深森 薫

 

「くそったれ!」
 窓から差し込む西日が、背の高いまことの影を階段の踊り場に映した。
「あんの鬼教師、こんな時間まで残しやがって・・・関数なんか解んなくたって困りゃしないのに。」
 自分が勉強しなかったことは棚に上げて、悪態をつきまくりながら階段を一段一段踏みしめる。
「大体、授業中だって訳の解んない話ばっか・・・説明もロクにできないくせにえばんなよな。」
 階段を一番下まで降りたところで、廊下の先を重い鞄を提げて歩く見慣れた同級生の姿がまことの目に止まった。
「亜-----」
  「水野さん。」
「・・・桜田先生?」
 先手を取られて、まことは思わず階段の陰に隠れてしまった。英語の試験でもやはりスチャラカな点数ばかり取っている彼女にしてみれば、当然の反応だ。
「こんな時間まで・・・図書館で勉強?」
 こんな時間。そう、こんな時間まで居残りさせる馬鹿野郎もいるしね。
 聞こえないようにまた悪態をつくまこと。
「ええ。」
「ドイツ語、かしら?」
「いえ・・・」
 ドイツ語?
「それで、準備はできてるの?」
「いえ・・・まだ正式に決まったわけじゃありませんから。」
「何言ってるの。学費免除で一年も留学できるなんて、滅多にないチャンスじゃない。もちろん、この話、受けるんでしょう?」
「はあ・・・」
「何にしても、準備は早めに始めた方がいいわ。私でよかったら相談に乗るわよ。これでもイギリスに留学したことあるんだから。」
「・・・ありがとうございます・・・それじゃ、失礼します。」
 そう言って別れた二人の足音が無人の廊下に消えた後も、まことはそのままその場に立ち尽くしていた。


「・・・亜美ちゃん。」
 例によって、テーブルの上で向かい合うティーカップが二つ。立ち昇る湯気の向こうで、亜美は例によって本を開いている。先に話しかけるのは、例によってまことの方だった。
「何?」
「勉強、しなくていいの。」
「テストは金曜日でしょ?明日あさって、一緒に」
                 「英語じゃなくって」
 いらついたように言葉を遮るまこと。
「ドイツ語は勉強しなくていいのか、って、訊いてんだよ。」
 亜美の顔から笑顔が消えた。
「行くんだろ、ドイツ。一年間。学費免除で。」
「それ・・・そんな・・・どうして」
            「行くんだろ?」
 語気を荒げるまこと。一瞬、沈黙する二人。
「・・・聞いたよ。今日、亜美ちゃんと先生が話してるの。」
 亜美は思わずうつむいて視線をそらした。
「・・・まだ、決まったわけじゃないから。」
「でも、決めるつもりだったんだろ?」
「・・・・・」
「いつまでに決めんの。」
「あと・・・三ヶ月。渡航手続きの締め切りまで。」
 ためらいがちに重い口を開く亜美。
「この話、いつから?」
「・・・先月の頭に通知が来てから。」
「・・・先月?」
 まことの眉が訝しげにぴくりと跳ねた。
「そんな前から?・・・そんなこと、ひとことも言ってなかったじゃんか。」
「それは・・・」
「このまま黙って行っちゃうつもりだったんだろ、どうせ。」
「そんな・・・そんなつもりじゃ」
           「じゃあどういうつもりさ。」
 言葉の途中で、厳しい言葉を喉元に突きつける。
「行くつもりだったんだろ?このまま誰にも、あたしにも、何も、ひとことも言わないで。」
「そうじゃなくって」
      「そうじゃないか!」
 まことは右掌をテーブルに叩きつけた。ほとんど口をつけていない亜美のカップの、冷めた紅茶が皿の上にこぼれた。
「そうじゃないか・・・そうじゃなきゃ、何で・・・何で、教えてくれなかったのさ?」
 まことは、テーブルの上に身を乗り出すようにして亜美を問いつめた。
「それは・・・」
 答えあぐねる亜美。
「・・・ま、仕方ないか。」
 まことは、しばらく彼女の顔を見据えていたが、やがてすっ と身を引いて顔を背けると、ほつれた髪をかき上げながら力無く言葉を吐き捨てた
「次元が違うもんね、万年赤点のあたしとは。」
「そんな・・・!」
「何だよ、勿体ぶって。行きたいんだったら、行けばいいだろ?亜美ちゃんが決めることなんだから、好きにすればいいじゃんか。行きなよ。ドイツでもどこでも、好きなとこ行けばいいだろ。」
 再び黙り込む二人。しばらく亜美は顔を伏せたまま、まことは横を向いたまま、互いに顔を見ようとはしなかった。台所の冷蔵庫のうなる音がふっと途切れ、静寂が辺りを包む。
「そう・・・ね。」
 やがて亜美の細い声が沈黙を破った。
「ごめんなさい。私・・・やっぱり、行くことにする・・・ドイツ」
 そう言って彼女は、まことの横顔に向かって微笑んで見せた。
「今日は、帰るね・・・ごめんなさい、邪魔して。」
 亜美はティーカップを手にゆっくりと立ち上がった。台所でカップを洗う水音がして、玄関のドアが静かに閉まる音が聞こえても、まことは立ち上がろうとも、そちらの方を見ようともせず、ただ顔を背けたままの姿勢でぴくりともせずじっと座っていた。

 

 隣の部屋の住人が乱暴にドアを閉める音に目が覚めた。
 いつの間にか、まことはテーブルの上に顔を伏せて居眠りを始めていた。壁の時計は九時を指しており、窓の外ではいつからか雨が降り始めている。どんな別れ方をしても、やはり彼女が家に無事帰り着いたかどうかは何となく気懸かりだった。まことはごろりと仰向けに寝ると、頭の上の電話の受話器を手に取り、手探りでオートダイヤルのボタンを押した。やがて回線がつながり、コール音がしはじめる。
 TRRRR TRRRR TRRRR
(あれから一時間か。もう帰ってるはずだよな。)
 TRRRR TRRRR TRRRR
(・・・あれ?)
 彼女は眉をひそめた。いつもなら五回目のコールまでに必ずつながるはずである。・・・誰かが家にいれば。
 TRRRR TRRRR TRRRR TRRRR TRRRR
(まだ、帰ってない?)
 TRRRR TRRRR TRRRR TRRRR TRRRR
(寄り道?・・・こんな時間に?まさか。)
 TRRRR TRRRR TRRRR TRRRR TRRRR TRRRR
 まことは、寝そべった姿勢から身を起こした。
 TRRRR TRRRR TRRRR TRRRR TRRRR
 受話器からは、規則正しいコール音がいまだに続いて聞こえてくる。
 胸の奥をよぎるのは、彼女が最後に見せた笑顔。
『私・・・やっぱり』
 悲しげな、今にも泣き出しそうな微笑。
『行くことにする・・・ドイツ』
 微かに震える細い声。
『今日は、帰るね・・・』
 すぐにも消えてなくなってしまいそうな彼女の姿。
『ごめんなさい。』
 そう言って自分に背を向けた、彼女。
『ごめんなさい。』
 まことは駆け出した。玄関の傘を二本ひったくり、部屋の鍵を無造作にジーンズのポケットへ突っ込むと、蹴飛ばされた空き缶のように夜の街へと飛び出していった。冷たい雨の中をまっしぐらに亜美のマンションへと疾る。駆け抜けざまに道行く人に泥をはねようと、車に泥をはねられようと、そんなことは構わなかった。人々の罵声も車のクラクションも聞こえない、ただ自分の吐き出した汚い言葉だけが、耳の奥にこだまする。
『次元が違うもんね、万年赤点のあたしとは』
 違う。
『行きたいんだったら、行けばいいだろ?』
 言いたかったのは、そんなことじゃない。
『何だよ、勿体ぶって』
 言うべきなのは、そんなことじゃなかった。
『好きにすればいいじゃんか』
 それなのに。
『ドイツでもどこでも、好きなとこ行けばいいだろ』
 何て、酷い言葉を。
 どうかしていた。卑屈なひがみで、子どものわがままで、大事な人を傷つけて。
 そして彼女は行こうとしている。その言葉通り、自分の手の届かない所へ。
「・・・くそったれ!」
 まことは自分自身を呪った。

 

 水野家の明かりは消えていて、人の気配など少しもしない。それでもまことは一縷の望みを抱いて呼び鈴を押した。全ての神経を研ぎ済まし、ドアが開くのを待つ。一分経っても、二分経っても、人の足音はしなかった。まことは再び走り出した。
 そうして自分の部屋へと向かう道筋、亜美の居そうな所をしらみつぶしに歩き回った。本屋という本屋へはことごとく首を突っ込んだ。ビデオ屋、コンビニ、弁当屋、女日照りのごろつきの居そうな路地裏まで、思いつく限り駆けずり回った挙句、自分のマンションの貯水槽が見えてくる頃にはたっぷり二時間が過ぎていた。
 財布も持たずに飛び出したまことは、もう一度水野家に電話を掛けに自分の部屋へと戻ってきた。エレベーターの扉が開くと同時に、506号室の前にうずくまる人影が目に入った。その影は、まことの姿を認めると、ゆらりと立ち上がって華奢な人型となった。
「あの・・・」
 まことの視線と出会いそうになった瞬間、亜美はぱっと目を伏せた。
「家の鍵と財布、冷蔵庫の上に忘れちゃって・・・どうしようか迷ったんだけど・・・ごめんなさい。」
 うつむいたまま、寒そうに立ちすくむ亜美。
「それだけもらったら、すぐ帰るから。ほんとにごめんなさい、邪魔して。」
 まことは呆然と、傘の先からしたたる雨の滴が自分の靴の上に落ちるのにも構わず、本当にただ呆然と立ち尽くしていた。
「あ・・・」
 名を呼ぼうとしてまことは喉を詰まらせた。いとおしさと、悔しさと、嬉しさと、淋しさと、安堵と、嫉妬と。交錯するありとあらゆる感情に言葉を奪われ、ただ目の前の彼女のその冷え切った体を両腕でしっかりと抱え込む、それより他になす術もなかった。
「・・・ごめん・・・ごめんよ・・・」
 まことはそれだけをやっと口にすると、雨の香りの髪に頬を埋めた。
「・・・まこちゃん?」
「本当に・・・・・・ごめん・・・・・・」
 まことは取り憑かれたようにそれだけを繰り返す。
「私こそ・・・・・・ごめんなさい・・・」
 腕の中で、亜美は首を横に振った。
「・・・言えなかったの・・・どうしても・・・ごめんなさい・・・」
 やがて濡れた服を通して互いの温もりが伝わり始めるまで、二人はそれ以上何も言えず、そうしてじっとその場に立ちつくしていた。

 雨はいつまでも降り続けていた。

−−−雨・終

初出:2000年11月イベント「月虹ミレニアム」突発本

  


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