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深森 薫

 

1


「ふう」
 少し乱れて絡んだ髪を梳くようにかき上げて、ヴィーナスは軽く息をついた。歩みを進める毎、一面に咲き乱れた花が足首に絡み付き、むせ返るような甘い香りが辺りに立ちこめる。本来ならば岩と氷だけのモノトーンの風景が広がるこの場所が、今は鮮やかな緑と目の覚めるようなピンクで覆われている。それは明らかに異常なことだった。
 見上げる空に木星が重々しくぶら下がる、ここは火星の軌道の外側、アステロイド・ベルトの小惑星群の一角。小さな星屑の密集するこの地は、月王国の領域を侵し得る外敵が巣くうには格好の場所である。
「存外、あっけなかったわね」
 ヴィーナスは頬にかかる髪を軽く払うと、腰に手を当て、誇らしげな風でそう言った。
「このぶんだと、親玉の方も大したことなさそう。ジュピター、『約束』忘れないでよね?」
「もちろん」
 軽く伸びをしながら答えるジュピター。
「先に親玉をしとめた方が勝ち、だろ。ヴィナこそ忘れんなよ、負けた方が今度の不寝番一日代わるんだからな」
「……不謹慎ね。曲がりなりにも月王国の名を背負って戦ってる者が、そんなくだらない賭を」
 はしゃぐ二人を横目に、マーズがいつもの尖った口調で咎めるように言い放った。
「そうね、どんな相手でも油断は禁物よ。それに----」
 マーキュリーもそれに同調した。彼女はに珍しく、声に少し険がこもっている。
「いくら敵でも、遊び半分に殺生するのはどうかと思うわ」
「殺生、って、ねぇ。容赦するなって言ったのはマーキュリーじゃない。一匹残らず叩き潰せ、死骸も残さず焼き払え、って」
 軽くぷっと頬を膨らませ抗議の声をあげるヴィーナス。
「相手がキセニアンである以上、少しでも手を抜けばそれが命取りになりかねないわ。それとこれとは話が別」
「なあ、そのキセニアンってのだけどさぁ。たかが花の化物だろう? 何をそんなにピリピリすんのさ」
 二人の間に割り入るようにジュピターが訊ねた。彼女の言うとおり、普段は穏和なマーキュリーが、今日はいつになく神経質である。
「私も実物を見たことは無いんだけど」
 マーキュリーは難しい表情のまま答えた。
「キセニアンは他の生物のエナジーを養分にして成長する宇宙植物。植物だから自分で動くことはできない、だから他の動物に取り付いてその精神を支配して自分の手足とするの。移動手段を得たキセニアンはエナジーを求めて動き回り、爆発的な繁殖力で次々と仲間を増やす。そうやってエナジーを吸い尽くされて、滅びた星は数知れないわ」
「ふぅん。そんな厄介な奴には見えないけどね」
 伸ばした腕を頭の上で組みながら、ジュピターは呑気な口調でそう言った。
「守護神に四人揃ってお呼びがかかる位だもの、そりゃ。さぞかし厄介な奴なんでしょうよ」
 少し皮肉げに言うのは、マーズ。
「今までの妖魔はただの枝葉で、キセニアン本体じゃないわ」
 相変わらず難しい顔で、マーキュリーが答える。 
「本体を倒さない限り、あれをいくら倒してもきりがない。だからといって放っておけばどんどん種を落として増え続けるし、徹底的にやらないと、たとえ触手一本、脚一本でも残っていればすぐにそこから芽を出して再生するわよ」
「……ムチャクチャ厄介だな、それ」
「えー、じゃあ、今みたいなの、いくらやっつけても無駄、ってことぉ?」
 焦れたようにヴィーナスが問う。
「そういうことね」
「むぅぅ。で、肝心の本体はどこにいんの?」
「それは------」
 答えかけた声を、妖魔の出現を示すレーダーの警告音が遮った。
「また来るわ、敵の第三波」
 彼女の指示する方角を三人の守護神が一斉に凝視する。その見つめる先は毒々しいピンクの花がひしめき合う平原が広がるばかりだったが、妖魔の気配------むき出しの敵意と、邪な気------は確かにその強さを増していた。
「……来た!」
 最初に動いたのは、誰よりも鋭い勘の持ち主であるマーズ。彼女が放った炎は、花の下から一斉に飛び出した妖魔の一群を出会い頭に呑み込む。青臭い異臭が辺りに漂い、白い煙が戦闘再開ののろしのように立ち昇った。
 人の顔と胴体に、植物の蔓を手足に持つ妖魔は、刈り取った草がすぐに新芽を吹くように、途切れることなく次々と現れる。
 ヴィーナスは光の鞭を振りかざし、飛び出してくる妖魔を片端から斬り伏せた。純エネルギーの具現である彼女の鞭は、その意志に従って時に鎖のように巻き付き、時に鋭い刃となって裂く。
「あぁん、もう、面倒くさいわねっっつ!」
 光の鞭が目の前の敵をまた屠る。
「ほらほら、ぶつぶつ言ってると手がお留守になるぞ!」
 応えて、ジュピターは掲げた両手に生まれたプラズマ球を敵のただ中に叩き込んだ。青白い塊が弾け、光と熱の奔流に魔物の群れごと消し炭も残さず蒸発する。光の消えた後には乾いた岩砂がむき出しになったが、それもじきに増殖する緑に覆い尽くされた。
 妖魔は驚異的な生命力で次々に再生してはいるものの、月王国の精鋭中の精鋭である四守護神の前では無力である。やがて彼等は無意味に等しい攻撃の手を止めると、満ちていた潮が一度に引くように退却を始めた。
 敗走する妖魔の群れは、はるか後方のある一点に向かって集束してゆくように見える。
 ヴィーナスが、動いた。
「臭いニオイは……」
 敵の引き揚げていく先を目指し、駆け出す。
「元から断たなきゃだぁめ、ってね!」
 花に埋もれた地を蹴り、宙に舞った。
 光の鞭が風を斬り、金糸の髪が空に躍る。
「ヴィーナス! 深追いは駄目! まだ------」
 マーキュリーの引き止める声が届く頃には、ヴィーナスは逃げる妖魔の背を射程に捉えていた。
  ざばしゅっっ!
 両手を広げる動作と同時に、彼女の両側で光が弾ける。
 人型となって蠢いていた緑が瞬時に形を失い崩れ落ちた。
 次の、瞬間。
 ヴィーナスの正面に緑の壁が現れた。
 突如足下から突き上げた、巨大な壁。
 それは塊となって襲い来る異形の者の群れだった。
 ヴィーナスは鞭を振るった。縦横無尽に光が走る。 
 緑は途切れない。壁はあまりに厚く、鬱蒼とした緑はほどなく彼女を取り囲み。
 ------ものの数秒で、形勢は逆転した。
「っ!」
 声を上げる間もなく、
「ヴィーナス!」
「ヴィー!」
 仲間の声が届くのとどちらが早かっただろうか。狂おしい緑のうねりは、あっと言う間に彼女の姿を飲み込んだ。
「ジュピター、待って! マーズも!」
 今にも飛び出さんとする二人をマーキュリーの甲高い声が制する。
「ヴィーナスがどこにいるのか分からない今、むやみに攻撃するのは危険だわ。それから、絶対に散り散りになっては駄目。迂闊に近づくのも」
「くっ……!」
 唇を噛んで踏みとどまるジュピター。
「あの馬鹿、調子に乗るから!」
 苛立ちを露にするマーズ。
 波打ちうねり続ける緑の中に、残された三人はヴィーナスの姿を探した。無数の蔓が絡み合いもつれ合い、不気味に蠢いている。ヴィーナスらしき人影は見当たらない。
「……許サナイ……」
 蔓同士が軋むようにこすれ合う湿った音に混じって、その声は聞こえた。
  ざざざざぁっ!
 のたうつ緑が唐突に弾け、ピンクの花弁が吹き上がる。
『許サナイ……私ノ可愛イ花達ヲ……ヨクモ』
 中から現れたのは、薄紫の貫頭衣を纏った細身の美少年。足元を埋める花の毒々しい色の中にあって、白い肌に銀の髪の儚げなその姿は淡い幻のようにも見えた。
「人…………子ども?」
 呟くように、ジュピター。
「見た目は、ね。だけど」
 マーズの表情が険しさを増す。
「こうしてるだけで邪悪な波動がビンビン来るわ。今までの連中とは比べ物にならない」
「って、じゃあ、あの子が------?」
「……ええ」
 マーキュリーが答えて頷いた。
「あれがキセニアンの本体。正確には、あの子はただの『宿主』で、左胸に付いている小さな花が本体よ」
 三人の視線が少年の胸に集まる。地を埋め尽くすそれよりも一回り大きな花が、一輪。濃いピンク色の花弁の真ん中に、小さな人型が据わっている。青緑色の長髪が不気味な、女の人型。
「…………なるほど、ね。じゃあ、あの花だけをやっつければいいんだな。あの子まで巻き込むのは可哀想だ」
「ええ、そういうことになるけど。かなり、厄介よ」
 マーキュリーの返事は歯切れが悪かった。
「んー、確かに、子どもに当たらないように攻撃するのはちょっと厄介だな」
 言って舌打ちするジュピターに、彼女は首を横に振る。
「そうじゃなくて、ね。
 あいつは宿主の神経系に自分の根を絡めて操っているの。無理に引き抜けば宿主の脳や脊髄まで痛めてしまうわ。キセニアンが自分から宿主の体を抜け出してくれなければ、あの少年を救うのは無理ね」
「じゃ、どうすれば自分から抜け出してくれるわけ?」
 マーズが問う。
「考えられるのは二つの場合。今の宿主が死ぬか、あるいは、もっといい宿主を見つけるか」
「……なるほど、ね」
 展望のない答えに、マーズは肩をすくめて溜息をついた。
「私ノ花ヲ傷ツケタ・・貴様ラ、許セナイ……
 生カシテハ、帰サナイ」
 少年の言葉------この乾いた声が彼自身のものとは思えないが------に合わせ、足下の緑がせり上がる。
 緑色の蔓に拘束されたヴィーナスの姿が、現れた。
「ヴィー!」
「ヴィーナス!」
「貴様ラ全員、ココデ------」
「させるか!」
 振りかぶったジュピターの右手の中に雷球が現れる。
 少年の端正な顔に浮かぶ歪んだ笑みが、自由の利かないヴィーナスの体を盾にふいと隠れた。
「待っ……駄目!」
 マーキュリーの制止は間に合わない。代わりに彼女は水の矢を放った。気合い一喝のもとジュピターの手から放たれた青白い雷球は、真っ直ぐに少年に、その前に立ちはだかるヴィーナスに向かう。
 その横に、水の矢が緩やかな弧を描き寄り添う。
 雷球は水の矢に引き寄せられるように軌道を変えた。ふたつの軌跡は絡み合い、やがて互いを巻き込むようにして虚空に消えた。
「気をつけて! ヴィーナスを盾にする気よ!」
「くっ……卑怯な奴!」
「あっ、たしの、ことは……いいか……ら……っぁっ!」
 巨大な蔓がヴィーナスの体躯を締め上げ、苦しい呼吸の合間に切れ切れな彼女の言葉は苦悶のうちに途絶えた。
  ふしゅぅぅぅぅぅっっっつ!
 再び花の妖魔が姿を現す。先刻背を向けて敗走した異形の敵が、今は意気を得て月の守護神達に襲いかかる。三人は散り散りに跳び退った。
「このっ……!」
 ジュピターのかざした掌が光を帯びる。
「私ノ花ヲ傷ツケルナ!」
 軋むような声と、ヴィーナスの短い悲鳴がそれを制した。
 反撃を封じられ、逃げ回るより他に術のない守護神を眺めながら、少年はからからと笑った。
「ヴィーナス!」
 不意に、声がした。
 マーズの声だ。
「その言葉に------二言は、ないわね」
 少し離れた高みから、妖魔の宿主となった少年とヴィーナスとを見据え、彼女は炎の弓を構えた。
 花の妖魔が三方からマーズに迫る。
「マーズ!」
 仲間の声も、今の彼女には届かない。
 研ぎ澄まされる五感。炎の矢をつがえ、狙いを定める闇色の瞳は、ただ前だけを鋭く見つめ、
 そして。
 次の瞬間。
「グ……ガ!」
 ざらついた耳障りな呻き声をあげ、少年の端正な顔が醜く歪む。マーズの放った炎の矢は、ヴィーナスの自慢の金髪を一房灼きながら、キセニアンの仮初めの体を貫いていた。
 ヴィーナスを縛っていた蔓が不意に力を失い、彼女の体は地面に崩れ落ちる。
「馬鹿ナ……何故……月ノ民ノ分際……デ!」
 銀灰色の瞳に驚愕と憎悪の火を灯し、やがて少年も静かに地面に伏す。同時に無数の花妖魔も力を失い、その場に崩れ落ちて二度と動かなかった。霧が晴れるように、辺りにたちこめていた負の気配が消えてゆく。
 やがてそこは、再び岩と氷の荒涼とした風景に戻った。
「…………ヴィー!」
 ジュピターは我に返ると、倒れたヴィーナスの許へ風のように駆け寄った。
 マーズは微動だにせずその場に立ち尽くしている。
「------マーズ」
 マーキュリーの掛けた声にも答えることなく、彼女はただ、銀髪の少年の屍と、ジュピターに助け起こされるヴィーナスをじっと見つめていた。




2


 刻は真夜中。
「誰だ!」
 深夜の王宮の、無人の筈の中庭に、鋭い声が響く。
 声の主は、月王国の『闘神』ジュピター。プリンセスとクイーンの眠る本殿へと近付く不審な影を偶然見咎め、その行く手を遮るように地に降り立った。
 立ち止まる、影。
 薄明かりに浮かんだのは、見覚えのあるシルエット。微かな風に踊る髪が、淡い光を照り返して金色に光る。
「……あんだよ、ヴィナ、こんな時間に」
 ジュピターの緊張が解れる。
「プリンセスもクイーンも、とっくにお休みだよ。それとも、何か急ぎの用でもあ------」
 ふいに言葉が途切れた。とっさに体を返したジュピターの腕を、一筋の光条が掠めて走る。何が起こったのかはわからない。ただ、頭より先に体が動いた。
 逃げ遅れた髪の焦げる匂いが鼻をつく。
 ジュピターの目が驚きに見開かれた。
「……ヴィナ?」
 驚きの念一杯に彼女はその名を呟く。
 自分に攻撃を仕掛けた相手は、容貌も醸し出される気配も、長年をともに戦ってきた仲間のそれに違いない。
 ただ一つ、禍々しい殺気を除いては。
 輝く白刃が再びジュピターを襲う。彼女は跳躍でそれをかわす。
 動揺がわずかに反応を鈍らせた。紙一重である。
 足下にあった石畳が灼けた。
「ヴィナっ!……なっ!……」
 ヴィーナスは次々と仕掛ける。ジュピターに言葉を継ぐ間も与えない。草が焼け、地面がえぐれる。焦げた潅木が青臭さを辺りに漂わせる。ヴィーナスの放つ光線は純エネルギー。まともに当たればただの火傷では済まない。
「このぉっ!」
 ジュピターが右腕を振り上げた。飛びすさりながら体を翻し、掌に生み出したプラズマ球を投げつける。ヴィーナスは上体を反らしてそれをかわし、代わりに後ろの石柱が派手な音をたてて崩れた。
「何事なの!」
 真夜中の喧噪に、甲高い別の声が割り込んだ。
 騒ぎに眠りを妨げられたマーキュリーである。
「ジュピター! ヴィーナス! あなた達、また!」
 普段は温厚な彼女も、度の過ぎたじゃれ合いに声を荒げる。
「違う! 違うって! これはヴィーが……
 変なんだ、ヴィーの様子が!」
「変って、何が------」
 マーキュリーの台詞は途中で途切れ、足下の石畳が灼ける低い音に替わった。威嚇などではない。飛び退る動作が一瞬でも遅れれば、灼かれるのは彼女の脚だったろう。
 ヴィーナスの攻撃は続く。マーキュリーが跳ぶ。彼女のステップが描いた軌跡を辿るように、光の矢が灼いてゆく。
「はあっっつ!」
 フリーになったジュピターが攻撃に転じた。
 ヴィーナスの懐に一気に飛び込む。
 最初の拳は空を切った。
 続いて手刀が頬を掠める。
 間髪入れずに膝蹴りが、鳩尾に入る。ヴィーナスの体はくの字に曲がり宙を舞った。
「マーキュリー、大丈夫か!」
「私はね。……それより、どういうこと? 」
「分からない。ただ、ヴィナがふらふら歩いてるのが見えたんで呼び止めたら、いきなりこれ------」
 と、首を巡らしたジュピターの視線の先で、ヴィーナスがゆらゆらと立ち上がる。
「ちっ。あんまし効いてないか」
「!」
 そう言って軽く舌打ちをするジュピターの隣で、マーキュリーの表情が凍り付いた。
「何?」
「そんな…………嘘、でも、あれは------」
 『キセニアン』
 声にならない。ただ彼女の震える唇がそう呟いた。
 ジュピターも目を凝らす。ヴィーナスの左胸に、見覚えのある毒々しいピンクの花。
「何で! だって、あいつはあの時確かに!」
「……根が残ってたんだわ。雑草みたいなものね。辛うじて残った根の切れ端が、宿主の死体から這い出して------そこで、もっといい宿主を見つけた」
 皮肉な巡り合わせを呪うように、マーキュリー。
「っ、何とかなんないのかよ!」
 ジュピターは絶望的な声を上げる。
「そうね……とにかく、もう少し調べる時間が欲しいわ。できれば、もっと近づいて」
「気絶させるか」
「できる?」
「やってみよう。死なない程度に手加減して」
 そう言って二人は、ヴィーナスの攻撃に備えた。
  ヴンッ!
 冷たい夜の空気が震えた。同時に二人が動く。ジュピターが左に、マーキュリーは右に。その間を、ヴィーナスの操る光の鞭が切り裂くように翻った。
 ジュピターの反撃。稲妻がほとばしり、敷石が砕け散る。
 砂煙のおさまったあとに、人の姿は見当たらない。
 直後、頭上で殺気が膨れ上がる。
「……上!」
 光の雨が降り注ぐ。狙いはジュピター。
 横に跳んでそれをかわす。体を丸め、地面を転がる。純エネルギーの光条が腕を脚を掠め、ちりちりとした痛みが走った。
 ヴィーナスの方には余裕があった。鳥のように地面に降り立つ。
 間髪入れぬマーキュリーの攻撃。氷の矢がヴィーナスに降り注ぐ。
 ヴィーナスは避けようともしない。
「っ!」
 動揺したのはマーキュリーの方だった。紙一重で掠め飛ぶ氷の矢を、ヴィーナスは平然とやり過ごす。それが単なる威嚇でしかないことを読みきって。
 そして浮かべる不気味な薄笑い。
 マーキュリーの背筋を寒いものが走った。
 次の刹那、足元に絡みつく光の鎖。一瞬の浮遊感があって、
「ぁうっ!」
 叩き付ける激しい衝撃に、彼女の意識は消し飛んだ。
「マーキュリー!」
 叫ぶジュピター。伯仲した戦いにおいては、そのわずかな動揺も命取りとなる。
「んの野郎っ!」
 ヴィーナスに向かって突進する。その動きはあまりにも直線的で。
 リズムを刻むようなステップでかわすヴィーナス。
 一瞬のフェイントがあって、
「ぐっ!」
 ヴィーナスの延髄切りがクリティカルヒット。
  ちゅどどどどどどどどどっっっ!
 間髪入れず、純エネルギーの光の雨が降り注ぐ。
 瓦礫の山と化した石畳と砂埃の中に、ジュピターも沈黙した。



 玄関は吹き抜けの広いホールで、突き当たりの豪奢な造りの扉が王宮の最深部、女王と王女の居室へと続く回廊の入口になっている。二人の守護神を蹴散らし堂々と正面から侵入したヴィーナスは、フロアの中央で足を止めた。
 固く閉ざされた扉にもたれ、腕を組んで待つ人影が一つ。
「待ってたわ、ヴィー……いいえ、『キセニアン』」
 顔を上げる仕草にあわせ、腰まで届く長い髪が揺れた。ヴィーナスのそれとは対照的な、艶やかな黒。
 最後の守護神、マーズ。
 月王国の『鬼神』と呼ばれる彼女は、その名にふさわしい視線を侵入者に向けた。
「ここから先は聖域、お前のような者が来る場所じゃないわ。通すわけにはいかない」
 聞いているのかいないのか、無表情のヴィーナスは右足を前にゆらりと歩み出ようとする。
  ひゅんっ!
 マーズの放った光輪が、ヴィーナスの頬に紅い痕を一筋残した。
「通さない、って言ったでしょう」
「マタ……貴様カ」
 ヴィーナスが吐き捨てるように言う。しかし、その声は彼女自身のものとは明らかに違っていた。
「あすてろいどデハ、随分驚カサレタ……ヨモヤ、仲間ノ命ヲモ顧リミヌ者ガイルトハナ」
「そんなことを言いにわざわざここまで来たの」
 マーズは冷ややかに言い捨てる。
「……マアイイ。ダガ、コノ私ニ勝テルカナ?」
  っしっ!
 ヴィーナスの指先から放たれた一筋の光条が、マーズの頬を掠める。銀水晶の結界に護られた扉には焦げ目一ないが、彼女の頬には赤く灼かれた跡がくっきりと浮かんだ。
「素晴ラシイ力……流石ハ月王国守護神ノ筆頭ダナ。コレデ『幻ノ銀水晶』サエ手ニ入レレバ、私ハ無敵ダ」
 ヴィーナス------正確には、彼女の体を占領した『キセニアン』------は、その端整な唇に歪んだ笑みを浮かべた。
「やっぱり、それが狙いね」
「邪魔スル者ハ刈ル、貴様ラガソウシタヨウニナ!」
 ヴィーナスの『気』が禍々しく膨れ上がった。
 マーズの『気』もそれに応えて強さを増す。
 そして。
 二人が同時に跳び退った。各々が今まで立っていた場所を、赤い光輪と金色の光線が撃つ。
  ばぢゅっ!
 次の一撃もほぼ同時。膨大な熱量が空中でぶつかり合い、鋭い音と激しい閃光を伴って弾ける。
 その後に訪れる静寂。互いの呼吸までも聞き取れる張りつめた空気の中で、しばしの間睨み合う。
「哈ッ!」
 再びヴィーナスが仕掛けた。横飛びでかわすマーズ。光線が紙一重で腕を掠めた。視界の端に捕らえたヴィーナスにすかさず狙いを定める。
「噴っ!」」
 炎の舌が床を舐めるように疾る。
 ヴィーナスも軽いステップでそれをかわす。余裕の笑みさえ浮かべ。
「散!」
 マーズが指を鳴らす。
 刹那、炎が激しく四散した。
 その一条がヴィーナスを捉える。
「ガッ……グゥアッ!」
 執拗に絡みつく炎は簡単には剥がれない。苦悶の声を上げながら、床を転がるヴィーナス。
「ウ……ヲォォォォォッッ!」
 この世のものとは思えぬ咆哮。噴き出す禍々しい気に、破邪の炎が四散する。ヴィーナスは肩で息をしながらその場にがっくりと膝をついた。
「観念するのね」
 仁王立ちで見据えるマーズの、ヒールが固い音を立てる。
「う……マーズ…………」
 ヴィーナスの------彼女自身の、澄んだ高い声が震えた。
「……助けて……お願い……」
 マーズの柳眉が顰められ、
「……ハッ、馬鹿メ------」
 それを見て取ったヴィーナスの双眸が凶悪な光を帯びる。
  っしゅっ!
 だが、先に動いたのはマーズの方だった。彼女の動きを読んでいたように、圧倒的な速さで放たれる紅い光輪。
 壁に叩き付けられ、再び床にくずおれるヴィーナス。既に立ち上がる力も失せた彼女の前に、マーズはゆっくりと歩み寄った。
「そんな芝居で、私が騙せるとでも?」
 ヴィーナスの胸に咲くキセニアンの花に、刺すような視線を投げる。
「ハ……月王国ノ『鬼神』トハヨク言ッタモノダ」
 毒々しい花弁の中央に鎮座する小さな女の人型が嘲笑う。
「仲間サエモ平気デ手ニカケルカ」
「……妖魔の口から仲間なんて言葉を聞くとはね」
 眉一つ動かさず、マーズ。
 その手の中に炎が宿り、一張の弓を成す。
 番えられた炎の矢は、キセニアンに狙いを定め。
「イ、イイノカ? 私ヲ撃テバ、コイツモ死ヌゾ!」
 上擦った声で、キセニアンが叫ぶ。金属が軋むような、不快な音で。
「------ヴィーナスは------死を望むわ。
 妖魔なんかに乗っ取られてプリンセスに弓引くくらいなら、ね」
 揺るぎもせずマーズは答える。
「そして------それを叶えられるのは、私だけ」
 炎の矢が火勢を増した。
 キセニアンの顔が恐怖に歪む。
「……お喋りが過ぎたわね」
  ごっ!
 至近距離で放たれた破魔の火矢が、妖魔の体をその乾いた悲鳴もろともに射抜く。
 ヴィーナスの身体がびくりと波打ち。
 支えを失った上体がずるずると、壁伝いに崩れ沈んだ。
 マーズは顔にかかる黒髪を払いもせず、睨むように見つめている。
  …………ずっ……
 倒れたヴィーナスの、血にまみれた胸が不気味に蠢き、
  ……ずずっ……ずっ…………
 細長い触手------キセニアンの根が、一本、また一本と、彼女の身体から這い出してくる。女の姿をした人型はすでに無くなっていたが、残された根だけはなお新たな宿主を求め、軟体動物のようにずるずると蠢いていた。
  ず…………ずっ……
 やがて根の一本が立ち尽くすマーズの足に触れた。
 眉一つ動かさないマーズ。
 根は巻き付き、図々しくも這い上がろうとして、
  ぼっ!
 彼女の爆発的な『気』の力に灼かれ、瞬時に消し炭と化した。
 辺りに再び、真夜中の静寂が訪れた。



「……う……」
 小さな呻き声がして、ヴィーナスの長い髪が微かに波打った。
 導かれるように、彼女の傍にひざまずく。
「…………マーズ……」
「喋らない」
 うっすらと開いた瞳に理性の色を見て、安堵する。
「生きてるのも不思議なくらいよ。いいから大人しくしてなさい」
「……マーズの手に掛かって……看取って貰えるなら……」
 額に玉を結ぶ脂汗。掠れる寸前の声。
 彼女の顔にかかる金の髪を、マーズの指先が丁寧に払う。
「……それも、いいかな」
「馬ぁ鹿。死ぬ前にこの後始末はちゃんとして貰うわよ」
 いつもと変わらぬマーズの口調に、ヴィーナスは愉快そうに口元をほころばせた。
「……マーズ……」
「ん?」
「…………ありがと」
「ん」




 月王国歴 某年某日
 王宮内に妖魔が侵入、四守護神がこれの掃討に当たる。妖魔との戦闘は困難を極め、四守護神中三名が重傷、うち一人が重体となるも、辛くも侵入した妖魔を殲滅。王国の平和を死守するものなり。
(『月王国年代記』)


Salva nos --- Fin.

  


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