夢で逢えたら

深森 薫

  

「じゃあね」
「うん」「またね」
 火川神社での勉強会の帰り道。
 美奈子ちゃんとは十分ほど前にバス通りの交差点で別れた。そして今、最後の三叉路うさぎちゃんと別れる。ここからあたしのマンションは目と鼻の先だ。亜美ちゃんの家は更にこの先だけれど、今日は帰る所が一緒だから関係ない。
 時折振り返って手を振るうさぎちゃんの背中を見送って。
「貸して。持つよ」
 あたしは、隣で手を振る亜美ちゃんの肩からトートバッグを取り上げた。
「あ。そんな、大丈夫よ、これくらい」
「いいから。こういう時は一寸でも楽しないと」
 彼女のバッグはあたしのそれよりも随分と重い。ノートや問題集に、参考書と英和辞典と和英辞典のフル装備なのだから当然か。受験生の鑑だね。
「うん・・・ありがとう」
 ごめんなさいね、と言う彼女の言葉は吐息混じりで、歩く仕草もどこか気怠そうだ。
 辺りが暗くなるのに合わせて、街路灯が一斉に灯った。陽が落ちると昼間の残暑が嘘のようで、涼しいのを少し通り越して肌寒くすら感じる。これじゃ亜美ちゃんでなくても風邪をひく。
「レイちゃんは、気付いてたっぽいね」
「え?」
「亜美ちゃんが、具合悪いの」
 そうなの?と彼女は少し驚いた風に言った。普段は敏感な彼女も、今日は随分感度が落ちているようだ。
「うん。だから、自分からちょっかい出して、美奈子ちゃんとうさぎちゃん二人まとめて面倒見てくれてた」
「・・・そう」
「そう。厳しくしすぎて二人が亜美ちゃんに泣きついたりしないように、ずいぶん手加減してた・・・と、思うよ。レイちゃんにしてはね」
 お笑い芸人のような三人のやりとりを思い出して、彼女はくすりと笑った。彼女が言葉少なな分、あたしの方がつい饒舌になる。話すことがないならないで、黙って歩けばいいのだけれど。
「・・・ねえ」
 暫く歩いて、彼女がぽつりと言った。
「うん?」
「やっぱり私、帰ったほうが、いいかしら」
「何で?」
 言葉が短いぶん、きつい口調にならないよう気を遣いながら、あたしが問い返す。
「うちに泊まるの、嫌?」
「ううん。そんなことない、けど・・・こんな具合だし」
 小さくかぶりを振って、彼女。
「こんな具合だから尚更。お母さん、夜勤なんだろ? 誰もいない家に病人一人帰すなんて、とんでもない」
「でも。うつしたら、悪いわ」
「うつるんだったらもうとっくに移ってるよ。大丈夫、あたしその点頑丈だから」
 あたしはどん、と自分の胸を叩いて言った。
「けど・・・」
「どうしても亜美ちゃんが帰るっていうなら、それでもいいよ。そしたらあたしが亜美ちゃん家に押し掛けるだけだし」
 でもとかけどとか言っていた彼女も、あたしがそこまで言うと黙ってしまった。
「・・・ま、あたしが寝込んだら、今度は亜美ちゃんに看病して貰うのさ。そしたら思いっきり甘えるからね」
 戯けたようにそう言うと、彼女は少し困ったように、はにかんだように微笑んで、うん、と頷いた。

*      *      *

「ほい。熱計ってて」
 彼女をいつものクッションの上に座らせると、薬箱から体温計を取り出して手渡す。彼女が熱を計っている間に、あたしはクローゼットの奧から氷枕を引っ張り出した。
  ぴぴっ
 小さな電子音が、検温の終了を告げる。
「どう?」
「七度九分」
「どれ」
 彼女の後ろに膝をついて、その額に掌を当てる。抱きすくめた背中が熱い。
「まだ上がりそうだね。着替えておいでよ、パジャマ、いつものとこにあるから」
「・・・うん」
 腕を緩めて肩をぽんと叩くと、彼女はテーブルに手をついてゆっくりと立ち上がり、バスルームへ向かった。ゆらゆらと揺れるように歩く後ろ姿を見届けてから、あたしも台所に立つ。彼女が戻ってくる頃には、氷枕の準備ができた。
「何か欲しいもの、ある?」
 そう尋ねながら、あたしはベッドに潜り込んだ彼女の、肩まで毛布を引き上げる。
「ううん、大丈夫」
 小さく首を振って、彼女。
「なら、いいけど。何かあったら、すぐ言ってよ」
「うん・・・あの、まこちゃん?」
 微笑みで応えると、彼女はどこか心配げに問うた。
「その・・・勉強は?」
「え?」
 飛び出した予想外の単語に、あたしは一瞬狼狽した。勉強のことなんて頭からすっ飛んでいたし、だいたいこんな時に勉強なんて、手につくわけがない。
「・・・いや。その、大丈夫だよ。一日くらい、やらなくたって」
「駄目よ」
 熱でまいっている割には、ぴしゃりと返ってくる彼女の声には力がこもっている。
「勉強は毎日の積み重ねが大事なんだから。一日くらい、なんて軽く考えてると、肝心の時に足元すくわれるわよ」
 説教もいつものように力強い。この台詞だけ聞いたら、とても病人とは思えないね。
「軽く考えてるわけじゃなくて・・・その、実際、一人じゃわけわかんないしさ。ちっともはかどらないんだよね」
「・・・そう」
 頭を掻きながらのらりくらりと答えていると、彼女は突然毛布をはねて起きあがった。
「あ、亜美ちゃん!?」
「だって。一人じゃ訳が分からなくて、はかどらないんでしょ?」
 慌てて止めようとするあたしの、顔をじっと見つめて彼女が言う。
「それはその、まあ。・・・だからって」
「だから、私がついてるわ。別に身体を動かすわけじゃないし、少しくらい熱があったって平気よ」
「や、駄目だよ、帰り道だってぼーっとしてたじゃないか」
「じゃあ。一人でちゃんと、勉強する?」
 少し怒ったような彼女の瞳に、じっと見つめられ。
「・・・はい。ちゃんとやります・・・だから、寝てください。お願いだから」
 降参。あたしはがくりと項垂れてそう言った。

*      *      *

 目を開けると、目の前に歪んだ円が浮かんでいた。
「・・・・・・う?」
 顔を上げてみると、それは数学の円周角の問題だった。
 ・・・いつのまに、寝てたんだろう。
 手の中にあったはずのシャーペンは、床に転がって、裏返しに放り出された雑誌の角に当たって止まっている。拾い上げると、芯の先が折れて無くなっていた。
 時計の針は、真夜中を少し回っていた。思いの外長いこと、あたしは気を失っていたみたいだ。円周角の横には、何語だかわからないミミズの這ったような模様がのたくっている。ひとりで勉強すると、すぐこれだ。
 ―――そうだ、氷枕。
 ふと、この部屋に居るのが自分一人ではないことを思い出して、あたしは後ろのベッドの方を振り返った。ブランケットの胸は規則正しく上下している。心持ち動きが早いだろうか。
 立ち上がって枕元へ寄ると、寝顔が案外安らかなのに少しほっとする。それでも、額の前髪はうっすらと滲んだ汗で貼り付いているし、首筋に指を添えれば脈が随分速いのが分かる。帰宅したばかりの頃よりも熱が上がっているみたいだ。
 ―――あまり酷いようなら、タクシーで救急へでも飛び込むかな。
 起こさないように彼女の頭をそっと支えて枕を抜き取ると、たぷん、と水の音がした。もちろん氷なんてひとかけらも残っていない。あたしは台所へ行くと、温くなった水を捨て、冷たい水と角氷で枕を満たし、再び彼女の元へ戻った。
 もう一度、彼女の目を覚まさないようにそっと持ち上げ、タオルでくるんだ氷枕を添える。
「・・・・・・ぁ・・・」
 吐息に混じって小さな声が漏れた。
 ―――まずい。
 起こしてしまったかと、あたしは思わずその格好のまま固まった。だるまさんが転んだ、で遊ぶ子どもが鬼の様子をうかがうように、じっと彼女を見る。
 両の瞼は閉じられたまま、開く気配はない。
 ―――寝言か。
 あたしはほっとして、止めていた息を吐いた。
「・・・た・・・」
 また。
 いつもはこんな風に寝言なんて言わないのに。たぶん、これも熱のせい。表情も少し苦しげに見える。
「・・・ュピタ・・・」
 え。
 今、『ジュピター』って、言った?
 不意を突かれて、心臓が跳ねた。自分の頬にかぁっと血が昇るのがわかる。
 夢でも、見てるんだろうか。
 だとしたら、前世の夢?
 ―――だろうね。
 ひとの秘密を覗き見てしまったような罪の意識を感じながら、でも頬は勝手にだらしなく緩んで。
 いったい、どんな夢みてるんだろう。
 こうなったら、やることは一つ。
「―――マーキュリー」
 あたしは彼女の耳許に顔を寄せ、囁いた。寝言に返事をするのはよくない、なんて、誰かが言ってたような気もするけど。
「・・・ジュピター・・・」
 彼女はもう一度、今度は先刻よりも幾分はっきり、そう言った。
 うわ。
 ちょっと、これは。
 ―――たまんないね。
「うん?」
 眉根を寄せて、こんな風に、火照った頬に切なげな表情を浮かべて。少し掠れた声で、吐息混じりに名を呼ばれたら。
 そりゃ、誰だって、おかしくなるっしょ。
「・・・・・・・・・で・・・」
 その次の言葉は聞き取れない。
「何?」
 彼女の熱が伝染ったように、荒くなりそうな息を堪えて。
「よく、聞こえない」
 口吻けたくなる衝動を抑えて、とびきり甘い声で囁く。
「・・・・・・・いで・・・」
 少し乾いた唇から溜息のように漏れるそれは、あともう少しで言葉を成しそうで。
「ん?」
 耳を寄せて、もう一度彼女の口が開くのを待つ。
 そして。
「・・・いかないで・・・」
 やっとのことで絞り出された、それが彼女の言葉。
 はっとして身を起こすと、閉じられた彼女の瞼の間から、涙が一筋、流れて落ちた。
 一体―――
 頭から冷水を浴びせられたように、それまでの昂ぶりが一気に醒める。代わりに押し寄せるのは、締め付けるような胸の痛み。
 ―――何やってんだよ、夢の中のあたし。
 どう考えたって、泣かしてんのあたしじゃん。
 あたしはベッドの端に腰を掛けたまま、彼女の顔をじっと見つめた。
「・・・『行かないで』、か」
 彼女の口からその台詞を聞いたのは、初めてのような気がした。彼女を残して自分だけが戦いに赴くなんてことは、前世、月に居た頃はよくあることだったけれど。そんな時、彼女は静かな微笑みを湛えて、ただ一言、「気をつけて」と言うだけだった。
 最後の、『あの時』でさえ。
 だから。
 この『行かないで』は、きっと、この涙と一緒にずっと封じられてきた、彼女の心。
 ―――だったら、やるべきことは、一つ。
「・・・マーキュリー」
 あたしはもう一度彼女の耳許に顔を寄せ、囁いた。
 今度はただのおふざけじゃなく、ありったけの想いを乗せて、
「大丈夫。あたしは、ここにいるよ」
 ゆっくりと、噛んで含めるように。
 『あの時』言えなかった、その言葉を。
「どこにも、行かない。傍に、いるよ。ずっと」
 起こさないように、毛布の上から、その肩を柔らかく抱き締める。応えるように、彼女の口から小さな吐息が漏れ、閉じた瞳からまた一滴、涙が零れ落ちた。
「絶対、離れない・・・離さないから」
 涙の跡に唇を這わせ、目尻に残る雫をそっと舐め取る。
「マーキュリー」
 乾いた唇を湿らすように、啄んで。
 二度目の口吻は、少し長く。
 三度目は、深く。
「・・・・・・ん・・・」
 鼻にかかる声に、彼女が眠っているのだということがふと思い出されるまで貪って。
 余韻たっぷりに唇を離せば、ただ切なくて。
「・・・一緒にいよう。これからも、ずっと」
 誓うようにそう告げて。華奢な身体を緩やかに抱き締める。
 夢の中を彷徨うそのひとが、もう一度、深い眠りに落ちるまで。

*      *      *

「う・・・ん」
 微かに声がして、シーツの擦れる音がする。
 眠り姫のお目覚めだ。
 鍋の火を弱火に落としてキッチンから顔を出してみると、彼女はベッドの上で身を起こし、毛布の上から膝を抱えるようにして座っていた。
「おはよ」
「・・・ん。おはよう」
 彼女はまだ少し気怠そうに答えて、微笑んだ。
「具合、どう?」
「うん、昨日よりだいぶ良いみたい」
 額にかかる髪を指でかき上げながら、答える声にも昨日よりは張りがあって。
「ん。食欲ある?」
「ええ」
「梅粥、卵粥?」
「んー、卵・・・じゃなくて、やっぱり、梅」
 珍しく一寸迷う仕草が、可愛いかったり。
「OK」
 答えて、あたしは一度鍋の具合をチェックしてから、彼女の傍へ寄った。
「で。亜美ちゃん、ゆうべ、どんな夢みてたのさ」
「え?」
 ベッドの端に腰掛けながら問うと、彼女は驚いたように目を見張り、そして口に手を当ててぱっと頬を赤らめた。
「え、あ。私、もしかして、寝言とか・・・?」
「ん。何言ってるかは、よく聞こえなかったけど」
 半分は本当。最初は確かに、何言ってるのかわからなかったんだから。
「一寸、うなされてるみたいだったし」
「・・・そう」
 彼女は少しほっとしたように溜息をついた。
「で、どんな夢だったのさ」
 あたしが覗き込んで問うと、彼女は少し考えた後、また一段と顔を赤くした。
「・・・内緒」
「えー。何でさ」
「どうしても」
「ほら。悪い夢は、人に話すと正夢にならない、って言うじゃん? 教えてよ」
「駄目」
 彼女は首を横に振り、
「だって。悪い夢じゃ・・・なかったもの」
 抱えた膝に半分顔を埋めながら、ちらりとあたしの顔を見ると、
「・・・いい夢、だったわ。とても」
 ふわりと微笑んだ。
 夢見心地のように目を伏せて、頬をかすかに染めたその表情は、ほんとうに幸福そうで。
「そ。っか」
 それだけで、あたしは満ち足りた気分になった。
「じゃ、いいや」
 あっさりと追求をやめたあたしに、彼女は一瞬きょとんとした顔をして、
「まこちゃん。やっぱり何か知ってるでしょ」
 反対に追求を始めた。
「や。何も」
「本当に?」
「本当」
「嘘」
 見事な看破だね。今朝はほんとに具合がおよろしいようで。
「本当だってば・・・おっと、鍋、鍋」
こういうときは、逃げるに限る。
「あ。逃げた」
 こんな平穏な日常がいつまで続くのかは知れないけれど。
 
 ―――一緒にいよう。これからも、ずっと。

  

−−−夢で逢えたら・終

初出:2006年10月

  


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