4人の86時間

<10>

 第4ゲームの最終ポイントを、はるかのパッシングショットに対するまことのボレーミスで失った亜美たちは、結局そ のゲームをラブゲームで失った。
 これでゲームカウントは亜美たちから見て3-1である。
 
 第5ゲーム。亜美のサービス。最初のポイント。
 
 亜美は、ほたるに対しサービスを放つ。
 センターライン付近に入ったスライスサーブを、ほたるは基本どおりバックハンドで亜美の方に流し打つ。
 亜美は、それをはるかにかからないように高い球で、ほたるの方に返す。
 第1ゲームの最初のポイントと同じ展開だ。
 と、亜美の返球を、ほたるは、ストレートのロブでまことの頭上を抜いて、自信に満ちた表情でネットに詰めてくる。
 
 亜美は、バックサイドに素早く回り込むと、腰を落として、フォアハンドに構えラケットを大きめに引くと、高い弾道の、 そしてトップスピンを強くかけたストレートボールでほたるの頭上を抜いた。

「さすが、亜美ちゃん!」
 コート脇のベンチで座っていた美奈子が思わず賞賛の声を上げる。

 しかし、その声が終わるか終わらないかの時には、疾風のごとく走り込んできたはるかが、その球に易々と追いつくと、ク ロス方向に、深い球を返球していた。

「あっと、さすがだったのは、はるかさんだったか・・。」
 再度の賞賛の声をつぶやいた美奈子に、レイが突っ込みを入れる。
「なに一人漫才やってるのよ。いったいどっちが「さすが」なのよ。」
「ま・・、まあ両方なんだけどね。ただ、結論的には亜美ちゃんのとった打開策は失敗だったっていうことよ。」
 目前に繰り広げられている、亜美とはるかのラリーから目を一旦レイの方に向けて、美奈子は話を続けた。

「ネットベタ詰めの欠点なんだけど、大きなもののもう一つは、頭上を抜かれやすいってことなのよ。コートの一番前に出て るんだから当たり前でしょ。だから、普通は、今亜美ちゃんがやったみたいな、順回転を強くかけたスピードのある高い球、 トップスピンロブっていうんだけど、それで前衛の頭上を抜いちゃえば、それで決まりなのよ。」
「だけど、決まってないっていうことは・・・。」
 レイも恐らく同じことを言おうとしているであろう言葉を美奈子が代わりに続ける。
 
「そう、はるかさんの驚異的な脚力が弱点を完全にカバーしちゃってるっていうことよ。」
 目の前では、はるかのパッシングショットが、まことのサイドを抜けてエースになっていた。

「しかし・・・、これは亜美ちゃんちょっとショックかも知れないわね。」
 美奈子は、亜美の心中を察するように、ため息をつきながらいう。
「楽勝ペースと思っていたのにこれだもんね。」レイも相づちを打つ。
「いや、そういうことじゃなくて、ほたるちゃんの今やってるプレーの内容のことよ。」

 ほたるは、この合宿に来て以来、亜美の懇切丁寧な指導を受けてきた。
 美奈子の目から見ても亜美の指導は上手だと思ったし、ほたるもそれに従って上手になってきた。
 ほたるが自分自身の上達を喜んでいたのはもちろんだが、亜美も、熱心な指導者に生ずる共通の現象として、ほたるの上達 をほたる以上に喜んでいたのだ。
 そして、いざ実戦。
 亜美の指導を忠実に守ったプレーをしたほたるは、亜美たちに全く歯が立たなかった。
 それが、はるかの指示で亜美の指導と全く関係のないことを始めたとたんに結果を出し始めたのだ。
 
 これがその場しのぎの策であることは、美奈子はわかっているし、亜美も多分それは頭の中では理解できるであろうが、果 たして心の中で消化しきれるだろうか。
 律儀で他人思いの亜美のことだから、「こういう作戦もあるの」とかいって試合の前に教えて上げられなかった自分を責め たりしていないだろうか・・。
 そういう後悔は、試合中はマイナスにしかならないものなのだが・・・。

「そうすると、このまま亜美ちゃんたちは逆転負けしちゃうの?」
 次のポイントで再び始まった亜美とはるかの同じようなラリーに、さすがに亜美たちの前途に不安を感じてきたレイは眉間 に1本皺をつくって美奈子に尋ねる。
「いや、それは、まだよ。」
 美奈子は、そう言って、ボールの行き来に合わせてネットの近くを右往左往している長身のポニーテールに視線を移す。
 
「亜美ちゃんは、大砲を持ってるもの。あとはそれをぶっ放すしかないわね。」
 その言葉の終わらない頃、当の大砲はボレーをミスってネットにかけていた。


 第5ゲームを落として亜美たちの3-2となった後のコートチェンジ時の休憩で、ベンチに座った亜美は、ペットボトルを 手にとり、スポーツドリンクを一口口に含むと、両肘を膝の上に載せて前屈みになってから軽く目をつむった。

 ほたるのネットベタ詰めは、想定しない作戦ではなかった。
 しかし、簡単にサイドか上を抜いて対処できると思っていた。
 グリップを変えてのハエ叩きボレーは、思いつかなかった。
 また、上を抜く球にああも完全に追いつくはるかの脚力は予想を超えていた。いや、これは、分析が甘かったというべきか も知れない。
 このままでは負ける。
 まことという優秀な戦力を持っていながら、ほたるを抱えたはるかに。
 そう、はるかの作戦の前に・・・。

 いや、まだ活路がある。
 まことのフォアハンドだ。
 これをほたるに向けて開放するのだ。
 ネットから離れていてもパワーを解放したまことのフォアハンドを返すのは大変だ。
 まして、ネットにベタ詰めしているほたるではさわることすら出来ないに違いない・・・。

「ねえ、まこちゃん。」
「あ、亜美ちゃんごめん・・・。あたし、一人でボレーミスっちゃってて・・。やっぱり、最初亜美ちゃんに言われてたとお り、もう少し、ボレーの練習をしておけば良かったんだ・・・。」
 身を起こして話しかけようとした亜美の機先を制するように謝罪の言葉を口にしてうなだれるまことを見て、愛しいと亜美 は思う。
 この人は、いつも私のことを一番に気にかけてくれていることがこの一言でもわかる。

 しかし、今必要なのは、頭を垂れることではない。
 胸を張って、この時のために磨いてきた宝刀を抜いてもらわねばならないのだ。
 亜美はとっておきの笑顔を作るとまことに話しかける。

「まこちゃん。そんなの全然気にしなくていいのよ。誰だって得手不得手はあるんだから。大事なのは、不得手を嘆くんじゃ なくて、得手を伸ばすことでしょ。」
「うん・・、ありがとう。亜美ちゃん。」
 元気が出てきたまことに、亜美は、大事な指示を出す。

「まこちゃんの鍛え抜かれたフォアハンドが今こそ必要なのよ。まこちゃんも気が付いてると思うけど、ほたるちゃんは、ネ ットにぴったりくっついてきているわ。それを破るのに一番いい方法は、小細工するんじゃなくて、スピードボールを送って やるのよ。狙いなんて、もう大体でいいから、とにかくさわらせないぐらいのパワフルな球をね。」
 狙いはアバウト、パワーは全開という最も自分の得意とする行動を取るよう指示をもらったまことは、一気に元気がよみが える。

「よしっ。まかしといてよっ。いい球まで待って、来たらすごいの見せて上げるからっ。」
 まことは、タオルで自分の手を拭くと、右手で早くも小さくガッツポーズを作ると、勇躍コートへと向かっていった。


 第6ゲーム。はるかのサービス。
 このゲームでは、最初からほたるが前衛に位置している。
 まことにとってはおあつらえ向けの配置だ。

「よしっ、見てろっ。目にものをみせてやる。」
 前のゲームでボレーミスを連発したまことは雪辱に燃える。

 最初のポイント。
 はるかのスライスサーブがまことのサービスエリアの中央付近に落ちる。
 スピードはそれほどなく、エースを狙ったものではないことがまことにもわかる。
 
「つなげれば勝てるってか。自信満々だな。」
 心の中でつぶやくと、しかし、さすがに強打はできず、フォアハンドの中ロブではるかの方にリターンする。
 はるかは、その球を、亜美の真上を越すストレートのロブで返す。が、第2ゲームと異なり、はるかは前に詰めてこない。
 ほたるが代わりに真横に移動して、ボールの正面に位置をとる。相変わらず、ネットにはぴったりくっついたままだ。
「これは打てる!!」
 まことは、全速力で、バックサイドに走り込むと、回り込んで、フォアハンドの弓をゆっくりと引き絞る。

「どりゃっ!!」
 このゲームで初めて、というよりまことが試合で初めて使った渾身のフォアハンドは、ほたるの正面、ややフォアハンドよ りを襲う。
「きゃっ。」
 すさまじい勢いでやってくるボールに思わず声を発したほたるは、ほとんど反応できない。
 が、わずかに動いたラケット面に、ボールの方から当たっていく。

 ぽーん。
 ラケット面を押し込み、そして弾かれたボールは、高くふらふらと舞い上がり、まことの正面、サービスライン付近に落ち ると、高くバウンドする。
「チャンスだ!!」
 まことは、ボールに近寄り、再び、弓を引き絞る。

「ほたるっ!!構えろっ!!」
 後ろからはるかのよく通る声が、空気に穴を開けるようにほたるに向かってぶつけられる。
 打たれたようにびくっと反応したほたるは眦を決すると、ラケットを立ててまことに向かって正対する。

「どりゃっ!!」「きゃっ」・・ばさっ・・ころころ・・・。
・・・・・・・・・。

 まことの高い位置からたたきつけるように放った2発目の強打は、ほたるの顔面をとらえた。
 ほたるは、聞こえるか聞こえないかの悲鳴を一声上げると、横向きに地面に倒れ、そして、そのまま動かなくなった。
 ボールは、ほたるのコートのサイドラインの当たりをころころ転がって、止まった。
 まことも、呆然として、立ったまま動かなくなった。
 その後、コート内の時間が凍り付き・・・そして、止まった。


「ほたるっ!!」
「ほたるさんっ!!」
「ほたるちゃんっ!!」

 はるか、せつな、それに審判台に座っていたみちるが叫び声を上げて、倒れているほたるの側に近寄り、遅れて、レイと美 奈子、それに亜美がネットを回って、はるかたちの背中越しに、ほたるをのぞき込んだ。

「大丈夫・・ですか?」
 レイが心配そうに、すぐ近くでしゃがんでいる3人に問いかける。
 ほたるの顔に手を当ててをのぞき込んでいたはるかが、その手を離すと、みちるに向かって言った。
「右目の上の軽い打ちみだ。多分大したことないと思うけど、少し擦れているから、救急箱を捕ってきてくれるか?」
 指示を受けたみちるは、すぐに審判台の後ろに用意してある指示のものを取りに行く。
 ほたるが目を開き、何か言おうとすると、はるかがそれを手で制して、代わりに、回りの4人に告げた。
「やあ、心配かけて済まなかった。軽い打ちみだろうけど、目の上なんで視力の方を確認する必要があるので、少し、ここで 横になったまま休ませてもらってもいいかな。」
 
「ええ、もちろんです。お願いします。」
「そうした方がいいよ。目は大事だから・・。」
 対戦相手の亜美に続いて、美奈子も当然といった感じで、返事をする。

 みちるが救急箱を持ってくると、それを開けて、脱脂綿に消毒液を浸して、ほたるの右目の上の擦れた部分に当てる。
「ああ、もう大丈夫だし、取り囲まれているも何だから、みんなは、治療が済むまでベン チで座って休んでてもらえるか な。」
 はるかが立ち上がって、少し離しておいて欲しい旨つげると、せつな、レイ、美奈子の3人は、コートサイドの元いたベン チの方に戻った。
 
「あ、あの、ごめんなさい。あ、あたしがまこちゃんにいったんです・・。思い切り打ってって・・。だから、まこちゃんは 全然悪くなくて、悪いのは・・」
 憔悴しながらそこまで言う亜美をはるかが制する。
「いいんだ。亜美。これは試合だ。この程度が怖いんだったら、最初から試合なんてしない方がいい。だから、亜美もまこと も気にするな。それより、あそこでほんとの木になっているやつを何とかしてやってくれ。」
 厳しい口調でそこまで言ったはるかが指さす方向をみると、反対側のコートでラケットを手にしたまま呆然と立ちすくんで いるまことがいた。
 

 ベンチに座っても、まことも亜美も一言も発しなかった。
 一陣の風が吹いて、ベンチに立てかけていたまことのラケットがからんと音を立ててコートに転がったのを見た亜美は、そ れを直しがてら、まことにおずおずと声をかけた。
 
「あの、まこちゃん?ほたるちゃん大丈夫みたいだから・・。」
「あっ、そうか、よ、良かったよ。あっ、あたし謝らなきゃ。早く謝らなきゃ。」
 正気の範疇には入ったものの、まことは、うつろな目のままベンチを立ち上がりかける。
 そんなまことを見て、亜美は、まことの左手を掴んで引っ張るとベンチにもう一度座らせた。

「まこちゃん?」
「あ、亜美ちゃん、あ、あたし・・、ひどいことしちゃって・・。ほたるちゃん相手にあんなこと・・」
 明らかに狼狽しているまことの左手を、亜美は掴んだままの右手で力一杯握る。
「いたっっ」
「いい?まこちゃん。少し厳しいこと言うけど聞いてくれる?」
 顔を少ししかめるまことに亜美は、真剣な口調で諭し始めた。

「まず。ほたるちゃんだけど、目の上を擦りむいているようだけど、何でもないわ。これは私が保証する。それから、ぶつけ たのはまこちゃんかも知れないけど、それが嫌なら、お互い試合なんて始めから出なければいいのよ。」
 先ほどのはるかと同じことをいう亜美に、まことは、少しぎょっとなって、亜美の顔を見つめる。
「私も、最初はびっくりして、そして後悔したわ。だってまこちゃんに指示出したのは私だったから。だけど、落ち着いて振 り返ってみると、私はっきり見てたのよ。ほたるちゃんがぶつかる直前にラケットを構えていたのを。」
 
「ラケットを構えていたって・・?」
 まことは、まだ亜美の言っている意味がわからないといった風情で尋ねる。
 
「そう。構えていたの。まこちゃんのフルショットに備えて、眦を決してね。つまり、あの時点で、ほたるちゃんは、まこち ゃんと対等な立場で、勝負に挑んできてたのよ。それに対して、全力で堂々と向かっていったんだから、相手から感謝されて も、恨まれたり、こちらが申し訳ないと思う筋合いではないわ。」
「そ、そうだよね・・。でもほたるちゃんにあんなに全力で球をぶつけなくっても・・」
「ほたるちゃんを甘く見ないでっ!」
 亜美は左手も出して、まことの左手を力一杯握った。
「甘く見るなって、そんな・・」
 
「まこちゃんは、球をぶつけたのがはるかさんだったらそんなにショックを受けてた?ほたるちゃんだって、この3日間ずっ と頑張ってきた子よ。すごく意欲があって、どんどん上達して。その子に全力で球をぶつける必要がないなんて、すごく失礼 な話よ。ほたるちゃんに対しても、それから・・」
「それから・・?」
 まこと左手を握られたまままことが亜美をのぞき込む。
「それから・・」
 そこまで言って、今度は亜美が頭を垂れた。

 ほんとは、「ほたるちゃんを教えた私に対しても・・」と言いたい。
 そうすれば、多分まこちゃんも吹っ切れる。
 でも・・。
 今のほたるちゃんのプレーは私が教えたものではない。
 今の自分はそんな偉そうなことを言えた立場じゃない・・。
 自分の力不足が心にしみる・・・・。
 

「亜美ちゃん。わかったよ。」
 まことの声には、力がこもっていた。
「ごめん。あたし、めそめそしてた。大丈夫。まずほたるちゃんに謝ってきて、それからは今までどおりプレーする。」
 まことは、右手も添えて、亜美の両手を握り返すと、はるかとほたるの方へ向かって、立ち上がった。


 第6ゲーム。はるかのサービスで、0-15から中断後の2ポイント目。
 亜美のレシーブで、まことが前衛の位置に構える。
 しかし、休憩時の打ち合わせで、はるかにゆっくり目な球を送ったところで、亜美とまことが入れ替わる手はずとなってい る。
 
「びしっ」
 はるかのサーブが亜美のバックを襲う。
 が、そのスピードは、エースを狙ったそれではなく、コースを狙ったものだ。
 亜美は、追いつくと、ストレート方向、ほたるの上をゆっくり目のロブで抜いて、そのまま、前に出る。
 代わりに、フォアサイド前衛の位置にいたまことがまっすぐ後ろに下がり、後衛の位置につく。
 はるかは、亜美のロブに追いつくと、前衛に上がってきた亜美を避けて、クロスにロブを放つ。
 球はゆっくり。
 正面にはほたる。
 場面は、意外に早くやってきた。
 まことは、ゆっくりとラケットを引き、そして、ストレートに放った。
「ばしっ」

「アウト。15オール。」
 まことのボールが、ほたるの左上高くを通過し、落ちきらずにエンドラインを割った旨のみちるのコールが響いた。

「ごめん、打ち損じちゃったよ。」
 右手を軽く上げて謝るまことに、亜美は、いいのよ、次頑張ろう、と明るく励ます。

 第3ポイント。
 第1ポイントと同様の展開。
「どりゃっ」
 バックサイドに回り込んでまことの放ったストレートへのショットは、まことから見てほたるの左側に大きくはずれ、今度 はサイドラインを割った。

「ごめん、亜美ちゃん。今度は絶対に、もうぶつけるつもりで打つから。」
 亜美に近寄って謝るまことの顔は必死の形相だ。
 
「どりゃっ!」
 第4ポイント。ほたるのバックサイドを襲うストレート。しかし、明らかに伸びを欠いたその球はほたるの体を捻りながら のバックハンドボレーに捕らえられた。


「これは、ちょっと根が深いかも知れないわね。まこちゃん。」
 ベンチで観戦している美奈子が少し顔をしかめて言う。
「急に入らなくなっちゃったわね。」
 相づちを打つレイも、原因の察しは付く。
 
「やっぱり、さっきのほたるちゃん直撃が尾を引いてるのかしら・・・。」
「そうね、本人は打とうとしてるんだけど・・。体が無意識のうちに避けちゃってるって感じね。ほら、ちょうど昔のボクシ ングのマンガであったじゃない。「あしたのジョー」で、ジョーがライバルの力無徹を試合で死なせちゃって、その後相手の 顔面を打つのを無意識に避けちゃうってやつ。あれにそっくりだわ。」
 
 美奈子の言に頷くレイもそのマンガは知っている。
 そして、ライバルが「りきなし」ではなく「りきいし」であることも知っている。
 しかし、最近は、会話に支障がない限り、美奈子の誤りはいちいち全部は正さないことにしていた。
 そう、きりがないのだ。


「ごめん亜美ちゃん、次はあたしのサーブだから。最初から後衛にいるし、次は絶対に決めるから。」
 第6ゲームを落とし、まことを励まそうと近寄った亜美に対して向けられた半分泣き出しそうな表情をみれば、亜美にも、 まことが泥沼の悪夢から抜け出そうと必死であることは十分わかる。
しかし、頭ではわかっているのに体が言うことを聞かないまことを励ますのは難しい。
 と言うより、励ますのは簡単だが、それによりまことの体を動かす結果をもたらすのは難しいという方が正確だ。

 しかし、何とかしなくてはいけない。何とかしなくては・・・。
 策を思いつかない亜美は、ラケットを小脇に抱えると、両手でまことの両手を握った。

 自分に比べて大きくて、そして、少し暖かい手。
 これまで、自分を守ってきてくれた手だ。
 昨日も、その手のひらは、自分から邪気を吸い取って、安らぎを与えてくれた。
 その手は、今、じっとりと汗をかいて少し震えている。
 手の主がもがき苦しんでいるのが自分にも伝わる。
 
 亜美の心の中でやるべきことが決まった。
 

「まこちゃんごめんね。わたし、まこちゃんの気持ちも考えないで、厳しいこと言っちゃって。ちょっと無責任だった。」
 突然謝られたまことは、目をぱちくりさせて、二の句が継げない。亜美は、穏やかな笑顔を浮かべると、手を握ったまま続 ける。
「大丈夫。まこちゃん。わたしがやるから。わたしが後衛に回るから、まこちゃんは、サービスを打ったあと、適当なところ で、ゆっくり目のロブを打って、その間に前衛についてくれる?」
「で、でも・・・」
「大丈夫よ。ちゃんと策もあるんだから、私にまかせて!」
 とびきりの笑顔を作って、最後に両手にぎゅっと力を入れると、亜美は、前衛の位置へと向かった。


 3-3に追いつかれた第7ゲーム。まことのサービス。
 まことのふんわりサーブが、ほたるの前のコートの真ん中に入る。
「ぱしっ」
 気分も乗ってきたほたるのリターンは鋭い。
「くうっ!」
 懸命に手を伸ばしたまことは、かろうじて、フォアハンドで、前衛のはるかの上を越すロブを放つ。

「まこちゃん、前に出て!」
 隣の亜美の指示を声を聞いたまことは、体制を立て直すと、まっすぐ前に出て、ネットに詰める。
 入れ替わりに亜美が、後ろに下がり、後衛の位置につく。
 ぽーんという音とともに、ほたるが、まことの放ったロブをバックハンドで、これもロブで、前衛のまことの上を抜く。そ して、そのまま前に詰めてくる。表情は、自信満々だ。

「えいっ」
 小さなかけ声とともに、亜美はほたるのロブを力一杯クロス方向深い位置に速い球で返す。
 が、疾風のごとく走り込んで来たはるかが、余裕で追いつくと、亜美の方に、これも勢いのある深い球を返す。

「これは見応えのあるラリーになってきたわね。」
 ベンチで観戦している美奈子が亜美とはるかが後衛で全力で打ち合う球に合わせて、顔を左右に振りながら言う。
「そうね、まこちゃんが動けなくなっちゃったから、亜美ちゃん自ら大奮戦ってとこかしら。」
 隣のレイも美奈子に合わせて顔を左右に振っている。
「でも、ここの数ポイントは大きいわ。亜美ちゃんの力がはるかさんに通じるかどうかの分かれ目だから。」
 そう言いながら、美奈子は、どちらが自分たちの相手となるかの帰趨を決めるかも知れないラリーに見入っていた。


「ゲーム、天王、土萌。天王、土萌リーズ4-3。」
 後衛同士が全力をぶつけ合った見応えのある打ち合いは、はるか側の取ったポイントが6,亜美側の取ったポイントが4と、 長いジュースの末、はるかに軍配が上がった。

 亜美は、息を少し切らしながら、ベンチに腰掛けると、スポーツドリンクを一口一気に飲むと、空を見上げて、ふっと、た め息をついた。

 まことにああは言ったものの、もとより、作戦と言えるほどの作戦があって、はるかとの打ち合いに望んだ訳ではない。
 まことをこれ以上苦しませる訳にはいかない、後は自分が何とかしなくては、という気持ちから始めた以上のことではなか った。
 実際に、はるかとほとんど一対一の果たし合いとも言うべき打ち合いを挑んで見ると、予想外に自分の力が通じることがわ かった。
 しかし、それはあくまで、「予想に比べて」の意味であって、このまま打ち合いを続けていても、もはや劣勢を覆すには至 らないことは自分でもわかる。

 空から視線を下げて、隣を見ると、大柄な彼女が、怒られた子供のように少し小さくなって、こちらを見ている。
 策はない。
 しかし、最低限、彼女を元気づけておかなければならない。
 特に、前衛は積極性が何より大事で、気持ちが委縮していては捕れる球も見逃してしまうこととなるのだ。
 亜美は、にっこり笑うと、まことに話しかけた。

「大丈夫よ、まこちゃん。惜しいところで、取られちゃったけど、頑張って、今度のゲームは取り返しましょ。」
「うん。あたしも、次のゲームは、ボレーをちゃんと決めるから・・。」
 まことも笑顔を作って答えるが、声にはいつもの張りはない。
 先のゲームでも、ほたるがボレーを1本ミスしたものの2本決めたのに対し、まことは前衛で、ミスも無かった代わりに1 本もボレーを決めていない。
 はるかの方が、亜美よりも打球が速いとはいえ、まことのプレーの消極性は明らかであった。
 
「ねえ、まこちゃん。」
 亜美は、まことの左手を手にとって話を続けた。
「そんな、「ちゃんと決める」なんて、頑張らなくてもいいの。まこちゃんが、前衛で動き回って、いろんなボールに手を出 してくれるだけでいいのよ。それだけで、はるかさんの後衛からの球出しにプレッシャーがかかって、こっちが有利になるん だから。」
「わかった。頑張るよ。」
 そう言うと、まことは立ち上がり、コートへと向かった。


 休憩後の第8ゲーム。ほたるのサービス。
 延々と続く後衛のはるかと亜美との打ち合いは前のゲームと同じ光景だ。
 違うのは、亜美の球に慣れてきたはるかのプレーが益々冴えて来たのと反対に、亜美の足色がだんだん鈍くなってきたこと だった。
 まことの動きは、第7ゲームよりだいぶ良くなってきているが、はるかの球は正確にまことを避けて後衛に届いていた。

「30-0。」
 長いラリーの末、はるかのクロスのグラウンドストロークがコートの隅に落ちて、追いつけなかった亜美がつまずいて両手 をコートにつき、みちるが第2ポイントもはるか側が取った旨をコールしたところで、美奈子が、ゲームの結果を結論づけた。
 
「うーん。これは、亜美ちゃんも万策つきたって感じね。」
「はるかさんは、もう無理をしないで、後衛の亜美さんが疲れ切るのを待つ作戦に出ています。」
美奈子の隣で、背筋を伸ばしたまま観戦しているせつなが、はるかのプレーを分析した。
 
「はるかさんは、よくそのスピードが凄いと言われますが、ほんとに凄いのはそのスピードを維持する持久力なのです。」
 確かに、2輪レースでは、1周ごとあるいは一つのポイントごとの瞬発力は大事だが、一番大事なのは、その周回を何度も 繰り返す、肉体的、精神的持久力だ。
 そして、眼前のはるかのプレーは、既にしようと思えば出来るであろう1発のエース狙いではなく、安全に前衛のまことを 避けた、つなぎ合いでの持久力勝負狙いにでていることは明らかであった。
「亜美さんも全力でプレーしていることは、よくわかりますが、その努力も結果としては無駄に終わると思います。」


「無駄には終わらないわ。」
 それまで、無言で美奈子とせつなのやりとりを聞いていたレイが、コート上のラリーを凝視したまま、せつなの見解を真っ 向から否定した。
「レイさん、はるかさんのプレーは、恐らくこの後益々調子が出てきて、亜美さんは・・・・・・・・・」
「無駄には終わらないのよ。」
「レイは、コートに向けた視線はそのままで、せつなの反論を封じるように、先ほどと同じ意見を口にする。
 美奈子もコート上を見ると、そこでは、既に息が上がりかけた亜美が、益々プレーに冴えが出てきたはるかの振り回しに必 死に足を動かして食らいついている。

「そうね・・、亜美ちゃんの努力、私も無駄には終わらないと思う。はるかさん、最後の最後で作戦を誤ったと思うわ。」
 美奈子も、静かに、しかし、しっかりとした口調でレイと同じ事を言った。

「どうして、無駄に終わらないと言うのでしょう。私にはわかりません。亜美さんにまだ何か策が残っているのでしょうか。」
 問いかけられた2人は、正面のラリーに合わせて顔を振って目を向けたまま、それぞれに回答する。

「それは、・・」
「それは、亜美ちゃんのパートナーが・・」
「他の誰でもない・・」
 
「まこちゃんだからよ!!」
 2人同時に発せられた最後の一言を聞くと、せつなもコート上に視線を移した。


 第9ゲーム。亜美のサービス。
 ゲームカウントは3-5。
 亜美たちにもう後はない。
 肩で息をしている亜美は、エンドラインのすぐ後ろに立って目をつむるとサービスに向けて気持ちを集中する。

「それっ」
 亜美の渾身の力を込めた回転を押さえたフラットサーブが、ほたるのバックサイドぎりぎり、センターライン上を襲う。
 
「15-0」
「ナイスサーブ亜美ちゃん!」
 この土壇場、それも消耗しきった状態でノータッチのエースを決めた亜美に、まことは驚きつつも祝福のかけ声を送る。
 亜美も、珍しく右手で拳を作り小さくガッツポーズをとってそれに応える。
 第8ゲームを結局ラブゲームで落としていた亜美たちにとって、久々のポイントでもあった。

「それっ」
 第2ポイント。
 これも、渾身のフラットサーブが、はるかのフォアサイド、センターライン上を襲う。
「くっ」
 懸命にラケットを伸ばしたはるかのフォアハンドは、サービスの力に押されてふらふらと
 力無く上がり、それでも、亜美の正面、サービスラインのすぐ後ろまでやってきて、ぽーんと弾む。
 亜美は、そのボールに小刻みにステップを踏んで照準を合わせると、正面のネット際で待ちかまえるほたるにちらと目をや り、ラケットをゆっくりと、そして大きく引いた。
 
 それを見ていたまことには、亜美が何をしようとしているのかが、はっきりとわかった。

「ばしっ」
 亜美の渾身のストレートボールは、ほたるの正面、少しバックハンドよりを襲った。
 ほたるは、必死に反応し、というよりは、偶然ラケットがボールに当たった感じで、ラケットを押し込んだボールは高く舞 い上がり、こんどは、亜美の正面、サービスラインのやや内側に落ちる。
 亜美は、そのボールに対し、すぐに近寄ると、再びラケットをゆっくりと、そして大きく引いた。

「亜美ちゃん・・・。」
 次に繰り広げられる光景を容易に理解したまことは息を飲む。

「ばしっ!」
 2発目の亜美渾身のストレートボールは、ほたるの真正面を突き、思わず目をつぶりながら必死に構えたラケットのフレー ムに当たって、亜美側の、ネットの際にぽとりと落ちた。
 
「15オール。」
 みちるの声を遠くで聞きながら、まことはネット際を転がるボールを呆然と見ていた。


 第3ポイント。
 亜美は、ほたるに向かってサービスを放つべく、少しうつむいて、精神を集中する。
 と、斜め後ろから声が聞こえる。
「亜美ちゃん。」
 振り向くとまことが側に立っている。真剣な表情だ。
 
「亜美ちゃん、有り難う。あたし、・・・目が覚めた。」
「まこちゃん・・・。」
「あたし、ふがいなかった。ごめん。だけど・・、もう一度チャンスをもらえるかな・・。そう・・、あたしが亜美ちゃんの 相手としてふさわしいかどうか。ここでそれを試したいんだ。」


 ゲームの途中であるため、長い打ち合わせは認められない。
 簡単にフォーメーションの打ち合わせだけをすると、まことは、前衛の位置に戻る。
「ぱしっ」
 亜美のサービスは、今度はスライスサーブ。確実なサーブだが、スピードは緩い。
 ほたるは、そのサーブをバックハンドで、亜美の方向に流し打つ。
「それっ」
 亜美は、ストレートのロブで、はるかの頭上を抜くと、そのままネットに詰める。
 まことは代わりに後ろに下がって、後衛の位置に着く。
 ほたるは、亜美のロブに追いつくと、バックハンドで、丁寧に、亜美の頭上をこれもストレートのロブで抜き、そして、前 に詰めてくる。
 まことは、そのロブに素早く追いつくと、フォアハンドの照準を合わせて、ゆっくりとラケットを引いた。

 ふがいなかった。
 意気地がなかった。
 一昨日、亜美を抱きしめたとき、絶対亜美のことを守ると言っていた自分を思い出す。
 お笑いぐさだ。
 しかし、亜美は、そんな自分を励ましてくれた。暖かく見守っていてくれた。一人で頑張っていてくれた。そして、どうす ればいいかまで身を以て示してくれた。
 これで出来ないようでは・・・、あたしはあの人の相手として・・・。

「ばしっ」
 まことの体重の乗ったストレートボールは、ほとんど反応できないほたるの右1mのところを、きれいに抜けてエンドライ ンの内側に落ちた。


「ゲームアンドマッチウオンバイ水野、木野。スコアイズ7-5。」
 第12ゲーム、30-40からのポイントで、まことのパッシングショットが、はるかのラケットを弾いたところで、試合 終了を告げるみちるの声がコートに響いた。

 第9ゲーム以降、まことのフォアハンドは冴え渡った。それに対し、ほたるも一歩も引かずに立ち向かい、何本もポイント を上げたが、流れを変えることは出来なかった。
 最後の2ゲームは、ペースを変えるためはるかも前衛に出てまことのフォアハンドを止めにかかったが、勢いに乗ったまこ とのフォアハンドははるかのラケットすら押し込んでポイントをあげた。


「亜美さん、まことさん、有り難うございました。怖かったけど、とっても楽しかったです。ほんとにまたお願いします。」
 熱戦を称えるコートサイドからの割れんばかりの拍手の中、試合後の挨拶で、全力を出し切った後のすがすがしい笑顔を浮 かべてほたるがネット越しに右手を差し出す。
「ほたるちゃんの方が怖かったよ。あたしもまたやりたいよ。こっちこそよろしくね。」
「ほたるちゃんも上手になったわ。また一緒にしましょうね。」
 まことと亜美も笑顔を浮かべて右手を差し出すと、ほたるとしっかり握手をする。
「はるかさん、あの・・、フォアハンド、最後は出来ました。」
「そうだな。すごい威力だった。よく頑張ったな。」
 まこととはるかも笑顔で握手をする。
 
「ほんとに、ありがとうございました。あ、あの、勉強になりました。」
 亜美は、少しおずおずと、はるかに向かって右手を差し出す、と、その手を引き寄せるようにしっかりと掴んで、はるかは 答えた。
 
「亜美、立派だったぞ。完敗だ。」
 心の内を見ていたかのようなその敗戦と祝福の弁は、亜美のそれまでの苦労を同じ量の喜びに変える一言でもあった。
 

 亜美とまことはは審判台のみちるに一礼をすると、お互い右手を差し出してがっちり手を握りあった。
「亜美ちゃん、有り難う。あたし・・、今日のことは多分一生忘れない・・。」
 少し顔を下げて亜美にささやくまことの目は潤んでいる。
「あたしもそうだと思う・・。でも、もう一回、この思いを味わうのも悪くないと思わない?」


 まことがそう言う亜美の視線の先を見ると、ベンチから立ち上がり既に柔軟体操を始めている美奈子とレイの姿があった。

  

<続く>

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