原始宇宙物理学概論

深森　薫

　あたしは、暇を持てあましていた。
「・・・本屋なんてさ、小さくてもでっかくてもあんまり変わんないんだな」
　十番街のはずれにでっかい本屋ができたってんで早速来てみたけれど、並んでるのはあたしには関係ない本ばっかりで、悪いけどあんまり面白いところじゃないね。あたしには今までの小さい本屋で十分みたいだ。結局、推理小説を一冊と『オレ○ジページ』の今月号だけ買ったら、もう用はなくなってしまった。
　ぷらぷらとあてもなく歩いているうちに、学術書のセクションに迷い込んでしまった。何だか、やたら難しそうな本が並んでいる。あたしは、別に見るともなく、棚いっぱいに並んだ本の背表紙を眺めていた。
　と、そのうちの一冊の上に目が止まる。
　『原始宇宙物理学概論』
　あたしは、そのタイトルに見覚えがあった。淡い水色のハードカバー、そんなに厚くない背表紙に細い古くさい明朝体で書かれた文字。あたしは思わず、その本を手に取った。
　確かに、この本だった。
　あれは夏休みのある日、みんなで買い物に行った時だった。あんまり暑いんで、例によってうさぎちゃんが疲れたって駄々こねて、本屋で涼んで行こうって事になったんだっけ。

「あー、レイちゃんばっかずるいぃ。あたしもそれ読みたーい」
「あぁぁるさいわねっ。マンガなんて他にもいくらでもあるでしょうがっっっ！」
「だってぇぇぇ。それって、こないだ出たばっかのやつでしょ。あたしも続きが気になるぅぅ」
　例によって例のごとく漫才を始める二人。美奈はアイドル雑誌に片っ端からチェックを入れまくっている。
　うぇ。あそこにある雑誌全部読む気だ。
　何にしても、当分みんなここを動きそうにない。あたしは文庫の小説を探して店の奥へと入っていった。
　文庫の棚の向こう、店の一番奥には、装丁のいい、高そうな本が並んでいた。フロアの薄暗い隅っこで、何年も置きっ放しになっているような本たち。
　げっっ。題名が漢字ばっか。きっと、こんな本買おうなんて奇特な奴はいないだろ・・・
　いや。
　いた。
　それも、あたしのよく知ってる人物。
　彼女は、いつもそうやっているように口元に手を当てて、一番上の棚をじっと眺めていた。そして、ついと棚の方へ足を踏み出して本に手をのばした。
　が。
　一番上の棚まであと五センチ、届かなかった。彼女は爪先立ちになって、思いきり手をのばすけれど、それでも、あと三センチ、足りなかった。しばらく彼女は名残惜しそうにその本の背を見つめていたが、そのうち諦めて、文庫のコーナーへと歩いてきた。
「亜美ちゃん。いい本、あった？」
　あたしはわざとそう聞いてみた、けれど。
「ううん」
　彼女は柔らかな笑みを浮かべて、あたしの予想とは全く違う言葉を返した。
「さっきの本、違うの？」
「え？」
　思わず訊いてしまった。
「さっき、取ろうとしてたやつ。一番上の段の。あれ、違うの？」
　彼女は何故かちょっと困ったような顔をして、言葉に詰まりながら答えた。
「あ・・・ううん、いい本、って訳じゃないんだけど。一寸気になっただけで」
「見たかったんじゃないのかい？」
「ううん、本当に、いいのよ、別に。ただどんな本かな、って思っただけだから」
　だああああああああっっっっっじれったいっっ！
「どれ？」
　あたしは、さっき彼女が眺めていた棚の方へと足を踏み出した。
「え？」
「さっき取ろうとしてたの、どれ？」
　彼女は、まだわけが分からないという顔でそこに突っ立っていた。
「え、でも・・・」
「いいから！　どれ？」
「あ、あの・・・水色の、ちょっと薄めの、背の高い・・・『原始宇宙物理学概論』って書いてある・・・」
　彼女は慌ててやっと答えを返すと、あたしの後ろを追ってきた。
「これ？」
「う・・・うん」
「ん。」
　造作のないことだった。何せあたしは彼女より十五センチは余計に丈があるんだから。目当ての本を取り出して彼女に手渡すけど、見れば見るほど、小難しそうな本だ。
「あ・・・ありがとう」
　どぎまぎする彼女。
「はじめっから言ってくれればよかったのに」
「うん・・・でも、何だか悪い気がして」
「そんな。この位どうってことないって。あたしにそんな遠慮はいらないよ」
　その時彼女の見せたはにかんだ笑顔を、あたしは今でも覚えている。

「・・・まこちゃん？」
　棚の陰から彼女が姿を現した。ふいに呼ばれて我に返る。あたしは、返事をしながら、『原始宇宙物理学概論』を元の棚に戻した。
「あ、ごめんなさい。邪魔、した？」
　しまった、というような顔をあからさまに見せる彼女。どうもまだ遠慮する癖が抜けきっていないらしい。
「いや、全然。・・・で、どこ？」
　彼女に導かれて行き着いた先は、宗教と哲学のセクションだった。相変わらず彼女の趣味の幅広いのには閉口する。
「一番上の、一番右のと、同じ棚の左側にある、緑色の背の高い本。・・・うん、それ。ありがとう」
　『ハイデッガー』に『現象のロゴス』
　・・・・・一体何の本だ、これ・・・
　怪訝な顔のあたしをよそに、彼女はぱらぱらと本のページをめくると、そのうちの一冊、現像のナントカの方をあたしに手渡した。
「あ、これ、ごめんね。それから、ついでにその隣の本、取ってくれる？」
　託された本を元の場所に返し、その隣の分厚いやつを彼女に渡す。十五センチの身長差はあの時以来代わっていない。あたしにはこんな事は何でもない。
「亜美ちゃんてさ、どうして、こう高いとこにある本ばっか読みたがるんだろうね」
「べ、別に、わざとじゃないのよ」
　あわてて、言い訳でもするように彼女は言った。
「ただ、面白そうだなって思う本がたまたま高いところにあるだけで」
「そりゃ、こんなカルトな本読みたがる奇特な奴なんて滅多にいないんだよ、きっと。それで上の方の棚に突っ込んであるのさ」
「・・・・・いいわよ、もう頼まないから」
　拗ねた仕草でぷいと背を向け歩き始める彼女。
「あー、冗談だってば」
「知らない」
「悪かったよ、もう、んなこと言わないからさ・・・」
　あたしは、その彼女の後を追って、レジへと向かった。

−−−原始宇宙物理学概論・終

初出：『悪徳商法にご用心！』（1998年2月）