルに靴の爪先をとんとんと打ち付けるいつきの長い脚をぼんやりと眺めながら、つぼみは、鞄の中の小箱のことはもう心の奥底に仕舞って、蓋をしようと決めた。


 生徒会長の、引継の進捗だとか、園芸部の、腐葉土の発酵の進み具合だとか。
 ファッション部の新入部員教育に関するえりかの奮闘だとか。
 そういえば、と次々に話題は変わり、
「いいなぁ」
 いまは、今日一日でえりかに落とされた雷の数についてつぼみが報告をしており。
「生で見たかったな、それ。来年、一緒のクラスになったら見られるかな」
「いつき……それ、えりかの前で言っちゃだめですよ?」
 つぼみがそう言って苦笑したところで、丁字路に灯る街灯が二人の視界に入った。そこを真っ直ぐ進めば、その先にはいつきの自宅。左に曲がれば、フラワーショップ花咲と、お隣のフェアリードロップス。
 やがて、どちらからともなく足を止め。
「……じゃあ。また、明日」
 体ごと向き直りそう言うつぼみを、いつきはちょっと待って、と引き留め。
「あの、うん、えっと……その、もし、よかったら」
 暫し逡巡してから、鞄の中を覗き込み、小さな包みをひとつ、取り出した。

 ―――パールホワイトの包装紙で丁寧に包まれ、金色のリボンが十字にかけられた、細長い箱。

「……これ。受け取って、貰えるかな」
 そう言っていつきは、その包みを両手で捧げるように、つぼみへと差し出した。
「ええっ!? そっ、そんなっ! 駄目です! 受け取れません!」
 素っ頓狂な声を上げ、胸の前で両手を振るつぼみ。
「…………どうしても。駄目、かな」
 いつきは苦笑し―――苦い、というよりは、苦しそうに、力なく、微笑した。
「はい。だって、バレンタインの贈り物には、贈られた方の想いが込められているものですから。いくらいつきが沢山頂いたからって、関係ない私がお相伴にあずかるわけにはいきません」
 ゆっくりと、きっぱりと、つぼみは言った。
「そ……え、ん?」
 きょとん、と目を見開き、首を傾げるいつき。
「え?」
 予想外の反応に、つぼみが戸惑う。
 いつきは困ったように微苦笑した。
「いや、あの。これは貰い物じゃなくて、正真正銘、僕が自分で作ったチョコなんだけど」
「え」
 一。
 二。
 三。
「えぇぇぇぇえぇえぇえっっっっ!?」
 いつきの言葉を三秒かけて理解し、つぼみは素っ頓狂に声を裏返らせて叫んだ。
「そんなに驚かなくてもいいじゃないか」
 酷いなぁ、と、また困ったように微苦笑するいつきに、つぼみはごめんなさい、と慌てて頭を下げる。
「僕だって一応、女の子の端くれだからね。そりゃ、バレンタインには、好きな人にチョコレートを贈りたい、って思うよ」
「そんな、端くれなんて。いつきはちゃんと……って、えっ、あっ」
 あまりにもさりげなく、さらりと告げられた『好き』という単語に、つぼみはワンテンポ遅れて反応した。夕暮れの薄闇の中でもそれと分かるほど顔を赤らめて、のっ、とか、ほっ、とか、意味不明な音声を発している。
「だから。あらためて、花咲つぼみさん」
 くすくすと笑いながら暫しその様子を眺めていたいつきは、姿勢を正し、穏やかな表情に真剣な瞳と声を彼女に向けた。
「はっ、はいっ!」
「受け取って、頂けますか」
 つぼみは暴れる心臓を右手で押さえながら一つ、二つ深い呼吸をして、何とか落ち着きを取り戻すと、
「…………よろこんで」
 小さな声で、けれどはっきりと、そう答えた。
 安堵したように微笑むいつきが差し出す小箱に、手を伸べ、
「あっ」
 突然、何かを思い出したように動きを止めるつぼみ。
「えっ」
 いつきの表情が再び、不安に曇った。
 それに気付いているのかいないのか―――おそらく気付いていないだろう―――つぼみは自分の鞄の中から、小さな箱をひとつ、取り出した。
「ええと、あの……実は、私も」
 パールホワイトの包装紙でラッピングされた、スリムな箱。
「これを、いつきに、渡したくて」
 つぼみの鞄の奥で、朝からずっと眠っていたそれは、かかっているリボンが鮮やかなピンクであることを除けば、いつきの持っているそれと瓜二つだった。
「僕に?」
 いつきは目を見開いて、けれど静かな口調で、問うて。
 はい、とつぼみが小さく頷くと、
「……どうしよう。すごく、嬉しい」
 そう言って、破顔した。
「つぼみから貰えるって、思ってなかったから」
「あんなに沢山貰ったのに、ですか?」
 案外欲張りさんなんですね、と、少し揶揄うように言うつぼみを、
「そりゃ、ね。百万個のチョコだって、好きな人からのたった一つには敵わないよ」
 いつきはその一言で、返り討ちにした。

  HONG-HONG

 二人の来た道を、一組のヘッドライトが、軽くクラクションを鳴らして後ろから近づいてくる。やがてそれは二人の側で停まり、
「こんばんは、つぼみちゃん」
 開いた窓から顔を出したのは、いつきの母。娘や息子と同じく花木の名を持つ彼女の名は、明堂院つばきという。
「こっ、こんばんは!」
 声をかけられて正気に戻ったつぼみは、チョコレートの包みを後ろ手に隠し、勢いよくお辞儀をした。椿の君は、いつきによく似た面差しでつぼみに微笑みを返すと、我が娘を軽く睨めつける。
「ちょっと、いつき。こんな大荷物なら、ちゃんと自分で車に積み込んでおいて頂戴。お母さん腰が抜けるかと思ったわ」
「あー、ごめんなさい」
 腰が抜ける、というイメージとはほど遠く若々しい見目の母が軽口のようにそう言うと、いつきは頭を掻きながら気の抜けた謝罪の言葉を述べた。
「ま、いいわ。車から降ろすくらいは自分でやってよね。あと、来年は自分でリヤカーでも引いて持って帰んなさい」
「えーっ」
「じゃ、つぼみちゃん。こんな子だけど、仲良くしてやってね」
 いつきの反応に満足したのか、彼女はくすくすと笑いながらそう言い残し、走り去っていった。
 あとには、すっかり冷静さを取り戻した二人が残され。
「……あの、じゃあ、これ……交換、しましょう」
「……そうだね」
 お互い、一晩かけて用意した贈り物を交換し、受け取ったそれを、大事そうに胸に抱くと。
 どちらからともなく、笑みを浮かべた。
「じゃあ……また、明日」
 そして、今日の別れを、いつきの方から切り出すけれど、
「はい。また、明日」
 ふたりで過ごすこの時間を、もう少しだけ引き延ばしたくて。
「……ちょっと待って」
 ゆっくりと背を向けるつぼみを呼び止めて、
「やっぱり、送って行くよ。もう暗いし」
 もう一度、肩を並べた。

 ―――Happy Valentine!


《fin.》

  


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