ビギナーズ
終日やる予定だった撮影が、オトナの事情で半日で切り上げになって。
思いがけずフリータイムを手に入れた、日曜の午後。
「あれ」
寮の部屋に戻ってみれば、あたし達の部屋の入り口で、はるはるとみなみんがドアを開けたまま立ち話をしていた。会話の相手はたぶん、部屋の中にいるトワっち。
「あ。きららちゃーん! ごきげんよう! おかえり!」
いち早くあたしに気付いたはるはるが、ぱぁっ、と笑顔を見せる。んもう、はるはるってば今日も可愛いなぁ。
「ごきげんよう。お帰りなさい」
みなみんが微笑む。しっとりした声と口調が、はるはるとは対照的。
「ごきげんよー、ただいま」
あたしはひらひらと手を振って、そう応えた。二人は数歩後ろに引いて、あたしのために道を開けてくれる。
「お帰りなさい、きらら」
部屋に入ると、ルームメイトのトワっちが華やかに微笑んだ。
「早かったんですのね」
帰りは夕方だと思っていましたわ、と、首を傾げる。
「ん。カメラマンさんがまさかのダブルブッキングでさ。超特急で撮影終わらせて、次の現場に行っちゃった」
あたしは自分の机に荷物を置きながら、今日の幸運について語る。
「んだから、今日はもう無罪放免、あたしは自由。後日埋め合わせの撮影とかもなし」
「そうでしたの」
それは良かったですわ、と、トワっちは安心したように言った。どうやら彼女は、また何かあったんじゃないかと心配してくれたらしい。あたしが早く帰ってくる時って、誰かが仕事に穴あけたとか、ロケの場所をちゃんと押さえてなくて撮影できなかったとか、だいたい碌でもない理由だから。
「でしたら。きららも一緒に行きませんか? 音楽室」
そして彼女は、名案を思いついたとばかりに、ぽん、と胸の前で掌を合わせた。
週末はたいてい、吹奏楽部と管弦楽部が交代で占領している音楽室。今日はたまたまどっちも出払っているらしく、それを知ったみなみんがすかさず使用許可を取って、はるはるのレッスンのために押さえたらしい。みなみんてば、ほんと、はるはるが絡んだ時の行動力はものスゴい。
「それじゃあ。少しウォーミングアップをしたら、トワ。お願いできるかしら」
鍵を開け、室内に入ると、みなみんはトワっちにそう言った。承知いたしましたわ、と頷くトワっち。どうやらあらかじめ根回し、っていうか下話みたいなものができてるらしい。一方はるはるは、っていうと、バイオリンケースを持ったままきょとんとしている。
あー、訳がわかってないって顔だな、これは。
「なになに? 今からなにが始まるわけ?」
事情がわかってないチームを代表して、あたしが尋ねる。
「はるかがこれから練習する曲の、お手本をトワにお願いしたのよ」
レザーのトートバッグから楽譜を出しながら、みなみんが答えた。トワっちはケースからバイオリンの弓を取り出して、なんかワックスみたいなのを塗りたくってる。
「え。お手本って、みなみんが弾くんじゃないの?」
わざわざトワっちを引っ張りださなくても、みなみん自分で弾けるじゃん?
「私も後で弾くけど。今はこっちを、ね」
みなみんはそう言って、グランドピアノのカバーを取った。しゅるり、と衣擦れの音がして、ぴかぴかのピアノが姿を現す。
わぁ、と、はるはるが目を見開いた。
「みなみさん、ピアノも弾けるんですか!?」
「少し、ね」
嗜み程度よ、と、みなみんはさも大したことなさそうに言うけれど、はるはるのキラキラな視線にあてられて、照れくさそうというか嬉しそうというかもうそういうオーラがダダ漏れである。みなみんてば、結構気に入ってるもんね、はるはるの『憧れの素敵なお姉さま』のポジション。あとついでに言うと、みなみんの『嗜み』って中学生のレベルを軽く超えてるから。
「ちょっと待ってて、少し指慣らしをするから」
♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
みなみんはそう言って、ピアノを弾き始めた。単純なドレミファソファミレみたいなのをものすっごい速さで繰り返して、じわじわ高い音に上がっていく。
これのどこが「少し」やねん!
って、思わずインチキな関西弁でツッコみたくなるくらい、なんか、すごい。ほらほら、はるはるの目がもうハートになっちゃってるよ。
♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
不意に、トワっちのバイオリンの音が入ってきた。合わせてるわけじゃないけど、同じように、ものすっごい速さのドレミファソラシドで上がって下がってを繰り返してる。ってかこれ、みなみんに対抗心燃やしてるよね、ちょっと。
♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
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♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
二人して、もうなんていうか、これのどこがウォーミングアップなの。鬼気迫る、っていうか、圧倒的な感じ。
「はるはる……はるはる、口あいてるよ」
あたしが教えてやると、はるはるは慌てて口を閉じた。
そのうち、音がぴたりと、二人ほぼ同時に止まって。
「行けそう?」
「ええ。よろしくてよ」
「じゃあ……はるか」
簡単に言葉を交わすと、みなみんははるはるを呼んだ。
「はいっ」
はるはるはぴっ、と背筋を伸ばして応える。もう、なんていうか、お師匠さまと弟子? ってか、子犬と飼い主、みたい。
「これが、今日から練習する曲のお手本だから。よく聞いて頂戴」
「はいっ!」
うん、いいお返事。
はるはるとあたしが椅子に座るのを見届けると、みなみんはトワっちに視線を投げた。
トワっちは黙って頷く。
あとは、目配せで、
♪……♪♪…♪♪…
演奏が、始まる。
あ、なんか聞いたことある、この曲。
主役はトワっちのバイオリン、みなみんのピアノは伴奏。さっきの『指慣らし』の激しさが嘘みたいな、柔らかい音と軽やかなリズムで。
♪♪…♪♪…♪♪………
速く、遅く、揺らぐテンポ。
例えて言うなら、うん、蝶々がひらひら飛んでるみたいな。
♪……♪♪…♪♪…
ひらひら、ゆらゆら。
優雅に舞うトワっちの音に、みなみんが合わせて歩くように。
こんな合わせがいきなりできちゃうんだから、音楽できる人って、ほんと、スゴいと思う。……音楽できる人、っていうか、この二人が規格外な気もするけど。
♪♪♪♪♪……♪……♪………
あ、終わった。
はるはるの熱烈な拍手で、あたしもふと我に返って手を叩く。トワっちは軽くスカートをつまんで膝を折った。
「ブラボー、さっすがぁ」
「すごい! みなみさんもトワちゃんも、素敵!」
「……そんなに誉められると、恐縮しますわね」
そう言ってトワっちは肩を竦め、ちらりとみなみんの方を見る。
「即席のデュエットだけど。何とか止まらずに最後までいけたわね」
というのは、みなみん。ふぅん、これでも、みなみん的には会心の出来ってわけじゃないんだ。
「有名な曲だよね、これ、あたしでも聞いたことあるくらいだし。えーと……ユーモア、とか、ドボン、とか、そんな感じ?」
「『ユーモレスク』ですわ」
くすり、とトワっちが笑った。
「惜しい」
「全然惜しくないから。それと『ドヴォルザーク』ね。……というわけで、はるか」
みなみんはあたしにきっちりツッコミを入れてから、気を取り直してはるはるの方を見た。はいっ、と、はるはるが改まる。
「今日から、この曲を練習するから」
「はいっ!」
はるはるは元気よく返事をした。おーお、嬉しそうな顔しちゃって。
「みなみは、はるかには甘いのだと思っていましたけれど。結構スパルタですのね」
意外そうに、トワっちが言う。あー、そうか、トワっちはそのへんのとこ、まだ知らないよね。あたしも意外だったけど。
「初心者なのですから、もっと簡単な曲でもいい気がしますけれど」
「……はるかは、『憧れ』が強い原動力になるタイプだから」
みなみんはそう言って、はるはるを見た。
「うんと高い目標を具体的なイメージで持たせれば、凄く伸びると思ったのよ」
はるはるはにこっ、と、嬉しそうに笑って応える。
……ああ、この顔。
お互いがお互いのことよく解ってて、ちゃんと信頼してます、って顔だ。
ほんといい顔。ちょっと妬けちゃうくらいに。
「じゃあ。早速、練習しましょうか」
みなみんはピアノの椅子から立ち上がると、自分のバイオリンをケースから出した。はるはるも、ケースを開ける。そして、さっきのトワっちと同じように、二人して弓に何かを塗りはじめた。
「ねートワっち。あれ、何してんの? トワっちもさっき、弓になんか塗ってたよね」
「ああ。あれは、松脂ですわ。滑り止めの」
トワっちはそう言って、自分のを見せてくれた。飴色の丸い固まりは触ると思ったより全然固くて、ワックスっていうより石鹸みたい。へー。
……って。んん?
「滑り止めなの? 弓って、バイオリンの上を滑らせるんじゃないの?」
あたしが訊くと、トワっちはちょっと考えて。
「口で説明するより、体験したほうがよくわかりますわ」
そう言って、教室の後ろへと歩いていった。棚に、授業で使うバイオリンがずらりと並んでいる。トワっちはそのうちの一つを手に取って戻ってくる。
ほほう、あたしに弾けってことか。受けてたとうじゃない?
あたしは椅子から立ち上がった。
「では、構えてみてください」
渡されたバイオリンを、見よう見まねで構えてみる。
「頭の重さをここに載せて。左手は、軽く下から支えるだけ……そうそう、そうですわ。それから、弓を右手で、こう持って」
引いてごらんなさい、と。言われるがままに、あたしは弓を下に引いた。弦の上を、ちょいちょい引っかかりつつ、弓が滑る。
「んー。なんか、あんまし鳴らないね」
「ええ。それでは」
一寸貸してください、と断ってから、トワっちはあたしの手から弓を取り上げると、松ヤニをさっきと同じように塗りたくった。
「これで。もう一度、同じようにやってみて?」
渡された弓を弦の上に載せ、もう一度、引いてみる。
♪ー!
「うへぇ!」
右手には、がびがびと弓が弦に引っかかる感覚。思いのほか大きな音が出て、胴に載せた顎にも振動が伝わる。
「……つまり、そういうことですわ」
驚くあたしに、トワっちはくすりと笑って言った。
「バイオリンの音は、弓が弦に引っかかることで奏でられるんですのよ」
「へー。なるほどねー」
もう一回、やってみる。
♪ー!
もう一回。
♪ー
右手のがびがび、って感触と大きな音へ心の準備ができてるぶん、さっきよりもちょっといい音が出たけど、トワっちみたいに綺麗な音にはならない。さすがに。
「……きららは、器用ですのね」
なかなか筋がいいですわ、と、感心したようにトワっちが言う。
「ね。ドレミファソラシド、って、どうすんの?」
褒められて気をよくしたあたしは、トワっちにレッスンをおねだりした。
* * *
♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜〜〜
ドレミファソラシドが、スムーズに、けっこういい音で弾けるようになって。
「……きららは、本当に器用ですのね……」
トワっちは溜息混じりに言った。
ちょっと。せっかく巧く出来たのに、なにそのリアクション。
トワっちの口調になんか引っかかるものを感じていると、彼女の視線がちら、と隣のはるはる達に向けられた。
♪……♪♪…(きぃ)
「あれぇ……?」
♪……♪♪…(きぃ)
「……うーん……」
♪……♪♪…(きぃ)
「少し、弓を寝かせてごらんなさい」
何度も同じフレーズを弾いては、その度同じ所で音がひっくり返るはるはるに、みなみん先生の指導が入る。
「こうやって」
♪……♪♪…♪
みなみんのお手本は、さすが、って感じ。ほんの短いフレーズだけど、はるはるとは音そのものがぜんぜん違うのがわかる。
♪……♪♪…(きぃ)
「そうじゃなくて、ええと---------」
もどかしげに何か言いかけたみなみんは、机の上に自分のバイオリンを置くと、はるはるの後ろに回った。
「構えて。今のところ、もう一回弾いて?」
♪……♪♪…
「ストップ」
みなみんの指示で、はるはるの弓が途中でぴたりと止まる。
「その時に。こうやって」
みなみんは、弓を持つはるはるの手を自分の手で包み込むように握って、弓をくい、と動かして見せた。
「寝かせるのだけど。急に動かすのではなくて、こう」
……♪……
「少しずつ寝かせて、手元に来たとき、この位になるように。ゆっくり、最初から一緒にやってみましょう?」
はいっ、といいお返事をして楽器を構えるはるはるを、みなみんは背中から抱くようにして、はるはるの手に自分の手を添えた。
密着する、体。
そして、
「一……二……三……四……」
耳元で囁くように、カウントして。
♪…………♪…♪……♪…
問題だった最後の音が綺麗に出た瞬間、
「できました!」
はるはるの顔に喜びがぱぁっと浮かんだ。
「そう、今の感じ」
みなみんに褒められて、ますますいい顔になる、はるはる。
って。お互いがぴったり密着したまま振り向こうとするから、顔が近いったら。
「体が覚えるまで、繰り返すわよ」
「はいっ」
……なんだ、これは。
なんか、すごく、見てはいけないものを見てしまった気がする。
ってか、みなみん。弓を持つ右手はともかく、バイオリンを持つ左手まで支える必要、ある? これ、男の先生とかがやったらセクハラで訴えられるやつじゃん。
で、何? トワっち、そのがっかりしたような顔。
もしかして、ああいうの、期待してたわけ?
「あー……えっと。なんか、ごめん」
って。
なんで、巧く出来たあたしが謝んなきゃいけないのさ!
《fin.》
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