シマコ --- 大地母神マーファに使える神官
『山百合亭』にやってくるなり、ヨウコは溜息をついた。
「ぎゃはは! ユミちゃん、最高!」
「はっ。 酷いですセイ様! 笑わないって言ったじゃないですか!」
昼下がりのでひともまばらな店内。セイはいつものテーブル席に陣取り、ウエイトレスのユミを捕まえてうだうだと馬鹿話に興じている。
「おや、ごきげんようヨウコ」
ヨウコの姿を目ざとく見つけたセイが、ひらひらと手を振りながら声をかけた。
「ごっ、ごきげんようヨウコさまっ。いらっしゃいませ!」
つられてユミがぴょこんと頭を下げる。
「ごきげんようユミちゃん。 ・・・で、セイ。訊くまでもないと思うけど、例によって、あなた今勤務中よね?」
ヨウコはつかつかとテーブルに近づき、お気に入りのウェイトレスにはにこやかに、腐れ縁の相棒は軽く睨め付けて、言った。
「おぉーお、さすが名探偵ヨウコ様。よくお分かりで」
悪びれた風もなく、戯けたように答えるセイ。
「ええ、よくお分かりよ。その格好見れば五歳の子どもだって分かるわ。
あ。ユミちゃん、私にオレンジペコ一つお願いね」
はいっ、と歯切れ良く返事をして、ユミはヨウコの注文とともにカウンターへと下がっていった。ちなみに、ヨウコの言う『その格好』とは、セイの身に着けているカーキ色のシャツや革軽鎧の装備一式を指す。街の治安を司る衛視の制服だ。
「や、だって暇だし」
セイは、頭の後ろで手を組んで椅子の背に寄りかかり、悪びれた風もなく答えた。
「暇が嫌ならパトロールにでも行って来なさいな」
その差し向かいの椅子に腰を降ろして、ヨウコ。
「えー。面倒じゃん」
「面倒、って・・・それがあなたの仕事でしょうに」
ヨウコは額に指を当てて、大きな溜息をついた。
「どうせ大した事件もいざこざもないのに、衛視なんかがウロウロしてたら市民のみなさんも窮屈でしょ。世のため人のためにはボンクラなくらいが丁度いいのよ」
「また勝手な理屈を・・・」
「失礼します」
と、店の入り口に、新たな人の影が現れた。
とびきりの美女だった。白い肌に、ハニー・ブラウンの柔らかな巻き毛。顔の造作はこれ以上は望めないほどに整っていて、街ですれ違えば誰もが思わず振り返って目で追いたくなるだろう。
「セイ様、こちらにいらっしゃいますでしょうか」
自分の名が呼ばれるのを聞き取って、セイは入り口の方を振り返った。美女の方もセイに気付いて、柔らかく微笑むとゆっくりした足取りで歩み寄ってくる。
「ごきげんよう、セイ様、ヨウコ様」
そう言って軽く一礼する彼女の出で立ちは、深緑に黒を一滴落としたような厚手の生地のワンピースに、アイボリーのカラーとカフス。襟元にはマーファの聖印が刻まれた銀のプレート。マーファの修道女のそれである。浮世離れして見えるほど美しい外見を持った彼女に、これほど似つかわしい職業もなかろう。
「よ、シマコ。ごきげんよう」
「ごきげんよう、シマコ」
近づいてくる美しいシスターに、二人の方もにこやかに応える。
「・・・すみません。お話のお邪魔をしてしまいましたでしょうか?」
テーブルの横で立ち止まり、シマコ、と呼ばれたシスターは、少し恐縮したように問うた。
「いや、別に。閑人の茶飲み話だから」
「その『閑人』とやらに私まで巻き込むのはやめて頂戴」
セイの一言に、間髪入れずヨウコがツッコむ。
「まあまあ。別に見栄張らなくても」
「別に見栄なんて張ってま・せ・ん」
「・・・で」
ヨウコの抗議はさらりと聞き流して、セイはシスターの手元に視線を落とした。彼女が持っているのは、特大の籐のバスケット。山盛りになった中身に白い布が被せられている。
「今日も、いつもの所?」
ちらりと布をめくった、その下にあるのは麺麭の山。
「はい」
「おっけ。行こうか・・・んじゃヨウコ、またね」
セイはテーブルに手をついて立ち上がり、うん、と背伸びを一つすると、店の入り口に向かって歩き出した。
「はいはい。世のため人のために働いていらっしゃい」
「すみません、ヨウコさま。失礼いたします」
ひらひらと手を振るヨウコに、シスター・シマコはそう言って一礼すると、セイの後に従って店を出た。
「あ。シマコさん、今日もおつとめですか。感心ですね」
ほどなく、オレンジペコのマグカップを盆に乗せてユミが現れた。
「ええ、本当にね。今度、お茶の代わりにシマコの爪の垢を煎じてセイに・・・あっ!」
「ひゃっ!」
柄にもなく頓狂な声を上げたヨウコに、ユミは飛び上がらんばかりに驚く。
「どどど、どうなさったんですか?」
「・・・自分のお茶代くらい置いて行きなさいよね、セイ・・・」
ヨウコはそう言って、向かいの席に残った空のマグカップを見ながら、例によって大きな溜息を一つ、ついた。
多くの店が軒を連ねる最も賑やかな界隈を、二人は歩いていた。
すれ違う人々のことごとくがこの美しいシスターに思わず見とれて振り返っていたが、一緒に居るのが衛視となると、さすがに声をかけてくる勇気のある者はいないようだ。
「しかし。毎度毎度、よく続くね」
ポケットに手を突っ込んで、大股でぷらぷらと歩きながら、セイ。
「これも、大事なおつとめですから」
対照的に、楚々とした所作で歩きながら、シマコ。
「それより。毎度毎度お付き合い戴いて、申し訳ありません」
「や、いいよ、別に。閑だし」
軽く肩をすくめて、セイ。
「それに、最初から付いて来てくれって言われた方が、一人でスラムにのこのこ出かけて行かれるより余程いい」
そうですね、とシマコは苦笑した。
「あの時は・・・本当に、助かりました」
「まったく。もう一寸見つけるのが遅れてたら・・・口に出すのもはばかられるような所に売り飛ばされてただろうね」
「あの頃は、世間知らずでしたから」
苦笑するセイに、シマコは少し跋が悪そうに言った。
「今もまだ、世間を知っているとは言い難いですが」
「ま、あんまりすれっからしのシスターってのも有り難みがない気もするしね。今くらいで丁度いい。・・・ほら、もうすぐだ」
賑やかな大通りを外れ、二人は路地の奧へと向かっていた。進むにつれ、路地の両側に立ち並ぶ家々が次第に古ぼけた、粗末なものへと変わっていく。
いわゆる、スラムと呼ばれる界隈である。
「はい」
促されて、シマコは気を引き締めた。
「パンのお姉ちゃんだ!」
シマコの姿を見つけ、物陰や路地の隙間から次々に子どもたちが姿を現した。歳の頃は五、六歳から十一、二歳くらいまでさまざま。髪の毛や顔は垢と埃で薄汚れ、おそらく一度も洗われたことなど無いのだろうと思われる服はサイズが合っていないものも多い。靴を履いていない子どもも少なくない。
「ごきげんよう!」
「ごきげんよう!」
子どもたちは口々に言いながら、元気よくシマコの元へと駆け寄ってくる。スラムにはおおよそ似つかわしくない挨拶だが、シマコが言うのを聞いて覚えたようだ。
「ごきげんよう、みんな。元気にしていた?」
シマコは屈み込んで子どもたちに目線の高さを合わせると、一人一人名を呼び、籠の中の麺麭を手渡してゆく。『山百合亭』で振る舞われるようなふかふかの柔らかいものではなく、丸太のように固くて保存の利く種類の麺麭だ。ちなみに、こちらの方が少量でも腹がふくれる。セイの方は、子どもたちを萎縮させないように、かといってシマコにちょっかいを出すこともないように、彼女の後ろに一歩下がって睨みをきかせている。
「・・・グレン。そのおでこ、どうかしたの?」
群がる子どもたちの中、右手で額を隠した少年に、シマコは首を傾げながら問うた。
「別に、何でもねぇよ。いいから早くパンくれよ」
むすっとした表情で、少年は左手を差し出す。
「おじさんがね、おにいちゃんをぶったの」
少年の後ろに隠れるようにして立っていた少女が口を開いた。
「それで、おにいちゃん、けがしたの」
「う、うるさいぞお前っ余計なこと言うなっ」
少年は少し慌てたように声を荒げた。見れば、腕や脚にも、幾つもの痣が見て取れる。
「・・・そう」
シマコは小さく頷くと、少年に顔を近づけ、彼の額に手を伸ばした。
「なっ、何すんだよっ」
狼狽えて、思わずのけぞる少年。頬が赤いのはご愛敬。絶世の美女に至近距離で見つめられれば、誰でもそうなる。
「大丈夫。痛くしないから、手をはなして、じっとして?」
優しく言い含められて、少年は額を隠したその手を渋々離した。右の額の生え際に、ぱっくりと口を開けた大きな傷はまだ乾ききっておらず、血の臭いよりも腐敗臭の方が鼻につく。
「・・・痛かったでしょうね」
彼女は一瞬眉を顰め、そう呟くと、傷口にそっと自分の手をかざし、目を伏せ、頭を垂れて祈り始めた。
「『母なる大地の神マーファ、その癒しの御手をこの者に___』」
神聖語、と呼ばれるその祈りの言葉は、神に愛された神官が、神の奇跡を体現する際に用いるものである。
やがて祈りを終えた彼女がその手を離すと、生々しかった傷口は跡形もなく消えていた。周囲から、わぁっ、と歓声が上がる。
「・・・あ、あれ?」
当の少年は、不思議そうに額を撫で回している。
「マーファのご加護がありますように」
シマコは微笑んで、少年とその妹に一つずつ、麺麭を手渡した。
「ありがとう! お姉ちゃん」
「・・・・・・・・・・・・」
弾けるような笑顔で応える少女の横で、少年は黙って俯いている。ただ、その唇はありがとう、と動いたように見て取れた
「『パンのお姉さん』かぁ」
スラムからの帰り道。
大通りを歩いていると、突然、セイが肩を揺らして笑い出した。
「花より団子、って、まさにこれだね。いやはや、子どもはいいね、純で」
何が花で何が団子なのか。シマコはピンと来ない様子で首を傾げている。
セイの笑いがおさまると、再び二人の間に沈黙が降りた。
「あの、セイさま」
次に口を開いたのはシマコだった。
「うん?」
「私のやっていることは、やはり、ひとりよがりの自己満足なのでしょうか」
彼女は空のバスケットに目を落とし、考え込んだ様子で、そう言った。
「・・・何で、そう思うの?」
普段と変わらない、軽い口調で、セイは問い返す。
「ま、確かに、あの子たちがこれを機にマーファ様の敬虔な信者になる、なんてこたなさそうだけどね」
「・・・それは、最初から期待していませんから」
苦笑しながら、シマコ。
「誰かの助けを必要としている人達がいて、こんな私でも役に立てることがあるならば、と。最初のうちは純粋に、そう思っていました。けれど」
彼女は再び、空のバスケットに目を落とした。
「こんな小さなバスケット一杯の麺麭では、ほんの一握りの子どもたちに、ほんの僅かずつしか行き渡りません。それだって、毎日配れるわけでもなければ、この先ずっと続けられる保障もありません。あの子たちは喜んでくれるけれど、現実にあの子たちの生活は何ひとつ変わらない」
「そりゃ、そうだ。外の人間が思っている以上に、スラムの闇は、深い」
相変わらずポケットに手を突っ込んだまま、セイ。
「あの子たちだって、スラムで生まれ育った、歴としたスラムの人間だからね。今でこそ可愛い顔しておねだりしてるけど、私が見てなきゃ、何しでかすかわかったもんじゃない。あそこに通い始めた最初の頃のこと、憶えてるでしょ?」
ええ、と頷いて、シマコは苦笑した。甘える素振りで抱きついてきた小さな子どもに財布をすり取られ、セイに取り返して貰ったのだった。
「あの子達の大半はこのまま、スラムの色に染まりながら大人になって、スラムで生きていくんだ。あとの残りは、どこか別の所に売られてゆくか、死んでしまうかのどちらかだね。スラムを抜け出して、陽の当たる場所で生きていける者なんてほとんどいない。スラムって場所は、入るのは割と簡単だけれど、抜け出すのは至難の業だからね」
セイは淡々とした口調でひとしきり語って、天を仰いだ。
シマコは沈痛な面持ちで、黙々と歩く。
「・・・だけど」
セイは不意に歩みを止めた。
シマコも少し遅れて立ち止まり、セイの方を振り返る。
「実際、あの一切れの麺麭のおかげで、きょう一日は盗みをやらなくても済む、なんてこともあるんだ。・・・それに」
忙しなく行き交う人の波をじっと見つめて、セイ。
「そうして、暖かい手を差し伸べてくれる人がいた、っていう事実は、あの子たちの記憶の中に残るよ。世の中には、こんな自分でも、暖かい手を差し伸べてくれる人がある。こんな自分でも、照らしてくれる光がある。世の中って捨てたもんじゃない、ってね」
波音のようなざわめきの中から、時折威勢のいい物売りの声が聞こえて来た。
「・・・そして。そんな小さなきっかけが、人生を百八十度変えてしまうことだって、あるんだよ」
シマコははっと顔を上げた。
辺りに遊んでいた視線を戻したセイと、一瞬だけ目が合う。
それは穏やかな、優しい表情で。今にも泣き出しそうな、けれど満ち足りた顔だった。
「だから。シマコのやっていることは、満更、無駄でもないさ」
セイはふいと口元を綻ばせると、シマコの肩をぽんと叩いて、再び歩き出した。
「・・・はい」
シマコは頷いて、花が咲くようにふわりと微笑むと、セイの後に従った。
やがて辿り着いた『山百合亭』の前で、二人は立ち止まり。
「今日は本当に、ありがとうございました。」
シマコは背筋をぴんと伸ばし、セイに向かって深々と頭を下げた。
「や、礼はいいから。それより、一寸寄っていきな。お茶の一杯くらい奢るよ」
セイはいつも通りの軽い口調でそう言うと、親指を立ててくいくいと店の中を指した。
「ですが・・・」
「遠慮しないでさ。私の、喜捨というか、お布施のつもりで。受け取ってよ」
ためらうシマコの肩に手を回し、店の中へと促す。
「・・・はい。」
言われてシマコは、柔らかく微笑んで、促されるまま店の中へと入っていった。
空になったバスケットを手に、少しだけ軽くなった心を胸に。
−−−了
「セイ! 自分の飲んだお茶代くらい置いて行きなさいよ!」
「うわ、ヨウコまだ居たの!?」
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