† 天球儀の夜 †
深森 薫
『------不穏な影が、蠢いてる。
はっきりしたことは、言えないけれど。近いうちに、地球と月は、対立する。
もしかしたら、最悪の事態-------全面戦争に、なるかもしれない』
満天の、星。
星影に満ちる空の下に、遠い丘の稜線が黒々と横たわる。
空と大地とを画するその線まで、ひたすらに続く草原。
地表の闇は、天を埋め尽くす星々から降り注ぐ光に薄められ。
頬を撫で、草を揺らして吹き抜ける風。
風に乱れる髪を右手でそっと押さえながら、マーキュリーは地平線から天頂へゆっくりと視線を移した。
「マーキュリー」
名を呼ぶ声に、彼女はゆっくりと振り返る。
暗さに慣らされた目は、さざめく草の海を膝でかき分けながら近づくジュピターの姿を捉えた。マーキュリーの顔に自然と笑みがこぼれる。
「待った?」
「少しだけ、ね」
でも退屈はしてないわ、と付け加え。
「・・・何か、あったの?」
彼女は言葉を続けた。詮索するほどのことではないような気もしたが、ジュピターの顔は、尋ねて欲しい、と書いてあるように見えた。
「ん。出がけに、ヴィーナスに捕まってね」
待ってましたとばかりに答えるジュピター。
「地球に行く、っていったら、血相変えて引き止めるからさ。血迷うなとか、早まるなとか、落ち着けとか」
「地球国に殴り込むとでも思ったんでしょうね」
「酷いよなぁ。人のこと、まるで見境ないみたいに」
他人事のようにくすくすと笑うマーキュリーに、ジュピターはそりゃないよ、と肩をすくめた。
「無理もないわ。あんな話をした直後だもの」
マーキュリーはそう言って、再び天を仰いだ。その視線を追って、ジュピターも空を見上げる。
闇はどこまでも澄んでいて、雲一つ無い空には、無数の星がひしめきあって輝いている。
すう、と明るい尾を引いて、星が一つ流れた。
「・・・綺麗ね」
「・・・そうだね」
紡がれた言葉が、ふたりの間をゆったりと行き交う。
「ヴィーあたりに言わせたら、『星なら、わざわざ地球に降りなくったって見れるじゃない』なんて言うんだろうけど」
「そうね。月から見る空も、満天の星、には違いないけど」
そう語りながら、故郷の味気ない夜空に思いをはせる。ねっとりとした漆黒の闇に、無数の光の粒が、瞬きもせずただそこに在る。月から見る星空は、そんなものだ。
「こんなに綺麗には、見えないよな」
何でだろうね、と、問うともなく問うて、ジュピターは前髪をかき上げた。
沈黙が降りる。
「・・・ねえ」
その沈黙を、マーキュリーの声が破った。少し甘えたようなその声は、首を傾げてちらりと視線を流す仕草と相まって、蠱惑的な響きを持って耳に届く。彼女がこんな風に話す様を、他の皆はきっと知らない。こんな彼女の仕草も声も、知っているのは自分だけだと思うと、ジュピターは自分の頬が緩みそうになるのを感じた。
「あの辺りの星、どんな風に見える?」
そう言って、マーキュリーは細い指先を天頂へと向けた。
「? どんな風、って」
「明るい星同士を、ね。 こう、線で結んだら、何の形ができると思う?」
その指が、ゆっくりと夜空に線を描く。
「・・・十字?」
それじゃひねりが無さ過ぎるわ、とマーキュリーは笑った。
「正解は、羽を広げた白鳥。ですって」
「・・・そりゃ、また。ひねり過ぎだよ。絶対わかんないって」
「でも、地球人にはそう見えるみたいよ?」
抗議するジュピターに、マーキュリーはまたくすくすと笑って、
「他にもあるわ。こっちは羽を広げた鷲で、向こうは竜。頭があって、胴が下に伸びてるの」
無邪気な子どものように、楽しげに夜空を指さし続ける。
「それから、あの辺の星は、ティーポット」
「へぇ。生き物ばっかじゃないんだ?」
彼女のこんな姿を見られるのも、自分だけの特権。
そんなことを口に出せば、彼女は「馬鹿」と照れ隠しのように言って俯いてしまうだろう。
だから、黙って自分の胸だけに収めておく。
「でも、そのティーポット、ってのが一番よく出来てるかな。・・・他には、ないの?」
「あるけど。地球の神話伝承の、登場人物や怪物だから。よく分からないわ」
「そっか」
そこで言葉は途切れ、二人は黙って星空を見上げ続けた。
さわ、と音を立てて野を渡る風に、衣の裾が踊る。二人より他に人の気配はないが、辺りは生命の気配に溢れていた。
「------綺麗ね」
「・・・そうだね」
もう何度となく口にした言葉を、何とはなしに口にして。
「星が、こんなに綺麗に見えるのは------」
マーキュリーは、風に乱れ、顔にかかる髪をかき上げた。
「------ここが、月じゃなくて、地球だから」
「え?」
それが先刻の問いに対する答えだとジュピターが気付くには、一瞬よりも少し長い時間を要した。思わず問い返したその顔は、少し間が抜けていたかもしれない。
「この星を包む、分厚い空気の層が、星の光を揺らめかせて、拡散させて夜空の闇を薄めるの」
天頂近くで、また一つ、星が流れる。
「隕石の衝突でさえ、あんな風に、綺麗な流星に変えて。月が幾ら進んだ技術を持っていても、到底真似できないものだわ」
「・・・そっか」
どこか悲しげな色を帯びた彼女の声音に、ジュピターはただ相槌を打って静かに頷いた。
そして訪れた何度目かの沈黙は重く。
「・・・あのさ」
「------もしか、したら」
その重さに耐えかねて発した声は、マーキュリーのそれと重なった。
二人の言葉は同時に途切れ。
「・・・もしかしたら------」
先に言葉を継いだのは、マーキュリーだった。普段の彼女なら穏やかに笑って会話を譲ってくれるところなのに、今は少し様子が違う。
「------こんな星空を、見られるのは。これが最後かも、しれないわね」
彼女は途切れがちに、淡々と告げた。
返す言葉を見つけあぐねて、ジュピターは黙り込む。
マーキュリーは天を見つめていた視線をゆっくりと移し、静かな瞳でジュピターを見る。
「だから。今日、こうして、二人で一緒に見られて。よかった」
口元には、曖昧な微笑みを浮かべて。
「・・・何、言ってんだよ」
ジュピターはやっとのことで声を絞り出した。
「最後、って。どういうことなのさ」
「どういうこと、って」
ジュピターだって、解っているでしょう?
マーキュリーはそう言って目を伏せ、小さくかぶりを振った。
「地球と月。国と国との、全面戦争よ。双方が、総力を注ぎ込んで、互いを殺し合う。狂気に駆られて、相討ち覚悟で、それこそ、最後の一人になるまで。いくら守護神だって、生き延びられるなんて保証は、どこにもないわ」
「戦争になる、って。まだ決まったわけじゃない」
「・・・気休めだわ」
「それに。絶対に死ぬ、って訳でも、ないだろ」
「・・・そうね。限りなくゼロに近い望みでも、全くない、とは言えないものね」
目を伏せたままのマーキュリーの口調は冷ややかで。
「だから。限りなくゼロに近いとか、誰が決めたのさ」
ジュピターは苛立ちを募らせる。
「相手は一国の軍隊よ。」
「だから?」
「その辺の妖魔と戦うのとはわけが違うわ」
「理由になってないよ」
「国をあげての戦争よ」
「それはさっき聞いた」
「相手も必死だわ。しかも、数では圧倒的に向こうが優ってる」
「だから?」
「いくら私たちでも、護りきれないかもしれな------」
「『かも』だろ?」
「勝っても負けても悲劇よ、戦争なんて。いっそ、共倒れになってしまった方がいいのかもしれない-----」
「マーキュリー!」
ジュピターは思わず声を荒げ、マーキュリーの両肩を掴んで強く揺さぶった。
言葉が途切れる。
「自分が何言ってるか、解ってんのか!?」
マーキュリーは目を逸らしたまま、答えない。
「マーキュリー!」
ジュピターは俯いた頬を両手で包み、強引に上を向かせた。
視線が出会った瞬間、マーキュリーの瞳から堰を切ったように涙が溢れ出す。
頬に落ちる淡い影、固く結ばれた唇。
深い嘆きの色を湛えた双眸から、はらはらと、止めどもなく流れる涙。
それら全てが、ジュピターの胸を締め付け、言葉を奪った。
頬を包む手から力が抜け。
「・・・ごめん」
左手は頬に添えたそのままに、右の指の背で涙を拭う。
「怒鳴ったりして」
マーキュリーはゆるりと瞳を閉じて、首を小さく横に振った。
涙を拭う指が離れ、掌の温もりが濡れた頬をやんわりと包む。
もう一度、ごめん、と小さな声がして、
額に、ジュピターの額が重なった。
マーキュリーは小さく首を振って、
「・・・ごめんなさい」
目を閉じたまま、頬を包む手に、自分の手をそっと重ねる。
「明日には・・・いつもの私に、戻るから。今日だけ・・・今だけ、許して」
「『いつもの』・・・ね」
ジュピターは苦笑して、マーキュリーの目元に残る涙にキスを落とすと、腕を伸ばしてその細い体を抱き寄せた。
そして、髪に指を絡めるように挿し入れる。
------『いつもの』彼女。
見た目のたおやかさとは裏腹に、気丈で沈着冷静で、決して弱音など吐かないひと。
その彼女が見せる、ほんのひとときの弱さを。
「・・・無理しなくて、いいよ」
自分が受け止めないで、誰が受け止めるのか。
「幾らでも、泣いて良い。今みたいに、愚痴でも、泣き言でも、何でも。いつでも、幾らでも、ぶつけて良いから。------だから。無理しちゃ、駄目だ」
マーキュリーの両手が、応えるように背中に縋るのが感じられ。
「解った?」
囁くように問うと、胸元で彼女は小さく頷いた。抱き締める腕に力を込め、彼女の髪に頬を埋めると、草の匂いの代わりにフローラルの香りが鼻腔をくすぐる。
天は、無数の星明かりを撒き散らし続けている。
「・・・何故・・・」
ふと、マーキュリーが震える声で呟く。
「・・・どうして・・・」
ジュピターは無言のまま、先を促すように僅かに腕を緩めた。
「こんなに広い宇宙の中で、文明を持つ星が二つ、こんなに近くに寄り添うなんて、奇蹟のようなこと。なのに・・・」
------どうして。
ジュピターの胸に深く顔を埋めながら、答えを求めるともなく問うマーキュリーの、最後の声は消え入るように掠れた。
「何で・・・だろう、ね」
もう一度抱き締める腕に力を込めながら、ジュピターは空を仰いだ。
マーキュリーの髪を指先で軽く梳きながら、訥々と語る口調は優しく。
「どこかで、何かが間違って。そのまま、何もかもが狂っちまったんだろうね。
陳腐な言い方だけど、服のボタンを一つずつ、掛け違えるみたいにさ」
蒼い闇の深淵でひしめき合う星々は、ただ音もなく瞬き輝くばかり。
自分たちの行く末がどうなろうと、知ったことではないと言わんばかりに。
「それならそれで、一からやり直せばいいって、解っててそれができないなんて。
案外、馬鹿だよね。地球人も、あたし達も」
そう言って小さな溜息をつくと、ジュピターは黙り込んだ。
二人の胸中とは裏腹に、空には雲一つなく、空気はどこまでも澄み切っている。
マーキュリーはふと顔を上げ、腕の中からジュピターの肩越しに天を仰いだ。
「・・・綺麗ね」
「・・・そうだね」
もう何度となく口にした言葉を繰り返し。
「私たちがどうなろうと、この空はこのまま、綺麗なままなんでしょうね」
ふと漏らすマーキュリーの口調は淡々としていて、
「・・・そう、かもね」
流した涙もいつの間にか乾き、見上げる瞳は穏やかに星の光を照り返していた。
「・・・無力ね。私達」
「・・・そう、だね。 でも」
ジュピターは遠く彷徨わせていた視線を、腕の中へ落とした。
「傍に居ることくらいは、できるよ。どんなことがあっても------」
「嘘」
マーキュリーが遮る。
拒絶の言葉のあまりの短さに、ジュピターは思わず喉の奥に声を詰まらせた。
「だって」
マーキュリーはゆるりと目を伏せる。
「戦争になれば、あなたは最前線で戦うでしょう? 私はきっと、最後方だもの。
一緒には、居られないわ」
「・・・それは・・・・・・うん・・・」
諭すように告げられ、返す言葉を見つけあぐねるジュピター。
「------だけど」
マーキュリーが顔を上げた。視線が絡み合い、儚げな笑みが、その顔に浮かぶ。
「あなたと出逢って、愛し合えただけで、私、生まれてきた価値があったと思うわ。
最後まで一緒に居たいなんて、贅沢ね。きっと」
細い指先が、そっとジュピターの頬に触れた。
「・・・忘れないわ。どんなことがあっても。
たとえ死んでも、この気持ちだけは消えないような------そんな、気がするの」
蒼い、炎。
そんな言葉が、ふと脳裏を過ぎる。
静かに燃える蒼い炎は、冷たそうに見えて、その実は激しく吹き上げる紅い炎よりもはるかに高温だという。もの静かな、抑えた表情の奧に秘められた彼女の本質は、誰よりも激しいのかもしれない。
「------うん」
ジュピターは彼女の躰をきつく抱き締めた。
押し寄せるようにこみ上げる想いは塊のように喉を塞ぎ、名を呼ぶことすらも叶わずに。
「・・・苦しいわ」
「------うん」
ただ、折れるほど、強く。
「・・・忘れない」
そして、絞り出すように囁く。
「たとえ死んでも。この体が、ひとかけらの肉しか残らなくても。
一滴の血しか残らなくても。------忘れない」
いつしか風は凪ぎ。
星は巡り、次の季節を映しだす。
暁が空に解け、東の地平を白く染めようとしていた。
−−−天球儀の夜・終
飛鳥圭さまよりイラストを頂きました。多謝多謝。m(_ _)m
大きいサイズのものは頂き物画廊に展示中。
作中の星座について…
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