Tender Is the Night
深森 薫
KNOCK-KNOCK
真夜中の王宮には他に音をたてるものもなく、ノックの音は高らかに響いた。来客にしては非常識な時間である。
ジュピターはテーブルの上に投げ出した脚を下ろして渋々立ち上がった。いくら明日がオフだとはいえ、いい加減夜更かしはやめてベッドにもぐり込もうかと思っていた所である。
「・・・はぁい?」
憮然としながら、開いたドアの隙間から無礼な訪問者の正体を確かめる。
「・・・ごめんなさい。もしかして、もう、寝てた?」
「マーキュリー・・・?」
開いたドアの前で、その名の主は少し気まずそうな表情で佇んでいた。
「いや、別に。まだ、起きてたけど------」
訪問者の意外な正体に、少なからず驚きを示すジュピター。ふと、マーキュリーの両手に抱えられた水色の書類ケースに目が止まる。
「何------こんな時間まで、仕事?」
マーキュリーは少し上目遣いに、ええ、と軽く肩をすくめた。悪戯を見とがめられた子どものようにばつの悪そうな表情を見せる。
「ま、いいけど。根の詰めすぎは、感心しないね」
ジュピターも言うだけ無駄と知りながら、それでもひとこと言わずには済まないらしい。
「それで。何か、急ぎの用事?」
「えっ、あ、ううん、べつに・・・」
問われて、マーキュリーは困惑したように口ごもった。
「ただ、ちょっと------何となく、寄ってみたの・・・ごめんなさい」
「・・・いや、いいよ。それじゃあ------」
らしからぬ答えを意外に思いつつも、ジュピターはふいと表情を和らげ、
「別に用がないなら、ここで引き止めても構わないね」
扉を大きく開いて、彼女を部屋の中へといざなった。
「何か飲む? ------何がいい?」
そう訊きながらも、ジュピターの手はもう勝手にティーポットを棚から取り出していた。
「そうね・・・私も、同じのがいいわ」
いつもとは違う返事に、ふと茶葉の缶を開ける手が止まる。
「同じ、って?」
「・・・ジュピターと、同じのが」
テーブルの上に置き去りの、飲みかけのグラスを見ながら答えるマーキュリー。
「ああ。・・・それ、ね」
やはり普段と違う彼女の様子を訝しんでジュピターは眉をひそめたが、敢えて何も言わずに彼女の求めに応じた。
ティーポットを収め、代わりにロック・グラスを取り出す。
氷の塊を落とし、四角いボトルから琥珀色の液体をほんの少しだけ注ぐ。
自分と全く同じならこれで作業は終わりだが、マーキュリーには内緒でさらに水を加えてかき混ぜる。元来アルコールが苦手な彼女のための、ほんのささやかな気遣いである。
「何か、つまむ? ウォール・ナッツくらいしか無いけど」
グラスを受け取りながら、マーキュリーはええ、と小さく首を傾ける。ジュピターは軽く笑んで、飲みかけのグラスを引き揚げてテーブルを拭いた。
「ああ、そんなに気を遣わなくても」
マーキュリーの制止に、いや、まあ、と曖昧な返事をするジュピター。
『さっきまでここに足を乗せてたから』とは、ちょっと言えない。
やがて自分のグラスにも同じ琥珀色の酒------ただし、こちらはストレートだが------を注いで、ジュピターはマーキュリーの隣りに腰を下ろした。
「・・・また、増えたのね、鉢植え」
先に話題を提供したのはマーキュリーの方だった。
そう言ってグラスの中身を一口、含む。からん、と氷塊が涼しげな音を立てた。
「うん、ああ、株分けしたんだ、そこに置いてあったやつ。鉢一杯になって窮屈そうだったから」
提供された話題に、ジュピターも乗る。同じように、酒を一口喉に流し込んだ。
「よく気がついたね。これだけ鉢があったら、どれがどれだかわかんなくならない? 毎日見てるあたしだって時々わかんなくなるのに」
「・・・ジュピターでも、そんなことがあるの?」
マーキュリーが笑った。ここに来てから恐らく初めての、本当に愉快そうな笑顔。
「なるなる。そこの株分けした奴だって、あたしはすっかり忘れてて。気がついた時には株の周りじゅうもこもこに子株が付いて、鉢がぶっ壊れてたんだから」
「鉢が? 壊れて?」
「そう。植物って、強いんだよ。根がどんどん大きくなって小さな鉢の中で行き場が無くなると、こう、ぱかっ! とね。もちろん、そうならないような頑丈な鉢を作ることもできるけど、だからって植物の方は大きくなるのをやめることはできないからね。だから、そういう時は鉢の方が壊れてやる方がいいんだ」
「ふぅん・・・本当に、強いのね」
身振り手振りを交えたジュピターの話に、マーキュリーは感慨深げに改めて鉢植え達を眺める。
「まあ、そうなる前に植え替えるのが普通だけどさ。よかったら、一つ持って帰る?」
「・・・いいの?」
「いいよ。一つといわず、二つでも三つでも。ほんとに売りに行くほどあるんだから」
肩をすくめるジュピター。マーキュリーは笑って、そうね、と答えた。
「水もそんなに頻繁にやらなくていいし、陽の当たるところに置いてやれば勝手にどんどん大きくなるからね、簡単でいいよ。来年には花芽も出て綺麗に咲くだろうし、二、三年もすればそれこそ子株でもこもこになる位に大きくなるよ。その時は、あたしがまた株分けしたげるからさ」
「二、三年・・・ね」
不意に、マーキュリーの声が沈んだものになる。
「そうね・・・その時には、お願いするわ」
努めて明るく言う彼女が僅かに見せた暗い翳りを、ジュピターは見逃さなかった。
「------マーキュリー」
彼女の膝にそっと手を置き、真剣な面持ちで覗き込む。
「あたし、何か悪いことでも言ったかな」
「え・・・?」
マーキュリーは一瞬ふいと視線を外し、やがて困惑したような苦笑を浮かべて向き直った。
「・・・ううん、何も。・・・・・・どうして?」
「だって------今。泣きそうな顔、してたよ」
その頬を、ジュピターの手が包み込んだ。
長い指先が柔らかに髪を払い、翡翠の色の瞳が愛しげに見つめる。
マーキュリーは頬に添えられた手に自分の手を重ね、気のせいよ、と呟いて目を伏せた。
「そう・・・それなら、いいけど」
ジュピターも敢えてそれ以上は訊かず、ただ黙って彼女の額に口づける。
閉じられた瞼に、頬に。抱き寄せて、耳元に、唇に。
彼女の指先が、手探りで肩に縋る。
回した腕に力を込めるジュピター。口づけが深いものに変わった。
弓のようにしなる、細い背中。
息をつくほんの一瞬をも惜しむように、貪る唇。
重なり合って、ソファーに沈む二人の躰。
甘い痛みを覚えるまでに、絡めあう舌。
「・・・・・・・・・ぅん・・・・・・」
少し苦しげに、マーキュリーがくぐもった声を洩らす。
「・・・・・・明日は、早いの?」
ジュピターは彼女の耳元に口を寄せ、吐息混じりに囁いた。
「ぅん・・・・・・でも------」
途切れがちに答える小さな声。細い腕が、ジュピターの背に回される。
「いいの・・・気にしないで」
------また。
ジュピターは彼女の態度に一抹の違和感を覚えつつ、
「・・・こうなるのがわかってたら、ベッドルーム、掃除したのにな」
冗談めかしてそう言うと、彼女の華奢な体を抱き上げた。
* * *
「・・・ジュピター・・・」
ぐったりと枕に顔を埋めたまま、マーキュリーがぽつりと話しかけた。
「うん?」
「何も・・・訊かないの」
哀願するでも責めるでもなく、彼女は虚ろな声で問う。
薄闇に白く浮かぶその柔らかな背中のラインが、酷く儚げに映った。
「・・・訊いて、ほしかった?」
ジュピターは彼女の顔を覗き込む仕草で、そう問い返す。
「訊いたら------答えて、くれるの?」
無言のマーキュリー。
ジュピターの伸ばした手が髪を撫で、肩へと滑り落ちる。
「訊けば困らせるかと思って、訊かなかったけど。逆・・・だったかな」
「・・・ううん・・・」
マーキュリーは小さくかぶりを振った。
身動きにあわせて、シーツの衣擦れの微かな音。
それ以外は何もない、静寂。
「・・・マーキュリー?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
微かに、ごめんなさい、と聞こえた気がした。
ジュピターは小さな溜息を一つつくと、身体をずらし、覆い被さるようにマーキュリーの背中を抱きすくめた。露になっていた肌はしっとりと冷えている。
「マーキュリー」
呼ばれたその名の柔らかな音が、彼女の耳に甘く響いた。
自分の名をこんな風に呼べる人を、彼女は他に知らない。
「・・・愛してる」
そして、そのたった一言で、こんなにも安らぎを与えてくれる人を。
「何があったのかは、知らないけど------何時だって、どんな事があったって、変わらない。
あたしは、マーキュリーのことを愛してる・・・これだけは、忘れないでよ」
ジュピターもそれきり黙ってしまった。
互いの息づかいの規則正しさと肌の温もりの心地よさに、二人目を閉じる。
「・・・ジュピター」
やがてマーキュリーは枕に埋まっていた顔を上げた。うん、と答えてジュピターも彼女の身動きにあわせて腕を緩める。
「本当に・・・?」
伏し目がちの瞳がほんの一瞬、ジュピターのそれと出会った。
「うん?」
「・・・本当に、どんな事が、あっても・・・?」
震えるような問いに、ジュピターはふいと表情を和らげた。腕を差し伸べ、俯き加減の小さな頭に手枕を添える。
「愛してるよ。本当に、どんな事が、あっても。
あたしの命がある限り------この心臓が止まる、最期の最後まで」
「・・・・・・・・・私も・・・」
そう言って頷くマーキュリーの瞳から、涙が玉を結んでこぼれ落ちた。
ジュピターは彼女の濡れた頬を指先で丁寧に拭う。それでも溢れる熱い滴は、唇で。
「ねえ------教えて、くれないかな。一体、何があったのか」
優しい翡翠の瞳が蒼い瞳を覗き込む。
その奥は、深い憂いを湛えた底の見えない淵。
「・・・・・・・・・ごめんなさい、それは------」
「------いいよ」
沈んだ口調で絞り出すマーキュリーの言葉を、ジュピターは努めて軽く遮った。
「いいんだ、気にしないで。
その代わり、いつか時が来たら。その時は、話してくれるかい?」
無言で頷く彼女の髪が、左腕の手枕を優しく撫でる。
「じゃあ。何か、他にあたしにできること、あるかな」
問われてマーキュリーは、ジュピターの肩口に顔を埋めたまま、細い腕をその背中に回した。
「・・・・・・側に、いて------抱き締めて」
決して多くを望まぬ彼女が、縋るように口にした願いを、ジュピターはすぐに聞き届けた。
小さな背中を腕の中に収め、強く引き寄せ、髪に頬を埋める。
ただ無言のまま抱き合い、互いのぬくもりで肌を温め、互いの気配で胸を満たす。
まんじりともせず、胸の鼓動と静かな息づかいに耳を傾けた。
「・・・ジュピター・・・」
やがて、マーキュリーが囁くようにその名を呼んだ。
「何か、話して、聞かせて」
「・・・何か、って?」
「なんでもいいの。昔話でも、お伽話でも・・・ただ、あなたの声、聞いていたい」
いつになく素直に口に出される彼女の思いを、ジュピターは少しくすぐったく聞いた。
「そうだな・・・まだ話してないことなんて、あったかな、昔の話------」
そうして、ぽつり、ぽつりと語りはじめる。
優しい夜の空気が、彼女に癒しを与えてくれることを祈って。
そして願わくば、自分の存在が彼女にとって救いとなることを。
−−−Tender Is the Night・終
初出:『Sweet-Sweet』(1999年9月)
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