§7 Exotic Japan!
深森 薫
変身術は、ホグワーツ魔法学校において最も体系的な学問である。
生物であれ無生物であれ、その構成・構造を理解し、組み替え、変容させる。その理論は難解にして複雑、実践には呪文だけでなく杖の動きにも正確さが求められる。故に、落ちこぼれる者も多く――
「何だい、このザマは」
腕組みをして苛立ちを露わにするのは、マダム・ジルコニア。小柄な猫背の老婆で、嫌味・傲慢・わかりにくいの三拍子揃った、生徒達の間では「外れクジ」と呼ばれる教師の一人だ。
「こんな初歩的な課題もできないのかい」
老教師は、自分よりもはるかに長身の生徒を相手にねちねちと説教を垂れている。授業のたびに、彼女はこうして出来の悪い生徒を吊し上げるのだ。今日の「餌食」はジュピター・フォレスト、ハッフルパフのクィディッチプレイヤー。持ち手だけがネズミの尻尾に変わったティーカップを前に、為す術もなく項垂れている。ピッチの上では怖いものなしの彼女も、変身術の授業では生まれたての子犬のように無力だった。
「これだからマグルの子は」
盛大に溜息をつくマダム・ジルコニア。
ジュピターの顔色がさっと変わる。
「時々あんたのようなマグルの餓鬼が、ちょーっと魔法が使えるからってこの学校に送られて来るんだがね、全く迷惑千万だよ。能無しは能無しの国で暮らしてりゃいいってのに、まったく」
ジュピターにとって、生まれの話題は地雷だ。俯いたその表情は見えないが、拳は血の気がなくなるほどに強く握り締められている。チームメイト達は、彼女がいつ怒りを爆発させるかとはらはらしながらその様を見た。
「あんたの出来が悪いだけなのに、これじゃまるであたしの教え方が不味いみたいじゃないか」
「その通りでしょ」
不意に、生徒の中から声が上がった。
周囲の視線が一点に集まる。気持ちよく教え子を貶めていたマダム・ジルコニアも、不機嫌そうに声のする方へ振り向いた。
「その課題ですが」
声の主は、マーズ・フレア。艶やかな長い黒髪、彫刻のように整った顔立ちと、そのずば抜けた魔法の力量から「グリフィンドールの魔王」の渾名で呼ばれている。
「セレーネも出来ていません」
彼女は自分の後ろにこそこそと隠れていた級友の名を呼ぶと、その襟首を掴んで自分の前に引きずり出した。
「えええええ!? マーズちゃん???」
友人の突然の裏切りに声を上擦らせたのは、セレーネ・アルジェント。長いブロンドの髪を二つのお団子付きのツインテールに纏めたスタイルが印象的な彼女は、マーズのルームメイトである。
「純粋な魔法使いの名家、アルジェント家の娘がこのザマです」
そう言ってマーズは、ティーカップを高々と掲げた。何の変哲もないカップのようだが、よく目を凝らして見れば、ネズミの髭のようなものが生えている。
「治癒魔法に関しては天才的な使い手であるのに、先生の授業で課題をクリアできない。つまり先生の教え方が悪いということでしょう」
教室が水を打ったように静まりかえる。直球、しかも剛速球の批判。これまで皆が心の内で思いながらも誰一人口にできなかった言葉。それを正面からぶつけられたマダム・ジルコニアは、深く刻まれた皺の谷間に落ち窪んだ目を一杯に見開き、彫像のように一切の動きを止めた。鳩が豆鉄砲を食らったような、とはこのような様子を言うのだろう。
そして、
「マーズ・フレア!! 教師への侮辱によりグリフィンドールからマイナス百点!」
老婆の怒りが爆発した。
「それからセレーネ・アルジェント、ジュピター・フォレスト、課題ができなかったことによりグリフィンドールとハッフルパフからそれぞれマイナス二十点!」
老教師の喚きに、教室がざわめく。百点という破格の減点もさることながら、何より生徒個人が単に課題をクリアできなかったというだけで寮が減点を食らうなど、普通はあり得ないことだ。
「ああ胸糞悪い! 全く信じられないね! きょうの授業はもう終わりだよ! 今名前を呼ばれた三人はここに残るように、あとの者はとっとと出て行きな!」
――と、いうわけで。
居残りを命じられた三人は、とある物置に連行されたのだった。
* * *
黴と埃の匂いが立ちこめる、乾いた闇の中。
「『明かりよ』」
呪文とともにマーズの白い杖先が輝き、周囲の様子を照らし出した。家具のようなもの、棒状のもの、何とも形容しがたい形のもの、大きなもの、小さなもの。淡い光の中、「物置」という言葉から想像される一般的なイメージ通りの光景が三人の前に浮かび上がる。特筆すべきは、その広さ――「物置」という言葉から想像される一般的なサイズの十倍は下らない大きさで、廊下から見たときの間取り感とも全く一致しない。これもおそらく、魔法の力によるものであろう。
「うわ。あのババア、ほんとに鍵掛けやがった」
閉じられたドアのノブをがちゃがちゃと捻りながら、吐き捨てるようにジュピター。
「『開け』」
光り輝く杖を扉に向け、マーズが再び呪文を唱える。
扉は押しても引いても動かない。
「駄目ね」
「えーっ」
まあそうでしょうね、と肩をすくめるマーズの横で、セレーネが情けない声を上げた。
「マーズちゃんでも開けられないの?」
「開錠の呪文は他の魔法で無効にできるの。魔力の強さに関係なく、ね。それくらい知っときなさい」
そう言ってセレーネの広い額にデコピンをかますマーズ。
「ひゃん!?」
「……ま、クソババアの言う通り、このカビ臭い部屋が綺麗になれば開くでしょ。じゃ、始めるわよ」
「はぁ〜い」
「マーズ」
幼馴染みの二人の遣り取りを黙って聞いていたジュピターが、口を開く。
「ありがと」
「は?」
「あたしの為に怒ってくれて」
ああ、と、ワンテンポ遅れてやっと合点がいったように気のない返事をし、
「……別に。あんたの為じゃないわ。ただ聞いててムカついたから思ったまま言ってやっただけ」
マーズは溜息混じりにそう言って、肩をすくめた。
「むしろ、私があのクソババアのご機嫌損ねて、こんな罰掃除に巻き込んじゃって。悪かったわね」
「! ほんとだよ! マーズちゃんひどい! あいたっ!?」
「課題できなかった子が文句言うんじゃないわよ」
抗議の声を上げるセレーネをまたデコピン一つで黙らせるマーズ。
「それでも。嬉しかったよ、ありがとな」
セレーネには申し訳なかったけど、と付け加えて、ジュピターは笑った。
「ううん。あたしも居残り仲間がいてくれて嬉しいよ! マーズちゃんはあたしのこと天才ってほめてくれたし!」
「あんたそういうとこだけよく聞いてるわね……さて。そろそろ始めましょう。いつまでもうだうだ言ってちゃ永久にここから出られないわ。二人とも、拭き掃除の呪文は使える?」
マーズはそう言って、手近にあった背の低いチェストの天板に杖先を向ける。
「『拭え』」
彼女の杖の動きに合わせ、不可視の雑巾が天板に積もった分厚い埃の層を拭い取り、本来の艶やかで美しい木目が魔法の光に照らされ浮かび上がる。
「おおー!」
「すごーい!」
「……まあ、予想通りの反応ね……」
素直な驚きと賞賛を示す二人の反応とは裏腹に、マーズは溜息混じりに苦笑した。
マーズの短時間ながらスパルタな特訓の結果、どうにか拭き掃除の魔法が使えるようになったジュピターと、結局実用レベルに達することができなかったセレーネが二人で組んで動くことになった。セレーネが光明の呪文で周囲を照らし、ジュピターが拭き掃除をする。マーズのように、杖に灯りをつけたまま他の魔法を使うなどという芸当は、普通の学生には無理な話である。
「『拭え』……うん、なんかちょっとコツがつかめてきた気がするよ」
満足げに頷きながら、ジュピター。最初は一度の呪文で一拭いしかできなかったが、何十回と繰り返すうち、一度唱えれば棚板や天板をまるごと一枚拭き上げられるまでに上達した。
「じゃあセレーネ、次そっちの方照らして」
「はーい!」
セレーネが杖を動かすと、魔法の灯りが隣にあった戸棚を照らし出した。
「わ。何これ! 水晶玉かな?」
丁度彼女の目の高さの棚に鎮座していたのは、台座に乗った水晶玉のような物体だった。非魔法界でいうソフトボールほどの大きさの透き通った球体の中に、風景のようなものが見える。
「ん? もしかしてこれ、スノードームじゃないかな」
懐かしいな、と呟いて、ジュピターは微笑んだ。ホグワーツに入学する前、子供時代を過ごした孤児院の、質素なクリスマス。年代物のオーナメントを吊したプラスチックのクリスマスツリーの横に置かれた、小さなスノードームを思い出す。
「でも、なんかちょっと変わってるな」
スノードームといえば、水で満たされたガラス玉の中にミニチュアの建物や人形――大抵は教会やクリスマスツリー、サンタクロースや雪だるまといったもの――が入っていて、逆さにして元に戻すと白や銀の細かな粉が雪のように舞い、降り積もるというものなのだが。
「なんだこの建物。すごく変わった形してる……それにこれ、木かな」
このドームはなぜか、本来雪に見立てる筈の粒が白ではなくピンク色をしている。首を傾げながら、ジュピターはスノードームを一度逆さにし、再び棚に戻した。
「わあ! 綺麗!」
セレーネが目を輝かせる。白い大きな建物の前景に配置された、花の咲く木々。舞い踊るピンクは、花びらだろうか。
「台座になんか書いてある」
『Mahoutokoro, Japan』
木製の台座には、流れるような飾り文字でそう刻まれていた。
「マホウ……トコロ?」
「日本にある魔法学校だよ。どおりで、変わった形の建物だと思った」
可愛らしく首を傾げるセレーネに、ジュピターが答える。掃除をする手は、もう完全に止まっていた。
「二年の時に、ホグワーツでクィディッチの交流試合があったんだ。相手は日本からの長旅で疲れてるはずなのに、めちゃめちゃタフで強かったし、あたしもヴィーナスもまだルーキーだったから、ちっとも歯がたたなくてボッコボコにされちゃったけど……そっか。こんな感じなんだ、魔法処って。綺麗だな」
行ってみたいな、と。
花びらの舞い散るドームを見つめながら、ジュピターはぽつりと呟く。
「あたしもあたしも! 行ってみたい、日本!」
セレーネも元気よく同調した。
「『拭え』」
もう何十回、この呪文を口にしただろうか。一息ついたところで、マーズは辺りの様子に違和感を覚えた。
――人の気配が、ない。
マーズは自分の杖に灯った明かりを消した。
一面の闇が辺りを覆い尽くす。セレーネが灯している筈の明かりが見えない。
ジュピターが呪文を唱える声も聞こえない。
「セレーネ! ジュピター!」
マーズは声を張り上げた。
返事は、ない。
「ちょっと……どういうこと!? セレーネ! ジュピター! いるなら返事くらいしなさい!」
再び杖に明かりを灯し、マーズは二人の姿を求め、無造作に置かれた物や道具の間を縫って歩き回った。
「サボったからって怒ったりしないから! 出てきなさい!」
マーズが黙ると、こそりとも音のしない無音の闇が辺りを包む。
人間が二人、忽然と姿を消した。
「嘘でしょ……」
ここはホグワーツ魔法学校、そのくらいの事が起こっても何ら不思議ではない。
「……勘弁してよ」
人気のない倉庫の中、マーズは一人、頭を抱えた。
* * *
その日も、マーキュリー・ジェイは早々に食堂へと足を運んだ。特に誰かと夕食をともにする予定も約束もなく、食に対する思い入れも薄い彼女は、食堂が混みあう前に手早く食事を済ませて図書館に向かうのが常だった。
「あっ、来た来た!」
「おーい! ミス・パーフェクト!」
そんな彼女を、大食堂の前で待ち伏せている生徒がいた。長身の金髪ショートヘアの少女と、小柄な赤い巻き髪の少女。二人ともハッフルパフのクィディッチ選手で、ジュピター・フォレストのチームメイト。長身の少女がチェイサーで、小柄な少女がシーカーだ。
「ジュピターを見なかったか!?」
今晩は、という通り一遍の挨拶をすっ飛ばし、赤毛の少女が前のめりにそう尋ねた。
「今日は、朝見かけたきりだけど……何かあったの?」
ただならぬ雰囲気を感じながら、マーキュリーはそう問い返す。
「ジュピターが消えちまったんだよ!」
「あの子、昼前にあった変身術の授業で居残りになってさ。それからずっと戻って来ないんだよ」
言葉足らずのシーカーの説明を、チェイサーが補う。
「昼食も食べに来てないし、あたし等午後ずっと探してたんだけど、見つからなくてさ」
「……最初から、順を追って聞かせて貰えるかしら」
「それなら」
眉を顰めるマーキュリーの、背後から別の声が割り込んだ。
「私も混ぜて頂戴」
「あーーーっ!?」
ハッフルパフの二人が頓狂な声をあげる。
マーキュリーが振り向いた先に立っていたのは、マーズ・フレア。「グリフィンドールの魔王」と噂される、飛び抜けた魔法の力の持ち主だ。ついでにルックスの良さも飛び抜けているが、今の彼女は髪の毛に埃を纏った蜘蛛の巣、表情には不機嫌と疲労を貼りつけており、がっくりと肩を落とした姿勢とも相まって、その美貌は三割引だ。
「おい! あんた、ジュピターと一緒じゃなかったのかよ!」
「だから今からその話するっつってんでしょ」
気の立ったチワワのように吼えた赤毛の少女は、低い声で唸るように言うマーズの一睨みにひゅっと息を呑んだ。魔王とチワワでは、チワワのほうが圧倒的に分が悪い。マーズは自分を落ち着かせるようにひと呼吸置いて、マーキュリーを見た。
「とりあえず結論を先に言うわ。倉庫の掃除してたら、セレーネとジュピターが突然消えたのよ。跡形もなく、ね」
マーキュリーとハッフルパフの二人は、驚きに目を見開いた。
「はっ――」
赤毛のシーカーが、思わず叫びそうになるのをぐっと堪える。また魔王に睨みつけられてはたまらない。
「……つくづく、魔法学校って出鱈目なところね」
マーキュリーは人差し指で眉間を押さえて小さく溜息をついた。
「最初から、順を追って聞かせて貰えるかしら」
変身術の授業での出来事、罰掃除のこと、気付いた時には二人の姿が消えていたこと、そのせいでマーズが巨大な倉庫を一人で掃除する羽目になったこと。
「あのクソババア、『綺麗に掃除する』の基準をバカみたいに高く設定してて。おかげで苦労したわよ」
「それで、今の今までかかったわけね」
マーキュリーの声に同情の色が滲む。当のマーズは、マダム・ジルコニアへの不満をぶちまけることができたお陰か、やや冷静さを取り戻したようだ。
「おいおいおいおいおい」
対してハッフルパフの二人は顔面蒼白である。
「いやマジでどーすんだよこれ! 大事件じゃねーか!」
小柄なシーカーは頭を抱え、
「私達にできることがあれば何でもするよ……だから」
助けて、と、長身のチェイサー少女は唇を震わせた。
「……とりあえず」
暫し考えて、マーキュリーが口を開く。
「皆、急いで食事を済ませてここにもう一度集まって。長丁場になるかもしれないから、ちゃんと食べておくこと。あとマーズは出来るだけ目立たないように、特にジルコニア先生には見つからないようにして頂戴。先生には、貴女達がまだ掃除をしていると思っていて貰いたいから」
これからやるべき事の青写真が既に出来つつあるような彼女の口振りに勇気づけられ、三人は力強く頷いた。
* * *
「……そっか、こんな感じなんだ、魔法処って。綺麗だな」
――行ってみたいな。
ぼんやりと、そう口にした次の瞬間、ジュピターは奇妙な感覚を覚えた。視界がぐにゃりと歪み、天地がひっくり返ったかと思うと、今度は内蔵をひっかき回されるような気持ち悪さに見舞われる。目をぎゅっと閉じ、体を折り曲げ、本能的に両手で頭を抱えた。
嵐のように襲い来た違和感が過ぎ去り、
「っ……、んん?」
気がつくと、草原の上に立っていた。
「、ちょ、」
辺りを見回せば、ピンクの花を枝いっぱいに咲かせた木々が視界の端から端までずらりと並び、強い風に無数の花びらが舞っている。
「なんだ、これ」
遙か遠く、たなびく霞の向こうに、そびえ立つ白亜の城。屋根が何層にも積み重なった、ロンドンでも魔法界でもおおよそ見たことのない変わった形状の城――その荘厳さと存在感から直感的にそうだと思ったが、そもそもあれは本当に城なのか?
「わあ! すごい! きれい!」
隣でセレーネが歓声を上げる。
「ねえねえジュピターちゃん! これって、あの玉の中だよね? すごくない?」
――そうだ。
これは、あのスノードームの中の風景だ。白い大きな建物、その前景に満開の花の並木。雪の代わりに舞い踊るピンクの花びら――
「そうだね……って、えええええええええ!?」
嘘だろ、と呟いて、ジュピターは両手の平で自分の顔を挟むように思い切り打ちつけた。
どんな夢も一発で醒めるほどに、ばちん! と盛大な音をたてて。
「いってぇぇぇぇ!」
あまりの痛みに顔を押さえてうずくまるジュピター。それでも風景は変わらない。どうやら夢ではないようだ。
(待て待て待て何で? ほんとに中に入っちゃったのか? 一体どうやって? ってかこれどうやって外に出るんだ? いや掃除! あたし等が抜けたらあのだだっ広い倉庫をマーズ一人で、って駄目だろそれ。早く戻らなきゃ、でもどうやって? ってか出られるのか? これ)
ジュピターの頭の中は大忙しでだ。おそらく孤児院にホグワーツ入学許可のふくろう便が届いた時よりも取り乱している――あの時は、まるで実感が湧いてこなかったから。
「ねえ見て見て! あの向こうにあるの、もしかして町かな?」
再びセレーネの声で我に返る。彼女の指が示す先を目で追えば、花の並木の先に黒い屋根のようなものが並んでいるのが見えた。さらに目を凝らすと、煙突から煙が上がっているのも見て取れる。人の営みがある証だ。
「行ってみようよ!」
「はへぇ!?」
思わずおかしな音が口から漏れ、ジュピターは慌てて口を押さえた。
「えっ、いや、マジで?」
「うん!」
満面の笑みで答えるセレーネ。
「向こうに行けば、何か食べるものあるかもしれないよ?」
そう言われてみれば、今日はまだ昼食にありつけていない。午前中の授業で居残りを言い渡され、とにかく早く倉庫を出たい一心で罰掃除に勤しんでいてすっかり忘れていた。いったん意識してしまうと、もう腹の虫が黙っていてはくれない。
「うーん……」
それでも渋るジュピター。この不思議な空間で、むやみに動き回るのが果たしていいことなのか。
「せっかくお掃除しなくてよくなったんだし、のんびりしようよ」
「いやいやいや、それは駄目だろ」
「探検したら、出口がみつかるかもよ?」
「んん……確かに」
それにしても、セレーネのこの通常運転ぶりはどうだ。
そういえば、クィディッチの練習や試合に癒し手として帯同するセレーネが、怯えたり取り乱したりするのをジュピターは見たことがなかった。鉄球をまともに食らって歪んでしまった血みどろの顔面、あらぬ方向に曲がった腕や脚。見るに堪えない凄惨な怪我も珍しくないのがクィディッチというスポーツだが、セレーネは臆することなく怪我人に向き合い、杖を振るう。案外、度胸があって肝が据わっている子なのかもしれない。
「よし、行ってみよっか」
ジュピターが重い腰を上げると、セレーネはやった、と嬉しそうに笑った。
「美味しいものあるといいね」
「そうだなぁ。でもここ、スノードームの中だし」
あまり期待しないでおこうよ、と小さな溜息混じりに言って、ジュピターははしゃぐセレーネと連れだって並木の向こう側を目指し歩き出した。
綺麗に踏み固められた土の道路と、その両側に立ち並ぶ様々な店。
「おお……」
ショーウインドーどころかドアも、壁すらもない、オープンな構えの店が軒を連ねる。台の上に並べられた品々は、通りすがりに手を伸ばせばひょいと取れてしまいそうだ。この国には泥棒がいないのか? ダイアゴン横丁とは、佇まいがまるで違う。
「なんだ、これ……」
ダイアゴン横丁にも旗を掲げた店があるが、ここの旗はなぜか縦に長かった。男女を問わず道行く人々は皆、巻きスカートのようなものを身につけている――いや、帯から上のトップスと模様が同じということは、ワンピースなのかもしれない。
と、前方の店先で、白い湯気がもう、と上がり。
何だろう、とジュピターが思った時には、セレーネはもう駈けだしていた。そして、ジュピターが追いついた時にはもう、何か得体の知れないものを頬張っているところだった。
「わあ! おいしい!」
それ何なのそもそも食べ物なの、こんな得体の知れない空間で出されたもの食べて大丈夫なの、ここ店でしょお金は? と、ジュピターの脳内ではツッコミが泉のように次から次へと湧きだしている。
「……」
そうしていると、店主と思しき老婆が彼女に近づいてきた。品のある、優しそうな――マダム・ジルコニアとは正反対のタイプの老婆が、微笑みながら差し出す盆の上には、白い丸いものが幾つか盛られた皿。目を凝らしてよく見ると、白い丸はどうやらスポンジケーキのようなものらしかった。甘い匂いがジュピターの鼻孔をくすぐる。
「あ、いや、でもあたしお金持ってないし」
やんわりと辞退するジュピターに、老婆は微笑みを湛えたままゆっくりと首を横に振った。どうやら、金はいらない、ということらしい。
「ジュピターちゃん食べないの? すっごくおいしいのに」
いやあんたはもうちょっと警戒心というものを持ちなよ、っていうかそれ何個目だ? と、セレーネへのツッコミがまた湧きだしてくる。
(……ええい、もうどうにでもなれ!)
脳天気なセレーネを見ているうち、悩むのが馬鹿馬鹿しくなってきたジュピターは、とうとう丸いケーキを手に取った。ケーキは見た目よりも重く、中に何かが詰まっているようだった。
「……!」
一口かじると、上品な甘さが舌の上に広がる。暗紅色のフィリングは、元の豆の形が少し残っていた。まともな食物であったことにほっとする。
「美味しい」
こうなるともう、手も口も止まらない。止めれば腹の虫が徒党を組んで叫びながらデモ行進を始めてしまう。ジュピターは瞬く間に皿の上のケーキを平らげた。
「ところでこれ、何ていう食べ物ですか?」
脳に糖分が行き渡り、少しまともな思考ができるようになってきた彼女は、にこにこしながらこちらを見ている老婆に尋ねた。
老婆は、無言で縦長の旗を指さす。
『ムシ・マンジュウ』
なぜか英語で書かれていた。
「……あの、この町から出る方法ってあります?」
老婆は何も答えず、ただ微笑みを湛えたまま佇むだけ。ここが魔法で生み出された町だとすれば、この老婆も魔法の産物のはず。この店の商品に関してごく簡単なコミュニケーションがとれるだけで、喋ることはできないのかもしれない。
(仕方ない。やっぱ自分の足で探すか)
「セレーネ――」
ジュピターが振り向くと、セレーネはもうそこにはおらず、斜向かいの店でまた違うものをパクついていた。
「って、うぉい!」
再びツッコむ元気が出てきた彼女は、慌ててセレーネの後を追った。
* * *
罰掃除の結果、塵一つなくなった倉庫の中。
「ところで」
暗闇を照らす魔法の光に、マーズの整った仏頂面が浮かぶ。
「なんであんたがここにいるのよ」
「んー、マーズちゃんが困ってるって聞いて!」
人差し指を顎に当て、可愛らしく答えたのはヴィーナス・クロム。スリザリン寮クィディッチチームのスター選手だ。
「困ってないし頼んでない」
「あと、普通にセレーネのことは心配。あとついでにジュピターも」
倉庫から脱出したばかりのマーズは心底困り果てた顔をしていた、という事実はそっと胸に秘めて、マーキュリーは二人の遣り取りを微笑ましい気持ちで眺めた。
「率直に言って、貴女みたいに力のある魔女の助けがあるのは有り難いわ」
「わお。マーキュリーちゃん素直かわいい」
「悪かったわね素直でも可愛くもなくて」
「かわいいって思われたい?」
「思いません」
「……とりあえず、マーズ。セレーネとジュピターが消える直前に掃除していたのがどの辺りか、見当がつくかしら」
放っておけばこの掛け合いが永久に続きそうだと判断したマーキュリーは、単刀直入に本題へ切り込んだ。
「それなら、二人が掃除した跡が残ってたのが、ここから……この辺りまでの範囲だから。その周辺のどこかだと思うわ」
今は全てが拭き取られて手がかりも何一つ残っていないが、マーズの記憶が確かなのは僥倖である。
「じゃあ、その辺りを手分けして調べましょう。何か不自然な痕跡や、怪しげな魔法道具があったら、すぐに共有すること」
「わかったわ」
「おっけ」
* * *
「ジルコニア先生!」
眉間に皺を寄せ、摺り足で廊下を歩く小柄な老教師の姿を見つけ、生徒が二人、慌てた様子で駆け寄った。ハッフルパフのクィディッチチームの、チェイサーとシーカーだ。
「ジュピター・フォレストが、変身術の授業の居残りから戻って来ないんです。先生、彼女の行方をご存じないですか?」
最初に口を開いたのは長身のチェイサー。老教師のご機嫌を損ねぬよう、慇懃な口調でチームメイトの行方を尋ねる。
「ああ」
ジルコニアは非対称に口角を上げ、いかにも陰険そうな笑みを浮かべた。これが魔女というものならば、中世の人々が狩りたくなるのも仕方がないと思える程に邪悪さが滲み出ている。
「あの出来損ないどもなら、この先の倉庫でまだ罰掃除をしている筈だよ」
彼女は皺だらけの指で二人の後ろを指さした。
「倉庫が塵一つなくぴかぴかになるまで出てこられない魔法をかけてあるからね、当分出てこられないだろうよ」
ハッフルパフの二人は、驚いたように目を見開いた。
「……ほんの少しでいいので、ジュピター・フォレストに会わせていただけませんか」
「はぁ?」
長身の少女の懇願に、老教師の顔が歪む。
「お願いします! チームのことで、どうしても話さないといけないことがあるんです! お願いします!」
小柄な少女が両手を組んで嘆願する。
「馬鹿いってるんじゃないよ! 駄目なものは駄目だね!」
老教師はそう言って少女達の願いを一蹴した。
「今度の試合のことなんです! とても大事なことで」
「どーうしても必要なんです! お願いします! お願いします!」
小柄な少女が、ジルコニアのローブに縋る。
「えぇい! 何で私がアナグマどもの試合の手伝いをせにゃならんのだ!」
老教師は少女の手からローブをひったくると、
「何年か前に罰掃除をやらせたガキどもはまる三日かかったよ。あの落ちこぼれどもは何日かかるだろうねぇ!」
ひーっひっひっひ! と、小鬼のように意地悪く笑い、踵を返して歩き去っていった。
「そんなあぁぁぁぁ……」
小柄な少女は絶望に顔を覆い、その場に泣き崩れた。
「……行ったか?」
廊下の床にしばらく伏せていた少女が、小声で相棒に尋ねる。
「うん。もう大丈夫」
その返事を聞いて、彼女はケロっとした顔で立ち上がった。
「なあ」
「うん?」
「ミス・パーフェクトって、ほんとすげぇな」
「……だね」
老教師が歩き去っていった方をぼんやりと見ながら、二人は言葉を交わす。
「あいつが様子を見に来たのもビンゴだし、あたしらが泣いて頼めば頼むほど無碍にされる、ってのもその通りになったし」
「そうだね……ところで、さ」
「うん?」
「前に同じ罰掃除させられた生徒、出てくるまで三日かかった、って言ってたよね」
「言ってたな」
「「魔王」はさ、半日で終わらせて出てきてたよね。しかも、一人で」
「そういや、そうだな」
二人の間に暫し、沈黙が降りる。
「……すげぇな」
「……そうだね」
* * *
「マーズちゃん!」
ヴィーナスの呼ぶ声に、マーズが素早く駆けつけた。
「何か見つけたの!?」
「ほらこれ! なんか可愛くない?」
そう言ってヴィーナスが示したのは、木製の台座に乗った水晶玉のような物体。手に持って揺さぶると、球の中できらきらと輝く粒が美しく舞った。
マーズの期待の表情が一瞬で鬼の形相に変わる。
「殴っていい?」
「ちょ、待って! これ、マーキュリーの言う「怪しげな魔法道具」かもしれないじゃない?」
軽いフットワークで後ろに跳び退り間合いを取るヴィーナス。マーズは腕組みをして暫し睨みを利かせていたが、見せなさい、と小さく溜息をつきながら言った。
「……スノードームね」
「へえ。これ、スノードームっていうんだ」
「一度逆さにしてから、ここに置いてみて」
マーズの言う通りにすると、水で満たされた球の中に封じられた無数の粒が舞い上がり、ミニチュアで作られた風景の上に雪のように降り積もる。
「なーるほど。ほんと、雪みたい……あ。ここ、何か書いてある」
ふと、ヴィーナスが台座に刻まれた文字に目を留めた。
「『マホウトコロ、日本』!? えーっ!?」
「急に大声出すんじゃないわよ」
びっくりするじゃない、と、あまり吃驚した風でもなく、マーズ。
「あたし、ルーキーイヤーにこのマホウトコロってのと親善試合やって、ケッチョンケチョンにされたのよね!」
「誰が昔話しろっつったのよ」
「今の選抜チームならいい勝負できると思うんだよね……あー! 今度はこっちが日本に乗り込んでリベンジマッチしたい!」
「人の話聞き――」
マーズがツッコみかけた、その時。
ヴィーナスの姿が一瞬、陽炎のように揺らいだかと思うと、一気に縮みながら、しゅるん、とスノードームの中に吸い込まれていった。
「……………えっ……」
事態の把握に、およそ七秒。
「はあぁぁぁぁ!? ちょっと! ヴィーナス!?」
さすがのマーズも声が裏返る。彼女がこれだけ動揺する姿は珍しいのだが、それを一番見たいと思っているであろう人間はたった今玉の中に吸い込まれたばかりだった。
「マーズ? 何かあったの?」
がらくたとがらくたの間の細い通路を、明かりを灯した杖を手にマーキュリーが駆け寄ってくる。
「……見つけたわ」
自分を落ち着かせるように深い呼吸を一つして、マーズはたった今ヴィーナスを呑み込んだガラス玉を指し示した。
「これが。二人が消えた元凶よ」
「スノードーム、かしら。少し変わった意匠ね?」
「たった今、ヴィーナスも消えたわ。私の目の前で、その玉に吸い込まれてね」
淡々としたマーズの言葉に、マーキュリーは一瞬目を見開いたが、
「……その時の状況、詳しく教えて。できるだけ正確に」
すぐに冷静さを取り戻し、真剣な声音で問うた。
「まず、ヴィーナスがこれを見つけて。私を呼んだのよ」
「これは、最初からこの場所に?」
「さあ。私が見たときにはもう、手に持ってはしゃいでたから」
「不用意もいいところね。それから?」
額を指で押さえながら、マーキュリーは先を促す。
「あいつ、スノードームを知らなかったから、使い方を教えてやったのよ。こう、一度逆さにしてから置くんだ、ってね」
マーズはそう言いながら、その時の様子を再現して見せた。ドームの中で、無数の粉が光を反射しながら舞い踊る。
「そしたらあいつ、この台座の文字を見つけて、急に昔語りをはじめたのよ……何て言ってたかしら……たしか『ルーキーの時に日本のマホウトコロと親善試合をやって、ケチョンケチョンにやられたのよ』って」
ヴィーナスの言葉を、できるだけ忠実に。額に拳をとんとんと当てながら、眉間に皺を寄せ、マーズは懸命に思い出そうとする。
「それから……『こんどはこっちが日本に行って、リベンジマッチしたい』って」
「あっ!」
マーズの言葉を――正確には、マーズが再現したヴィーナスの言葉を聞いた瞬間、マーキュリーはしまった、という表情を見せた。
「えっ?」
マーズが反応した、次の瞬間。
彼女の姿がゆらりと揺らぎ、縮みながら、スノードームの中に吸い込まれていった。
「……不用意だったのは私の方ね……」
暗い倉庫の中に一人取り残されたマーキュリーは、形の整った額に指を当て、迂闊だったわ、と一人独り言ちた。
* * *
「うーん……」
異国情緒あふれる町の中、菓子屋の店先のベンチで、ジュピターは考え込んでいた。
通りを端から端まで歩いてみたが、この不思議な世界から脱出する手がかりは結局見つからなかった。あったのかもしれないが、少なくとも彼女たちには分からなかった。遠くに見える巨大な白い城に行ってみようとしたが、そこに通じる道も見あたらない。
「……もしかしてあれ、ハリボテなのかな……」
行ってみたかったのにな、と独り言のように呟いて、ジュピターは菓子を口に運んだ。
「ん……うまっ」
ほんのり甘く、粘りけのある白い生地を丸めて串に刺した菓子。いろいろなソースやディップや粉が添えられており、どれも美味でなかなか楽しい。確か、ダン・ゴゥとかいう名前だった。
(それにしても)
ジュピターは下を見た。
彼女の膝に頭を乗せ、木製の平らなベンチに敷かれた赤い布の上、セレーネが安らかな寝息をたてている。この得体の知れない世界で真っ先に探索を始め、食べ物を口にし、空腹が満たされると今度はころんと横になってそのまま人の膝枕で眠ってしまった。度胸があるというか、肝が据わっているというか、好奇心が旺盛というか。
(もしかして)
ここで、新たな可能性がジュピターの脳裏をよぎる。
(ただのバ……)
……いやいやいや。
未知の空間に放り出されて数時間、彼女がさほど不安を感じずにいられるのはたぶんセレーネのおかげだ。計算にしても、素だったにしても――たぶん後者だろう――セレーネにはそういう力がある。
(あれ? これ、味が違うんだな)
ダン・ゴゥには緑色のディップが二つついていた。見た目は似ているが、味が全く違う。みんな違ってみんないい。
……それはさておき。
「セレーネ?」
ジュピターは膝の上の眠り姫を小声で呼んでみた。
「……おーい」
残念ながら、全く目を覚ます気配はない。
(参ったな)
ジュピターは小さく溜息をついた。
先刻食べた、鰻のグリル。鰻料理といえばゼリー寄せしか知らなかった彼女は、ふっくら香ばしく焼き上げられたその魚が鰻だと聞いてベンチから転げ落ちそうになるほど驚いた。できればそれをもう一度食べたいと思っているのだが、セレーネが目を覚ましてくれないのでなかなか立ち上がれないでいる。
「あーーーっっっ! ジュピターーーーー!」
と、聞き覚えのあるソプラノが遠くからジュピターの耳を突き刺した。異国情緒あふれる町の中を、見慣れたブロンドと赤いリボンが猛ダッシュで近づいてくる。
「よかったぁぁぁぁぁちょっと何なのここどこよ!? あっ! セレーネも一緒だったんだ! ってか何食べてんの!? ずるい、あたしも食べたい!」
「うるさい」
人の顔を見るなりまくしたてるヴィーナスに、ジュピターは少し呆れたように苦笑した。
「ってか、ヴィーナス、お前何でいるんだよ」
「何で、ってご挨拶ね! あんたたちが消えたっていうから皆で探してたんじゃない。それ一口ちょうだい!」
「へいへい。何なら全部食べていいよ」
まくしたてるヴィーナスに、ジュピターは手に持っていた皿を差し出す。
「んん! 何これ! 美味しーい!」
目を輝かせてダン・ゴゥに食いつくヴィーナス。奇妙な場所に突然飛ばされて来たというのに通常運転の彼女も、やはり怖い物知らずというか肝が据わっているというか。
「……そっか。助けに来てくれたのか、ありがとな」
「違うわひょ」
ヴィーナスはダン・ゴゥを頬張りながら首を横に振った。
「え?」
「あんた達探してたら、何か知らないうちに飛ばされてきた」
「じゃあ、ここから抜け出す方法は?」
「知らない」
「えぇ……」
ミイラ取りがミイラになってミイラが増えただけと知って、ジュピターはあからさまに落胆した。
「あっ。ヴィナちゃん! ヴィナちゃんも来たんだ!」
と、目を覚ましたセレーネが、ぱっと起き上がり顔を輝かせる。
「やっほー。来ちゃった! セレーネ今日も可愛い。天使!」
「えへへ。ヴィナちゃんも可愛いよ!」
キャッキャとはしゃぐ金髪娘二人に挟まれて、ジュピターはがっくりと項垂れて両手で頭を抱えた。
ぺしこーーーん!
ぺしこーーーん!
と、派手に何かを叩く音がする。それも二連発で。
「あんた達ねぇ! 人がどれだけ心配したかわかってんの!?」
ジュピターが顔を上げると、セレーネとヴィーナスは頭を押さえて項垂れ、マーズが般若の顔で仁王立ちしていた。
「なんだ、マーズかぁ……」
「ちょっと。なんだ、って何よ。あと、その顔」
苦い顔で見上げるジュピターに、文句を言うマーズ。
「あんた達が急に消えたから探してたんじゃない」
「助けに来てくれたのかい?」
「……あんた達がここに飛ばされた原因は、大体分かったわ」
ジュピターが問うと、マーズは僅かに視線を逸らしてそう言った。
「あああもう! ミイラ取り失敗してミイラになった奴ばっか来るじゃん! しかも全員脳筋だし!」
「ちょっと! 脳筋って何よ! それ私も入ってるの!?」
「何よぉ! 脳筋はジュピターだけでしょ!」
頭を掻きむしりながら叫ぶジュピターに、意を唱えるマーズとヴィーナス。
「えー。あたしもノーキン? ノーキンって何?」
「あんたは脳も筋もないでしょ」
首を傾げるセレーネに、マーズが塩ツッコミを入れる。
「あー! マーズちゃんひどい! 意味わかんないけど絶対それ悪口でしょ!」
「意味わかんないのかい」
「まあまあ。とりあえずマーズはこれ食べて!」
ヴィーナスが問答無用でマーズの口にダン・ゴゥを一つ押し込んだ。粘り気と噛み応え十分なそれを彼女が咀嚼し飲み下す間、辺りに暫し沈黙が降りる。
「いいなー。おじいちゃーん! あたしにもダン・ゴゥちょうだい!」
その様子を見ていたセレーネが、老店主に向かって声を張り上げた。
「ダン・ゴゥって何? あ、それダン・ゴゥっていうんだ。あたしも欲しい!」
更にそれを見ていたヴィーナスが、倣ってダン・ゴゥを要求する。
「あんた達ねぇ……お金持ってるんでしょうね?」
マーズの心配は至極真っ当だ。
「それが、お金いらないみたいなんだ。この空間自体が魔法で作られた架空の世界だからかな」
ジュピターが説明すると、マーズはそれなら、と自分もダン・ゴゥを注文した。
「……あたしも、鰻貰って来ようかな」
食い気に走る三人を見ているうちに悩むのが馬鹿らしくなったジュピターは、溜息を一つついて立ち上がった。
ダン・ゴゥ屋のベンチに空の皿が積みあがった頃。
「皆、お待たせ」
異国の町並みに、ホグワーツの制服を纏った人影がもう一つ、涼やかなソプラノとともに現れた。
「いよぉぉっしゃあぁぁぁぁ! 今度こそ当たり来たあぁ!」
「ちょっと! それじゃあたし達が外れみたいじゃない!」
「残念ながらその通りでしょ」
ロウェナ・レイブンクローの再来、学校始まって以来の才女と名高いマーキュリー・ジェイの登場に、思わず立ち上がり拳を握り締めるジュピターと、それに抗議するヴィーナス、更にそれに突っ込むマーズ。
「良かった、全員いるのね」
――もし一緒じゃなかったら、私は二件の別々の行方不明事件を解決しなければならなくなるところだったわね。
マーキュリーは冗談めかして洒落にならないことを言った。
「あ。マーキュリーも食べる?」
彼女がベンチの上に積み上げられた皿にちらりと視線を投げたのに気づいて、ジュピター。
「ありがとう……と言いたいところだけど、遠慮しておくわ。ギリシャ神話の冥界の王妃みたいにならないとも限らないし」
念のためにね、と苦笑するマーキュリー。
それを聞いて、マーズが青ざめた表情であっと声を上げた。
「ん? どういうことだい?」
「神話だと、冥界の王ハデスの妃ペルセボネは元々大地母神デメテルの娘で、地上の女神だったのだけど、冥界の柘榴の実を食べてしまったために元の世界に戻れなくなった、ということになってるのよ」
「えっ」
「えっ」
「えっ?」
マーキュリーの説明に、ジュピターとヴィーナスが絶句し、
「なになに、どゆこと?」
セレーネだけが置いてけぼりを食らっている。
「この世界の物を食べちゃったら、元の世界に戻れなくなるかもしれないってことよこの食いしん坊のスカポンタン!」
キレながら、分かりやすく説明してやるマーズ。
「一応、聞いてみるわね。ここで何か食べた人は手を挙げて?」
全員、挙手。
「……まあ、大丈夫だとは思うけれど。できれば用心しておいて欲しかったわね……」
軽い眩暈を覚えて、額に手を当てるマーキュリー。
「ちょっとヴィーナス! 何てことしてくれたのよ!」
「何よ! マーズちゃんだって『あら、美味しい』とか何とか言って結局自分で注文してたじゃない!」
秒で喧嘩を始めるマーズとヴィーナス。
「それで、ここから出る方法なのだけど。実は、ある程度目星がついたというだけで、確信はないの」
「えっ」
「ちょ、嘘でしょ」
「え?」
「マジで?」
気を取り直したかと思うと、マーキュリーはとんでもないことを口にした。今度は全員が絶句する。
「取り敢えず、皆でもとの場所――この世界に吸い込まれた時にいた所に戻りましょう。私の仮説が合っていれば、外に出られるはずよ」
マーキュリーはそう言うと、ローブを翻し、皆を従えてもと来た道を戻り始めた。
* * *
「このスノードームを暫く観察していて分かったのだけれど」
五人は、この空間に最初に降り立った草原に来た。はるか遠景に白亜の城、前景には満開の花を付けた木々。
「これ、ある一定の間隔で自動的に中の粉が舞い上がるようになっているの。内側から見ると――」
びゅうっ
丁度その時、一陣の風が吹き、花の並木から花びらが舞い上がった。
「この風と、花吹雪がそうね。このドームに出入りする条件の一つは、この花吹雪。貴女達、ここに取り込まれる前に、ドームを逆さにして粉を舞わせたでしょう?」
「……ああ。うん、確かに」
「そういえば、そうね」
ジュピターとヴィーナスが頷く。
「そしてもう一つの条件。粉が舞っている間に、『日本に行きたい』と言うこと」
「……あ!」
今度はセレーネも、思い当たる節があるというように頷いた。ヴィーナスの行動を迂闊にも「忠実に」再現してとばっちりを食らったマーズは、仏頂面で知らないふりを決め込んでいる。
「それからこれは、実際に中に入ってみてわかったことだけど。もしもこのドームが悪意をもって人を閉じこめる目的で作られたのだとしたら、この中の空間をこんなに美しくする必要も、日本に似せる必要もないし、わざわざ美味しい物を提供することもないでしょうね。この空間はおそらく、旅行気分を手軽に味わうために作られたものだわ。入る時のコマンドワードは『日本に行きたい』だった。それなら、帰るときは――」
マーキュリーは周囲を見回し、花吹雪が舞っていないことを確認する。
「『家に帰りたい』といったところでしょうね」
「……ほんとに、そんな簡単なことでいいの?」
腕組みをして、眉を顰めるマーズ。
「さっき言った通りよ、確証はないわ。とりあえず、一番簡単且つ可能性が高いと思われるものから試してみるの。次に風が吹いたら、皆『家に帰りたい』と唱えてみて頂戴」
「もし、駄目だったら?」
首を傾げるヴィーナス。
「その時は次の手を試すまでよ。ちなみに、このドームの用途や目的についての仮説は七通り、それぞれについて脱出の方法は十五、六通りずつ考えてきたわ」
「わお」
感嘆の声を漏らすジュピター。
「それでも駄目ならここでまた別の案を考える。外はもう夜なのだけど、もし一晩中かかっても出られなかったら、朝一番でハッフルパフの子達がドームを持って校長先生に助けを求めに行く手筈になっているから……さあ、そろそろ風が来るわ」
マーキュリーが空を見上げた、次の瞬間。
びゅうっ
強い風が、淡いピンクの花びらを辺り一面に舞い踊らせる。
「今よ!」
「「「家に帰りたい!」」」
少女達の声が重なった、次の瞬間。
花の嵐とともに、マーズとヴィーナス、セレーネの姿がかき消えた。
その場に残ったのは、ジュピターとマーキュリーの二人だけ。
「えっ」
一呼吸の後、マーキュリーの顔が青ざめる。
「どうして……? まさか、本当に食べ物の影響が――」
「え? あ、いや、違うんだ」
ジュピターは慌てて首を横に振り、
「……言えなかったんだ」
俯き加減で目を伏せ、ぽつりとそう零した。
「言葉が。咄嗟に、出て来なくて」
そこまで言って、黙り込むジュピター。マーキュリーは、ただ何となくそうした方がいい気がして、ジュピターの次の言葉を辛抱強く待った。
「『家に帰りたい』なんて」
やがてまた、ぽつりとジュピターが零す。
「今まで口にしたことも、考えたこともないし。そもそも、帰る家なんか持ってたこともないから……かな。ほんとに、出てこなかったんだ。言葉が」
マーキュリーは彼女の言葉に黙って耳を傾け、
「……そう」
やがて短く相槌を打って、僅かに微笑んだ。
哀れむでもなく、悲しむでもなく。
「うん」
否定とも、同情とも違う。
どこまでもニュートラルな反応に心地よさを感じて、ジュピターも小さく笑った。
ざあっ
そうこうしているうちに、再び風が吹き、淡いピンクの花びらが飛ぶ。
「綺麗ね」
花弁の降り注ぐ空を見上げて、マーキュリーが言う。
「そうだね」
「これ、桜の花ね。いかにも日本らしいわ。さっき来た時は、心配事だらけで気が気じゃなかったから分からなかったけど」
「あー……それは。ほんと、ごめん」
跋が悪そうに前髪を掻き上げ苦笑するジュピターに、
「仕方ないわ。ホグワーツは出鱈目で滅茶苦茶な所だから、誰がいつ何に巻き込まれるか知れないもの」
マーキュリーはそう言って肩をすくめる。
「それでも。悪くない所だ、って、今なら思えるわ。だって、私が貴女に出会った場所ですもの」
「へぇ……えっ、え!?」
ジュピターは三つ数えるほどの時間を掛けて彼女の言葉を呑み込むと、文字通り火が出そうな赤い顔で金魚のように口をぱくぱくさせた。
「それはそうと。今回の件、発端は変身術の授業だったそうね」
「へぁ、あ、うん」
涼しい顔でするりと話題を変えるマーキュリーに、ジュピターはまだ少し声を上擦らせながら頷く。
「私でよければ、教えましょうか」
「えっ。いいの?」
急に正気に戻ったように、ジュピター。
「勿論。いつがいいかしら」
「んー。じゃあ、明日。どうかな」
「明日ね。じゃあ、授業が終わったら、図書館で」
マーキュリーがそう言うと、ジュピターは嬉しそうに笑った。くるくると変わるその表情に、マーキュリーの頬が思わず綻ぶ。
「……ああ、そっか。そうだな」
ふと、ジュピターが何か得心がいったという風に独り言ちた。
「明日もマーキュリーに会える、って考えたら。ホグワーツ、悪くない、って思えるよ」
少し照れくさそうにそう言って笑うジュピターに、
「……そう」
マーキュリーは短く相槌を打ち、舞う花弁の色のように、淡く微笑んだ。
「うん」
頷くジュピターの表情には、先刻の翳りはもう見当たらない。
桜の木立が、吹く風に小さくさざめき始める。
二人は目配せをし、頷き合って。
「「家に帰りたい」」
花吹雪とともに、異国の町を後にした。
§7 Exotic Japan! ――Fin.
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