予感のスコール

深森 薫

  

 ほんの少し前まで澄んだ青色だった空を、たちまちのうちに鉛色の雲が埋め尽くし。
 遠くさざめきのように聞こえる雨音は次第に近くなり、やがて辺り一帯を包み込むと同時に大粒の雨が頬を打った。雨足が強くなるにつれてきめの細かい乾いた砂はみるみる色を変えてゆく。
 急に降り出した雨に、あちこちで逃げまどう人影。その中に、スーパーマーケットのビニール袋を手に走るまことと亜美の姿もあった。海水浴場から少し外れた砂浜は他に人影もなく、聞こえるのは激しさを増す雨音だけで。視界を遮る雨水を時折手のひらで拭いながら、二人はひた走り。
 やがて、浜辺の隅にひっそりと立つちいさな小屋が目に留まると、どちらともなくそちらを指さし、その軒下に駆け込んだ。
「・・・ごめんなさい・・・浜辺を回って帰ろう、なんて・・・私が、言ったから」
 肩で息をしながら、亜美。前髪の先から、水が足元にぽたぽたと滴り落ちる。
「まっすぐ帰ってれば、今頃、とっくに、別荘に着いてたのに」
「仕方ないよ。カエルじゃあるまいし、雨が降るかどうか、なんて」
 分かるわけないよ、と息を弾ませながら答えて、まことは買い物袋の中を覗き込んだ。
「よかった。随分振り回したから、卵、潰れちゃったかと思った。・・・だいたい、こんな海辺のリゾートに来てまで、うさぎちゃんが『まこちゃんのパウンドケーキ食べたいっ!』なーんて言うから」
 そう言ってころころと笑うまこと。そうね、と亜美もつられて笑った。
「・・・止むかなぁ。雨」
「さあ・・・夕立なら、そのうち止むとは思うけど----」
 そう言って二人が空を見上げたその時。
 天頂で、白い光が鉛色の空を真っ二つに割いたかと思うと。
 地を揺るがすような轟音が身体の芯を揺さぶった。
「わ」
「きゃっ」
 思わず首をすくめる二人。雷鳴を合図に、雨音が一層激しさを増す。砂に打ちつける雨粒は霧になって舞い上がり、辺りを白く煙らせ、ひんやりとした感触が頬を包んだ。
「・・・今からが、本降りみたい」
「まいったなぁ・・・」
 まことは濡れた前髪をかき上げて、
「いっそ、このまま帰ろうか。ここまで濡れたら、もういくら濡れても一緒だし」
 タンクトップの上に羽織ったシャツの袖を、指で引っ張ってみた。ずぶ濡れのシャツは、手を放すとすぐにぴとりと腕に貼り付く。
「それはそう、だけど。卵・・・はいいけど、小麦粉が」
 亜美はそう言って、まことの手にある買い物袋に視線を落とした。小麦粉の袋は、紙である。天ぷら粉も片栗粉もホットケーキの粉も、おおよそ粉と名のつく物はビニールの袋に入っているものなのに、何故小麦粉は紙袋なのか。そんなことが、今日に限って恨めしかった。
「んー・・・仕方ない。もう少し待ってみようか-----」
 まことは溜息をついて、小屋の扉に背中を預けた。
 と。
   ぎぃ
 きしむような音をがして、扉が内側に向かって押し開けられる。
「わっ!?」
 まことは二、三歩たたらを踏んで、何とか転ばずにとどまった。
「・・・大丈夫?」
 うん、と答えて跋が悪そうに苦笑するまこと。
「まさか、開いてるとは思わなかったからさ」
 そう言って、小屋の中を見回す。板壁は上の方が格子になっていて、外の明かりを取り込むようになっているが、外の天気が荒れ模様の今は闇に目が慣れるまで時間がかかるほど暗かった。
「・・・船、かな?」
 真っ先に目に留まった巨大な物体を見て、まこと。大人の身長の三倍はあろうかというそれは、滑らかな流線型をしていた。
「ええ、ヨットみたいよ。ほら」
 亜美が指さした先には、綺麗に畳まれた大きな布のかたまり。おそらく帆布だろう。
 へぇ、と感心しながら、まことは船の腹を掌でぴたぴたと叩いてみた。大きさの割には軽そうな音が返ってくる。
「こんなのが自由に乗りこなせたりしたら、楽しいだろうね」
「そうね-----っ」
 答える言葉をかき消すように、閃光とともに雷鳴が響く。足下が崩れるような錯覚を覚えるほどの轟音に、亜美は思わず肩を跳ね上げた。
「・・・近いね」
 雷鳴の余韻に耳をすましながら、まこと。亜美はそうね、と呟いて小さく息を吐いた。
「怖い?」
「ううん。そう、でもないけど・・・突然だと、やっぱり、びっくりするわ」
 微苦笑しながら、亜美。
「まこちゃんは・・・・・・あ」
 亜美は言いかけて、それが愚問だということに気付く。
「うん。怖いと思ったことは、ないよ。一度も」
 まことはくすりと笑って、鉛色の空を見上げた。
「小さい頃から、『怖くないの?』なんて、びっくりしたように訊かれてさ。あたしは逆に、なんでみんながそんなに怖がるのか不思議だったけど」
 薄暗いボートハウスは、屋根を打つ雨音が満ちていた。その中で亜美はまことの声だけにじっと耳を傾けた。
「父さんがよく『まことは雷さまの子だな』なんて冗談言って。子ども心に、それが何だか『俺たちの子じゃない』って言われてるみたいな気がしてさ。その度にあたしは『違うもん』って一生懸命言ったけど・・・今思えば、結構当たってたんだよね、それ」
 そう言って笑うまことの表情はどこか寂しげで、亜美は何も言えずその横顔をただ見つめる他になかった。
「-----やまないね。雨」
 言葉に窮した亜美を見て、まことは話題を変えた。
「・・・そうね」
 少しほっとしたように頷いた亜美は、不意に自分の腕を抱いてぶるっ、と身体を震わせた。
「寒い?」
「あ、うん・・・少し」
 でも大丈夫、と亜美は小さく首を振った。
「やっぱり、帰ろうか?」
「ん・・・」
 曖昧に微苦笑する亜美。口ではうんと言いながら本心は別にあるような時、彼女はこういう表情をする。
「・・・どうか、した?」
 それを気取って、まことが問いただす。
「・・・まだ、降ってるもの。雨」
「それは。そうだけど」
 当惑顔のまこと。亜美の本心が別にあることは分かっても、それが何処にあるかまでは解りかねた。
 沈黙があって。
「・・・まこちゃんは・・・」
 亜美がゆっくりと口を開き。
「・・・帰りたいの?」
 少し上目遣いに、まことの顔を見上げた。
「え」
 意味ありげな視線の不意打ちに、まことの心臓が跳ねる。
「・・・いや」
 今度の謎かけは、一瞬で解けた。
 まことは辺りを見回すと、持っていた買い物袋を手頃な棚にぽん、と置いた。
「パウンドケーキなんて、すぐ焼けるしね」
 三たび辺りに閃光が走り、雷鳴が轟く。その間に、亜美の身体はまことの腕の中に収まっていた。
 ずぶ濡れて身体にぴったりと貼り付いた服は、布の風合いをすっかり失い、素肌を直に重ねているようで。
 濡れた髪は洗い髪の艶めかしさにも似て。
 心臓は早鐘のように激しく高鳴る。
  ばんっ!
 不意に、強い風に吸い寄せられ、扉が大きな音を立てて閉まった。
 大きな音に思わずびくりと身をすくめる亜美。
「・・・ほら」
 腕の中の亜美を覗き込んで、まことはくすくすと笑う。
「風も、結構気が利いてる」
 亜美もくすりと笑って応えた。暗くなった小屋の中、僅かに射し込む明かりに、白い服とお互いの瞳だけがはっきりと浮かび上がる。まことの手が頬に添えられると、亜美はゆるりと目を閉じた。
 重なる、唇。それからまたゆっくりと離れ、再び触れあう。
 触れては離れ、離れては触れ。啄むように繰り返されるキス。
 まことの首に、亜美の腰に。しっかりと、絡みつくように回される互いの腕。
 触れるだけの口づけはやがて、深いものに変わる。はじめは少し遠慮がちに。
 しだいに、より深く、大胆に。
 深いキスのもたらす快感と濡れた布越しに伝わる素肌の感触に、冷え切った筈の身体は熱を帯びはじめ。
 屋根板を打ち鳴らす雨音も、轟く雷鳴も、仲間達の輪を二人外れて抜け駆ける一抹の背徳感も、何もかもが目眩の中に溶けて。
 ただ唇を、舌を貪る音と、合間に漏れる切なげな溜息だけが湿った闇を満たし続けた。

 

 まことの首を抱きしめていた、亜美の両手がするりと抜けて、肩へと落ちる。
「・・・だいじょうぶ?」
 吐息に乗せて、まことが囁く。亜美は小さく頷いて、重ねた頬越しにうん、と答えた。
「立ってられなくなったら------教えて」
 まことはそう言って、足元のおぼつかない亜美の、腰をぐい、と引き寄せた。
 応えるように反らされる、おとがいから首筋への滑らかな曲線を、唇で辿る。
 白い喉に、痕を残す寸前まで与えられる柔らかな刺激。舌の愛撫と交互に繰り返されるそれに、亜美の背中がふると震え、唇からは甘い吐息が漏れた。
「まこちゃ------」
「うん?」
 言葉では答えを促しながら、愛撫の手は休めないで。
「何?」
 わざと唇を喉に押し当てたまま、返事をする。その微妙な振動も、感度を増した肌には十分刺激的だと知っていて。
「ん、もう------ぁ」
 亜美の膝が、今にも力が抜けそうに震える。
「ん」
 まことはふ、と笑って唇を離した。
  がたんっ!
 その時、閉まっていた扉が、何の前触れもなく突然に開いた。
「!」
 思わず身を固くして、振り返る二人。開いた戸口に人影はなく、ただ扉がぎしぎしと風に揺れているに過ぎなかった。雨は少し小降りになっていた。
「・・・あは」
 その様子をしばらく呆然と見つめていた二人は、やがて顔を見あわせ、どちらからともなくくすくすと笑いはじめた。先刻までふつふつとたぎっていた欲望も艶めいた熱情も、どこかへ消し飛んでしまっていた。
「だあれ? 気が利いてる、なんて言ったの」
 亜美がまことを見上げる。
「・・・しまったなぁ」
 まことはぽりぽりと頭を掻き、
「いつもはちゃんと鍵、確かめるのに」
 今日に限って、と肩をすくめた。
「止みそうね。雨」
 遠くの空は既に、暗い鉛色から明るいクリーム色へと変わり始めている。
「そうだね」
 激しい雨音の代わりに、ゆったりとした波音が耳に心地よく響き。
「・・・帰ろっか」
 仕方ないな、という風に溜息をついて、まこと。亜美もそうね、と頷いた。
「------まこちゃん、小麦粉」
 そのまま歩き出そうとするまことを亜美が引き留める。
「あ、さんきゅ」
 まことは、差し出された買い物袋を受け取りながら、
「置き忘れたりしたら、言い訳が大変------っ」
 言いかけて、くしゅん、とくしゃみを一つ。
「大丈夫?」
 亜美はくすりと笑ってまことの顔を覗き込んだ。
「早くお風呂にでも入らないと、風邪ひくわ」
「そだね・・・一緒に入ろうか、お風呂」
「・・・みんなも居るのよ?」
「みんなが居なきゃいいの?」
「・・・知らないっ」
 顔を赤くしてすたすたと歩き出す亜美の後を、慌ててまことが追った。
 雨はもうすっかり止んでいて、夕暮れ前の金色の太陽が、雨に洗われた風景を鮮やかな色に染めていた。
 夏はまだ半分を過ぎたばかりだった。

  

−−−予感のスコール・終

  


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