† 逢瀬 †

深森 薫

 

  KNOCK-KNOCK

 夜も深くなりはじめた頃、ノックの音が来客を告げる。
 マーキュリーは手際よく読みかけのページに栞紐を挟み、それに応じた。
「・・・はい?」
 静かに開いたドアの隙間から、訪問者の姿を垣間見る。
 漏れる暖かい光が暗い廊下を微かに照らした。
「あ。え、と、ごめん、夜遅くに・・・まだ起きてた?」
 気まずそうに頭を掻くジュピターに、マーキュリーはええ、と頷いて微かな笑みを浮かべた。
「でも、どうしたの、こんな時間に」
「あ、うん、えっと、ちょっと、頼みたいことがあって」
 言って、ジュピターは左腕を差し出した。巻かれた包帯が解けかけてぶら下がるのを右手で押さえつつ。
「これ・・・一人じゃ、上手く巻けなくて」
 きまり悪げに苦笑するジュピター。包帯の描くねじれた螺旋から彼女の悪戦苦闘の様子が想像される。
「ええ、いいわよ。どうぞ」
 言ってマーキュリーは扉を大きく開き、中へ入るよう促した。
 ジュピターは勧められるままに進み、部屋の中央で小さなテーブルを囲むソファーに腰を下ろした。シンプルな調度品、その中でも一際目を引く大きな書架。手近にさりげなく積まれた革装の書物と、飲みかけのカップ。マーキュリーの私室に通されるのは初めてではなかったが、柔らかな照明の光に満たされた空間は、昼間のそれとはまた違った、安らいだ雰囲気を醸しだしていた。
「まだ、痛むの?」
 部屋の奥から、薬箱を手にマーキュリーが出てくる。
「え、あ、ううん、全然。まあ、叩いたりつねったりしたら、そりゃ痛いけど」
「怪我なんかしてなくたって、そんなことしたら痛いわよ」
 その答えに又くすりと笑って、マーキュリーはジュピターの隣に腰を下ろした。中途半端に巻かれた包帯を解いて、腕にあてがわれたガーゼを剥がす。傷口はさほど大きなものではなかったが、生の傷に特有の腐敗臭が鼻をついた。
「・・・もう少し傷口が乾いたら、包帯も取れるのにね」
 独り言のように言いながら、手際よく消毒を施すマーキュリー。浅葱色のゆったりとした部屋着の、広めに開いた袖口や襟元が彼女の華奢さを一層際立たせている。
「うん、でも------」
「でも?」
 そうしたら、マーキュリーに会う口実が減るじゃないか。
「あ、いや・・・うん、そうだね」
 余計なことは言わないことにして、曖昧に言葉を濁す。
 その間に、包帯はしっかりと見栄えよく巻き終えられた。
「ありがと。ごめん、折角くつろいでる時に」
 広げた道具を片付けながら、マーキュリーはううん、と首を振った。
「でも、これっきりにして欲しいわね」
「あう・・・」
 かなりキツい一言に思わず黙るジュピター。
「あ。ううん、そ、そういうことじゃなくって------」
 マーキュリーは足りなかった言葉を慌てて継ぎ足す。
「その・・・あんまり無茶しないで・・・できれば、怪我なんて、しないで欲しいな、って」
「あ・・・うん」
 少し照れたように俯くマーキュリーの仕草に、ジュピターも照れくさそうに人差し指で頬を掻いた。
「・・・折角だから、お茶、入れるわ。ちょっと待ってて?」
 マーキュリーははにかんだ微笑みでそう言うと、薬箱を抱えて立ち上がった。

 ほどなく、彼女はティーセットを手に現れ、
「ごめんね、ほんとにお茶しか無かったわ。」
 そう言ってジュピターの斜め前に腰を下ろした。ポットを手に取り軽く振って、優美な動作で蓋に軽く手を添え、鮮やかに色づいた茶を二つのカップに注ぎわける。作法通り最後の一滴は相手のカップに注いで、分量はぴったり二人分。
「ありがと」
 ジュピターは軽く礼を言って、ポットと一緒に盆に載せられたブランデーの小さなボトルを手に取った。琥珀色の液体を自分のカップに加え、湯気と一緒に立ち上る独特の芳醇な香りを楽しみつつ早速一口。
「熱ッ!」
「・・・大丈夫?」
 んん、と曖昧に答えて二口目を恐る恐るすするジュピターの様子に、マーキュリーは小さく笑って目を細めた。茶葉の香りをストレートで楽しみたい彼女は、何も加えずそのままカップを口に運ぶ。
 一日の終わりの静かなひととき。二人はどちらからともなく、別々に過ごした時間を埋め合わせるように語りはじめた。

 

*        *        *

 

 ひとしきり談笑した所で不意に言葉が途切れた。すっかり夜は更け、辺りは心地よい静けさに包まれる。流れる空気は少し重く気怠く、そして甘かった。
「あ、お茶・・・熱いの、入れ直すわね。ちょっと待ってて」
 マーキュリーは敢えて沈黙を破るようにそう告げると、静かに立ち上がり、ポットを手に部屋の奥へと進んだ。出涸らした茶葉をあけ、ポットを温め、茶の缶を手に取る。大きく開いた襟元からのぞく肩のラインが、その仕草にあわせて動く。
 首から肩へ滑らかな曲線を描く柔肌。
 少しだけ見え隠れする肩甲骨。
 それらを見せつけんばかりの、無防備な後ろ姿。
 ジュピターの胸が不意に高鳴りを覚えた。目眩のような、抗いがたい衝動に背中を押されて立ち上がる。
「? なあに、何か------」
 マーキュリーが振り向くより一瞬早く、ジュピターの両腕がその肩に巻き付いた。マーキュリーの全ての動きが止まる。
「お茶はもう、いいよ。それより・・・」
 そのまま力を込めて、細い背中を抱きすくめる。
「マーキュリーが欲しい」
 ジュピターは窓の方をちらりと窺い見た。ガラスに映ったモノクロームの表情は読みとれない。一層激しさを増す胸の鼓動。ともすれば荒くなる呼吸を抑えるように、髪に顔を埋める。
「・・・もう、駄目、なんだ。仕事してても、何やってても、気がつくとマーキュリーのことばっか、考えてる」
 腕を緩めて、向かい合う。頬に手を添え前髪を払うと、見上げる瞳が微かに揺れた。
 蒼い、瞳。空に掛かるあの星と同じ、心を惹きつけてやまない深い青。その青に吸い込まれるように唇を重ねる。一瞬戸惑いの色を浮かべた瞳がゆるりと閉じられ、指先がジュピターの肩に触れた。
「・・・ん・・・」
 ジュピターの舌が、マーキュリーのささやかな抵抗を押し退けて中に滑り込む。戯れのように触れ合う舌はやがて息苦しさすら覚えるほどに絡められ、繰り返すキスは次第に深くなってゆく。抱き寄せる腕に力が込められ、密着する体。貪るような接吻が淫らな音を立てる度、肩に添えられたマーキュリーの指先が引きつるように衣の袖を握り締める。
 やがて唇が離れ、うっすらと開かれる瞼。まどろみの途中のような二人の視線が出会った。
「・・・・・・マーキュリー・・・」
 名を呼んで、再び抱き締め、
「ずっと、想ってた・・・ずっと、こうしたかった」
 耳元に顔を寄せ、震えるような声で囁く。指先が肩から首筋、うなじへと、柔らかな愛撫を繰り返す。
「どうしようもなく、好きで------愛おしくて、たまらなくて」
 耳にかかる吐息が口づけへと変わった。思わず身を固くして肩を跳ね上げるマーキュリー。頬から顎を伝い、首筋へ、辿る舌の感触に意識が支配される。
「・・・・・・愛してる」
 求めて止まない唇は、鎖骨から襟の大きく開いた胸元へ。
「っあ------」
 突然、マーキュリーが驚きに夢から醒まされたように目を見開いた。
「やっ!」
 声を上げ、身もがく。思わず腕の拘束を解いたジュピターを、彼女は両手で突き放した。
 明らかな拒絶。
 胸元で手を組んで目を伏せたまま黙り込む彼女を、ジュピターは頭から冷水でも浴びせられたかのように呆然と見つめた。
「・・・今まで・・・」
 やがてマーキュリーが、細い声を絞り出すように口を開く。
「・・・今まで、何人に、同じ事、言ったの・・・?
 今まで、何人と、同じ事を・・・・・・?」
 最後の言葉が夜の空気に消えて、再び沈黙が訪れる。
「それは・・・そんな------」
 言いかけて、ジュピターは言葉を詰まらせた。
「・・・ごめん、憶えてない・・・数えきれないくらい」
 溜息混じりに、諦めたように告白する。
 マーキュリーは目を伏せたまま表情を見せない。
「・・・こんなこと、ごまかしたって、仕方ないよね。自分の評判くらい、分かってる。たらしの遊び人で、浮気者・・・責められても、仕方ないと、思ってる。愛してるだとか、好きだとか、そんな言葉も、挨拶代わりに吐いてきた。・・・けど------」
「けど、今のこの気持ちが・・・こんなに、苦しくて、切なくて、泣きたいような、これが本当に『愛してる』っていうことなら。そんな言葉、もう、二度と、他の誰にも、言えない------」
 手を伸ばせば届くほどの距離を、酷く遠いものに感じながら。
「だから・・・今までのこと、許してくれとか、忘れてくれとか。そんなこと、言わない。ただ、これだけ・・・この気持ちだけは、信じてほしい・・・いい加減な気持ちじゃなくて、本当に・・・」
 ジュピターは熱い疼きを堪えるように衣の胸を握り締め。
「・・・・・・愛してる」
 震えるように呟き、目を閉じて。
 女神の前にひれ伏す咎人のように、沙汰を待った。
 永劫にも感じられる、ひとときの沈黙。
「・・・・・・信じさせて、くれる・・・?」
 マーキュリーがおずおずと答えた。
 ジュピターは初めて呪縛を解かれ、静かに、蜻蛉を捕ろうとする子どものような足取りで歩み寄った。
「どうすれば、いい・・・?」
 伸べた両手がマーキュリーの肩に触れようとして止まり、
「・・・どうすれば、信じて、くれる?」
 所在なく、ただ空を握り締める。マーキュリーは答えない。
「・・・マーキュリー・・・」
 掠れる寸前の声で名を呼んで、ジュピターは黙ってしまった。今にも泣き出しそうなその表情に、戦場を駆ける戦士の自信に満ちた力強さなど見る影もない。
「・・・・・・ごめんなさい・・・」
 俯いたまま、マーキュリーが口を開いた。
「え------あ・・・」
 拒絶の宣告に、ジュピターは呻きに似た声を漏らす。
「・・・・・・うん・・・そう・・・だね。
 あたしこそ、ごめん・・・虫が良すぎるね、こんなの」
「そ------うじゃ、なくって!」
 言って、マーキュリーが顔を上げた。思いのほか強い口調になった自分の言葉に驚く。少し上目遣いに見上げる瞳が、切なく見つめる視線に出会った。
「そうじゃ、なくって・・・ごめんなさい・・・・・・」
 俯いて、自分からジュピターの胸に顔を埋め、
「私・・・本当は・・・分かってるのに・・・」
 両腕を背中に回して強く抱き締める。
「知ってたのに・・・」
「マーキュリー・・・・・・?」
「・・・ごめんなさい」
 呆然とするジュピター。マーキュリーは答えの代わりに、回した腕に力を込めた。
 その仕草に、一度は鎮まっていたジュピターの胸の鼓動が再び速く、強く刻まれはじめた。強く抱き締め返すと、触れ合う身体が布越しに温もりを伝えあう。
 胸の奥にふつふつと沸き上がる、欲望めいた予感。
 腕を緩め、目が合った瞬間に交わされるキス。重ねられた唇は次第に熱を帯び、お互いを強く求めあう。抱き合う腕の強さ、上昇する体温、少しずつ荒くなる呼吸、キスの音。五感の全てが互いの気配で満たされ、高ぶった感情が愛おしさの臨界点を越え。
 ジュピターの腕が、マーキュリーの細い身体を抱き上げた。
「・・・・・・いいの?」
 マーキュリーは小さく頷き、隠すようにジュピターの胸元に顔を埋めた。ジュピターは踵を返し、ゆっくりと動きだす。飲みかけのティーカップを居間のテーブルの上に残し、寝室のドアへ。
 初めて足を踏み入れるそこは、聖域のようにも感じられた。半開きの扉の隙間から漏れる明かりを頼りに、部屋の奥へ。闇の中に浮かぶ、セミダブルの白いシーツの上にマーキュリーを降ろす。息がかかるほどの距離で、向かいあい、無言で見つめあい、軽く唇を合わせ、再び見つめあう。ジュピターの右手が軽くマーキュリーの肩に添えられ、上衣を留める金具に触れた。
 小さな金属音がして。
 その身に纏われていた布がはらりと滑り落ちた。薄明かりに仄かに輝く白い肌。視線は互いの瞳を強く捉えたまま放さない。見つめあったまま、ジュピターは自分の着衣の、肩口と腰の紐を解く。長身を包んでいた布が、ぱさりと音を立ててシーツの上に落ちた。
 ゆっくりと手を差し伸べるジュピター。
 その手に自分の手を重ねるマーキュリー。
 重ねられた手を握り締め、引き寄せて、華奢な身体を抱き締める。直に触れ合う胸と胸が、激しさを増す鼓動を伝えあう。吸い付くようなしっとりとした素肌の感触に、体の奥が熱く疼いた。
「マーキュリー・・・」
 小さく名を呼んで、重ねる唇。舌を、音を立てて激しく絡め、吸い、噛む。掌が、マーキュリーの腰から背中を何度も撫で上げる。くすぐったさに彼女が背中を反らすと、一層二人の肌の密着度は上がる。荒い息遣いが次第に甘ったるさを帯び始め、吐息と共に口の端から溢れた唾液が、筋を成して流れる。その跡を追うように、ジュピターの唇と舌が首筋を舐めた。
「・・・あ・・・」
 鼻にかかった声を合図に、広いベッドの上に折り重なるように倒れ込む。ジュピターの手が、マーキュリーの背中から脇腹へと滑り、胸へと這い上がった。肩や腕の華奢さからは意外に思える豊かな隆起を掌で持ち上げるように包み込み、頂上の突起を指先で挟む。
「っあっ------」
 びくりと身体を硬直させるマーキュリー。思わず漏れた自分の声に、恥ずかしさが不意にこみ上げた。
「・・・大丈夫」
 ジュピターが、不安げに泳ぐ視線を受け止める。
「目を、閉じて------全部、任せて」
 その柔らかな声と優しい瞳に、マーキュリーは素直に目を閉じた。髪を撫でる指先の優しい感触。瞼に、頬に、唇に、ゆっくりと、ぬくもりを伝える口づけ。やがて、蔦が絡みつくようにマーキュリーの細い腕がジュピターの背中に回されると、先刻までの熱情が再び蘇る。耳元から喉元へ、肌をついばむ唇と熱い吐息が繰り返す愛撫。右手はくすぐるように、時に強く揉みしだくように動き続ける。寝室の薄闇に、不規則に乱れる二人の息遣いだけが響いた。
 ジュピターが少しずつ体をずらし、唇を下へと這わせる。くっきりと浮かぶ鎖骨をかたどり、胸の膨らみを辿って、頂上へ。
「んっ・・・」
 マーキュリーの背中が波打った。
 固く隆起したそれを、舌で転がすように弄ぶ。
「・・・ぁん・・・・・・ぁ・・・」
 ジュピターの腕にしがみつき、もどかしげに身をよじるマーキュリー。白濁する意識に理性が侵食されてゆくにつれ、荒いだけの吐息が甘い声に変わり始めた。休みなく続けられる舌の愛撫と同時に右手が腰から太股へと這い降り、脚の内側を撫で上げるように滑る。
 指先が、秘部を掠めた。
 そこから先への侵入を拒むように、折り曲げた脚をぴたりと閉じるマーキュリー。
 ジュピターは構わず指を動かした。
「だっ・・・駄目っ・・・」
 指の先が、熱を帯びたぬめりに触れ。
 マーキュリーの脚が、痙攣したように曲げられる。
「あ・・・やっ・・・・・・」
 ジュピターの肩に添えられた手が、ささやかな抵抗を試みる。
 羞恥と恐怖に、潤んだ瞳。
 ジュピターは彼女の頭の下に左腕を挿し入れて、その身体を抱き締めた。
「大丈夫、怖がらないで・・・・・・力、抜いて」
 上気した彼女の頬に自分の頬を重ねて、囁く。
 首にしがみつくように腕を回したマーキュリーの体から、力が抜けるのが感じられ。
 ジュピターの右手が再び動き始めた。指先が、恐らくまだ誰も触れたことのない秘密への入口をゆっくりと、開くように、掻き混ぜる。艶を帯びた溜め息とそれに混じる微かな声が、ジュピターのその気をますます高ぶらせる。
 やがて指の周りが熱い液体に満たされ、くちゅと卑猥な音を立てはじめる。
「ぁっ------」
 一瞬体を強張らせるマーキュリー。だが、体の中で大きさを増すその音は、彼女の強固な理性と羞恥心を溶かしてゆく。
 そして。
 長い指が、奥へと挿し込まれ。
 マーキュリーの口から、今までとは違う切ない声が漏れた。
「っ・・・ぁ・・・ュピタ・・・」
 小刻みに震える唇。
「・・・いいよ、しっかり掴まって」
 そう言うジュピターも震えていた。マーキュリーの唇を自分のそれで塞ぎ、支えを求めてしがみつく彼女を左腕で抱え。
 再び指をくねらせる。
 マーキュリーの腕が、これ以上はないほどにきつく締め付けた。
 唇越しに伝わる、くぐもった喘ぎ。ジュピターの胸の下で、悩ましげに反り返る細い身体。悶えるように動かされる脚が、ぴんと張られたシーツをかき乱す。
「んっ・・・・・・」
 刹那、マーキュリーの身体が大きくのけぞり、唇が離れた。
「マーキュリー・・・マーキュ・・・・・・」
 夢中でその名を呼びながら、最奥へと指を潜り込ませる。間を隔てる肉体を乗り越え、その奥に横たわる筈の彼女の魂に触れようとするように。
 途切れることなく続けられる行為に、二人はさらなる高みへと上り詰めていった。

 

*        *        *

 

 背中にしがみつくマーキュリーの腕からふと力が抜けて。
 長い溜息とともに彼女の身体がシーツの海に沈んだ。
 ジュピターは彼女の瞼に軽く口づけ、手枕を添えて隣に寄り添うように横たわる。引き寄せられて肩口に顔を埋めた彼女の息遣いは、先刻までの激情の嵐が嘘のように穏やかだった。
「------マーキュリー」
 ジュピターの落ち着いた声が、宵闇を震わせる。
 返事はない。
「・・・眠った?」
 ふるふると、首が小さく動いた。
 髪を梳く手を止めて、ジュピターが問う。
「------後悔------してる?」
 短い沈黙。
「うん・・・」
 マーキュリーは身じろぎを一つして、
「・・・少し、だけ」
 顔は埋めたまま、小さな声で。
「・・・・・・・・・・・・そう」
 溜息混じりにジュピターは答える。
 髪に触れていた手が、行き場をなくしたように離れた。
「だって------」
 マーキュリーが言葉を継ぐ。
「どんなに強く、握っていても------繋いでしまった手は、いつか放さなきゃいけない時が来るもの・・・」
 その意味を解りかねているジュピターの、無言の問いに答えるように彼女は続けた。
「・・・触れ合うまでは、少しでも近付きたくて。昨日よりも今日、今日よりも明日、少しずつ縮まる距離を喜ぶこともできるけど。触れあってしまったら、それ以上距離を縮めることはできなくて。あとは、離れてゆくだけ・・・だから------」
「だから、私達も、こうして触れあってしまった今、これ以上近づくことはなくて・・・離れていくことしか、出来ないと思うと・・・」
 途切れ途切れに語られる言葉に、ジュピターは愛おしげに微笑んで彼女の髪をくしゃりと一つ掻き混ぜた。
「マーキュリー・・・」
 自分の胸元に埋められたその頬に、唇を寄せる。微かにかかる息の感触に促されるように顔を上げた、彼女の縋るような眼差しを優しいキスで受け止め。
「・・・そんなこと、ないよ」
 ゆっくりと唇を離し、また抱き寄せて、髪に頬を埋め。
「だって、あたしはまだ、マーキュリーのこと、知らないことも、知りたいことも、山ほどあるのに・・・何が好きで、何が嫌いで、どうすれば喜んでくれるのか。何を考えてるのか------あたしのこと、本当は、どう思ってるのか・・・もっと、知りたい。もっと、近づきたい------もっと、欲しい」
 少しだけ、腕に力を込めて。
「一度抱いたら、この気持ちも少しは鎮まるかと思ったけど。鎮まるどころか、ますます欲張りになって・・・だから。
 ・・・だから、もう終わりだなんて、言わないで・・・」
 小さく息を吐いて、目を閉じた。
「うん・・・」
 やがて、マーキュリーも小さく頷いた。腕を伸ばして、ジュピターの身体を抱きかかえ。
「私も・・・もっと、知りたい。あなたのこと」
 やっと聞こえるほどの声で、そう言った。
 触れ合う肌の暖かさ、確かな存在感で抱き締めてくれる腕。
 嘘のない気持ちを痛いほどに伝える言葉、心に滲みる声。
 全てを包み込む優しい気配。
 これだけのものを与えられながら、それでも不安になる。
 ------本当に欲張りなのは、自分の方かもしれない。
『・・・ごめんなさい』
 マーキュリーはひとり心の中で呟いた。
 瞳を閉じると、髪を撫でる指先が優しく感じられる。
 疲れた身体は素直に休息を欲していて。
「・・・マーキュリー・・・?」
 間近で呼ばれる自分の名は、耳に柔らかく。
 やがて訪れる眠りの精の導きに、彼女はそっと身を委ねた。

  

−−−逢瀬・終

初出:『Calling』 (発行・いかづち屋 2000年12月30日)

  


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