「起立」 最後の授業が終わり、 「礼」 号令が掛かるが早いか、私は早々に荷物をまとめにかかった。その慌ただしいことといったら、撮影がある時だって、もうちょっと落ち着いていると思う。 ―――とにかく、早く。 早く、彼女の元へ。 私の行動原理って、かなり単純。自分でも呆れつつ、私は昼休みに保健室で交わされた一連のやり取りを思い出す。 ・ ・ ・ 「三十八度六分。よくまあ、ここまで我慢したわね」 養護の先生は、体温計とゆりの顔を交互に見ながら嘆息した。 「かなり辛かったでしょ」 「・・・いえ・・・それほどでも」 ゆりは例によってポーカーフェイスを装うけれど、残念ながら熱っぽさがばっちり顔色に出ているし、反応速度もいつもより若干鈍い。 「売れ残って半額になったサンマみたいな目で言われても、説得力ないわね」 明堂のOGだというちゃきちゃきの姉御肌の先生は、軽く肩をすくめて言った。 「サンマ、って・・・」 ゆりが力なくボヤいた。おそらく、サンマに例えられたのは人生で初めての体験だろう。 「不満ならもうちょっと高い魚にしとこうか? メバルとか、鯛とか」 「いえ・・・結構です」 ふむふむ、どうやら、ツッコむ気力もないらしい。 「痩せ我慢したって、何もいいこと無いのよ。無理して授業に出たって何も頭に入らないし、具合が余計悪くなって却って長引くし、挙げ句の果てに人にうつしたり。・・・そういうことだから、貴女は今から早退して、できれば医者にかかること。できなければ、せめて早く帰って寝る。いい?」 「・・・はい」 「今、お家にどなたかいらっしゃる?」 「・・・母が居る筈です。今日は確か、夕方から仕事の日ですから」 熱っぽい吐息混じりに答えるゆり。確かに、随分苦しそう。 「そ。じゃ、お家には私から電話しておくから。・・・来海さん、月影さんの鞄取ってきて」 「・・・荷物くらい自分で」 「いいから大人しくしてる」 「・・・・・・はい」 一旦は立ち上がろうとしたゆりだったが、先生に止められて再び力なくぺたりと座り込む。 ・・・これは、思った以上に重症だ。 私は忠犬よろしく教室へと走り、ゆりの荷物をまとめ、保健室へと取って返した。 そして、先生は電話で呼んだタクシーにゆりを押し込み、チケットを一枚握らせて、自宅へと送り返した。 ・ ・ ・ きんこーん 固い金属音のする月影家の呼び鈴を鳴らすと、 『はーい』 中から声と足音が聞こえた。ゆりによく似ているけれど、一寸違う。 「あら、ももかちゃん」 扉を開けたのは、彼女のお母さん、年齢不詳。うちのお母さんとそう変わらないだろう、とは思うけど。身長は私と同じくらい。このくらいの年代の人では、一寸珍しいかも。夕方から仕事、という昼間のゆりの言葉通り、今から出かけます、といった風の出で立ち。 「こんにちは・・・具合、いかがですか?」 「ええ。お医者さんで薬を頂いて、今はよく寝てるわ」 主語を端折った私の問いに、小母様はちゃんと答えてくれた。 「一応、プリントとか貰って来ました・・・小母様、これからお仕事、って伺いましたけど」 「ええ。こんな時くらい、家にいられればいいのだけど」 こういう時に限って、と苦笑する小母様。 「あの・・・私、暫くお邪魔しててもいいですか?」 「え?」 私がそんなことを言い出すと思っていなかったのか、小母様は、きょとんとした顔で私を見た。 「ただ傍に居るだけで、何かできるわけじゃないですし、お留守のところによくないかな、とも思います、けど」 「うちは別に、いいけど・・・ももかちゃんも忙しいでしょうし、風邪が移るといけないわ」 「インフルエンザは予防注射してますし、はしかも水疱瘡もぜんぶ経験済みですし、だいたいナントカは風邪ひかないっていいますから」 大丈夫です、と私が言うと、 「・・・それなら、お願いしようかしら」 小母様はくすくすと笑い、根負けしたようにそう言って、私を中へと招き入れてくれた。 明かりの落とされた部屋で、彼女はよく眠っていた。机の上には、眼鏡と、薬袋、水が少し入ったグラス。熱のせいか、微かに聞こえてくる寝息は、浅くて、少し速い。 「何かあったら、遠慮なく電話頂戴ね。番号は、この子の携帯に入ってるから」 そう言い残して、小母様は出かけていった。 玄関の扉がばたん、と閉まる音がして、辺りから、人の気配が消える。 静寂が、耳に痛い。 まるで、薄暗いこの部屋だけが、世界から切り離されたような錯覚に駆られる。 ―――こんな孤独が、日常の中にある、なんて。 家に帰れば常に自営業の両親とやかましい妹がいる私にとって、それは想像の外だった。 『こんな時くらい、家にいられればいいのだけど』 そう言ったときの小母様の表情に、今更ながら、合点がいく。 病気で、それでなくても心細い時に、こんな所で独りで目覚めたら、一体どんな気持ちがするだろう。 『別に。慣れてるから』 彼女のことだから、きっとそう言うだろう、けど。 私は、彼女の頬にかかる髪をそっと払った。それだけで、指先が熱を感じ取る。 ―――お節介だと言われたって、いい。 彼女が目覚めたとき、独りだと感じなくてすむように、当分居座るつもりで、私は座卓の前に腰を下ろして、教科書とノートを広げた。 「・・・ぅ・・・ん・・・」 彼女の鼻に掛かった声が聞こえたのは、英語の予習が終わろうかという時だった。 「・・・ゆり?」 返事がないところを見ると、どうやら目を覚ましたわけではないようで。 ―――彼女がこういう声を上げるのがどんな時か、私には十分すぎるほど心当たりがある。 私はシャープペンシルを放り出して、ベッドサイドに寄った。 「・・・・・・ぁ・・・」 目を殊更に固く閉じ、眉間に皺寄せた表情が、先刻見たときよりも苦しそうなのは、熱の為か、悪夢の所為なのか。 彼女の首筋に当てた指先が、早鐘のように打つ脈と、酷く高い体温を感じ取る。 「・・・ん・・・・・・て・・・」 そうしている間にも、彼女の細い声は、懸命に言葉を紡ごうとしていた。 「・・・何?」 寝言に返事をするのは良くない、って、よく聞くけれど。 私はただ、知りたかった。彼女を苦しめている、夢魔の正体を。 「・・・ぉとうさ・・・・・・ぃで・・・・・ころ・・・」 「――――――っ」 今度は、はっきりと聞き取れた。 『おとうさん』 胸が、じくりと痛む。 曝いてはいけない秘密を曝いてしまったような、そんな罪の呵責と、あまりにも悲痛な彼女の心の叫びへの共振と。 「・・・どう・・・て・・・」 閉じられた瞼の間から、涙が一筋流れて、彼女の枕に小さな染みを作った。 『どうして』 どうして、彼女はこんなに苦しまなければならないのだろう。 どうして、彼女はこんな時にしか、思いを口にできないのだろう。 どうすれば、彼女はこの苦しみから解放されるのだろう。 そんなことを思ったら、私まで何だか泣けてきた。 「・・・ゆり」 私は袖口で自分の涙を拭いて、彼女の顔を覗き込んだ。 何かにじっと耐えるように目を閉じた、彼女の顔を。 「ゆり」 そして、熱の色に染まった頬に手を添え、もう一度呼んで。 「・・・ごめん。お父さんじゃなくて」 固く閉じられた瞼に、唇を落とす。 「けど。私なら、ここにいるよ?」 そう告げて、毛布の下で、彼女の手をぎゅっと握り締め。 「私は、どこにも行かないから。ちゃんと、傍に居るから」 乾いた唇を潤すように、キスを落とす。 「・・・だから。もっと、甘えて?」 私の言葉は、届いたのか、届いていないのか。 「―――ゆり」 彼女はそれきり何も言わず、再び深い眠りへと落ちていった。 がちゃり、と玄関の鍵が開く音で、私は我に返った。どうやら、彼女の枕元に伏せて、少しうとうとしていたようだ。窓の外は、もうすっかり陽が落ちて、暗くなっている。 ぱたぱたとスリッパの足音がして、開いた部屋の扉から小母様が姿を現した。 「遅くまでごめんなさいね・・・何か、変わったことはあった?」 「いえ、特に何も・・・私こそ、遅くまでお邪魔して。その割に、何の役にも立てなくて」 言いながら私は帰り支度を整え、立ち上がった。 「そんなこと。本当に、ももかちゃんが来てくれて助かったわ」 小母様は小さくかぶりを振り、微笑む。 「そう言っていただけると。恐れ入ります」 「これからも、あの子をお願いね。・・・私が相手では、あの子は、甘えられないから」 玄関先での別れ際、そう言って、小母様は一瞬、寂しげな表情を見せた。 「・・・小母様?」 「ごめんなさい、変なことを言って」 あまり気にしないで? と小さく笑う小母様。 ―――気丈で、優しくて、そして、とても不器用。 そんなところが、彼女と、よく似ている。 「・・・いえ」 私は言葉を探したけれど、結局見つからなくて。 「それじゃ、失礼します」 何も言えないまま、その場を辞した。 ぼんやりと歩いているうちに、いつのまにか私は自宅の前まで戻ってきていた。 カーテンの隙間から漏れる部屋の明かりが、路地を照らしている。 耳を澄ませば、かちゃかちゃと食卓を用意する音や、フローリングの床を歩くスリッパの音が微かに聞こえてくる。 それらは皆、当たり前にそこにあるものだと思っていたけれど。 ―――この世界って、何て、残酷。 やりきれない気持ちを抱えたまま、溜息を一つ落として、私は玄関のドアを開けた。
《fin.》
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