She Never Knows How Much I Love Her.
深森 薫
髪を弄られる感触に、目を覚ます。
髪を弄られたから目覚めたのか、目覚めたから髪を弄られている事に気付いたのか。本当のところどちらが先なのかは、わからないけれど。
暫くは、目を閉じたまま、その感触に意識を委ねる。
こんな時、もう少し梳き甲斐のある髪だとよかったのに、と、ふと思う。長くて、真っ直ぐな------例えば、マーズのような。
いっそ伸ばしてみようかしら、とも思うけれど、私の髪はたぶん、あんな風に真っ直ぐにはなってくれないだろう。それに、この短さに慣れてしまった今となっては、一寸髪が伸びただけですぐに鬱陶しくなって、切ってしまいたくなるに違いない。
とりあえず今のところ、髪が短くて梳き甲斐がない、という苦情を受けたことはないので、この件は流してしまおう。
「ん……」
小さな溜息とともに軽く身じろぐと、髪を弄っていた彼女の手が止まる。重い瞼を持ち上げると、彼女の鎖骨が、カーテン越しに射し込む光に浮かび上がって見えた。この明るさだと、このままもう一眠り、というわけにはいかないようだ。
「ふ……」
もう一度、眠りの精の名残を惜しむように深く息をついて、仰向けに寝返る。
「お早う」
少し身を起こし、彼女が私の顔を覗き込んだ。その仕草に合わせて、手枕が動く。
「うん……」
眠い目をこすりながら、虚ろに答える。
「随分お疲れだね。寝不足?」
からかうような笑みを浮かべて言う彼女は、もうすっかり目が覚めているようだ。
「そうね……誰かさんの所為で」
ちょっとだけ恨めしく見ながら、軽口で応えると、
「連帯責任じゃないの? むしろ、誘う方が罪深いと思うけど」
彼女は悪びれもせずそう言って、私の顔に唇を寄せる。
「……殊更誘った覚えはないのだけど」
「そ? じゃ、訂正。可愛いすぎるのが罪作り」
「…………ばか」
そう言ってそっぽを向いてしまうのは、事実上の敗北宣言。そんな恥ずかしい台詞を臆面もなく言ってのけられては、返す言葉がない。
彼女は愉快そうに喉の奥でくつくつと笑い、私の頬に軽く口づけを落とすと、
「さて。いい加減、起きないと。かな」
そう言って、軽く波打つ栗色の髪をかき上げた。
「……お先に、どうぞ」
「ん」
彼女の手が軽く肩を叩くのに促され、私は少しだけ頭をもたげた。彼女の腕枕がするりと抜けると、私はそのまま、今度は羽根枕に顔を半分埋める。彼女はのろのろと起き上がると、ベッドの端に腰掛け、うん、と軽く伸びをした。鍛え上げられ、均整のとれた後ろ姿。いつ見ても、彼女の躰は美しい。
------そこかしこに残る、古い傷の跡さえも。
中でも一際大きな傷跡が、しなやかに伸びる右腕の付け根、肩の辺りに、一筋。引き締まったウエストの、左脇のくびれた辺りに、もう一筋。癒えた傷を覆う新しい皮膚は周囲の肌のような滑らかさが無く、少し淡い色をしていた。それらの一つ一つが彼女の躰に刻まれた日のことを、私は今でも鮮明に憶えている。
------これからも彼女は、こんな傷を増やしてゆくのだろう。
そしていつか、その傷が、私から彼女を奪う日が来るのかもしれない。
勇猛な戦いぶりが身上の、木星の戦士。
それが宿命なのだと、十分すぎるほど解ってはいるけれど。
彼女は足下に脱ぎ捨てられたバスローブを拾い上げ、まだ少し気怠さの残る様子で立ち上がった。
「ん、何?」
私の視線を感じたのか、彼女はこちらを振り返った。
「一緒に入る?」
お得意のからかうような笑顔に、私は無言で首を横に振った。
「そりゃ残念」
さして残念そうでもなく、戯けたように肩をすくめて見せると、彼女は寝室のドアの向こうへ消えた。ほどなくして、シャワーの音が微かに聞こえ始める。
私はもう一度、目を閉じた。
こんな風に、何でもない事のように、彼女の腕の中で眠り、朝を迎えることが、いつまで続けられるのだろう。この日常を、もしも失ってしまったなら、私は一体どうなってしまうのだろう。その時のことを考える、それだけでも、私は狂ってしまいそうになるというのに。
シャワーの音は、続いている。
人の気も知らないで。
彼女は、知らない。
私がどれだけ彼女を愛しているか。
彼女は、知らない。
* * *
朝。
眠りの淵から浮かび上がって、まず最初にするのは、指先を動かしてみること。ちゃんと動いたなら、ああ、あたしは今日も生きているんだ、と感じられる。
妖魔との命のやりとり------今のところは取るばかりで、くれてやった事はまだ一度もないが------に明け暮れる日々、こうして生きていられるというのは、有り難いことだと思う。
瞼を開くと、カーテンの隙間から射し込む光が眩しくて、思わず右手で目を隠す。左手を動かさないのは、もう習慣といっていい。
隣で眠る彼女の、頭がそこに載っているから。
彼女を揺り起こさないように、左腕を動かさないように、体を返してその寝顔を覗き込む。彼女は右肩を下にして、横向きで眠っている。彼女の重症の肩凝りの原因は、この姿勢なんじゃないかとあたしは思うのだけど、どうだろう。
華奢な二の腕、薄い肩、細い背中。そして、それらに釣り合った、小さな頭。この小さな頭が、王国の屋台骨を支えている、そう思うと、純粋に凄いと尊敬する一方で、少し痛々しい気がした。
------なんて。
実際のところ、あたしにそんな心配をされなきゃならない程、彼女は弱くはないのだけれど。
肩に触れると、滑らかな肌が掌に吸い付くような感触。少し冷えているように感じられ、上掛けを引き上げて覆った。
まだ、目覚める様子はない。
肩から髪へと、手を滑らせる。
その短い髪を、梳いてみたり、指に巻き付けてみたり。弄ってはみるけれど、彼女の髪は、絡みつくこともなく、すぐに指の間から滑り落ちてゆく。
一見柔らかそうで、実は結構コシがあって、癖もあって、かなり頑固。
……まるで、彼女自身じゃないか。
じゃあ、あたしの髪は?
------癖はあるけど、案外扱いやすい。すぐ絡む。
名は体を表す、というけど、髪がその人を表す、というのは、我ながら大発見かもしれない……不本意だけどね。
とりとめもなく思いを巡らしながら、その髪に顔を埋めてみた。大きく息を吸い込んで、目を閉じて、彼女の香りに酔いしれる。
「ん……」
やがて、吐息とともに、腕の中の彼女がもぞもぞと動いた。
どうやら、お目覚めは近いようだ。
「ふ……」
もう一度、今度は大きく深く呼吸して、仰向けに寝返る。
「お早う」
あたしは少し身を起こし、彼女の顔を上から見下ろした。目が覚めてしまったなら、もう、少しくらい揺り動かしたって構やしない。
「うん……」
彼女は腕で顔を隠したまま、暫く寝起きの悪い駄々っ子のように粘っている。
「随分お疲れだね。寝不足?」
その寝不足の主な原因が他ならぬ自分だと、もちろん分かった上で、あたしはわざと問うてみた。
「そうね……誰かさんの所為で」
彼女は顔を隠す手をずらし、その隙間から軽く睨め付ける。
「連帯責任じゃないの? むしろ、誘う方が罪深いと思うけど」
あたしはやりと笑ってそう答え、彼女の顔を覗き込み。
「……殊更誘った覚えはないのだけど」
彼女は少しだけ憮然としたように言った。
------貴女は、そうだろうね。
だけど、あたしには、貴女の全てが酷く蠱惑的に映るんだよ。
「そ? じゃ、訂正。可愛いすぎるのが罪作り」
「…………ばか」
彼女はそう言って、そっぽを向いてしまった。少女のような照れ隠しに、思わず笑みがこぼれる。あたしはその頬を追いかけて、軽く口づけを落とした。
「さて。いい加減、起きないと。かな」
もう少しいちゃついていたいけれど、このあたりが引き際だと思う。タイミングも、そして、もっと現実的に、時間の方も。
「……お先に、どうぞ」
「ん」
あっさりとした彼女の言葉に促され、左手で彼女の肩を軽くつついた。その合図に応えて彼女が少しだけ頭をもたげ、あたしは腕枕を引き抜く。彼女はまだ少し気怠そうに、羽根枕に顔を埋めた。
------そんなに------度が、過ぎたかな。昨夜。
自分の行いを省みながら、あたしはのろのろと起き上がり、ベッドの端に腰掛けて軽く伸びをした。そして、足下に転がっていたバスローブを拾って立ち上がる。プライベートな場所なんだから、どんな格好で歩いたって構いやしないのだが、折角あるなら羽織っていくことにしよう。
振り返ると、彼女が、こちらをじっと見つめていた。
言いたいことを胸に秘めたような、そんな瞳で。
「ん、何? ……一緒に入る?」
冗談めかして問うと、彼女は無言で首を横に振った。
「……そりゃ残念」
あたしは殊更大げさに肩をすくめ、寝室を出てバスルームへと向かった。
そんな風に茶化すばかりで、彼女の心に踏み込むことができない自分が、不甲斐ない。妖魔の群れの真っ直中に踏み込む方が、余程楽だと思う。
ほんの少し前まで、彼女は確かにこの腕の中にいたのに、彼女が何を考えているのか、その心がどこにあるのか、わからない。
どんな言葉を並べても、どんなに強く抱き締めても、心は一人で空回りしているようで。
どんなに深く口づけても、どんなに狂おしく肌を重ねても、この気持ちのひとかけらも伝わりはしない。
それでも、この心と体は彼女を求めずにはいられなくて、今日もあたしは彼女へと手を伸ばす。
彼女の心がどこにあるのかも、わからないのに。
−−−She Never Knows How Much I Love Her. 終
|