4人の86時間
<9>
第1試合の熱気さめやらぬ中、第2試合出場の4選手が、試合前の練習のため、コートに入った。
まことははるかが、亜美はほたるが練習の相手だ。
まことは、はるかの球筋を確かめるように、フォアハンドを繰り出す。
はるかのアドバイスに亜美のお墨付きを得て、今日もこれを重点的に練習した。
結果、自信もついてきた。
今、正に行っているこの打ち合いでも、自分の球威ははるかのそれを上回っていることをはっきりと感じる。
「大丈夫だ。調子は悪くない。」
一言口に出してから隣を見ると、亜美が、ほたるがまんべんなく練習できるように、フォアとバックに交互に球を出してあげている。
ほたるも、フォア、バックともに、軽い順回転の球をいいリズムで亜美に返している。
亜美の教え方は、優しくかつ上手だと思う。
まことの目から見ても、ほたるの腕前は初日に比べて格段に上がっていて、それは、目の前のほたるの安定した返球を見ても明らかだ。
亜美は、今日の午前の練習でも試合がすぐ後にあることなど忘れているかのように、昨日までと同様ほたるに親身に指導してあげていて、ほたるも、その指導を綿が水を吸うように吸収してプレーに反映させていた。
「しかし、試合になれば別だ。」
まことは、亜美が指導の時に見せる顔と試合の時に見せる顔とが全然違うことを知っている。
高校に入ってから少し教わったチェスでも、指導は優しく懇切丁寧で、対局に当たってのハンデも応分以上につけてくれるのであるが、対局中の自分の指し手そのものは絶対に緩めないのが亜美のやり方なのだ。
まこと自身も、この試合は、どんなに差がついても終了の声を聞くまで絶対に手加減しないと決めていた。
昨晩の亜美のことも頭にあったが、自分自身、はるかを相手に緩んだことをすればとんでもないどんでん返しを食らいかねないという恐れのようなものも感じていた。
所定の練習を終えて、コート上の4人は、ネットに歩み寄り、トスに勝った亜美がサービスを選択した後、互いにネット越しに握手をする。
「よろしくな。」
「こちらこそよろしくお願いします。」
「いいゲームをしましょう。」
「恩返しができるよう頑張ります。」
最後のほたるの一言は、亜美に向けられたものであることは明らかであった。
互いの挨拶の後、亜美は、ネットから1m余り離れた前衛の位置に向かうまことに歩み寄る。
「まこちゃん、一発で決めようとしなくても大丈夫よ。打ち合わせたとおりね。」
大丈夫、わかってると目でうなずくまことを見て、亜美は、サービスラインへと向かう。
「ワンセットマッチ。水野サービス、プレイ」
審判台に座ったみちるの合図で、いよいよ、1回戦第2試合が始まった。
「すぱっ」
第1ポイント、亜美のスライスサーブが、フォアサイドを守るほたるのバックに入る。
ほたるは、腰を落として、面をつくると、両手打ちバックハンドで、亜美のフォアサイドにリターンする。
まことのボレーを避けた基本に忠実なプレーだ。
亜美は、前衛で、ラケットを立てて構えながらボレーを狙うはるかをちらっと見ると、その頭上高くを越えるロブをクロスに上げて、ほたるに返球する。
ほたるは、打球に追いつくと、腰を落として、今度は大きなバックスイングのフォアハンドで、しっかりとしたクロスボールを亜美に返す。
そのボールを亜美はロブで返し、何球かの見応えのあるラリーの末、ボールをネットにかけたのは、ほたるの方であった。
「亜美ちゃん、ナイス辛抱。」
まことは、ほたるの意外な粘りと上達ぶりに改めて驚きながらも、亜美の落ち着いたプレーに賞賛のかけ声をかける。
「いいぞ、ほたる、その調子だ。」はるかも、ほたるの粘りのあるプレーを褒めた。
第2ポイント。はるかのレシーブ。
ここは、今後の展開に重要なポイントであることはまことにもわかる。
亜美も少し緊張した面持ちで、しかし、思い切りよく、回転を押さえてスピードを乗せたサービスをはるかのフォアサイドに送る。
「ばしっ」
はるかもさすがに強打はできず、面を合わせた感じのリターンが、亜美のバックサイドに返ってくる。
ここだ。
打ち合わせでは、ここが、一つのポイントだ。
まことは、打ち合わせどおり、サービスライン付近まで下がると、ほたるの返球を待った。
亜美のバックハンドのボールは、ストレート、ほたるのフォアサイドを突く。
ほたるはそれにフォアハンドボレーで面を合わせる。
果たして、ほたるのボールは、やや勢いに欠け、まことの正面にふわりと落ちる。
まことは、そのボールに慎重に面を合わせると、打球ははるかとほたるの間をきれいに抜けていった。
「ゲーム。水野、木野リーズ1-0。」
みちるの第1ゲーム終了のコールを聞いて、亜美とまことは、コートチェンジ時の休憩のため、ベンチに向かった。
「まこちゃん、ナイスショットよ。」
亜美の声は明るい。
「いやー、正直ちょっと緊張しちゃったよ。」まことも少し照れながらも笑みを返す。
3ポイント目は亜美がほたるとのつなぎ合いを制し、4ポイント目は、2ポイント目と同様の展開で、まことが決めて、第1ゲームは結局ラブゲームで亜美たちが取っていた。
ベンチに座って、スポーツドリンクを一口飲むと、まことは、隣を向いて話しかけた。
「滑り出し好調、ってとこだね。」
「そうね。でも、次ははるかさんのサービスで、その次がまこちゃんのサーブだから、この2つのゲームが山よ。」
笑顔を浮かべながらも慎重な亜美の言は、正解だ、とまことも思う。
はるかのサービスが要警戒なのは当然として、自分のサービスのへろへろ振りも同じぐらい要警戒なのだ。
「はるかパパ。ごめんなさい。」
健闘むなしく、1ポイントも奪えなかったほたるは、息を少し切らしながら、ベンチに座るとはるかに謝った。
「何を言ってるんだい。ほたる。すごく上手になったよ。調子だって、悪くないし、その調子でやれば、次はポイントだって取れるさ。」
はるかは、やさしい笑みをたたえながら、ほたるを励ます。
「そうね、次も頑張るわ。」
自分でも調子はいいと感じていたほたるは、元気よく返事すると、ラケットを手に取り、コートへと向かった。
「びしっ」
第2ゲーム。最初のポイント。
はるかの高速スライスサーブがセンターライン付近、まことのバックサイドを襲う。
しかし、亜美に、「速いサーブは面を合わせれば飛んでいく」と教えられていたまことは、比較的落ち着いて、両手で、バックハンドの面をつくり、はるかの方に流し打つ。
はるかは、その球を、亜美を避けて、慎重にまことの方にクロスの中ロブで返す。
「ここだ。ここが練習の見せ所だっ。」
心中で叫ぶと、まことは2、3歩サイドラインの方に歩を進め、やってきた球をフォアハンドで叩くべく照準を合わせてラケットを引く。
「どりゃっ」
8分の力で放たれたまことのフォアハンドのストレートのパッシングショットは、力強くほたるのサイドを抜けるエースとなった。
「さあ、あと、問題なのは、このゲームだ。」
第3ゲームの最初のポイント、まことがサービスを構える。
第2ゲームも結局まことペアが取った。
奪われたポイントは、はるかのサービスエースでまことが取られた1ポイントだけで、取ったポイントは、1ポイント目のまことのパッシングショットのエースと、前衛のほたるのボレーを、まことが1本、亜美2本それぞれ前に出て処理した3本であった。
すべては計算どおりに進んでいる。
あとは、このゲームさえ取れれば、第4ゲームはほたるのサービスであるから、勝利は手中にしたも同然だ。
「ぽーん」
フォアハンドのグラウンドストロークとは打って変わってのどかな打球音を発したまことのサービスは、ほたるの守るサービスエリアの真ん中に落ちる。
「ぱしっ」
ほたるのフォアハンドのリターンは意外に速い。
サイド方向に1,2歩進んだまことは、自分に合わせて、はるかもサイド方向に移動したのが目に入る。
「ここは、辛抱だっ。」
まことは、強打をあきらめ、クロス方向に、そして、間違ってもはるかにかからないように、高いロブをほたるに返す。
「まこちゃん!辛抱よっ!」
前衛の位置に立っている亜美がまことに声をかける。
そうだ。
ここは、辛抱だ。
ロブをメインとしたつなぎ合いは得手ではないが、初の自分とほたるのつなぎ合いとなったのここのポイントの意味は大きい。
「まこちゃん!」
「ほたる!」
前衛の2人の、後衛のパートナーへの処理の依頼兼激励の声が何度もこだまして、最終的に力負けして浅くなったロブを前衛に叩かれたのはほたるの方であった。
「こりゃ、先、見えたわ。」
審判台の反対側に置かれたベンチでレイとせつなに挟まれて座って観戦している美奈子が眼前のゲームの行く末を結論づけた。
ちょうど目の前では、第3ゲームの2ポイント目、はるかのリターンをまことがロブでしのいで、何本かのつなぎ合いの後、まことのパッシングショットが前衛のほたるのラケットを弾いてポイントを取ったところであった。
「「見えた」って、まだ3ゲーム目の途中よ。」
レイが少しとがめるように言う。
「だって、亜美ちゃん側がポイントを落とす展開はもうないもの。」
美奈子は、そう言って、先を続けた。
亜美とまことがほたるに球を集めているのは明らかである。
そして、ほたるの前衛でのプレーは、ボレーがことごとく亜美とまことに拾われている現状から見ると、たとえパッシングショットで抜かれなくても、それなりの確率でポイントを奪う希望はもはやない。
また、後衛でのプレーも、亜美はもちろんまこととのつなぎ合いでもほたるの劣勢が明らかになった以上、これもそれなりの確率でポイントを奪う希望はもはやない。
「まこちゃんも、はるかさんのサービスと、自分のサービスに対するリターンをうまく返してるし、これは団子で亜美ちゃんたちが勝つわ。」
「何よ、その「だんご」って。」
レイが怪訝そうに美奈子の用語の意味を尋ねる。
「「片方が1ゲームも取れずに」っていう意味よ。スコアの0をおだんごに見立ててそう言うのよ。それにしても、さすが亜美ちゃん、緻密っていうか、やるとなったら情け容赦ないわね。」
レイの質問に答えた美奈子は、亜美たちのプレー振りに感嘆の念を漏らした。
作戦自体は難しいものではない。
ペアの弱い方に球を集めるという極めてシンプルかつ常識的なものだ。
ほたるのボレーは拾えるから、無理に抜きにかからず、むしろほたるにボレーを打たせてそれを拾って決めるというのは、さすが亜美の観察眼と分析力であるが、これとて何発か打たせてみれば自分でも気づきそうなものだ。
感心するのは作戦自体ではなく、その作戦の徹底ぶりである。
亜美の技術があれば、あるいはまことのパワフルなフォアハンドをもってすれば、前衛のはるかを抜きにかかったり、後衛のはるかとの打ち合いに持ち込んだりしても、そうひどく劣勢に立つとも思えない。
自分であれば、恐らく、遊び心半分で最終的に負けにならない程度にいろいろ試してみただろう。
しかし、亜美たちは、そうした横道にそれることなく、一直線に、最短勝ちに向かって突き進んでいる。
これは、何事にもまずは数学的分析を試みる亜美と、亜美の指示なればたとえ火の中なんとやらのまことの2人なればできることであろう。
「だいたい、レイちゃんだったらあたしの言うことあんなにちゃんと聞いてくれないもんね。」
隣で、コート上のラリーを真剣に見入っているパートナーの横顔を見て、美奈子はへらっと顔をゆるめた。
「でも、今日のはるかさん、何かちょっと淡泊よね。」
目の前でほたるがまこととのつなぎ合いの末、球が浅くなったところを前衛の亜美にスマッシュされたところで、レイが美奈子の方を向いて、感想を漏らした。
そのことは、美奈子も少し気になっていた。
亜美たちが主導権を握っているこの展開では、ある程度相手の作戦に乗っかって戦うことになるのも致し方ない。
しかし、現状は、余りにも相手の作戦どおりに動きすぎている、というより、自分の方から、相手の引いたレールに乗って、負けに向かって突き進んでいる観さえある。
美奈子の知っているはるかであれば、こういう展開であれば、前衛にいるときに強引に中央にポーチに出るとか、少し無理気味でもロブを深追いしてスマッシュを打ってみるとか、なにか自分から動きがあっても良さそうなものなのだ。
「さしものはるかさんもあきらめちゃった、ってとこかしらね。」
美奈子が、何度目かのつなぎ負けで、さすがに肩を少し落としているほたるの方を見ながら、美奈子なりの結論を口にした。
「それは、違うと思います。」
背筋をのばしたまま無言で試合を観戦していたせつなの初めて発する、そして、美奈子の回答を真っ向から否定する発言に、レイも美奈子も、体ごと向けて、その続きを求める。
「はるかさんは、万策尽き果てるまであきらめる人ではありません。そして、まだ、何も試していません。ですから、あきらめているはずはありません。」
「でも、この状況になっても何もしないなんて、変じゃないですか?どうして何も試さないのですか?」
レイが、納得しかねる風情で、答えを求める。
美奈子もそう思う。
今のプレースタイルを続けても、事態が好転する可能性は全くない。
ほたるがポイントを失っているのはいわゆる「力負け」であって、ゲームの最中での改善が期待できるたちのものではない。
スマッシュをミスっていたレイのように、タイミングを一つ掴めれば、というものとは違うのだ。
そして、そうであるなら、今の路線から脱出する策を試すのは早いほうがいいのは当然で、はるか程の者ならそんなことは当然わかるはずなのだ。
「それは、わかりません。ただ、はるかさんが何も策を思いついていないということはないはずです。そして、それを試さないのは、今は試さない方がいいという、はるかさんなりの何か考えがあってのことだと思います。」
せつなの言葉を聞き入る2人の前では、ほたるとまことの後衛での何度目かのつなぎ合いの末、ほたるの浅くなったロブを亜美がスマッシュで叩いていた。
「ナイスキープ!」
「いやー、ラブゲームとは我ながら上出来だったよ。」
第3ゲーム終了後、ベンチに座って休憩している亜美とまことの表情は明るい。
3-0というスコア以上に、はるかのサービスゲームとまことのサービスゲームという、強いて言えば不安のあった2つのゲームを合わせて1ポイントしか落とさずに取っているという内容が大きいのだ。
「まこちゃん、ほんと、上手になったわ。びっくりするくらい。」
亜美はまことを励ますというより、さすがだという感心の念を込めてまことを褒める。
集中的な反復練習と持ち前の腕力にものをいわせたフォアハンドはともかく、大して練習もしていなかったバックハンドもはるかの強烈なサーブやリターンを面を合わせてうまく返している。
普通の運動神経ではなかなかこうはいかない。
「どうやら、このままってとこかな?」
まことが今後の見通しを亜美に尋ねる。口ぶりは明るい。
「そうね。」
亜美は、座ったまま身を屈めて、審判台を挟んで位置している対戦相手の静まり返ったベンチをのぞき込んでから、また姿勢を正して、慎重に言葉を続けた。
「ここまで動きがないっていうことは、もう大丈夫だと思うんだけど・・・。」
「ほたる、惜しかった。でも、いい調子だよ。」
はるかは、ベンチに座ってスポーツタオルでグリップを拭き終わると、息を弾ませながら正面を向いて隣にすわっているほたるに優しく声をかけた。
「うん。ありがとう・・。」
正面を向いたままのほたるの声には力がない。
自分ではここまで、1ポイントも取れていない。
というより、ここまでの3ゲームで自分たちが取ったポイントは、パートナーのはるかのサービスエース1ポイントだけである。
自分でもうまくなったと思う。
練習の成果は確かに出ている。
プレーも自分の実力は出せていると思う。
しかし、現実の結果は厳しい。
テニスの試合の結果は、相手との相対的な力関係で決まる以上、自分がうまくなっても、相手がそれを上回っていれば、スコアには反映されない。
このままでは、0-6で負けることは自分でもわかる。
自分が負けるのは仕方がない。
しかし、はるかの方はそれでかまわないと思っているのだろうか。
「ねえ、はるかぱぱ。」
ほたるは、思い切って聞いてみることにした。
「このままだと、0-6で負けちゃうと思うんだけど・・、どう思う?」
ふーむ、と少し考えて、はるかは返事をする。
「なあ、ほたる。ほたるはテニスを今後も趣味として続けていこうと思うだろ?」
質問の答えになっていない発言にとまどいながらも、ほたるは、そうだと返事をする。
「試合に勝つことは、大事なことだけど、練習の成果を実戦で出すってことも大事なことなんだよ。」
目をぱちくりさせているほたるに、はるかは穏やかな口調で続ける。
「ほたるは、亜美に教えてもらって、この3日間で本当に上手になったよ。以前、僕が教えていたときの上達具合とは雲泥の差だ。ポイントは取られているけれど、ラリーだってずいぶん長く続くようになったし。テニスは専門じゃないけど、ほたるは上達への正しい方向に向かって進んでいると思うんだ。だから、目先の1勝にこだわるより、練習した成果を実戦で試すっていうことで割り切っていいんじゃないかな。」
「それって、この試合はもう勝ち目がないってことなの?」
少し考えた後に発せられたほたるの問いにはるかは答えない。
「ねえ、ほんとは、勝つ方法がなにかあるんでしょ。」
無言のまま目をそらすはるかに、ほたるの疑問は確信に変わる。
はるかは、この状況を打開するための何らかの策を持っている。
ただ、どうやらその打開策は、自分の練習してきたことと違う、なにか変わったプレーをさせることとなるので、自分の上達に悪影響が及ぶと心配して、はるかはその策を封印しているのだ。
「以前、レースの話をしてくれた時、はるかぱぱが自分にとって大きな転機となるレースだったのは、初めて表彰台に立ったレースだっていってたよね。」
はるかの目をしっかり見ながら別な話を始めたほたるに、はるかは、少し驚いたようにほたるに視線を戻す。
「そのレースの時は、はるかパパはまだ未熟だったし、入賞できたのは、上位の選手にたまたまミスやトラブルが相次いだだけだったけど、でも、入賞できたっていうこと自体が大きな自信になったって、言ってたよね。」
ほたるの言わんとすることがわかってきたはるかは、先回りしてその後を続ける。
「だから、とりあえずは勝ちの味を味わってみたいって言う訳か。」
「っていうか、今のプレーでは、全然緊張しないの。このまま続けていればポイントがいくつか取れるかも知れないけど、結局負けるってわかっていると、全然緊張しなくて、練習やってるのと気持ちがちっとも変わりないの。」
ほたるの最後の言には、はるかも考えさせられた。
ほたるが言ったように、初めて3位で入賞したレースで、確かに自分は自信をつけた。
そして、その自信は、3位に入ったという結果よりも、3位に入る前の最後の数周、迫り来る実力上位の後続者のプレッシャーに自分が耐えられたということから来るものだった。
同じタイムでの周回も、練習でできるのと実戦でできるのとでは意味が違う。
そして、その「実戦」とは、成功により得られるもの又は失敗により失うものが大きい場面でなければ意味がない。
レースで言えば、入賞の望みのない状況での周回は、「実戦」というより「練習」に近いものなのだ。
ほたるに言われるまでもなく、このままでは0-6で敗れることは、自分でもわかっている。
それが本人にもわかっているとすれば、そんな試合での、プレーがほたるにとって「実戦」と言えるのだろうか。
むしろ、「実戦」の緊張感を味わうことの方が大事なのではないだろうか。
そこまで考えたところで、はるかは、ほたるに尋ねた。
「ほたるの思っているように、打開策がない訳じゃない。だけど、それは、・・。」
「私が亜美さんから教えてもらってたこととは全然ちがうこと。でしょ?」
今度は、自分が言うせりふをほたるに先回りされたはるかの方が言葉を継げない。
「いいの。わたし、練習じゃない、本当の「実戦」がしたいから。」
相手の胸の中を見透かした様な強い意志のこもった最後の一言は、目を閉じていた虎に牙を剥かせるには十分な一言であった。
第4ゲーム。最初のポイント。
ほたるのサービスのほんわかぶりは、まことのそれと丙丁つけがたい。
まことは、はるかを避けて、たやすくほたるの方に返す。
ほたるは、それを、ストレート方向のロブで亜美の頭の上を抜く。
「まこちゃんお願い!」
亜美の指示を待つまでもなく、まことはバックサイドに全速力で走り込み、さらに、フォアハンドで処理できるよう、回り込む。
「まこちゃん!ほたるちゃん前よ!」
亜美の声に、ちらと目をやれば、ほたるが打った後、前進し、まことの正面の位置でネットに詰めている。
「よしっ、ストレートだっ」
まことは、右足で踏ん張ると、少し体を開いて、ストレート方向のほたるに力のある球を送る。
「ぼこっ」
ラケットのスイートスポットを外した時に生じるやや鈍い音を発したほたるのボレーは、まことのはるか前、シングルスのサイドラインとダブルスのサイドラインとの間に鋭角に 落ちるエースとなった。
「ナイスボレーだ、ほたる!!」
決めた当人よりもはるかが先に左手でガッツポーズを作り、ほたるにかけ声を送る。
「やった!」
この試合で初めて自分でポイントを取ったほたるも、軽く右手の拳に力が入る。
「まこちゃん、どんまいよ。今のは相手がうまかったんだから。」
「ははっ、そうだね、あそこに入れられちゃ取れないよ。」
亜美は、初めてほたるとの打ち合いでポイントを失ったまことに励ましの声を送るが、元々全部のポイントが取れるわけでもないと割り切っているまことは、特に気にしている風ではない。
第2ポイント。今度は、亜美のレシーブ。
ほんわかサーブに対し、亜美ははるかを避けて、慎重にほたるの方へクロスにリターンする。
その返球を、ほたるは、正面に立つ前衛のまことの頭上を越えるロブで抜く。
「亜美ちゃんお願いっ。」
声をかけて、前衛の位置のままネットに沿ってフォアサイドからバックサイドに移動する
まことの目に、ロブを打った後、まっすぐ前に詰めてくるほたるの姿が目に入る。
「亜美ちゃんっ、ほたるちゃん前に詰めてるよっ!」
まことの警告を待つまでもなく、亜美にも、ほたるの前進は見えている。
ロブが落ちてくるのを待って落ち着いてフォアハンドの弓を引き絞ると、亜美は、ほたるの方に向かって、それを放った。
「ぼんっ」
ほたるのラケットから発せられた力強い打球音を発した黄色いボールは、音のとおりの勢いで、亜美とまことの間にバウンドして転がった。
「0-30。」
「いいぞ、ほたる!」
みちるのポイントのコールと、はるかの賞賛の声援が同時に響く。
「亜美ちゃんドンマイ、こういうこともあるよ。」
前衛の位置に立ったまま、余裕の笑顔で亜美に励ましを送るまことのところに、亜美がつかつかと歩み寄る。
はて、と思ったまことに、側まで寄った亜美が、手短に要件を話した。
「ねえ、まこちゃん。次も今までどおりで、いいんだけど、フォアのボレーを2本続けて決められてるから、今度ほたるちゃんが前に出てきたら、ほたるちゃんのバックの方に球を出してくれる?」
「わかったよ。おっけー。」
さすが相手を良く見ていると思って、改めて亜美のことを感心したまことは、2つ返事で了解した。
第3ポイント。今度は、まことのレシーブ。
ほんわかサーブ、クロスのリターン、亜美の上を越えるストレート方向のロブ、ほたるのネットへの前進。まことのバックサイドへの走り込み。
第1ポイントのビデオテープが再現される。
「よし、バックを狙って・・。どりゃっ。」
まことの放ったボールに、体を少しねじるようにしてラケットを差し出したほたるのバックハンドボレーは、まことの正面、ネット際にバウンドし、そして転がった。
そして、前衛の位置に立ったまま、亜美がその転がるボールの行方を真剣な目で追っていた。
「はっはー。こりゃ考えたわね。驚いたわ。」
コートサイドで、レイとせつなに挟まれてベンチに座っている美奈子が感嘆の声を漏らした。
「何よ。それ。」
一人で感心している美奈子にレイが説明を求めた。
とはいえ、突然のほたるのポイントラッシュが単なる偶然ではないことは、レイも感じている。
「まあ、一言でいえば、ほたるちゃんは、ネットにベタ詰めしてるのよ。」
美奈子は説明を始めた。
硬式テニスのダブルスの前衛は、通常、ネットから1.5mほど離れた位置に立つ。相手がロブを打ってくると予想される場合などはもう少し離れて立つ場合もある。
しかし、ほたるのボレーは力がなく球が浮いてしまうため、そうした位置からボレーを放っても、相手にそれを拾われてしまっている。
亜美たちの作戦も正にその拾ったボールでエースをとるというものだった。
はるかは、その対策として、ほたるを、ネットにほとんどくっついた位置に立たせたのだ。
そうすれば、ボレーが放たれてから、相手コートに落ちるまでの時間が大幅に短縮され、また、ボレーに角度がつくため、相手に拾われる可能性が大幅に少なくなる。
さらには、ラケットのフレームなどに当たったカス当たりも、ミスショットからネット際にぽとりと落ちる絶妙のドロップボレーに様変わりする。
「でも、ネットにくっつくけばそれによるマイナスだってあるんじゃない?」
レイは当然の疑問を口にする。
「そりゃそうよ。それが定石にならないのは、ネットにくっつきすぎるとマイナスが大きいからだもん。」
美奈子は続けた。
ネットにベタ詰めするマイナスの最大のものは、相手との距離も近くなりすぎて、相手が速いボールを放ったときに対応出来なくなるというものだ。
野球でも、内野がむやみに前進守備をひかないのは、速い打球に対応できなくて、かえって抜かれやすくなるから、というのと同じ理屈だ。
硬式テニスでは、特に、バックハンドボレーの対応がきつくなる。
硬式テニスでは、バックハンドはフォアハンドで打つ面と反対側の面で打つ。それはストロークでもボレーでも同じだ。
多くの場合、ボレーを構える場合、フォアハンドの面ですぐに打てるよう構えをするが、その状態からバックハンド方向に球が来た場合、ラケットを持った右腕を左肩の方向に一回回してからでないと、バックハンドボレーは放てない。
「その対策として、はるかさんはほたるちゃんにボレーの時のグリップを変えさせてるのよ。」
美奈子は、自分のラケットを手に取ると、レイとせつなに見えるように、自分で例を示した。
「いい?普通は、ボレーの時は、ラケットの面を包丁みたいに地面と垂直に立てて、それを上から持ってフォアとバックで違う面で打つでしょ?」
美奈子は、そう持つと、ラケットを包丁に見立てて膝をとんとんと叩いて切るまねをした。
「いまのほたるちゃんは、その持ち方じゃなくて、ラケットをこう90度倒して、ラケット面が地面と平行になるようにして、それを上から持っているのよ。まあ、言ってみれば、ハエ叩きみたいなもんね。」
美奈子はそう言うと、ラケットを持ち上げると、手首を使いそれをクイクイと動かしてハエ叩きをするまねをした。
「この持ち方で持って、フォアボレーも、バックボレーも同じ面で打つことにしてるのよ。ハエ叩きをする場合、いつも同じ面で蠅を叩くのと同じ要領でね。この握りだと、低い球が凄く打ちにくくなるんだけど、ネットにベタ詰めしていれば、そんな球は来ようがないから、そっちの欠点も表面化しないって仕掛けよ。」
「なかなかの考えなことはわかったわ。でも、他にマイナスはないの?」
なるほどと納得し、はるかの悪魔的才能に改めて感心しつつも、亜美とまことの身を案じ始めたレイは質問を続ける。
「それはまだあるわ。でもそれは、多分亜美ちゃんも気づいて、そこを突いてくると思うんだけど・・・。」
目の前では、前衛のまこととほたるを挟んで、後衛の位置から亜美とはるかがつなぎ合いをしている。亜美は、前衛のほたるを避けてロブではるかに球を送っている。亜美も何らかの対策が必要だと認識しているのは、この光景からも明らかであった。
<続く>
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