セイ --- 都市国家トライホーク・シティの衛視(警察官)
昼下がりの街、石畳の道をセイは独り歩いていた。
特に行くべき場所があるわけでもなく、ましてや急ぐわけでもなく、セイはただ辺りを見回しつつ、ぶらぶらと歩いている。
(・・・?)
と、セイの耳が何やら騒ぎの気配を捉えた。声のする方へ、少し歩を速める。
角を曲がると、その正体が判った。
酒場の前に人垣ができている。やんややんやの馬鹿騒ぎだ。
喧嘩である。
(やれやれ)
セイは面倒臭そうに呟いて人垣へ歩み寄ると、一番後ろの男の肩をぽんぽんと叩いた。男はうるさそうに顔だけでちらりと振り返り、そして、セイの姿を見るなりぎょっとしたような表情を見せて退いた。
「一寸失礼」
セイはそう言って、その前に立つ男の肩をぽんぽんと叩く。以下同文。
やがて、いちいちそうするのが面倒になったのか、
「はぁい、どいてどいて」
大声でそう言って、セイは無造作に人垣をかき分けた。蝉の死骸に集る蟻のように群がっていた野次馬達は、皆何故か文句も言わずセイのために道をあける。
セイが身に着けているのは、カーキ色のシャツに、硬革の胸当てと肩当て。腰には小剣が二本。そして、シャツの肩には階級章。この街で、この姿の人間に喧嘩を売ろうという人間はちょっといない。
セイの仕事は、衛視。つまり、街の治安維持を担当する官吏である。
人垣の前に出て、まず目に飛び込んできたのは、熊と見まごう髭面の大男だった。丸太のような二の腕に刻まれた彫り物が、半袖からちらりと見える。赤ら顔に、血走った目。これは相当酔っぱらっているようだ。
喧嘩の相手は、若い男である。短く刈り込んだ金髪に碧眼、涼しげな顔立ちの優男風。頬が少し腫れて口の端に血が滲んでいるところを見ると、既に幾らか拳を食らっているらしい。
キャスティングは、誰がどう見ても大男が悪役、優男が正義の味方だが。
さて、真実やいかに?
「・・・放してくださいったらっ」
よく見れば、大男は何故か若い娘の手を掴んでいるではないか。傍らに置かれた荷車に、花を生けた瓶が乗っている。近くの村から花を売りに来たのだろう。なるほど、街の娘にしては少々純朴すぎる感じがする。
「ぢくしょう、どいつもこいつも・・・ええい、う゛るぜぇ!黙って俺にづいてごい!」
大男はゴブリンのような悪声で娘を怒鳴りつけ、掴んだ腕を揺すった。遠巻きに見ているだけでも、酒臭い息の匂いが鼻につくようだ。
「貴様いい加減にしろ! その娘も嫌がってるじゃないか!」
口の端に滲んだ血を袖で拭って、優男が叫ぶ。どうやら彼は本当に正義の味方らしい。
「うるぜぇ! ぶっ殺すど!」
大男が凄む。
「この野郎------っ!」
優男が仕掛けた。
思い切り振りかぶった拳を相手の頬めがけて叩き込むべく、大きく踏み込む。
ばちーーんっ!
だが、それより先に、大男の平手が彼の横面をひっぱたいた。丸太のような腕から繰り出される平手だ。しかも、木の根のようにごつごつと硬そうな手である。優男は派手に地面に転がり、そのまま倒れて動かなくなった。頭を強く揺さぶられて、気を失ったのだろう。
正義の味方は、悪の力に屈してしまったようだ。
「ストップ! そこまで」
すたすたと大男の前に歩み出るセイ。
きゃっ、と、人垣のどこかで黄色い歓声が上がる。
セイは声のした方に微笑みを投げ、軽く手を挙げて応えた。
「はいはい、そこのおじさん。ここで暴れたらみんなの迷惑だし、その娘も困ってるから。その手ぇ放して、おまわりさんといい所に行こーね?」
「・・・あぁ?」
酔っ払いの大男は、怪訝そうに眉を顰めてセイの顔をまじまじと見て。
「あんだぁ? 女か?」
ふん、と鼻で笑った。
スリムな長身に、短い亜麻色の髪、彫りの深い端正な造りの顔立ち。一見すると優男風だが、セイはれっきとした女性である。女の衛視というのは、かなり珍しい。恐らく、エルフの石工と同じくらい珍しいだろう。
「だったら?」
セイは男に向き合ったまま、薄ら笑いを浮かべて首を傾げる。
「すっこんでろ。俺ぁこのねーぢゃんがいーんだ」
野犬が唸るように、大男がまた凄む。
「まあそう言わずに」
セイはすい、と娘に近寄ると、その腕を拘束している男の手首を掴み。
両手でぐいっ、とねじ上げた。
雑巾を絞る要領で、皮を肉から剥がすように、思い切り。
「がっ!」
どんなに分厚い筋肉の鎧を身につけていても、これは痛い。
男はたまらず、手を放して引っ込めた。その隙に、娘が逃げる。
「はい、よくできました」
戯けたように言うセイ。男の顔が更に真っ赤に染まる。
「〜〜っ! でめぇ!」
「お、っと。だから暴力はだめだってば、おっちゃん」
力任せに振り回される男の腕をひょいとかわして、セイは両手をひらひらと振った。
「ぶっごろす!」
男の手がまた空を切る。先刻、正義の味方の兄ちゃんをぶっとばした平手だ。
「わかんないかなぁ」
「ぅがあ!」
今度は拳。
「んどらあ!」
また平手。
「・・・しょうがないなぁ」
力の抜けた軽やかな動きで男の攻撃をかわすことに徹していたセイが、すい、と前に出た。
横に薙ぐ相手の腕の振りをかいくぐり。
踏み込んだ左足を軸に、腰の回転を乗せて、右脚を鋭く振り抜く。
ぱしっ!
ローキックが、大男の脚に綺麗に決まる。
・・・が。
「あんだぁ?」
男がにやりと笑った。
正確には、足払いになるはずだった一撃が上手く決まらずに止まっただけなのだった。
「ぢっども痛ぐねぇど!」
ぶんっ!
おっと、と少し大げさなアクションで跳び退るセイ。平手が通り過ぎた後を、ふわり、とアルコール臭が流れてくる。
想像通りの悪臭だった。
「何だ何だぁー!」
「効いてねぇぞー! 姉ちゃん!」
回りを囲んでいた野次馬たちが、やんややんやと囃し立てる。
(・・・やれやれ)
------これではまるで、自分が喧嘩の張本人ではないか。
他の衛視が来て面倒なことになる前に、ケリをつけなければ。
「・・・仕方ない。ちょっ、と痛い思い、して貰うか」
セイは小さく呟くと、首をこきこきと鳴らし、脚を大きく屈伸しながら二、三度その場で跳躍をした。
身体の奧に眠っていた戦いの感覚が、全身を駆けめぐりはじめる。
「何ぶづぶづ言っでんだぁ!」
大男は、わめき散らしながら拳を振るった。なかなか当たらないせいか、相当苛立っているのがわかる。
セイが動いた。
それまでとは違った、鋭さのある機敏な動作で身体を沈め、懐に飛び込む。
左の腰で拳を組み、右足で踏み込んで------
「! っと」
大男の鳩尾めがけて今にも叩き込もうとした肘打ちを直前で止め、跳び退った。
・・・危ない所だった。
うっかり酔っ払いの腹を殴ったりしたら、ゲ・・・吐瀉物の滝に打たれる、などということになりかねない。実際、そういう目に遭った衛視もいるのだ。
「おいおい!」「どうしたー、姉ちゃん!」
「何ビビってんだぁー!」
騒ぎ立てる野次馬。
仕切り直して、再びセイが仕掛ける。
「ごのぐそだらぁぁ!」
怒声とともに振り回される拳をかいくぐり、今度は大男の真後ろへと回ると。
肩へと飛びつき。
そして、分厚いその肩を両手で掴んだまま、男の背中を軽く蹴り、脚を高々と振り上げ。
全身のバネの力と、振り子の要領でつけた勢いで、膝を思い切り男の後頭部に叩きつける。
ごっっ!
「んがっ!」
決まった。
悲鳴とも呻きともつかない声がして。
・・・どさっ
セイがひらりと地に降り立つのに前後して、男は大木が倒れるように昏倒した。
おおおっ、と周囲がどよめく。
「ふぅ」
セイは大きな息を一つ吐いて、目にかかる前髪を軽くかき上げた。
そして、男が完全に気を失っていることを確かめると、
「はぁい、みなさん、喧嘩は終了だよ。お仕事に戻ってちょうだい」
ぱんぱんと手を叩きながら声を張り上げた。
野次馬たちは満足したのか、わらわらと街の中へ散ってゆく。誰も、暇なわけではない。皆それぞれ生きるための仕事があるのだ。
やがて人垣は消え、通りはいつもの穏やかな表情を取り戻した。
「・・・さて」
これを、どうしたものか。
セイは地べたに転がる大男を眺めつつ暫し考えを巡らせた。
放って置いても暫くは目を覚まさないだろうし、目を覚ます頃には酔いも醒めているだろう。
しかし、万が一にもまた目を覚まして暴れられたら厄介だ。
結局縄を打つことにして、セイは捕物用のロープを取り出した。
「・・・あの・・・」
呼びかけに振り向くと、先刻絡まれていた花売りの娘が立っていた。
セイがああ、と微笑んでみせると、娘はほんのり頬を赤らめる。
「災難だったね。この街は、初めて?」
「あ、いえ。何度か・・・でも、一人で来たのは初めてです」
気さくなセイの問いに安心したのか、娘の顔にも笑顔が浮かぶ。
「そっか。気をつけてね。可愛いコは、特に気をつけないと」
そう言ってセイはウインクを飛ばした。娘はまた頬を赤らめる。こんどは、一目でそうと分かるほど真っ赤だ。口説き方としては少々ベタだが、純朴な村娘には十分な刺激である。
「っ、あのっ、さっきは、ありがとうございました! これ・・・気持ちだけ、ですけど」
娘は舌を噛みそうな勢いで言ってお辞儀をすると、売り物の小さな花の束をひとつ、差し出した。
「あは。・・・じゃ、いただくよ」
ありがとう、と爽やかにセイが微笑むと、娘はまた赤くなってぺこりと頭を下げた。
ピンクと白の、可愛らしい花を幾本かあしらった花束。顔を寄せると、甘い香りが鼻をくすぐった。酔っ払いの酒臭い息の匂いを嗅いだ後だけに、一層清々しく感じられる。
さて、とセイは思案した。
帰って寝るだけの殺風景な自分の部屋に、こんな可憐な花は似合わない。
それならば、誰か愛でてくれる人に貰われた方が花も幸せというものだ。
・・・じゃあ、誰に?
まず浮かんだのは、行きつけの酒場の看板娘。『わぁ、ありがとうございます!』なんて素直に喜んで、心からの笑みを浮かべるに違いない。ぴょこんと頭を下げる仕草に合わせて、二つに結んだ栗色の髪が揺れる様が目に浮かぶ。
それとも、マーファ神殿のシスターか。彼女なら、『ありがとうございます』と静かに言って、ふわりと柔らかに微笑むだろう。
酒場の歌姫に捧げるのもいい。街の人気者のことだからこんな物は貰い慣れているかもしれないが、それでも『ありがとう』と艶やかな笑顔を見せるのだろう。
そして、彼女なら------お堅いファリスの神官なら、きっと怪訝な顔をしてこう言うに決まっている。
『どういう風の吹き回し?』
そして、その次はきっと、
『何か企んでるでしょう』
と来るだろう。眉間に寄った皺の数まで目に浮かぶ。
そんな憎まれ口を散々叩いて、でも最後には、
『・・・ありがとう』
なんて。朱の差した頬を隠すように、そっぽを向いて呟くのだ。
(・・・・・・ふむ)
どれも、捨てがたいではないか。
「ああ、一寸待って」
セイは、荷車を引いて立ち去ろうとする花売り娘を呼び止め、
「これって、一つ幾ら?」
銀貨を探してポケットを探りながら尋ねた。
「いえっ、そんな、お代なんて・・・お礼なのですから」
恐縮したように言う娘に、セイは首を横に振って。
「あ、ううん。これは有り難くいただくよ。それで・・・
これと同じの、あと三つ頂戴。その分お金払うからさ」
口元に笑みを浮かべて、そう言った。
思いついた新しい悪戯にひとり悦に入る子どものような、極上の笑みを。
−−−了
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