五時四十二分。 私はやりかけの問題を切りの良いところまでやり終えてから、広げていた問題集とノートを閉じた。 『間もなく、最終下校時刻です。生徒の皆さんは、作業を止め、下校してください』 全部を鞄に収めたところで、放送部の鴬嬢の声が響き渡り、自習の生徒達が一斉に片付けを始めた。静まりかえっていた閲覧室が、急にがちゃがちゃと騒がしくなる。私は帰宅する生徒の波が押し寄せるより一足先に、図書館を後にした。 一人脱靴場を抜けて、帰途に就く。いつもなら隣を歩く筈のももかは、今日は午後から撮影だといって昼食もそこそこに学校を抜けて出て行った。いつもなら彼女が此処にいないことに多少寂しさを感じるのだけれど、今日は―――。 ―――今日だけは、彼女が居なくてよかったのかもしれない。 そう思いながら、私は校門を抜け、自宅とは逆の方向へと足を向けた。 初夏の午後六時はまだ辺りも明るく、おかげで、女子高生が何処へ行く当てもなく一人ふらふらしていても、特に不審がられることもない。 ・・・しかし、これからどうしたものか。 去年や一昨年の私は、どうやって今日を過ごしていた? 去年は確か、植物園で、薫子さんと、コッペ様と、それから――― 思い出しかけて、私は思考を止めた。 そして、無意識に植物園に向かっていた足を止め、踵を返す。このまま植物園に行けば、薫子さんに変に気を遣われて居心地悪い思いをするのが目に見えていた。 ・・・そうなると、本当に。 今の私には、行く当てがない。 膝を抱えて泣くどころか、そのために腰を下ろす場所もないなんて。 涙を流すことを捨てた私には、お似合いかもしれない。 橋の上に出ると、川面に照り返す夕日が眩しかった。 河原のグラウンドでは、小学生がサッカーをしている。笛の音が時折聞こえてくるところをみると、少年団の練習なのだろう。 私は、河原の斜面の草の上に座り、読みかけの新書を開いた。 十ページほど読んだところで、草を掻き分けて歩く音が背後を近づいて来るのが聞こえて、私ははっと振り返った。 「見つけた」 そこには、ももかが、昼休みに別れたときと同じく、明堂学園の制服に身を包んで立っていた。 「ももか? どうして・・・」 「ゆり、携帯の電源入ってない」 彼女は少し膨れっ面を作ってそう言いながら、私の隣に腰を下ろした。 「ああ・・・ずっと、図書館にいたから」 ごめんなさい、と私は苦笑した。 本当は、電話が掛かってくるのが嫌で意図的に切っていたのだけれど、それには敢えて触れないで。 「撮影、もう終わったの? もっとかかると思ってたけど」 「うん。ストリートで、平日の昼間高校生とかが歩いてない時間、ってことだったから、放課後の時間になったらもうお終い。それから、着替えてメイク落とすのに一寸時間取られちゃったけど。あとは帰るだけ、っても、明堂の制服でばっちりメイクはまずいでしょ?」 彼女はそう言って、鞄からミネラルウォーターのボトルを取り出した。いつも彼女が愛飲している、くびれたボトルにショッキングピンクのキャップの輸入物だ。 「飲む?」 「気持ちだけ」 私は首を横に振って丁重にお断りし、 「・・・それで。私に何か用?」 新書を閉じて、水を飲む彼女の横顔に問うた。 「ん? 別に?」 「でも、さっき『見つけた』って。私を捜してたんじゃないの?」 「ああ」 彼女はボトルに蓋をしながら、ふいと笑って、 「会いたかったから」 ごく簡潔に、そう言った。 「・・・いつも会ってるじゃない」 「好きな人に会いたい気持ちは年中無休、Open for 24 hours」 そんな恥ずかしいことを、さらりと言う。 彼女の常套手段とわかっていながら、頬が熱くなるのを禁じ得ない。 ―――けれど。 「・・・本当に、それだけ?」 私の勘が、それだけではない筈だと言っている。 私は探るように彼女を見た。 「そうよ?」 「本当に?」 「んー・・・」 じっと見つめると、彼女は困ったように唸って、 「・・・ごめん。ほんとは、気になって。その・・・」 俯いて、しどろもどろと白状しはじめた。 「気を遣われるの嫌なの、わかってるし。今日だけは、そっとしといて欲しいのかな、とも思ったんだけど。どうしても、気になっちゃって」 『今日だけは』と。 ―――彼女は今、そう言った? 「ももか・・・もしかして、憶えてたの?」 そう言う私は、きっと驚いた顔をしていたと思う。 「・・・まあ、ね。好きな人の事ですから?」 彼女は、少し照れながら、跋が悪そうに、苦笑してそう言った。 確かに、今日という日は、私にとって特別だった。 ―――三年前の今日、私の父は失踪した。 正確には、失踪したのはもう少し前なのだろう。連絡が途絶え、所在も安否も不明であるという知らせが、滞在先の警察から私達家族の元に届いたのが、三年前の今日だった。 「・・・ごめん。やっぱり、独りがよかった?」 彼女は不安げにそう言った。私はまた、難しい顔をしていたのだろう。 「ううん」 私は小さく頭を振って、 「・・・本当は、独りで家にいたくなくて、うろうろしていただけなの」 思わず本音を吐露した。 「あの日、電話を受けたのは、学校から帰って一人で家にいた私だったから。家にいると、いろいろ思い出してしまいそうで」 私は俯いたまま、言葉を続ける。 「携帯を切ってたのも、そのせい。・・・怖いのよ、電話が鳴るのが。七時に母の仕事が終わるから、その頃に駅まで迎えに行って、一緒に帰ろうと思って。それまで、どこかで時間を潰そうと思って」 彼女の顔を見てしまえば、泣いてしまいそうだった。 「ゆり・・・」 ほんの一時、気まずい沈黙があって。 彼女は不意に、私の眼鏡を奪った。 その素早いことといったら、慣れたもので。 そして、 「えいっ」 べちっ! 両手で挟むように、私の両頬を叩いた。 派手な音がして、 「痛っ!」 どちらかといえばあまり小さな事では驚かない私が、思わず声を漏らす程度には、力を込めて。 「ちょっ、ももか! いきなり何―――」 痛みとショックで、不覚にも私の目から涙がこぼれ落ちた。 「あ・・・」 一度決壊してしまえば、もう止まらない。涙は次々に、ぽろぽろと溢れ出る。 「・・・泣きたい時は、泣けばいいと思うのよね」 彼女はそう言って、私をふわりと抱き締めた。 「いいじゃない。別に、一年365日、毎日泣いてるわけじゃないんだから、たまには」 私は黙っていた。口を開けばきっと、嗚咽にしかならない。 彼女は私の頭を自分の胸に抱き込んだ。 「・・・七時に駅なら、まだ、時間あるから。思い切り泣いて、すっきりしてから、お母さん迎えに行こう?」 彼女は幼い子どもに語りかけるようにそう言って、私の背中をぽんぽんと叩く。 そして私は、子どものようにこくりと頷いて。 彼女のジャケットを握り締めて、どうしようもなく、泣きじゃくった。 彼女の手が、私の髪を撫でる。 耳元で、彼女の声が私の名を呼ぶ。 しゃくり上げる度に、彼女の香りがする。 それら全てが、昂ぶった私の気持ちを宥め、安心させた。 「・・・何でも、溜め込むと良くないよ? 便秘はお肌の大敵だし、おならも我慢しすぎると美容と健康に良くないってさ」 「ももか・・・例えが下品」 ひとしきり泣いて、掠れた声で、それでもいつものように突っ込むと、彼女はえへへ、と悪戯っ子のように笑った。 「・・・ゆりは、さ。何でもできて、しっかりしてるけど。もうちょっと、年相応に、弱みとか見せてくれてもいいと思うんだよね」 いつの間にか涙は止まっていたけれど、彼女の温もりと髪を撫でられる感触の心地よさに、もう少しだけ甘えていたい気がして。 彼女の腕の中で、私は素直に頷いた。 七時近くになってようやく日暮れた道を、私達は、肩を並べて駅へ向かって歩いた。 「今日、何か変わったことあった?」 彼女はいつものように、自分が仕事で抜けていた間の出来事を私に尋ねる。いつもと違うのは、『昨日』でなく『今日』というところ。 「そうね・・・体育で、春のスポーツテストの結果が帰ってきたくらい?」 「げ。あれって、身体測定のデータも載ってるのよね?」 彼女はさも嫌そうに、美しく整った眉をハの字にした。 「げ、って。あなたの場合、身長体重どころかスリーサイズに足と頭のサイズまでインターネットで世界中に公開してるでしょ。何を今更」 大体、公開しても恥ずかしくない立派なデータなのだ。隠したりする方がむしろ嫌味だと思われるだろう。 「その公開されてるサイズと違ってるとこが問題なのよぉ。・・・で、私の分、ゆりが預かってくれてるとか?」 「まさか。個人情報ですもの、勿論、先生が保管してるわよ」 「ゆりなら別にいい、ってか、先生よりゆりに預かって貰ってる方が安心できたのに・・・。あー、体育教官室に取りに行くのかー。なんかヤだな」 その気持ちは分からなくもなかった。偏見かもしれないけれど、体育の先生というのは少々デリカシーに欠ける傾向がある気がするし、何もやましいことがない潔白の身にも、体育教官室は何となく敷居が高い。 「はいはい。その時は一緒に行くから」 何となく申し訳ない気がして、私はそう言った。 ・・・よく考えたら、私に全く非はないのだけれど。 「ん」 それで彼女が満足げに微笑んだので、まあ、いいことにしよう。 そんな話をしているうちに、私達は駅に辿り着いた。 辺りが薄暗いので、明かりが皓々と点っている売店の中はよく見える。母と、もう一人女性の姿があった。たぶん、引き継ぎの最中なのだろう。 「じゃ、私はここで」 お母様によろしくね、と言って、彼女は私の肩を軽く叩き、ひらひらと手を振った。 「ももか」 踵を返して立ち去ろうとする彼女を、私は思わず呼び止めた。 「ん?」 「・・・その・・・」 ―――素直になれない私は、今日もまた、彼女の方に「会いたい」と言わせてしまった。 本当に会いたかったのは、たぶん、私の方なのに。 「来てくれて・・・嬉しかった」 だから、せめて、これだけは。 「ありがとう」 気の利いたところの一つもない私の言葉に、彼女はそれでも、万人を魅了するような極上の笑顔を見せて頷いて。 「また明日」 そう言ってスカートを翻し、雑踏の中へ消えていった。 ―――もう、大丈夫。 あなたがいるから、私は何とかやっていける。 たぶん、これからも。
《fin.》
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