† 瞳に約束 †

深森 薫

 

「亜美ちゃん」
 不意に、後ろから呼び止める声。
 亜美はびくりと肩を跳ね上げ、靴紐を結ぶ手を止めた。
「どこ行くのさ、こんな夜中に」
 その声は、亜美のよく知っている声だった。彼女は突然走り出した胸の動悸を抑えるように深呼吸を一つして、ゆっくりと首を巡らした。
「それも、一人で」
 そこにはまことが寝間着がわりのTシャツ姿で、いかにも寝起きです、といった風で立っていた。決して不機嫌そうなわけではないが、驚いたような、訝しむような、何とも言えない複雑な表情で亜美を見おろしている。
 亜美は悪戯を見とがめられた子どものように、困ったような照れ笑いを浮かべて答えた。
「えぇと・・・・・・星を、見ようと思って」

 

 真鍮製のレトロな丸ノブをあしらった玄関ドアを、階上で眠る仲間達の夢路を妨げぬようそっと閉じ、亜美とまことは夜の散歩に繰り出した。別荘もまばらな穴場中の穴場の避暑地に街灯などあるはずもなく、頼りはほのかな星明かりと小さな懐中電灯一本だけ。ちょっとした冒険気分である。
 季節は、夏休みも中盤。真夏とはいえ暦の上ではもう秋で、路傍の草むらからは虫の音もちらちらと聞こえてくる。高原の夜の空気は寝惚けた頬をひんやりと撫でていくようで、半袖の腕には少々寒いくらい。
「・・・でも、さあ」
 息をひそめて二人抜け出した別荘が並木の陰に隠れた頃、まことはやっと安心したようにふうと大きく息をついた。
「亜美ちゃんも水くさいよな。何だっけ、その、ペルシャ猫流星群・・・?」
「ペルセウス流星群。ペ・ル・セ・ウ・ス」
 亜美は愉快そうにくすりと笑い、訂正する。
「そうそう、その、ペ・ル・セ・ウ・ス・流星群」
 まことも亜美の口調を真似て軽く笑う。
「そんな面白そうなこと、何で黙ってたのさ。言ってくれれば、あたしも最初から付き合ったのに。みんなだって、誘えば一緒に見たい、って言ってたと思うけど」
「うん・・・でも、流星群って、別に流れ星が雨みたいに降り注ぐとか、そんな派手な物じゃないし」
「え。−−−違うの?」
「ほら、やっぱり、まこちゃんもそう思ってた」
 悪戯っぽく咎める亜美。まことはばつ悪そうに苦笑ぽりぽりと頬を掻いた。
「一時間に五、六十、っていうから、一分で一個ってところかしら。普通よりたくさん流れ星が見える、っていう程度ね。だから、連れ出してもきっとみんな期待が外れてがっかりすると思ったの。それに、私も実際に見るのは今日が初めてだし、本当に見えるかどうか、自信はないの」
「・・・大丈夫だよ、あたしはこうやって二人で夜の散歩できるだけで、得した気分」
 屈託のないまことの笑顔に、亜美の気持ちも軽く浮き上がる。
「でも−−−よかった」
 亜美はそう言って天を仰いだ。針葉樹の並木の間から覗く小さな空には、東京で見るよりもはるかに沢山の星が輝いている。
「何が?」
「ほんと言うとね、こんな夜中に一人で外に出るの、心細かったの。だから、まこちゃんがついて来てくれて、よかった」
「ふぅん・・・」
 まことはどこか気のない、醒めた返事をした。
 予想外の反応に、亜美は少し不安げにまことの横顔を見上げる。
「・・・それって、さぁ。
 一人でなけりゃ、誰でもよかったってこと?」
 やがて、ジーンズのポケットに手を突っ込んだまま、拗ねた口調でまことが訊いた。
 彼女の態度にやっと合点のいった亜美は、気取られないようにふいと笑んでまことの腕を取った。
「まさか。
 まこちゃんだから、良かったの」

 

 やがて、道の両側を囲む木々の列が途切れた。遥か遠い山々の稜線が天と地の境界線を成し、天にひしめく星の明かりが地上の闇を薄めている。足元から伸びる白い乾いた土の道の両側には、黒々とした草原が緩やかな起伏を描いて広がっていた。
「わあ。凄い、星が」
 まことは空を仰いで感嘆の声を上げた。
「ほんと。東京で見るより、ずっと・・・」
 亜美も一緒に空を見上げる。都会のビル街のように遮る物のない空は圧倒的な広さで、その隅々までが星の輝きで埋め尽くされていた。暗闇に慣れるにつれ、目に見える星の数は増えてゆく。
「そうだね、東京なんかよりずっと−−−」
 くるくると回る動きに合わせて、星の海も渦を巻く。
「わっ」
 留守になった足元が道を外れた。まことは長い腕をわたわたと振って踏ん張るが、健闘も空しくバランスを崩して草の中に転がった。
「まこちゃん!」
「・・・んー・・・大丈夫、草がふかふかで気持ちいい。亜美ちゃんも転がってみなよ」
 すぐに駆け寄る亜美に、まことは呑気に答える。
 促されて彼女もまことの隣りに腰を下ろし、夏草に背中を預けた。
「・・・本当、気持ちいい」
「だろ? 星もよく見えるし、さ」
 満足げな彼女の声に、まことも悦に入る。
 と、
「あっ」
 二人の視界の端で、ひしめく星の一つがすうっ、と尾を引いて流れた。
「今の、あれ、ペ・・・ルセウス、流星群?」
 辛うじて口を突いて出てくる『ペルセウス』の名前。
「ええ。あの山の、すぐ上の辺りがペルセウス座よ。天の川の中だから、ちょっと分かりにくいけど」
 東の空を指差して、亜美。
 その指の先でまた一つ、小さな星が流れる。
「あ、また。・・・へえ、本当だ、流れ星、もう二つも」
 歓声を上げるまこと。二人は草原に手足を伸べ、頭を寄せて流れる星を数えた。

 

「まこちゃん」
「・・・うん?」
 英雄ペルセウスの姿が地平を離れた頃、流れ星に飽きたまことは黙ってただぼんやりと空を眺めていた。
「よかった。寝ちゃったのかと、思った」
 夏とはいえ、高原の夜は秋を思わせる涼しさである。薄着のままこんな所で眠ってしまえば風邪をひくに決まっている。亜美の心配ももっともだった。
「起きてるよ。
 ね、亜美ちゃん、あのすっごく明るいの、なんて星?」
 南の空を指さしながら、無邪気な子どものように尋ねるまこと。一面にちりばめられた星々の中で一際大きく、揺らぎもせず明るく輝く星が一つ。
 亜美は少し考えて、
「・・・まこちゃんのよく知ってる星よ?」
 語尾を上げて思わせぶりにそう言った。
「? 北斗七星!・・・は柄杓の形だっけ・・・うー・・・」
「いつも呼んでるじゃない。『嵐を起こせ』って」
「あ。木星!」
「当たり」
 思わず答えを叫ぶまことに、笑みをこぼす亜美。
「へえ、木星かあ、あれが・・・そうなんだ」
 木星の力強い光は勇猛な戦いぶりが身上の守護戦士にふさわしいものである。夜空を飾るどの星よりも明るく輝くその星を、まことは感慨深げにしげしげと眺めた。
「ねえ。じゃあさ、水星はどれ?」
「・・・・・・水星は、ここには出てないわ」
 亜美は申し訳なさそうにまことの問いに答えた−−−今夜の空に水星が見えないのは、別に彼女のせいなどではないのだが。
「え。そうなの・・・なぁんだ」
 少し驚いたように、心なしかがっかりしたように、まことが呟く。
「うん、水星は太陽の一番近くを回ってるから、夕方陽が沈んだ直後か明け方の日の出直前の、ほんの短い間しか見られないの。また見える時を調べておくから、その時に一緒に見ましょ」
「そうだね、一緒に早起きして。−−−今度は、ちゃんと初めっから声かけてよね?」
 御機嫌をなおしたまことに、亜美は内心ほっとしながらええ、と頷いた。
 二人は再び黙って空を仰ぐ。星は音もなく輝き、風に揺れる草の葉のさざめきが地上を満たす。湿った夜風は夏服から露出した肌にひんやりと冷たい。
 まことは額に掛かる前髪をかき上げると、その手を天に向かって差し伸べた。無数の小さな光点に埋め尽くされた空に、かざした掌が影を作る。
「何だか、さ・・・こうしてると、あたし達、宇宙の中に浮いてるみたい」
「そうね・・・私達が居るのも、これだけある星の中の一つに過ぎないのね。別の星から見たら、この地球もあんな風に−−−小さな光にしか見えないわ、きっと」
 亜美も風に乱れた髪を手で梳いて、星空に思いを巡らせた。
「そうだね・・・ねえ・・・亜美ちゃん、木星からも、水星って、見えるのかな」
 少し考えて、まことは願うように訊ねた。
「・・・分からないわ」
 亜美の答えはその願いに応えるものではなかった。
「水星と木星の間はとても遠くて、水星はとても小さな星だから−−−でも、木星は大きな星だから、水星からなら、木星のことは見えると思う」
 彼女の言葉を聞きながら黙って中空に輝く守護星を見つめていたまことは、やがて
「・・・そんなに・・・遠いの?」
 低くそう呟いて、ゆっくりと起きあがった。
 つられて身を起こした亜美と、視線が出会う。
「じゃあ。もし、前世みたいにそれぞれの星に生まれてたら−−−そんな風に、離ればなれになってたのかな・・・お互いの星も見えないような、そんな、遠くに」
 仄かな星明かりの作る微妙な陰影が、悪夢に怯える子どものような表情を浮かび上がらせる。亜美は何も言わず、草の上に置かれたまことの手の上に自分の手を重ねた。
 掌を返し、その手を強く握り返すまこと。
「それだけじゃない。星は他にも、こんなに沢山−−−数え切れないくらい、あるんだよ? 次に生まれ変わる時は、もしかしたら別々の星かもしれない・・・ううん、同じ星に生まれることの方が、難しいんじゃないか、って−−−」
 自分よりもひとまわり小さな手をしっかりと握り締め、滑るように亜美の側に寄り添ってその肩を引き寄せて、
「まこちゃん・・・?」
 驚いたように軽く身もがく彼女を少し強引に、背中から抱きすくめた。
「そう思ったら、すごく怖くなって・・・そんなこと、考えるなんて、変かな」
 冷えた体にお互いの温もりは心地よく、闇の中で見つけたたった一つの明かりのような安らぎを与える。亜美は大人しく背中を預け、俯き加減で首を横に振った。
「ううん・・・そんなこと、ないわ。でも−−−」
「でも?」
 その先を促すように繰り返すまこと。
「ごめんなさい・・・まこちゃんが不安がるのを、嬉しいと思ってる、私」
 胸元で交差する腕にそっと触れながら、亜美。
「そんな風に・・・離れたくない、って−−−傍にいたい、って、思ってくれてるのが・・・」
 抱き締める腕の力がふいと抜ける。コットンの白いシャツに包まれた薄い肩越しに、振り仰ぐ亜美と覗き込むまことの目が合った。
「想われてるのが、嬉しくて・・・ごめんなさい」
「そんなこと・・・それより、『それがどうしたの』とか『私は別に?』とか言われたら、どうしようかと思った」
 まことはそう言って、繰り返す懺悔の言葉を遮るように彼女の目元に口づける。頬を伝い、口元へ、触れる唇の感触に亜美はゆっくりと眼を閉じた。
「そんな−−−」
 重なる唇がその先の言葉を封じ込める。抱き合う腕に再び力が込もりはじめると次第に草原を渡る風の音は遠ざかり、縋るものを求めて背中を探り合う衣擦れの音と、深くなるキスの音だけが瞼に閉ざされた世界を満たしてゆく。
「ん・・・・・・ふ・・・」
 少し苦しげな息づかいとともに、離れては再び求めあう。浮遊感の中で交錯する、快楽と、幸福感と、一抹の罪悪感。
 それら全ての混じり合った複雑な感情を存分に味わった頃、どちらからともなく唇を離す。手足の先にまだ宙を漂うような感覚を残したまま抱き合う二人の周囲で、再び風が舞い始めた。
「・・・・・・丈夫−−−」
「うん?」
 サマーセーターの胸に埋もれながら囁く亜美の言葉に、まことは耳を傾ける。
「大丈夫、こんど生まれ変わっても、私達はまた出会うわ。また、同じ使命の許に」
「うん・・・・・・」
 そうだね、と呟いて、まことは抱き締める腕に力を込めた。
 と、不意に亜美が肩を強張らせ、
  くしゅん!
 小さなくしゃみを一つ。
「寒い?」
「・・・う・・・ん、少し」
 優しく問うまことに、亜美はためらいがちに答える−−−その返事が、自分の望まぬ言葉をまことの口から引き出すことになると知って。
「そろそろ、戻ろうか?」
 嫌、と答えたかったが、そう言えば心配をかけてしまう。冷えた背中を撫でる掌の暖かさを感じながら、『風邪ひくよ』と忠告するまことの困惑顔を思い浮かべた。
「・・・そう、ね」
 腕を解いて立ち上がるまことに従って、亜美も立ち上がる。薄いシャツ一枚で出掛けてきてしまったことを少し悔やんだ。
「こんな薄着で、風邪ひいちゃうよ?」
 肩を寄せながら、まことが言う。予想通りのセリフに、可笑しさと嬉しさがこみ上げた。

  

 夜の空は、夏の星座から秋の星座へと塗り換えられようとしていた。中空に掛かるペルセウス座が天頂へと登り詰める頃にはもう、夜明けがやってくるだろう。
 かつてその星々がペルセウス座と呼ばれるよりも遥か昔に出逢った二人は、今再び出逢って同じ星空を見上げる。そしてまた生まれ変わった次の時代、願わくばもう一度抱きあって同じ星空を見上げられるように。
 二人は同じ祈りを胸に、肩を並べて帰途についた。

  

−−−瞳に約束・終

初出:『メインテーマ』 (発行・いかづち屋 2000年8月13日)
※この本についての問い合わせは、サークル「いかづち屋」主宰の鷹戸ちあき氏に直接お願いします。
ちなみに、深森が聞いたところでは現在在庫有りだそうです。

  


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