4人の86時間
<8>
「私たちは、スポーツマン精神にのっとり、正々堂々最後まで戦い抜くことを誓いまー す!」
午後のさわやかな日差しの中、美奈子とほたるが、右手の平を肩まで上げて、少し照れながら宣誓をすると、他の6人から大きな拍手が送られた。
軽く準備運動を終えると、美奈子とレイは、試合前の練習ストロークをするために、一方のコートサイドへと向かう。
反対サイドのみちるとせつなから、それぞれボールが送られると、2人のラケットから、さわやかな打球音がこだまする。
「今日の調子なら、ばっちりよ。レイちゃん。」
「ありがと。あたしもそのつもりよ。」
パートナーの勝ち気な返事に、美奈子は、頼もしげにうなずく。
所定の練習を終えて、2人は、ネットに歩み寄り、トスに勝った美奈子がサービスを選択した後、それぞれネット越しにみちるとせつなと握手をした。
「よろしくお願いします。」
「いいゲームをしましょう。」
互いの挨拶の後、美奈子は、ネットから1m半ほど離れた前衛の位置に向かうレイに歩み寄る。
「レイちゃん、ミスは気にせず積極的にね。それがレイちゃんのいいとこだから。」
締まった笑顔でうなずくレイを見て、美奈子は、サービスラインへ向かう。
「ワンセットマッチ。愛野サービス、プレイ」
審判台に座ったはるかの合図で、いよいよ、実戦が始まった。
「15-0。」
「ナイスサーブ!」
せつなのバックサイド、センターラインぎりぎりにサービスエースを決めた美奈子は、レイの賞賛のかけ声に右手を軽く挙げて応えると、バックサイドに向かう。
「それっ!」
2ポイント目。サイドライン際に入ったサービスを、みちるはバックハンドで必死に返すが、ふらふらと返って来たボールを美奈子がダッシュ良く飛び出して、せつなとみちるの間に打ち込んでポイントを奪う。
「第1ゲームからラブゲームとは調子いいわ。」
奇数ゲーム後のコートチェンジ時の休憩で、ベンチに座った美奈子は上機嫌で話す。
「でも、私の出る幕なかったわ。」
30-0後の2ポイントとも球に触れずに終わったレイは不平を口にはしているが、表情は明るい。
「ぜいたく言わないの。それに、次は相手のサービスなんだから、いやでもボールを打つことになるわ。」
タイム、という休憩時間の終わりを告げるはるかの声に促されて、2人は、先ほどと反対側のコートへと向かった。
第2ゲーム。最初のポイント。
ぱしっ、という音とともにみちるのスライスサーブが、レイのバックサイドを襲う。
レイは、両手でバックハンドの面をつくると、前衛の位置にいるせつなを避けて、みちるの方に流し打つ。
サービスライン付近に落ちるやや浅めとなったボールに対し、昨日の経験からストレートのパッシングショットが来ることを予測した美奈子は、ラケットを少し上に構えて身構える。
が、みちるの打球は、その上、高くをゆっくりしたロブとなって越えていく。
「レイちゃん、お願い!」
美奈子は指示の声を受け、レイがバックサイドに走り込み、みちるのロブに対処する。と、前衛のままフォアサイドに移動した美奈子の目に、まっすぐ前進して、ネットに詰めてくるみちるの姿が映る。
「レイちゃん、みちるさん前に来てるわよ!」
注意を耳にしたレイは、みちるを避けるため回り込んでクロス方向にロブで返球する。
みちるが前に出たのと入れ替わりに後ろに下がったせつなが、レイのロブをこれもロブで返す。
「せつなさん!」「レイちゃん!」
前衛の2人の後衛に任せたという合図の声が繰り返されるロブのつなぎ合いの末、先に、エンドラインを割って、ポイントを落としたのはレイの方であった。
2本目も、そして、3本目も同じ展開でレイはポイントを失った。
異なるのは、2本目はレイの球が割ったのがサイドラインであったこと、3本目はしびれを切らしたレイのパッシングショットがみちるのボレーに捕まってそれがポイントになったことだけであった。
4本目こそ、せつなのロブが浅くなったところを美奈子がスマッシュで決めたものの、5本目は、1本目と同様に、レイのロブが相手コートのエンドラインを割ってこのゲームはみちるペアのものとなった。
「ごめん。美奈子ちゃん。根負けしちゃったよ。」
「どんまい、どんまい。レイちゃん、プレーは悪くないよ。これで、少しはおもしろくなったってことだって。」
息を弾ませながら悔しそうに言うレイに、美奈子はすこしおどけて明るく励ます。
「次はレイちゃんのサーブだから、ここ頑張ろう!」
第3ゲーム。第2ゲームの数ポイントと同様にせつなとのロブのつなぎ合いの末1本目を落としたレイの、2ポイント目のサーブ。
美奈子は、せつながサービスを受ける番ではないのに、前に出てこず、みちると同様、ベースライン際に立っているのに気が付いた。
「あの、せつなさん。今度はみちるさんへのサーブですよ?」
「ええ、有り難うございます。」
せつなは動かない。
つれない返事ではあるが、勘違いでないのであれば、敵方のポジショニングに美奈子が口を挟む道理はない。
レイに目で合図を送ると、レイが、サービスを放った。が、フォルト。
セカンドサービスは、軽いスライスのかかった緩い球がみちるのフォアサイド、センターライン際に入る。
みちるは一歩左に動くと、ロビング状の球をレイの方に返す。
と、みちるはそのまま右斜め前に走り、レイの正面に立つ。そして、せつなはみちるが元いた場所に走り込む。
その後は、先ほどまでの光景の何度目かの再現であった。
後衛のせつな、レイを指示する前衛の2人の声が幾度かこだました後、浅くなったロビングをたたいてポイントを挙げたのはみちるの方であった。
「ごめんね美奈子ちゃん、あたし一人でミスっちゃってて・・。」
「どんまい、どんまい。まだ、始まったばっかりだって」
第3ゲームも、結局取ったのはみちる・せつなペアであった。
このゲームで美奈子たちが取ったポイントも、前のゲームと同様、せつなの浅くなったロブを美奈子がたたいて挙げた1ポイントだけであった。
奇数ゲーム後の休憩に向かう途中で、さすがに表情に陰りを見せるレイを、美奈子は明るく励ます。
が、さすがに美奈子にも相手の作戦が解ってきた。
相手は、せつなとレイとのロブのつなぎ合いに持ち込み、それに徹する作戦だ。
本来いいパッシングショットを持っているみちるは、それは今回は使わずに、前に詰めてレイの甘くなったボールたたきに専念する。
せつなも、前の球の処理はみちるに任せて、後衛で、ロブを上げることに専念する。
そのフォーメーションを取るために、互いに逆の位置からプレーが始まるときは、ロビングが相手コートに行く間に、陣形を入れ替える。
レイはいいストロークを持っている。
しかし、ロブのつなぎ合いに関してだけは、スペシャリスト、というかほとんどそれだけがとりえといっても良いせつなにどうしても軍配が上がる。
みちるのパッシングショットへの対応であれば、昨日同様、自分が押さえてみせる自信はあるが、相手が打ってこないのであればどうしようもない。
また、せつなのボレー力では、自分やレイのパッシングショットを捌ききれないと思っていたが、前衛が必ずみちるということになると、自分にしても、ましてレイのストローク力では、深い位置から抜くのは難しい。
「ちょっとこっちも対策をとる必要があるわね・・・」
相手は、せつなのロブを上げる力がレイのそれを上回っているその一点に勝機を見いだそうとしている。
その構図さえ崩せば、総合力で勝るこちらが自然に勝つはずである。
「それには・・・・。」
ベンチに座った美奈子は、大きめのスポーツタオルで顔を拭きながら頭を必死に回転させた後、にっこりとした笑顔を作ってから、タオルを顔から離して、レイに明るい声で話しかけた。
「ねえ、レイちゃん、今度のゲームはせつなさんのサーブでしょ?」
「ええ、そうね。」
「そしたら、多分、相手は、また馬鹿の一つ覚えでロブを上げてくるだろうから、レイちゃんは、ロブでみちるさんの頭を抜いたところで、前衛に出てくれる?」
「それで、美奈子ちゃんは?」
「私は、レイちゃんの後ろをカバーする方に回るわ。」
レイは、少し無言で考えている。後衛でせつなにつなぎ負けしたことは、やはり気にしているのだ。
「その・・、レイちゃんのいいところは、積極性でしょ。」
「・・・・・」
「だから、後ろで、しこしこロブをつなぐよりも、前に出て動き回って、甘い球に飛びついてもらった方が、ずっといい面が生きるのよ。」
少し考えて、レイが口を開く。
「いいわ。美奈子ちゃんのいうようにするわ。」
休憩時間の終わりを告げるはるかの声に促されて立ち上がり、コートに向かおうとすると、レイが美奈子に声をかけた。
「あ、そうそう、美奈子ちゃん、そんなに顔をごしごし拭いてると、クリームが全部落っこちちゃうわよ。」
そのいつもの澄んだ張りのある声を聞いて、美奈子もにっこり笑ってVサインを送った。
「大丈夫よ、素顔の方が自信あるんだからっ。」
第4ゲームはせつなのサービス。
みちるほどのスピードはなく、返すことはレイにとっても訳ない。
最初のポイントは、レイのレシーブだ。
ファーストサーブにもかかわらずほんわかとやってくる球は、強打も可能ではあったが、美奈子の言もあり、正面に立ちはだかるみちるの頭上を越すロブを放つと、前に歩を進め、ロブを予想してネットから2m余り離れて前衛の位置に立つ。
回り込んだせつなは、レイの頭上やや後方にそれほど高くないロブを上げる。
「これは届くっ」
レイは1、2歩後ろに下がってスマッシュを放つ、が、押さえが十分効かず、打球はベースラインを1mほどオーバーしてしまった。
「15-0」とはるかがコールする中、右手を軽く上げて、すまないと謝るレイに、美奈子は、いいのよ、その調子、と明るく声をかける。
次のポイントは美奈子のレシーブ。
やはりほんわかとやってくる球をフォアハンドで強打して逆クロスに返す。
せつなも予想していたのか、腰をおろして面をつくると、ストレート、すなわち、レイの頭上に先ほどと同じようなロブを上げる。
と、みちるが、ベースライン付近まで後ろに下がる。
レイは、先ほどと同じように2,3歩後ろに下がってスマッシュを・・という程、今度は強く打たず、面をつくっただけのハイボレーをクロス方向に返す。
しかし、そこにはみちるが満を持したように待っており、力のない浮いた球をクロス方向に強打すると、球は美奈子とレイの間をきれいに抜けていった。
「ゲーム愛野、火野。冥王、海王リーズ3-2。」
審判台から、はるかの声が響く。
第4ゲームを落とした後、続く第5ゲームは美奈子がサービスを何とかキープして、1ゲーム差とした。
しかし、美奈子たちにとって、現下の情勢は厳しいと言わざるを得ない。
第4ゲーム、第5ゲームとも、レイの頭上にロブが上げられると、レイがスマッシュをミスするか、緩く返したところを狙われて強打されるかで、ことごとくポイントを落としているのだ。
第5ゲームは美奈子のサービスの力で押し切ったものの、次の美奈子のサービスは、第9ゲームである。
そして、第6ゲームから第8ゲームまでは、みちる、レイ、せつなの順にサーブが行われ、ここを立て続けに落とせば、2_6で試合は終わってしまうのだ。
奇数ゲーム後のコートチェンジ時の休憩で、ベンチに座った美奈子は、ペットボトルを手にとり、スポーツドリンクを一口含むと、前屈みになってスポーツタオルで顔を覆った。
油断があったと言わざるを得ない。
昨晩のみちるたちとのやりとりを思い出す。
少し腰を落として考えれば、海王みちるが、海王みちる程の者があそこまでの発言をしたからには、丸腰で、・・・何の対策も持たずに・・・、今日の再戦に臨んでくるということは、あり得ないことであった。
そして、彼女が用意した対策はシンプルだが理にかなったものであった。
レイが後衛にいるときは、せつなとのロブのつなぎ合いで粘り勝つ。
レイが前衛にいるときは、レイの頭上にロブを上げる。
これは、レイのミスを期待すると言うよりは、高い球をまだ安定的に強打できないレイが緩く返してくることを見越して、その緩い返球を強打してポイントを奪うというものだ。
ロブのつなぎ合いで負けるのはある程度仕方がない。
しかし、レイの頭上の件については、レイほどの段階まで達していれば、少し集中して練習しておけば解決できた課題だったのだ。
昨日の練習ゲームで唯一落としたゲームがレイがサービスを打つゲームであったことも思い出される。
あのゲームをよく分析しておけば、相手の対策は容易に予測できたはずだっだ。
このままでは、美奈子自身の見立てとしても2_6での負けは目前である。
「スマッシュ練習をやらせておけばよかった・・・。」
後悔と自責の念が自然につぶやきとなって何度も口に出る。
「やらせておけばよかった・・。スマッシュ練習さえ・・。」
「何を言ってるのよ、美奈子。まだ間に合うじゃない。」
鼓膜と言うよりは頭蓋骨を経由して大脳に到達した自分のつぶやきが美奈子に打開策を示した。
要は、レイのスマッシュが5割以上の確率で決まるようになれば良いのだ。しかも、相手は、ミスらない限り、ほとんどのポイントでレイの頭上におあつらえ向きの練習ボールを上げてきてくれる。なぜなら、相手は、レイの頭上を抜くのが目的ではなく、レイに処理させることが目的でロブを上げてくるからだ。
練習するにはこれ以上の好条件はない。
あとは、それが許容された3ゲームの間で間に合うかどうかだ。
が、一昨日、昨日のレイのスマッシュの状況を見た限りではレイが普通に動いてくれれば十分に可能と美奈子は見立てる。
そう。レイが普通に動いてくれさえすれば・・・。
そこで頭の高速回転を停止した美奈子は、大脳の力でにこにこの笑顔を作り、それがきちんとできていることを確認すると、身を起こして、顔を覆っているタオルをベンチに置いた。
「いやー。11月だっちゅうに、今日は日差しが強いわ。」
「そうね。」
素っ頓狂とも言える美奈子の声に対する相方の声色は、しかし、鈍い。
なにしろ、これまでの5ゲームで、レイ自身は、1つもポイントを取っていないのだ。
かまわず美奈子は、続ける。
「ねえ、レイちゃん。あたし少しわかったことがあるの。」
「なによ、それ。」
「相手は意外にお目出たいってことよ。」
過激な言葉に、レイは返答に詰まる。
美奈子は、にこっと笑って、しかし、今度は少し真剣な口調でレイに作戦を伝えた。
「いい、レイちゃん。相手は、前衛に出たレイちゃんがスマッシュを打てないと思いこんで、レイちゃんの頭上にロブを上げてきてるわ。レイちゃんはほんとは打てるようになってることも知らないでね。だから、次からはスマッシュをビシバシ決めちゃいましょうよ。」
この状況下における美奈子の今の言が半分以上景気づけであることはレイにもわかる。
正直、今の自分がスマッシュをビシバシ決められるとも思わない。
しかし、一方で、これまでの練習での状況を振り返れば、この試合での高い球へのミスり方は自分の実力を反映していない、もう少しうまく打てたはずだとの思いはある。
そして、最終的には自分のミスは自分で取り返さなければいけないという思いがレイに力強く返事をさせた。
「いいわ。次はビシバシ決めてくるわ。」
「その意気よ。あっ、ちょっと一言だけ言うと、スマッシュの時は、とにかくボールの下に早く入ることよ。そして、サービスを打つ時と同じ感覚でいいんだけど、今回はネットからそれほど離れていないところで打つことになるから、球を頭上より少し前目で処理することをイメージするといいわ。」
「わかったわ。」
さりげなく言われた技術的アドバイスにもレイが素直にうなずくと、2人は第6ゲームのコートへと向かった。
第6ゲームは、1ポイント、第7ゲームは2ポイント。
それが、続く2ゲームで美奈子・レイのペアが挙げたポイントのすべてであった。
しかし、挙げたポイントはいずれもレイのスマッシュによるものであることが、それまでとは違っていた。
ゲームカウントはこれで2-5。
もう後がない。
しかし、美奈子には確信があった。
もう少しだ。
見かけは真っ暗だが、あとほんの少しで、岩盤を突き抜けて、反対からの明るい光で満たされるはずだ。
第5ゲームまでのレイのスマッシュは、打球点がバラバラだった。
しかし、第6ゲームではかなり改善し、第7ゲームでは、決められなかったポイントを含めて、打つポイントがかなり一定してきている。
レイもそのことは肌で感じているはずだ。
次のゲーム、平常心で臨めば必ず結果は現れる・・・。
第7ゲーム後のコートチェンジ時の休憩で、ベンチに座った美奈子は、スポーツドリンクを一口含むと、今度はタオルを取らずにレイの方に顔を向けた。
と、レイが真剣な顔で美奈子の方を見ていた。
「み、美奈子ちゃん。」
レイの声は、真剣で、しかも、少し震えている。
「なあに。レイちゃん。」
「あの、わ、私に作戦があるの。聞いてくれる?」
「ええ・・、いいけど。何かしら。」
この期に及んでレイに雑念を持って欲しくない美奈子ではあったが、聞いてくれと言われては聞かないわけにもいかず、笑顔を作るとレイに続きを促した。
「相手は、私の頭上にロブを上げてくるでしょ。」
「ええ、馬鹿の一つ覚えのようにね。」
「予測できてるんだし、美奈子ちゃんにそれをたたいて欲しいの。」
レイの言う作戦は、レイの頭上に上がったロブを、美奈子が走り込んでたたく。レイは、美奈子に場所を空け、美奈子が打っている間に、後衛の位置に回るというものであった。
仮に、美奈子のスマッシュが体勢不十分もあって決まらなくても、ロブのつなぎ合いの最中に、美奈子が後衛に回りレイが前衛に回る機会はいくらでもあるから、同じことを何度も繰り返せるというのである。
美奈子は、頭をフル回転させて、そして、その結果として何も見えなくなった目をレイの方に向けたまま、考えた。
実施不可能な作戦ではない。
予測していれば、高めに上がったロブに対して自分の足で追いつける。十分追いつけなくとも、相手のチャンスボールにならないように力を押さえてコースを狙って返す技術を自分なら持っている。
しかし、馬鹿の一つ覚えをしている相手も本当の馬鹿ではない。
もし、自分がレイの元に走り寄るプレーをしたのを見れば、それを牽制するため、自分の方にも時々速い球を供給してくるようになるだろう。
予測が不可能になった時に、果たして、自分が追いつけるか・・。
そして、こうした作戦の一番の問題点は、一旦こうした片方はプレーしないという作戦を採ってしまうと、その片方は、他の球でも逃げの意識が生じてしまい、その後普段の実力の半分も出なくなってしまうということであった。
思考を一旦止めて視力を回復させると、思い詰めたようなレイの表情が見えてくる。
口は堅く結ばれ、こちらを睨むように見ている両眼にはいつもよりも多い涙がためられている。
「そ、そうすれば、あたしのために、美奈子ちゃん、こ・・、ここで負けなくて済むわ・・・。」
レイは、目の中のものをこぼすまいとしてか、頬をつぱったままの笑みを浮かべながら、美奈子に返答を促した。
美奈子にも経験があった。
あれは、たしか中2の時、バレーボールの都大会、準々決勝の時のことだった。
当時のチームにとっては正に正念場とも言うべきその試合で、自分はなぜか調子が悪く、ミスを重ねてチームの足を引っ張っていた。
そして中盤以降は、ミスをするそのたびに、自分を控えに回っている先輩と替えて欲しいと願って、何度もベンチに顔を向けた。
その行動は、今思い起こしても、断じて、投げやりな気持ちから生じたものではなかった。
それどころか、何とかして一緒に練習してきた大切な先輩、仲間達を敗北から救い出したいという、当時の自分としては、これ以上ないくらい必死な、祈りにも似た気持ちから生じた行動だった。
自分に代わって美奈子に球を処理して欲しいというレイの提案も、自分のせいで美奈子が敗北するという事態を防ぎたい一心で、レイなりに思い詰めてなされたものであろう。
普段の勝ち気なレイであれば、こういう戦線離脱的提案は絶対にしないからだ。
そして、今のレイは、自分の勝ち負けなど、ましてや優勝したときのダンスのことなど露程も考えてなどいないに違いない。
しかし、自分の経験では、そうした祈りにも似た感情は、いかに必死なものであっても、残念ながら良いプレーを生み出すことにはほとんど役に立たない。と言うより、むしろマイナスにしかならない。
やはり、良いプレーは、自分の力を信じて、自分ならば決められる、自分が決めてやるという信念なくしては生まれないものなのだ。
美奈子は、スポーツタオルを手にとりそれで顔をしばらく拭くと、柔らかい表情をつくってから、それをはさりとベンチに置き、レイの方を向いた。
「ねえ、レイちゃん、団体競技で使うこういう金言があるの知ってる?」
「何よ。」
これまで数限りない美奈子特製金言を聞かされてきたレイは少しうさんくさそうに返事をする。
「それはね、「ミスを憎んで人を憎まず」って言う言葉なのよ。」
「あんた、それ、「ミス」じゃなくて「罪」よ。」
「ふーん。そういう言い方ももしかしたらあるのかも知れないけど、「ミス」の方がぴったり来るわね。」
本気なのか、冗談なのか、相変わらずこういうシーンで自分の間違いを素直に認めない美奈子にため息をつくレイではあったが、その言わんとすることは理解できた。
美奈子は、レイのミスを気にしていない。前向きに頑張れと言っている。つまり、言外に、自分の提示した消極策は採らないと言っているのだ。
自分の提案が、自分でも胸をかきむしりたくなるくらい屈辱的だと思っていたレイは、美奈子の励ましに素直に感謝した。
「ええ、わかったわ。迷惑かけちゃってるけど、そう言ってくれて有り難う。次のゲームでも、スマッシュ頑張ってみるわ。」
そういうと、レイは、ラケットを右手に取ると、コートに向かって立ち上がりかけた。
「そうじゃないのよ、レイちゃん。この金言をほんとにかみしめなくちゃいけないのは、「ミス」した人が他人じゃなくて、他ならぬ自分自身であるときなのよ。」
そう言った美奈子は、右手で立ち上がりかけたレイの左手を手に取って自分の隣に座らせると、そのままその手を、自分の右太ももの上において言葉を続けた。
「一緒に何かを目指してお互い頑張っているときに、相手がミスしたって、それを許すなんて当たり前のことでしょ。だけど、人って、一生懸命やってると、っていうか一生懸命やってる時ほど、他人のミスは許せるのに、自分のミスは許せなくなるのよ。回りの仲間のことを気にしちゃってね。」
レイは、固まったまま美奈子の言葉を聞き入っている。
「レイちゃんが、あたしのことを思って、自分を責めていることは知っているし、その気持ちもわかるわ。だけど、今必要なのは、そんなことじゃなくて、さっきはミスした自分を許して、自分の力を信じて、ミスした次を頑張ることなのよ。」
無言のレイの瞳から涙が引いてきている。
レイに少し精気がよみがえって来たことを感じた美奈子は、右手にぎゅっと力を入れて、最後の一ムチを入れた。
「大丈夫。打つポイントもいい位置で定まってきたし、次はうまくいくことあたしが保証するわ。」
「そうね。次のゲームでは、絶対スマッシュ決めて来るわ。」
レイも小さく頷くと、握られた手で、美奈子の指を何本かつまむと指に力を入れてそれに応えた。
第8ゲーム。
せつなのサービス。
レイはレシーブの位置に着く。
目の前のみちるをロブで抜けば、せつなが回り込んで、自分の頭上に球が来るお約束のシーンが現れる。
せつなのサービスは緩く、みちるの上を越して返球することはたやすい。
「巡り合わせ、ラッキーだわ。」
先ほどまで感じていた、失敗への恐れは不思議と感じない。
みちるの頭上を抜き、前に出て、自分の頭上に来た球を、体の少し前、上方でたたく。
澄んだイメージを体の全体で感じる。
「ぽーん」
緩い音と同じように緩い球が、レイのフォアサイドにやって来た。
レイは腰を落として上向きのラケット面をつくると、運ぶように振り抜いて、球をストレート、みちるの頭上に打ち出して前に出る。
目の前のみちるは斜め後方に下がり、代わりに正面後方に現れたせつなが、腰を落として球を上方に打ち出してくる。
ちょっと深い。
素早く1歩、更に1歩下がる。
ラケットを担ぎ、左手を挙げバランスをとり、ラケットを、頭上やや前方の物体を叩くべきに打球点に向かって照準を合わせ、そして、振り抜く。
「ぽっっ。」
ラケットの中心に当たった時に発せられる心地よい打球音とともに、黄色いボールは、サービスラインのやや後方、せつなとみちる真ん中をきれいに抜けていった。
「ナイススマッシュ!!」
後方から、美奈子の威勢のいいかけ声が響く。
「次いくわよ!次!」
右手の拳を軽く突き上げると、レイは力強く応えた。
テニスはポイントを重ね合う、ある意味、確率のゲームであり、確率の高い側が、すべてのポイントを奪うというわけにはいかない。
しかし、逆に、確率が高い側がラッキーパンチ一発でマットに沈むということもなく、結局は、地力の差がゲームカウントに如実に出る競技でもある。
みちるとせつなも、その後、球を散らすなど、精一杯の工夫はしたものの、レイのスマッシュの確率が上がるに連れて、徐々にみちるたちがゲーム毎に取れるポイントの数は減っていった。
「ゲームアンドマッチウオンバイ愛野、火野。スコアイズ7-5。」
第12ゲーム、15-40からのポイント、レイの強烈なスマッシュが、せつなのラケットを弾いたところで、試合終了を告げるはるかの声がコートに響いた。
「美奈子さん、レイさん、有り難うございました。またいつか教えて頂きたいものです。」
試合後の挨拶のため、ネット中央に来たせつなが右手を差し出す。
「完敗ね。二人ともほんと素敵だったわ。」みちるもさわやかな笑顔を浮かべて、右手を差し出す。
「ほんとに、ありがとうございました。」
「勉強になりました。またお願いします。」
レイと美奈子も、心からの謝意を口にして、右手を差し出し、ネット越しにそれぞれと握手をする。
そして、2人は審判台のはるかに一礼をすると、熱戦を称えるコートサイドの4人からの暖かい拍手が贈られる中、お互い右手を差し出してがっちりと握りあった。
「レイちゃん、頑張ったわ。おめでとう。」美奈子は笑顔でレイの頑張りを称える。
「美奈子ちゃん・・・」
レイは、少し感極まったように顔を伏せると、そのまま美奈子に寄り添うように近づき、美奈子だけに聞こえるように、耳元でそっとささやいた。
「美奈子ちゃん・・。手、痛いんだけど・・。」
<続く>
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