† マーメイド・コンプレックス †

深森 薫

  

 両手を頭の後ろに組んで、まことはぼんやりと考えていた。

 広いフロアには、テレビでしかお目にかかったことのないような器械が並んでいる。エアロバイクに、ルームランナー・・・あとは、名前がわからない。幾つかは、胸の筋力を鍛えるものだとか、脚に負荷をかけるものだとかいうこと位はわかるけれど、他のものはどうやって使うのか見当さえつかない。
(・・・こんなとこに出入りしてる、なんてさ)
 エアロバイク一つとってみても、テレビショッピングの商品とはわけが違うし、ダンベルやバーベルも負荷が変えられる本格的なもので、ダイエット体操のちゃちなそれとはわけが違う。さすがは高級フィットネスクラブだ。
(・・・やっぱ、亜美ちゃんって)
 平日の昼間となると人影はまばらで、ほとんど貸し切りに近い状態であることもさらに贅沢な気分に拍車をかける。たまに見かける人はといえば筋肉隆々としたスポーツ選手のような人か有閑マダムで、同じ年頃の人間などはついぞ見かけない。
(・・・お嬢様なんだなぁ、実は)
 そもそも、高校生の身分でこんな所に出入りできるなんて、普通の領域からはかなり逸脱している、と思う。
(その上、あたしまで)
 しかも、会員でもない知人を連れ込んでも許されるほど顔が利くなんて。
(・・・虎の威を借る狐、って、いわないっけ? こういうの)
 しかし。
 両手を頭の後ろで組んで、脚の屈伸に合わせて上下に揺れる景色をぼんやりと眺めながら、まことは溜息をついた。
 こんな所で汗を流すなど、そう度々あることではないのに。
(・・・あたしって、つくづく・・・)
 仰々しい器械を使うのは何となく気が引けて、結局、フロアの隅にぽつんと敷かれたマットの上でひたすらスクワットに励んでいる自分。
(・・・貧乏性)
 狐というよりは、借りてきた猫だな。
 屈伸の回数を数える代わりに、そんなことをとりとめもなく考えていた。
「・・・ふぅ・・・」
 やがてまことはスクワットを止めて大きく息をついた。体を巡る血液が、脚に溜まった疲労を溶かして流してゆくような感覚をおぼえながら、深呼吸を繰り返す。
 ストレッチは勿論十分やったし、腹筋も、背筋も、腕立ても一通りやった。器具を使わないトレーニングも、もうネタ切れである。
(・・・あとは、走るくらいか)
 うん、と大きな伸びを一つして、まことはトレーニングルームを後にした。

 屋内のジョギングコースは、スイミングプールをぐるりと囲み、三階分ほどの高さからガラス越しに見下ろすように設けられている。靴の紐を結びなおし、脚の筋をもう一度軽く伸ばしながら、まことは眼下のプールに亜美の姿を探した。
 彼女と一緒に自分も泳ぎたいのはやまやまだが。
(・・・タイミング悪いよ、なぁ)
 平均的な女の子ならば、一年のうちの五分の一くらいはプールに入るのを遠慮しなければならない。
(・・・ま、しょうがないか)
 他の施設と同じく、プールにも人影は殆どなく。
(・・・あ)
 競泳用の、紺一色のワンピースに身を包んだ亜美の姿を、まことの目はすぐに捉えた。
 そして、膝から下を水に浸けたまま、プールの縁に座る彼女の傍らに。
(あれは・・・みちるさん?)
 見知った人の姿も同時に見つけた。
 ラベンダーの水着に、緩やかなウエーブを描く柔らかな髪をアップにしたスタイル。決して派手でも奇抜でもないのに、飛び込み台に腰を掛けてゆったりと脚を組む姿には、どこか人の目を惹く華がある。
 親しげに言葉を交わす二人の姿を、まことはガラス越しにじっと見つめた。
 いつものように余裕たっぷりの表情で話しかけるみちる。応える亜美の笑顔は穏やかで、それでいて抑えたところもなく、心から愉快そうで。
 そして、いつもより随分饒舌に見えた。
 ほかの仲間たちのように前へ前へ出ようとするお喋りと比べれば大人しいものだが、普段は自分が喋るよりも聞き手に回ることの多い亜美の、そんな姿を見るのは新鮮だった。
 -----何、喋ってるんだろう。
 ゆったりと言葉を交わす二人を、まことはただじっと見つめていた。
 不意に、みちるがちらりとこちらに視線を走らせ。
 それに促されるように亜美の顔がこちらを向いた。
 手を振る亜美。くすくすと笑って、手招きをするみちる。
 まことも軽く手を振って応える。
(・・・そんなに、食い入るように見てるように見えたかな)
 ガラスに映る苦い笑顔をちらりと一瞥して、まことは踵を返した。

 スエットパンツの裾を捲り、薬品の匂い漂うシャワールームを抜けて、まことはプールサイドに足を踏み入れた。気付いた亜美が手を振って合図する。
「こんにちわ、みちるさん」
 亜美には笑顔で目配せをして、まことはみちるに声をかけた。他に人は見あたらない。プールは二人の貸し切りである。
「ごきげんよう、まこちゃん。珍しいわね、別行動なんて」
 ふわりと妖艶に微笑んで見せるみちる。まことはええ、まあ、と曖昧に苦笑した。
「みちるさんこそ。はるかさんと一緒じゃないんですね」
「そうよ。私のお守りを亜美に任せて」
 そう言って、みちるは亜美の方にちらりと視線を流す。目が合うと、亜美はくすりと笑んだ。
「どこをほっつき歩いてるのかしらね・・・ねえ、まこちゃん。審判してくれるかしら?」
「・・・え? ・・・あ、ええ」
 一瞬の間があって、答えるまこと。
「そんな大げさなものじゃなくてよ? 用意どん、の合図と、あとは亜美と私どっちが先に着くか見てくれるだけでいいの。いつもははるかの仕事なんだけど」
 あんまりこき使うから逃げたのかしら、と笑うみちる。まことはつられて苦笑した。
 みちると亜美は、軽く身体を解すと、一度乾いてしまった身体を再び水に浸してから飛び込み台へと上がった。
「百、ですか?」
「ええ」
 簡潔に言葉を交わす二人の、にこやかな表情の下はかなり本気だ。
「-----位置について」
 空気が一瞬張り詰め。
「用意」
  ぱんっ!
 まことが手を叩く音と同時に、二人の身体が宙を舞い、飛沫を上げて水の中へと吸い込まれた。
 ほんの一時の静けさがあって。
 二つの影が水面に浮かび上がり、辺りに再び水音が戻ってくる。水を掻く動作はしなやかで、二人はまるで水の上を滑るように進んだ。
 ターンはほぼ同時。○コンマ何秒の違いはあるのだろうが、さすがにそこまでは計れない。
 二つの影はみるみるこちらに近づき。
 二つの手が、プールの壁面に触れた。
 みちると亜美の眼差しが、プールの中から見上げる。
「? あ。えっと」
 そこでふと、まことは自分が二人の泳ぎに見入っていたことに気がついた。
「うーん・・・・・・・・・同時、かな」
「本当に? 贔屓はダメよ?」
 少し息を弾ませてみちるが言う。それでも、余裕に満ちた微笑と悪戯ぽい口調を崩さない辺りはさすが。
「えっ? あ、いえ、う、そんなことは・・・同時です」
 思わず頬を赤くして狼狽えるまことに、みちるは冗談よ、と笑った。
「私の二勝一敗五分けね。・・・ちなみに、二勝のうちの一勝は、初めて競争したときに亜美が手抜きをした時のぶんよ」
 からかうような視線に、苦笑する亜美。みちるは濡れた髪をかき上げた。
「・・・じゃあ、私はそろそろ失礼するわね。あんまり亜美を独り占めしてると、まこちゃんがご機嫌斜めになりそうだから」
「みちるさん!」
「これは結構本気よ?」
 くすくすと笑いながら水から上がったみちるは、デッキチェアの上のタオルを拾い上げ。
「楽しかったわ。ごきげんよう、またね」
 そう言って、シャワールームへと姿を消した。去り際にみちるが見遣った方に視線を走らせると、プールの上のガラス張りの回廊に、踵を返すはるかの後ろ姿が見えた。
 嵐の去った後にも似た脱力感を覚えながら、小さく溜息をつくまこと。
「まこちゃん」
「・・・・・・・? あ、うん」
 亜美の呼ぶ声に、我に返る。
「ね。もう少し、泳いでいい?」
「・・・ああ、うん。待ってる」
 ありがとう、と可憐に微笑んで、亜美は再び壁を蹴って水面に身体を投げ出した。先刻の泳ぎとは違い、ゆったりとした腕の動きで水を掻いてゆく。
 その様子を、まことはぼんやりと眺めた。
 五十メートル先の向こう側まで行って、戻って来る。その所作はどこか優雅で、泳ぐ、というよりは、水と戯れている、という言葉の方が近いような気がした。
 そして。
  ぱしゃん
 壁際で一瞬甲高い水音がしたかと思うと、くるりと丸まった身体が再び伸びやかに向こうへ走り去る。
 その様子は、水に棲む生き物を思わせた。
「・・・ちゃん」
 -----まるで、それが本来の姿であるような。
「まこちゃん」
「えっ!? あ、うん?」
 亜美の呼ぶ声に、再び我に返る。
「何?」
「・・・どうしたの?」
 濡れた髪を払いつつ、水の中から亜美が問う。
「ううん。何でも・・・何?」
「タイム、計ってくれる?」
 彼女はそう言って、横の壁にかかった大きな時計を指さした。
「ああ。うん」
 まことが微笑んで頷くと、亜美も安心したようにふいと笑む。
「メドレーで、四百だから、四往復ね?」
「OK」
 そう言って亜美は、飛び込み台の下のグリップに手を掛けた。
「用意」
 時計の秒針がゼロを指すタイミングに合わせ。
  ぱんっ
 手を叩く音と同時に、亜美の身体は小さな弧を描いて水の中へと吸い込まれる。
 仰け反った一瞬に見えた彼女の白い喉が、目に焼き付いた。
 まことは飛び込み台にまたがるように腰を下ろした。低い位置から見ると、五十メートルの距離は一段と長い。その長い距離を、彼女は事も無げに泳ぎ切り、またこちらに向かって戻ってくる。
 彼女が体を動かすところを、見たことがないわけではないが。
 こんなにも疲れを知らない彼女も、溌剌とした姿も、まことは初めて見た気がした。
 -----これが、彼女の本当の姿で。
 ぱしゃん、と水音がして、軽やかに翻る細い体。
 -----ここが、彼女の居るべき場所で。
 再び遠ざかる、水音。
『亜美』
 彼女の名を呼ぶ、みちるの声が脳裏に蘇る。
 ずっと前、気の遠くなるような遠い昔から、知っているような親しみを込めて。
『いらっしゃい』
 水の中から、みちるが腕を差し伸べる。
 濡れた髪の間から、艶やかに見つめる瞳。
 亜美はゆっくりと手を伸ばし。
 ふとこちらを振り返ると、悲しげに微笑んだ。
「・・・・・・・た?」
 勝ち誇ったように、不敵に笑うみちる。
「・・・・・・・ちゃん?」
 どうしようもない無力感に、呆然と立ち尽くす自分。
「・・・まこちゃん?」
「・・・え? あ、うん」
 亜美の声に、まことの意識は再び引き戻された。
 息を弾ませて水の中から見上げる亜美の顔を、ぼんやりと見つめ。
「・・・・・・・・あっ!」
 まことは慌てて時計に目を遣った。秒針は休むことなく回り続けている。そもそも、スタートがいつだったのかすら憶えていない。
「・・・・・・・・ごめん」
 前髪をかき上げ、苦笑しながら。まことは、今自分は泣きそうな顔をしているんだろうな、とぼんやり思った。
「・・・まこちゃん?」
「・・・・・・・・見て、なかった」
「・・・どうか、したの?」
「・・・・・別に。どうも、しないよ」
 心配げに見上げる亜美に、まことは小さく首を振って答えた。
「・・・・・・帰りましょうか」
 まことの表情をしばし見つめていた亜美は、やがてそう口にした。少し間があって、うん、と頷くまこと。敢えて詮索しない亜美の気遣いが、今はありがたかった。
 亜美は小さく息を吸って水に潜ると、一気にコースロープをくぐってプールサイドの梯子へと辿り着く。水から上がった彼女の脚が交互に動く様を、まことは安堵の気持ちで見つめた。
 そんな視線には気付きもせず、亜美はベンチの上からタオルを拾い上げるとまことの元へ戻ってきた。
「行きましょう?」
 まことはうん、と小さく頷いて、そのまま亜美を抱き締めた。
「・・・・・・まこちゃん?」
 驚く亜美。
「・・・どうしたの?」
「・・・何でもないよ」
 まことは彼女の濡れた髪に顔を埋めたまま、掠れる寸前の声で、呟くように答えた。
「・・・何か、あったの?」
「別に・・・何も」
 亜美はそっと腕を伸ばし。
「・・・着替えないと。まこちゃんまで、濡れちゃうわ」
 幼子にそうするように、まことの背をそっと撫でた。
「・・・うん」
 やがてまことは、ゆっくりと腕を緩め。
「帰ろう」
 促すように、亜美の前に手を差し出した。
 彼女の手が答えるように添えられると。
 まことは優しい力でその手を握りしめ、ゆっくりと歩き出した。
 -----水から上がった人魚を、陸へと連れ出すように。

−−−マーメイド・コンプレックス・終

  


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