Dear Enemy
ノーブル学園 学生寮 寮則(抜粋)
第二十一条 体調不良者の扱い
寮生が体調不良を訴えたときは、状況によって次のような措置をとるものとする。
一、安静・休養によって回復が見込まれるときは、休養室で休養するものとする。寮職員は、昼夜を問わず、体調不良者を常時観察し、必要な処置を行う。
二、寮生本人が医師の受診を希望した場合、又は寮職員がその必要があると判断した場合は、保護者の了承を得て、学校医の診察を受けることができる。
KNOCK-KNOCK-KNOCK
遠慮がちな、ノックの音。
どうぞ、とトワが応えると、少しあって、ドアが開いた。
「……トワちゃん。入って、いい?」
半身を覗かせ、遠慮がちにそう尋ねたのは、七瀬ゆい。トワの素性を知る数少ない人間の一人である。
「どうぞ」
トワがくすりと小さく笑って答えると、ゆいは部屋の中に身を滑り込ませ、丁寧にドアを閉めた。
「具合、どう?」
そして、トワの勧めに従ってベッドサイドの丸椅子に腰を下ろすと、小さな声でそう尋ねる。
「ええ。朝と比べたら、随分楽になりましたわ」
答えて、トワはゆっくりと身を起こした。
起きなくていい、と制止するゆいに、彼女は首を横に振り、
「いったん楽になると、今度は退屈ですの」
悪戯ぽく笑う。
「そう? ……それじゃあ、これ、渡しても大丈夫かな」
寝間着の上にカーディガンを羽織りながら、何ですの、と首を傾げるトワに、ゆいは一冊の文庫を差し出した。
「この間の本の続編だよ」
「まあ」
あのお話に続きがありましたの、と、トワは目を輝かせる。読書家の彼女は、日頃図書館の本やみなみの蔵書をよく借りて読んでいるが、とりわけゆいの薦書には絶対の信頼を置いていた。
「続き、っていっても。主人公はジュディじゃなくてその友達のサリーで、ジュディはジャーヴィスと結婚しちゃっててほとんど出てこないし、タイトルだって、わかりやすいように『続』なんてつけてあるけど、ほんとうは『Dear Enemy』、親愛なる敵さま、っていうタイトルだし」
慌ててゆいは説明を加えた。過度の期待をしてトワが落胆しないよう、というのもあるけれど、彼女は概して、本の話をする時には饒舌だった。
「……でも。私は、この続編の方が好き、なんだ」
「そうですの」
ますます読むのが楽しみですわ、とトワは微笑んだ。
と。
「あ」
サイドテーブルの上に、フルーツゼリーだの、缶ジュースだのが色々と置かれているのが、ゆいの目に留まる。
「……さすが。トワちゃん、人気者だね」
一瞬何のことか解らずきょとんとしたトワだったが、すぐに、いいえ、と小さく首を横に振った。
「皆さんが、お優しいのですわ。わたくしは、何も」
トワはそう言うが、本物のプリンセスのカリスマ性はさすがというべきか、実際彼女の人気は抜群だった。一年生の今で、これだけの『貢ぎ物』が集まるのだ。上級生ともなれば、さぞかし人心を集めることだろう。
「……皆さん、いろいろな物を持ってきてくださいました。幼い頃、熱を出した時に食べさせて貰ったものだ、といって」
ぼんやりと、独り言のように言うトワの、
「……トワちゃん?」
表情と声音に挿す翳りを。
「何か、辛いこと、あった?」
ゆいは、見逃さなかった。
「誰かに、何か言われた、とか」
柔らかな口調で、問い。
暫し、沈黙。
トワの答えを、ゆいは辛抱強く、待つ。
やがて、
「……本当に。ゆいは、聡いんですのね」
そう言って、トワは苦笑した。
「皆さんに、悪気がないことは、よくわかっています」
そして、膝に掛けたブランケットを見つめ、そっと目を閉じる。
「ただ、わたくしには、皆さんのように語れるほど、幼い頃の思い出らしいものが無い。……それだけのことです」
ゆいは息を呑んだ。
「ディスピアに攫われた時のわたくしはあまりに幼く、それまでの記憶はとても断片的で。ディスダークでは、家族の温もりというものを知らずに育ちましたから」
「……トワちゃん」
「……だから。ほんの少し、少しだけ。羨ましかっただけ、ですわ。お母様が、りんごを擂り下ろして食べさせてくださった、だとか。ご兄姉が、自分のぶんのデザートを分けてくださった、だとか。懐かしむように、話してくださる皆さんのことが、一寸だけ」
------眩しかったんですの。
そう言って、俯いたまま、細く長い息を吐いたトワの言葉の、最後は少し、震えていた。
そして再び訪れる、沈黙。
「ごめんなさい、ゆい」
沈黙を破ったのはやはり、トワだった。
「こんな泣き言を、聞かせてしまって」
横顔で、そう告げる。
「……ううん」
ゆいは小さくかぶりを振った。
「私は、嬉しいよ。こんな風に、トワちゃんが自分の弱いところ、見せてくれるの。楽しいとか、嬉しいとか、そんなことばかりじゃなくて」
そして、漣のような声で、語りかける。
「悲しいとか、辛いとか、寂しいとか、羨ましいとか。トワちゃんが、ほんとの気持ちを私に見せてくれるの。なんだか、トワちゃんの『特別』になれた気がして」
「『気がする』ではありませんわ」
トワは顔を上げ、少し眉根を寄せて微苦笑し、
「ゆいは間違いなく、わたくしの『特別』でしてよ」
もっと自信を持ってくださいな、と。
そう注文を付けた。
「……うん」
ゆいは少しはにかみ、曖昧に微笑んで、頷いた。
「……だったら」
少し考えて、ゆいが口を開く。
「ちょっと、思うことがあって。このままずっと言わないでおこうかな、とも思ったんだけど。やっぱり、言うね?」
気を悪くしたらごめんね、と、前置きをして。
「私、ね。ほんの少し……本当に、少しだけ、だけど。ディスピアに、感謝してる」
トワの瞳が、驚きに見開かれる。
「ゆっ------」
「もちろん、」
彼女の口が抗議の声を上げるより先に、ゆいが言葉を継いだ。
いつも内気な彼女が、今日は真っ直ぐに、トワの目を見つめ。
「ディスピアのやったことは許せないよ。まだ小さかったトワちゃんを攫って、家族から引き離して、記憶を奪って。トワちゃんのふるさとを、滅茶苦茶にするなんて。だから、私たちは絶対に、ディスピアをた……止めなきゃいけない。そう思ってる。だけど」
そうして、普段あまり多くを語らない彼女が、懸命に、自分の思いを口にする。
トワは自分の言葉を飲み込んで、彼女の言葉に耳を傾けた。
「けど……私は、今のトワちゃんが、好き。大好き。だから、今までトワちゃんが歩いてきた道、今のトワちゃんをつくってるもの------ホープキングダムも、ディスダークも。トワイライトだったことも、ディスピアさえも。何も、否定したくないの」
そして、今日のゆいは、日頃あまり好まない、断定的な物言いをする。
「……ゆい……」
「もしも、トワちゃんがディスピアに攫われなかったら、なんて。そんなこと、考えても仕方のないことだけど、でも。もしも、そのことが無かったら、トワちゃんは今のトワちゃんとは違う人だったかもしれないし、そもそも、私たちは出会わなかったんじゃないかって思う。何より」
息を継ぐ間も惜しむように一気に言葉を紡いだゆいは、そこで一度言葉を切った。
「たとえ、ひとときでも。トワちゃんにとって『お母さん』だったひと、だから」
「!」
トワが、息を呑む。
「------だから、一寸だけ。ほんの、少しだけ。ディスピアに、感謝してもいいのかな、って思うし、できることなら、ディスピアを、倒すんじゃなくて、どうにか、説得。できないかな、って」
言葉が、途切れた。
トワの瞳が、ゆらゆらと揺れる。
答えは、ない。
「……ごめんね、一方的に、言いたいことだけ言っちゃった」
------嫌な気持ちにさせてたら、ごめんね。
そう言って、ゆいは不安げにトワを見つめた。
「いいえ」
小さく首を横に振り、トワがようやく絞り出した声は、少し震えていた。
ブランケットの上で組んだ両手に視線を落とし、深い呼吸を数度。
「……わたくしは」
そして、ゆっくりと、慎重に、言葉を選ぶ。
その声はもう、震えてなどいなかった。
「知らぬ事とはいえ、祖国を滅ぼした憎き敵たる絶望の女王に育てられ、あまつさえ母と崇めていたことを、心の底から、恥じています。そして、その手先として人々に絶望を振り撒いたことを、悔いています」
「……うん」
トワが紡ぐ言葉に、今度はゆいが耳を傾ける。
「かといって。今更、違う自分になるなどということが、できようはずもありません。これまで過ごしてきた時間、行ってきたことの全てを、無かったことになど、できないのですから」
「うん」
横顔のトワに向かって、ゆいは小さく頷く。
「ですから。わたくしは、自らの罪を抱いたまま、前に進もうと決めました。そして恐らく、そのことによって、わたくしはプリキュアの力を与えられました------けれど」
トワは一度、ぎゅっと目を閉じ、そして、開いた。
「日々の、学園での暮らしのなかで。わたくしの、立ち居振る舞い、言葉遣い、教養、バイオリンの嗜み、そういったものを褒められるとき、わたくしの心には、暗澹としたものが立ちこめるのです。なぜなら、わたくしのそういった資質は皆、ディスダークの王女、プリンセス・トワイライトとして、女王ディスピアによって躾られたものなのですから」
トワは膝の上のブランケットを握りしめた。
ゆいは変わらぬ調子で、うん、と頷く。
「……わたくしを賞賛してくださる方に、そのことを告げたなら、いったいどんな反応をなさるのか。試してみたくなる衝動に、駆られそうになる自分が、確かにわたくしの中にはいるのです。そして、そのことを------ディスピアに、プリンセスとしての嗜みを、厳しく躾られた自分を。誇らしく思っている自分が、心のどこかに、いるのです」
はらり、と。紅玉の瞳から涙がひとすじ、零れた。
「ほんの数年のこと、とはいえ。確かにわたくしは、ディスピアを母と信じ、尊敬し……心から慕って、いました。勿論、その手先となって人々に絶望を振りまいたことは、言語道断です。ですが、プリンセスたるもの、気高く尊く麗しくあれと、その母に厳しく叱咤され、期待に応えるべく懸命に励んだことの、全てが間違っていたわけではないはずだ、と。そう叫ぶ自分が、わたくしの中に、いるのです」
涙はあとから、あとから溢れ出る。
「あの頃のわたくしが、全身全霊を懸けて信じたものの、全てを。否定しないでほしい、そう思う自分が------」
「……うん」
ゆいは丸椅子から立ち上がると、ベッドの上に膝を乗せ、トワに向かって両手を伸ばした。
「だいじょうぶ」
そうして、流れる涙ごと、彼女を抱き締め、
「間違って、ないと。思うよ」
そっと、宥めるように。カーディガンの背中を、撫でる。
手のひらで、ゆっくりと、呼吸のリズムに合わせて。
「トワちゃんを見てるとね、思うんだ。ディスピアって、案外、ちゃんとしたお母さんだったのかも、って」
「! ゆ------っ、」
トワの声は、ゆいの名を成す前に、嗚咽に変わった。
ぽん、ぽん、と。
ゆいの手のひらが、トワの背中で、ゆったりとしたリズムを刻む。
「……あの日」
不規則にしゃくり上げる呼吸の合間に、トワは言葉を続けた。
「封じられていた記憶が、戻り。自分の、生い立ちを知った、時……最もわたくしを打ちのめしたのは。ディスピアが、実の母ではなかったという、そのことでした」
「……うん」
ゆいはやはり変わらぬ調子で、頷く。
「わたくしを、苦しめたのは。我が祖国のありさま、でもなく。自らが犯した罪の重さ、でもなく。ただ、母のこと------信じていたものが、打ち砕かれたこと、でした」
------自分勝手で。呆れる、でしょう?
そう、呟くように、自嘲するトワを、
「……ううん」
ゆいは両腕で抱きしめたまま、小さく首を横に振り。
「それが、普通だと思うよ」
先刻までと変わらぬ調子で、そう言った。
「普通、ですか」
「うん」
普通だよ、と。
何でもないことのように、ゆいが言うと。
トワは、ゆいの肩口に顔を埋め、ありがとう、と呟いた。
「……もしも、」
落ち着きを取り戻したトワが口を開くと、ゆいは腕を解き、彼女の顔を見た。
「もう一度、ディスピアと相見えることがあったなら。今一度、その真意を糺そうと思います。そして、」
そう言って、トワは伏せていた視線を上げた。
「その答え如何に、よっては。わたくしも、覚悟を決めようと思います」
極上のルビーを思わせる、濡れた瞳が、ゆいを見つめる。
「……強いね。トワちゃんは」
「母の躾の、賜物ですわ」
泣きそうな表情で微苦笑するゆいに、トワは悪戯ぽく笑って肩を竦めた。
「それと、あの……今日、ここでお話ししたこと、ですけど」
「うん。大丈夫」
一転、少し俯き加減に視線を落としたトワの言葉を、先取りするようにゆいが言う。
「誰にも、言わないから。あと、私の言ったことも------」
「ええ」
トワはにこり、と微笑みで応えた。
「わたくしも。誰にも、言いません……『太陽と月のあらん限り』。厳かに、誓いますわ」
「『赤毛のアン』だね」
ゆいが破顔する。
「読んでいる間、ずっと。ダイアナに、ゆいを重ねていましたの」
「そういえば、トワちゃんも、赤毛だしね」
「『にんじん』なんて呼ばないでくださいね」
------わたくし、ゆいのことを石版で殴りたくはありませんもの。
トワがそう言うと、二人は顔を見合わせて、愉快そうにくすくすと笑った。
と。
不意に、トワはゆいの手に自分の手を重ね。
「……『太陽と月のあらん限り。我が腹心の友、七瀬ゆいに忠実なることを。我、厳かに、誓います』」
本の中の少女そのままに、歌うように、誓いの言葉を述べた。
そうして投げられた視線に、ゆいは微笑みで応える。
「『太陽と月のあらん限り。我が腹心の友、紅城トワに------』」
「その名ではなく」
ゆいの言葉を、不意に、トワが遮った。
「……世を忍ぶ、仮の名ではなく。ほんとうの名前で、呼んでくださいまし」
そう言って真っ直ぐに見つめるトワに、うん、と小さく頷いて、ゆいは彼女の手に自分の手を重ねた。
「……『太陽と月のあらん限り』」
そして、もう一度、最初から始め、
「『我が腹心の友、ホープ・ディライト・トワに、忠実なることを。我、厳かに誓います』」
誓いの言葉を述べると、どちらからともなく微笑んで、互いの額を重ねた。
Ding-Dong, Ding-Dong
遠くで、古時計が時を告げる音がして。
「……そろそろ、戻らなきゃ」
名残惜しそうに、ゆいはベッドから下りた。
「……ありがとう、ございます。ゆい」
明日は授業に出られそうですわ、と穏やかに笑むトワに、よかった、と笑顔を返して、ゆいはドアノブに手をかけた。
「おやすみ、トワちゃん」
「おやすみ、ゆい」
そして、いつものように。
挨拶を交わして、そっと扉を閉めた。
《fin.》
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