4人の86時間

<6>

  

まことの朝は早い。
 
 いつものとおり、ちゅん、ちゅんという早朝の小鳥のさえずりが目覚まし代わりだ。
 隣を見れば、愛しい人は安らかな笑みを浮かべて寝息を立てている。

「起こしちゃまずいからな。」
 互いの布団をなるべく動かさないようにベットを降りると、洗面所に向い、顔を洗った後、粛々と運動着に着替える。

「誇らしく感じてた・・か。」
 ラケットとシューズを小脇に抱えて部屋を出る前に、もう一度、相変わらず安らかな寝息を立てている昨夜のその言の主に目を送る。
「ちょっと負けれないよな。」
 まことは一言自分に言い聞かせた後、音を立てないように、部屋の扉を静かに閉めた。

 
 テニスコートは、全部で3面。
 そして、その奥には、大きな緑色の板に白ペンキでネットが描かれた壁打ち練習場がある。
 コート脇の倉庫からボールを3つ持ち出して、そこに向かう。
 と、ぽーん、ドン、ぽーん、ドンという、壁打ちの音が練習場から聞こえてくる。
「あちゃー。先客がいたか。」
 更に近づくと、音の主は、見覚えのある長い黒髪をなびかせて、フォアとバックを交互に打ちながら左右にステップを踏んでいる。

「あっ、レイちゃんじゃないか。レイちゃんおはよう。」
 赤いジャージ姿のレイは、ラケットで受け止めたボールを左手にもつと、軽く息を弾ませて振り返った。
「あっ、まこちゃんじゃない、どうしたの?」
「どうしたのって、このかっこでレイちゃんと同じこと以外にすることないよ。」
ちょっと苦笑いを浮かべて、何を言ってるんだいという顔で答える。
「それもそうね。でも、せっかく亜美ちゃんと2人なのにいいの?もっと他にやることあるんじゃない?」
「ははっ、まるで美奈子ちゃんみたいなこと言うね。でも、いいんだ。大事の前の小事ってやつだよ。」
 まことは笑いながら、しかしはっきりとした声で答える。
 
「それより、レイちゃんだって美奈子ちゃんほっといていいの?」
「あなたたちと一緒にしないでよ・・。そう・・、それより、大事の前の小事っていい言葉ね・・。」
 レイも笑顔で、そして、すぐに真顔になってまことの言葉をかみしめるように復唱ずる。
「ねえまこちゃん、もし良かったら、コートで練習しない?」
 
 顔を上げた先客からのその提案はもちろん2つ返事で可決され、2人は隣のコートのネットを挟んで、朝食までの小1時間、さわやかな汗を流した。
 ともに来るべき同じ大事、そして互いに争うことになるかもしれない大事に備えて・・。

 

「あーっいいお湯っ。」
「こーいう広い湯船につかると身も心もゆったりするよー。」
 午後の練習を終えた美奈子とまことは温泉が入った4畳ほどの湯船に身を沈めて浴場内に声を響かせる。
「ほんと、たまには勉強を離れてこういうのもいいわよね。」
「亜美ちゃんのその「たまに」っていうの説得力あるわ。」
 亜美とレイも洗い場で体を洗いながら上機嫌で談笑している。

「しかし、美奈子ちゃんは、ほんとテニス上手だよねー。このことについては、口だけじゃないわ。」
「「このこと」とか「口だけじゃない」とかずいぶんなご挨拶ね。まあ、わかってくれればそれで良しとしてあげるわ。でもまこちゃんのフォアハンドも大したもんよ。特に午後はずっとそればっか打ってたじゃない。力感あるし、結構磨きがかかってきてるわよ。」  湯船につかりながらまことがたたく軽口を、美奈子が自信と余裕であしらいながらも最後は真顔でまことを褒める。
 
「はは、それ、実ははるかさんにちょっと言われちゃってさ・・」
 まことが湯船から出した濡れた手でまだ洗っていない髪をぽりぽりとかきながら答える。
「なによそれ。」
「いや、お昼ご飯の後、はるかさんの車でみちるさんとせつなさんと4人で買い出しに行っただろ。その時に言われたんだよ。「まことのフォアは大したもんだ。練習すればビーナスのようになれるから少しそこを集中して頑張ってみたらどうか」ってね。」
 
 思わぬところで持ち上げられた美奈子は、温泉の熱も手伝って上気した体をざぶりと立ち上げると、湯船の縁に腰を下ろして、右手の人差し指を立てて左手で隠した胸を張る。
「さすがはるかさん目が高いわね。まあ私の域に達するのは大変だけど、目指すこと自体は悪いことじゃないわ。ははっ」
「いや、それが、はるかさんのいうびーなすっていうのは、美奈子ちゃんじゃなくて・・、その確か・・「びーなす、ういりあむす」っていう人らしいんだけど。美奈子ちゃんは知ってるかい?」

 ちょっと申し訳なさそうなまことの言に、かくっとして軽く目を閉じた美奈子のまぶたの裏には、研ぎ澄まされた褐色の筋肉から強烈なフォアハンドを繰り出す全米オープン女子シングルス覇者の姿が浮かぶ。そして、その直後に、これも引き締まった体が躍動してフォアハンドを打ち込むバラのピアスを付けたポニーテールの東洋人の少女の姿が二重写しになる。
 
 なるほど、まあ、確かに路線的に不可能ではない。
 しかし、そういう褒められ方をしても少なくとも自分はうれしい気はしない。
 
「あ、ま、まあね。そういうことなら目指すのもいいかもしれないわね。でも、あたしゃその路線はちょっとパスさせてもらうわ。」
 目を開けた美奈子は、あたしゃ勘弁してくれといった風情で、はるかのおそらくは褒め言葉であろうその言を無邪気に喜んでいるポニーテールに向かって手をぱたぱたと振る。
 
 なーによ、知ってるならちゃんと教えてよと膨れるまことに、今度は洗い終えた長い黒髪を頭の上にアップして湯船に入ろうとする女性から声がかかる。
「でも、まこちゃん、コーチのいうとおりの練習をしなくてもいいの?あとで水でもかぶって反省しなさいっていわれちゃうわよ。」
「そうそう、亜美コーチの生徒さんはまこちゃんだけじゃないんだから。浮気なんかしてると、先生をもう一人の生徒さんにとられちゃうわよ」
 湯船の縁に腰掛けている美奈子もおもしろがって追い打ちをかける。

 今日も、ほたるは、はるかたちよりももっぱら亜美に指導を受けていたのだ。ほたるは楽しそうというだけでなく、その上達ぶりははたから見ていても明らかであった。
 ただ、ほたるも大切な仲間の一人だと思っているまことは、そんな二人の様子を見てほほえましくは思っても少なくとも嫉妬のようなものは感じない。
 
「はは、亜美ちゃんの指導はほんとに丁寧だからね。でも、別にフォアハンドだけじゃなくて、ちゃんと、他のこともやってるさ。ボレーも、バックも。ね、亜美ちゃん?」
 ざぶんと、湯船から立ち上がり、洗い場に向かいながら、体を洗い終わって、手ぬぐいをゆすいでいるコーチの方にちょっと甘えた視線を送る。が、反応がない。
 
 
「そうね。でも、はるかさんのいうことももっともだと思うわ。まこちゃんはまこちゃんが必要だと思う練習をするのが一番よ。」
 
 しばしの沈黙の後、軽く振り向いたその人の静水のなかから発せられたと思えるような静かな声は、浴場の閉じられた固い空間も手伝って、まことの耳の中で反響する。 

 発言自体は常識的な、もっとも至極なものだ。
 しかし、まことが期待していたものとは正反対のこのせりふに、湯船の中で熱せられた体に少しだけ冷たいものが走り、亜美に向けて笑みをつくったはずの顔も少しだけ引きつる。

 まことの反応に気づいたのか亜美も絞り掛けの手ぬぐいを床に置いて、あわてたように作り笑いを浮かべてフォローする。
「あっ。あの、そういう意味じゃないの。ほんとに、自分が大事だと思ったことをやるのは大事だから・・・。」
「はは、そう。そうだよね。あたしもそう思ってさ・・・」
 亜美につられて、まことも引きつった笑顔を作って洗い場へと向かう。
 
 
 と、亜美の表情に、この3週間見なかった黒い影を見て、思わず足が止まり、しばしの間立ちすくんだ。

 
 
「では、セーラーチームのますますの団結を祈念して、カンパーイ。」
「カンパーイ。」ほたるの音頭でにぎやかに夕食が始まった。
 
 1階のダイニングルームには、昨日と同様、テーブルがつなげられ、その上には、外部戦士たちによって準備された、火のついたカセットコンロの上に置かれてつゆがもうもうと湯気をたてている土鍋と、霜の降った薄切りの赤い肉、均等に斜めに切られた長ネギ、真ん中に十字が切られた椎茸、焦げ目の入った豆腐、しらたきといった食材が山盛りに盛られた大皿がいくつも並べられている。
 
「すき焼きなんて久しぶり。寒くなってきたらやっぱり鍋よね。」美奈子が牛肉を取り箸でつまんで次々に鍋に放り込む。
「ほんと。何かこういう季節がきたのか、っていう感じね。」レイも放り込まれた肉の上に長ネギを置いていく。
 
「簡単な料理で申し訳ないんだけれど、まあ、量はたっぷり買い込んであるから、みんなどんどん食べておくれよ」
 はるかが赤ワインのつがれたグラスを手にしながら向かい側の四人に勧める。
「ほんと。とっても簡単な料理でまことにも申し訳ないですけれど、量は買ってありますから、たくさん食べて頂けたらうれしいわ。ねっ、はるか。」
 
「とっても」と「ねっ」に置かれたアクセントとこういう時に見せるみちるの目があまり細くならない笑顔に自分が失言した旨を思い知らされたはるかは、それに気づかなかったふりをして話題を転換するという、これまでの経験上ベストの選択を即座に選ぶ。
「そうそう、まことには、買い出しも手伝ってもらったからね。うん、うん。」
 事情を察した昨日の料理担当は、ワインに口を付けている正面の発言の主に、ははっと乾いた笑いをあげる以外に反応のしようがない。

「ねえ、このお肉、すごくきれいな霜降りだけど高かったんじゃない?」
 亜美は、取り箸で肉を鍋に運んでいる左隣のまことの方に顔を向ける。
 その亜美の顔をまことはまじまじと見つめる。
 
 ちょっと心配そうな口ぶり。だけど、これはいつもの尋ね方だ。目も澄んでる。いつものきれいな目だ。ちょっと上目遣いだけど、まっすぐあたしの方を見てる。
 よかった。元に戻ってる。
 さっきの影はあたしの考え過ぎか・・・。

「ま、まこちゃん、あたしの顔・・何かついてる?」
 ちょっと照れたような困ったような笑みを浮かべた亜美の声が、取り箸でつまんだ肉ごと固まっているまことを解凍すると、まことはあはは・と笑いながら現実の世界に転がり込む。
「あ、ああ、ごめん、ごめん。えっと何の話だっけ。あっ、肉のことだったね。これが大変でさ、100g1000円じゃきかないんだから。いつも使ってるのの3倍以上だよ。ほんと、大奮発でさ・・」
「あの・・、今日のは、あたしたちが買ったんじゃないわよね・・。」
 亜美は、一転不自然な笑い顔で離し始めた隣人に、眉間に1本だけしわをつくって、今度は本当に心配した声をかける。

 前日の食材の持ち込み分はまことたちの側が負担していたので、あとははるかたちが負担するということになっていて、今日の昼の買い出しははるかたちの負担で、まことは食材選びと荷物運び要員でついていっただけなのだ。

 ようやく我を取り戻したまことは、しかし、ひたすら恐縮するしかない。
「ごめんさい。そうでした・・。」
「はは、まあいいっていいって。この程度でそんなに恐縮されては、こっちが恐縮するよ。それに、亜美や美奈子にテニスの指導をしてもらってるから、こっちも、なにかお礼をしなくちゃね。」
 はるかは、話題を切り替えると、斜め向かいに手を伸ばして、まことと一緒に恐縮している亜美のグラスにウーロン茶をついだ。
 
 
 学校の話、職場の話、食べ物の話、おしゃれの話。そして、テニスの話。気の合う仲間が8人も集まれば話題はつきない。
 愉快な談笑は食事の何よりのソースとなりスパイスとなる。気がつけば、大皿に盛られた山は鍋を経由してあらかた胃袋の中へと消え、代わって登場したデザートの大粒のブドウに皆の手が伸び出す。

「美奈子とレイのペアは、息があっていてテンポいいね。優勝最短距離ってとこかな?」
 目下の話題は、テニスの話。はるかが、皮を剥いた粒をひとつ口にほうりこみながら、美奈子とレイの方を向く。
「ほんとに。今日、練習ゲームをしたのですけれど、とても歯が立ちませんでした。」
「レイは積極的だし、美奈子はレイの後ろをよくフォローしているわ。」
 練習ゲームで対戦したせつなとみちるもレイと美奈子を持ち上げる。両ペアは、4ゲーム先取で対戦したが、美奈子・レイ組がレイのサービスゲームを1つ落としただけの4_1での快勝だったのだ。みちるのパッシングショットはレイの積極的なボレーに捕まり、レイを避けたせつなのロビングは甘くなったところで美奈子のスマッシュの餌食となっていた。

「いやいや、たまたまうまくいっただけですよ。」
 ぱたぱたと手を振りながらも、レイはまんざらでもない様子で、謙遜のせりふを口にする。
「ほんとにそうですよ。それに、相手が変われば結果も変わってきますし、優勝最短距離なんていいすぎですよー。」
 美奈子も、いやーっと頭をぽりぽりしながら上機嫌の笑顔で自分なりの謙遜のせりふを口にするが、当の対戦相手と、ついでに、左隣の亜美の笑顔がそれぞれ少し引きつるのには気づかない。

「どうだろう。試合も明日の午後だし、今晩対戦相手を決めてしまわないかい?その方が、  みんなも、落ち着いて明日の午前の練習ができるだろ?」
手に付いた紫色をお手ふきで拭きながら、はるかが、提案する。
 
「そうね。その方が必要な練習もイメージしやすいわ。」みちるもはっきりとした声で同意する。
「でも、どうやって決めましょうか」
 美奈子も決めることは反対ではないという口調ではるかとみちるの方を向いて尋ねる。
「そうだね。仲間内では、いつでもできるけど、美奈子たちとはなかなかこういう機会でもないと立ち会えないから、1回戦は、僕らと美奈子たちとが当たるように組むっていうのはどうだい?」
「外部戦士グループと、内部戦士グループの対抗戦ってことですね。」
 美奈子の目に気合いが入り、その目で左右を見ると、特に異論はなさそうだ。
「じゃあ、僕とみちるでじゃんけんするからそちらも美奈子と亜美でじゃんけんしてくれるかい?」

 はるかの言に従って、美奈子は左を向いて、机の下に拳を降ろす。
「じゃんけんぽい。」
 美奈子はパー。亜美はグー。勝負は1回でつく。斜め向かいもすぐに結果は出たようだ。
 
「あたしが勝ちです。」
 美奈子はパーをそのまま肩の高さまで持ち上げて宣言する。
「そしたら、あたしたちとね」
 みちるがグーを握った手の平を見せて美奈子とレイに微笑む。
「それじゃあ、僕とほたるはまことと亜美のペアだな。」
 はるかは正面の2人にVサインならぬチョキを見せた後、反対の端に座っているほたるの方に目をやる。ほたるも確認してちょっと緊張した面持ちでうなずく。
 
「順番は、勝った方からでいいかな?決勝まで少し休めるし。」
 はるかの続いての提案に、皆は目で応諾する。
「みちるさん、せつなさん、またよろしくお願いします。」
 美奈子は、向かいの2人に軽く頭を下げて挨拶を送る。レイも隣で頭を下げる
「こちらこそお願いします。今度はもう少し頑張ります。」せつなも頭を下げる。
「私も頑張るわ。明日はあなた方にも十分楽しんでもらえるようにね。」みちるも2人の目をしっかりと見て返礼する。

「あ、はるかさん、よろしくお願いします。」まことは、真向かいのはるかに向かって少し緊張して頭を下げる。亜美も両端のはるかとほたるに順に無言で頭を下げる。
「はは、こちらこそよろしくお願いするよ。ほたるは、他流試合のデビュー戦だけど、手加減はいらないよ。試合なんだからね。」
 はるかは軽い口調で言っているが、こうした発言が冗談ではなく額面どおりであることはまことも亜美も知っている。

そう、明日の試合に向けての引き金は既に引かれていることを場の空気が伝えていた。

  

−−−続く

  

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