死が二人を分かつまで
深森 薫
人の気配と、髪を撫で上げる感触に、ふと目を覚ます。
薄く開いた瞳にぼんやりと映る、見知った天井。
「・・・亜美ちゃん」
次第にクリアになってゆく視界に、穏やかに名を呼ぶ声の主の顔が現れる。
「気が、ついた?」
「・・・ま・・・ちゃ・・・」
呼び返したい気持ちを、掠れる声が裏切った。起き上がろうと身をもたげようとした途端、天井がぐにゃりと歪み、ぐるぐると回り始める。
「あ―――」
たまらず、ぽふ、と枕に頭を落とし、顔をしかめるように目を閉じる。
「・・・無理しちゃ駄目だよ」
まことは苦笑して、亜美の肩を覆うように毛布を引き上げ、
「出血、酷かったから」
安堵したような、それでいて悲しげなような、怒ったような。
そんな、何とも言えない表情で亜美の顔を見つめた。
―――出血?
冷たい額を手の甲で押さえたまま、亜美は濃い霧のかかった脳に鞭を打つ。
まことの部屋で眠っていた自分。
鉛のように、重い体。
そう言った時のまことの表情。
霧が晴れる。
記憶が押し寄せる。
―――ああ、そうだ。
私は、倒れたのだった。
† † †
セーラー戦士達は目下、謎の敵との戦いに明け暮れていた。そこで彼女たちを悩ませるのが「ファージ」と呼ばれる怪物である。只の怪物なら袋だたきにしてしまえばよいのだが、「ファージ」は普通の人間が変化した―――させられた、というべきか―――もの故、無闇に傷つけるわけにいかない。取り押さえて銀水晶で浄化する。相手が凶暴で危険な怪物と化しているだけに、それは至難の業だった。
今日もセーラー戦士達は、突如出現した「ファージ」を、正確には「ファージ化」した人間を、あの手この手で人気のない埠頭へと誘導してきた。
「さて。ここからが厄介なのよね・・・」
溜息まじりに、ヴィーナスがぼやく。
「本当。すばしっこくて、妙にずる賢くて。誰かさんみたい」
例によってマーズがさらりと言ってのけた皮肉を、ヴィーナスも例によって聞き流した。
「何でもいーから。とっとと終わらして帰ろう」
ぽきぽきと指を鳴らしながら、ジュピター。
「そうよ。明日、連休明けの課題テストでしょう?」
「うげっ」
マーキュリーの一言に、呻き声をあげるムーン。
「とっとと、ね・・・
そう簡単に終わればいいんだけど、ね!」
溜息混じりに言って、ヴィーナスが仕掛けた。光の鎖がファージめがけて真っ直ぐに伸びる。
怪物が跳んだ。もとは人であったのが嘘のような身のこなしでヴィーナスの攻撃をかわす。
「『炎射手』!」
マーズの追撃を、上体の動きだけでかわす怪物。炎の矢は空を切って夜の海に消えた。
そして。
「はぁぁぁぁぁっっ!」
その隙に、弾丸のように飛び込むジュピター。
ヴィーナスとマーズが相手の気を引き、ジュピターが仕留める。セーラー戦士の必勝パターン。
―――の、筈だった。
「・・・なにっ!?」
相手の鳩尾にめり込む筈の拳は、虚しく空を切った。
戦士達の間合いの外に、ひらりと降り立つ怪物。
「嘘っ!」
「速い!」
「そんな・・・なんて奴なの!?」
異形の者の顔が、不敵な笑みを浮かべるように歪み。
天に向かって腕を伸べたと思った、次の瞬間。
その両腕がぐにゃりと形を変え、巨大な錐のような触手となって彼女たちを襲った。
「あぶない!」
「んっ!」 「きゃ!」
怪物の腕は、マーズとヴィーナスの立っていた場所のコンクリートを発泡スチロールのように砕き、辺りに飛び散らせる。
「ひょえぇぇぇ・・・・・・」
「ムーン、びびってないで! そっちに行ったらちゃんと避けるのよ!」
恐れおののくムーンに、マーズの檄が飛ぶ。
「ちょっと、マジでぇ。こいつ、ほんとに元は人間なの?」
ヴィーナスの額を、冷たい汗が伝う。
「純妖魔なんじゃなくて?」
「それは・・・間違いないわ」
マーキュリーの表情も険しい。
「もとは確かに人間・・・よっ!」
ファージと呼ばれる怪物の、攻撃は続いた。鋭く尖った触手は、戦士達の体を貫かんと次々に繰り出される。
「このっ、大人しくしてりゃいい気になりやがって!」
叫ぶジュピターの、一瞬のエナジーの高まりがその手に青白い雷球となって具現する。
「はっ!」
ごがっっっ!
気合いとともに放たれた雷球は、轟音とともに怪物を打ち据え足下のコンクリートを砕いた―――と思われたが。
「!」
「・・・消えた!」
舞い上がる砂埃の中に、怪物の姿はなかった。
戦士達に緊張が走る。
全神経を研ぎ澄まし、敵の気配を探す。
BEEEEEEEEEEEEP!
不意に警告のアラームが鳴り響いた。マーキュリーにしか聞こえないそれは、彼女のレーダーが敵のエナジーを感知したことを示す。
マーキュリーはレーダーの指す方向に体を返した。
凶悪な笑みを浮かべるファージ。
獲物を狙う蛇のように、うねる触手。
標的は、ジュピターの背中。
「ジュピタ―――」
危ない、と叫ぶ暇すらなく。
マーキュリーは足を踏み出した。
「!」
脇腹から、灼けるような感覚が全身を貫き。
記憶はそこで途切れた。
† † †
亜美はそっと自分の脇腹に触れた。深手を負った筈のそこは、しかし普段と何の変わりもなく滑らかな手触りで。
「・・・傷は、うさぎちゃんが治してくれたけど―――」
額にかかる髪を指先で払いながら。まこと。
そう、これがうさぎの―――セーラームーンの持つ、銀水晶の癒しの力。ただ、さすがに失血のダメージまで回復させることまでは出来ないようで、頭を持ち上げようとしただけで天井が回る。
「でも・・・心配したよ」
髪を払う指先は、額から頬へ。亜美は目を閉じたまま、その感触を辿った。
「・・・・・・うん」
「もし、このまま亜美ちゃんが目を覚まさなかったらどうしよう、って・・・そんなこと、ずっと、考えてた」
やがて頬を包むように添えられたまことの手が、優しい温もりを伝え。
亜美がうっすらと目を開けると、まことは苦笑したような表情を浮かべて見つめていて。
目が合うと、ふいと微笑み。
こつ、と額を亜美の額に当てると。
「・・・よかった・・・」
そう言って、目を閉じた。
うん、と小さく答えて、亜美も目を閉じる。
額を通して感じられる、互いの体温。
静けさの中で聞こえる、互いの息遣い。
それが今日は格別に思えるのは、互いが生きて傍に居ることの証だからなのだろうか。
「・・・・・・まこちゃん」
あのね、と、やがて亜美がかすれそうな声で言った。
額は合わせたまま、うん、とまことが答える。
「私・・・今日、まこちゃんの気持ち、少し解った気がするの。どうしていつも、無茶して、体を張って、怪我をしても、次にはまた無茶するのか」
亜美の口調は普段よりも随分ゆっくりで、言葉も切れ切れだった。本来なら口を開くのも億劫なほど消耗している筈なのだから、無理もない。
まことは顔を上げて、彼女の顔を見た。
「・・・ただ、そうせずには、居られなかったの」
亜美はそう言って大きく息をつくと、覗き込むまことの顔を見上げた。
「・・・あたしも」
まことは苦笑して、彼女の髪を撫でると。
「亜美ちゃんの気持ち、少し、解った気がする」
ふわり、と彼女の頬に自分の頬を重ね。
「・・・ごめんよ。あたし・・・」
ベッドに臥したままの細い体を遠慮がちに抱きしめた。
「あたし、いつもこんな思い、亜美ちゃんにさせてたんだ」
「・・・そうよ」
答えて、亜美がその腕をまことの背に回す。
「―――生まれる前から、ね」
答えの代わりに、まことは抱きしめる腕に少しだけ力を入れた。
「―――これからも、ずっと」
亜美の声は、掠れる寸前で、言葉を紡ぐ。
「それでも・・・」
まことは彼女の耳元に唇を寄せた。
「・・・それでも・・・あたしで、いいの?」
亜美は小さく首を振って、腕に力を込めた。
「・・・まこちゃんで・・・なきゃ、駄目なの」
それ以上交わす言葉もなく、抱きしめ合って。
いつしか眠りに落ちるまで、暖め合う。
こんなことが、これからいつまで続くだろう。
死が二人を分かつまで。
―――死が二人を分かつまで・終
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