† 約束 †
深森 薫
重い鞄と文庫本、朝の通学路、単語帳をめくりながら歩く道。日に六時間の授業、放課後の寄り道、週二回の予備校通い。
夏休みも終わり、街には制服姿の学生たちが帰ってきた。容赦なく照りつける真夏の太陽もいつしか衰えを知り、予備校の講義が終わる頃にはもう辺りはすっかり暗くなっている。夏休みが明けて最初の、少し長めの授業を終えた亜美が玄関の自動ドアをすり抜けると、
「まこちゃん」
まことがいつものように、ボディーガードよろしくガードレールに腰掛けて待っていた。涼やかな夜風が頬を撫でてゆく。
「ごめんね。ずいぶん待ったんじゃない?」
「ん・・・首が二センチくらい伸びたかも」
ぼやくようにそう言って彼女は、組んで折りたたんでいた長い脚をゆったりと伸ばして立ち上がった。ジーンズの埃を払い、大きく背伸びをするその姿が、後ろを走る車のヘッドライトに浮かぶ。
「時間が過ぎてるのにだれも気がつかなくて。夏休みボケかしら」
「へぇ。亜美ちゃんも休みボケ?」
「そうね、まだ少しぼけてるかも」
笑いながら、ふたりは高さの違う肩を並べて、そう遠くない家路をゆっくりとたどり始めた。
車の激しく行き交う大きな通りから道路一本、二本とはずれるにつれて人通りも街の明かりもなくなってゆく。目の届く限りでは辺りを歩く人もなく、暗いアスファルトを照らすのは民家から漏れる部屋の明かりと防犯灯だけ。閑静な住宅街の真ん中を宵闇を楽しむようにゆっくり、ゆっくり歩むふたりの会話の隙間を、どこからともなく聞こえてくる虫の音が埋めた。
『っ・・・くしゅん!』
亜美がふと足を止め、肩をすくめて小さなくしゃみを一つする。
「・・・涼しくなったね」
立ち止まって亜美が再び歩き出すのを待ったまことは、彼女へと歩幅を合わせながらぽつりと言った。
「そうね」
「夏休みも終わっちゃったしさ、また、あっという間に寒くなるんだろうね」
「そうね、すぐに秋になって、冬が来て--------
「そしたら、今度は冬休みかぁ」
悪戯っぽく笑って隣をうかがい見たまことは、ひどく悲しげに曇った亜美の表情に眉をひそめた。
「そう・・・ね」
呟く彼女の横顔に宿る翳りに、まことは憶えがあった。
ダーク・キングダムとの最後の決戦で命を落とした五人のセーラー戦士は、転生によって再び生を受けるとともにそれまでの記憶を無くし、元通り普通の中学生として日々の生活を送っていた。互いに知らぬ者同士のまま暮らしていたかつての仲間はやがて新たな敵の出現を機に邂逅し、その記憶を取り戻す。
そして。
亜美の脳裏に最初に甦ったのは、最も鮮明に残っている光景
--------決して忘れ得ぬ、辛く、悲しいヴィジョン。
決戦の地、明けない夜の闇に包まれた真冬の北極。吹雪の彼方にかき消える悲痛な叫び。妖魔を道連れにその身を灼いたジュピターの壮絶な最期。その全てを、なす術もなくただじっと眺めることしかできなかった自分。
「また--------冬が、来るのね」
その鮮明なイメージは、記憶が戻って半年近くが経つ今も亜美を苦しめる。その度に、まことは彼女の横顔をただ黙って切なく見つめるより他にどうすることもできなかった。
「それより・・・そうだ、亜美ちゃん、あのさ」
やがて、まことが精一杯の明るい口調で切り出した。
「何か欲しいもの、無い?」
「・・・どうしたの、急に」
「うん、ほら、もうすぐだろ? 誕生日。プレゼント、何がいい?」
「あ--------」
亜美は言われて初めて、思い出したように頓狂な声をあげた。彼女の意識が過去の記憶から離れたのを見て取ったまことは内心ほっとする。
「色々考えたんだけどさ、やっぱり亜美ちゃんに直接訊くのがいいかな、って思って。何がいい? 何でもいいよ・・・って、あんまり高いものは買えないけどさ」
「えっ、あ、うん・・・でも」
少し伏し目がちに、口元に手を当てて悩む亜美。考え事をするときの、それがいつもの彼女の癖だった。
「何でも、って言われると」
「いや、物じゃなくってもいいよ、別に。何かしてほしいとか、一緒にどこかに行きたいとか」
「うーん・・・」
「別に、今すぐ、とは言わないよ。誕生日まではまだ日があるし、ゆっくり考えてからで」
「うん・・・ありがとう」
柔らかく笑む亜美の表情に再び暗い影が戻らぬように、まことはいつもの調子で他愛のない話を続けた。
それまで穏やかに言葉を交わしていた亜美が、突然はたと足を止めた。それに気付いたまことが少し遅れて立ち止まり後ろを振り返ると、彼女はうつむいたまま、意を決したように口を開いた。
「ほんとに、何でも、いいの?」
「もちろん。あたしにできることならね」
「それなら--------約束が、ほしい、私」
約束。
その言葉の持つ重みと亜美の細い声の思い詰めた響きに、まことは返事をすることを一瞬ためらった。
「・・・・・いいよ。何を約束したら、いい?」
「うん、そんな、大したことじゃないの。ただ--------」
伏せられていた亜美の視線が初めて上を向き、まことのそれと出会う。
その刹那、全ての音が消えたような気がした。
「ただ、次は、私より先に死んだりしない、って。
そう、約束してほしい」
「え・・・?」
まことは思わず問い返した。
「一日・・・一時間・・・ううん、一分でも、一秒でもいいの。ただ。
ただ、私より--------私より長く、生きててほしい」
「亜美ちゃん・・・・・・」
「約束、お願い、私より先には、死なない、って。
・・・・・・ね?」
淡々と言葉を紡ぐ亜美の色のない頬を、涙が一筋流れて落ちた。青白い街灯の光に浮かぶその表情は優しく、瞳は澄んだ月夜の湖のように静かに揺れた。穏やかな微笑みすら浮かんでいるようにも見える。お互いを締めつけあうように見つめあい、動けない二人。
「・・・なよ」
やがて、ふと視線を逸らし、足許の小石をスニーカーのつま先で転がしながらまことが答えた。
「え?」
「やめなよ、そんな、死ぬ--------なんて」
聞き返す亜美に、まことは目を伏せたまま、抑えた声でためらいがちに言葉を継ぐ。
「・・・縁起でもない」
それきりまことは口を閉ざした。俯いたその横顔を、亜美も何も言わず見つめている。不意に吹き抜ける風に木々の梢がざわめいた。伝える言葉をさらってゆくような夜の風は、夏の名残の半袖には少し肌寒かった。
「うん・・・・・・ごめんね、つまらないこと言って」
亜美は貼りついた笑顔のまま、ぎくしゃくとした仕草で頬を拭いながら、
「・・・今の、忘れて。
もう少し--------考えさせて、ね」
消えそうな声でそう言って、まことの横をすり抜けた。
擦れ違う瞬間、静かな水面に波紋が広がるように、締めつける痛みが胸を蝕む。まことはぎゅっと目を閉じ、天を仰いで窒息しそうなその苦しさをこらえると、先を急ぐ亜美の背を追って歩き始めた。
無言のままに歩いてきた二人は、いつもよりも少し早く水野家のマンションへとたどり着いた。亜美は玄関ホールの手前で立ち止まり、まことの方を振り返る。
「ありがとう、ごめんね、いつも遅くまでつきあわせて」
言ってみせるその声も、涙の乾いた顔が作る微笑みも、小さな仕草の一つまでもが、すっかりいつもの彼女に戻っていた。
さっきの涙は、見間違いだったのかもしれない。
ふとそんなことを思うほど、亜美の様子は普段の彼女そのままである。
「・・・ああ・・・ううん」
「じゃあ。おやすみなさい」
「・・・・・・おやすみ」
ぼんやりと答えるまことの返事を待って、静かに背中を向ける亜美。
首を巡らす、その動きに合わせて揺れる髪。
泣きそうな色を湛えた、俯き加減の瞳。
どこかおぼつかない、漂うような足どり。
彼女の動作は、銀幕に映るスローモーションのように、儚げに霞んで見えた。
--------いけない--------
胸の奥で警鐘が鳴った。
このままじゃ、このまま別れちゃ、いけない。
何かに突き動かされるように、まことはその腕を掴む。
なぜそうしたのかは、よく分からない。ただ、このまま別れてしまえば全てが終わってしまう。そんな気がした。
「・・・?」
少し驚いたように振り返る亜美。まことは彼女の視線を真っ直ぐに受け止めると、その瞳の向こうを覗き込むように見つめた。
いとおしさが胸を満たす。
傷つけたくない。
悲しませたくない。
泣かせたくない。
護りたい、彼女の笑顔を。
そのために、できることなら何だってする。
ならば、初めから迷うことなど何も無かったのだ。
亜美の唇が何かを言いかけ動くより先に、彼女の手を引くまこと。よろめく亜美の華奢な体を腕の中に収めると、そのまま強く抱き締めた。
「--------ごめん」
ただ一言そう呟くまことに、静かに問う亜美。
「・・・どうしたの、急に」
「うん・・・・・・・・・」
まことは答えあぐねた。伝える言葉が見つからず、ただ思いだけが溢れて喉を詰まらせる。
「・・・何でも、ない」
胸元で、亜美が困ったように微かに笑うのが聞こえた。彼女はそれ以上何も訊かない。まことも黙ったまま彼女の髪を指先で梳く。
「約束--------」
不意に、まことがぽつりと言った。
「え?」
「さっきの、約束。するよ、今、ここで」
「まこちゃん・・・嫌だ、さっきの、本気に--------」
「本気だよ」
まことは拘束の輪をゆるめ、亜美と向かい合った。
今度は目を逸らさない。
「亜美ちゃんも、本気だっただろ?」
困惑する亜美にまことは優しく笑むと、
「約束するよ。あたしは、絶対死なない。
強くなるよ、今よりも、もっと。みんなを守れるように--------最後まで、守りきれるように」
小指を差し出した。出された手とまことの顔を交互に見ながら、亜美も恐る恐る手を差し伸べる。微かに震える小指に、まことはすかさず自分の小指を絡めた。
「ゆびきりげんまん、嘘ついたら--------」
「嘘・・・ついたら?」
亜美が不安げに顔を上げる。まことはつないだ小指に力を込めた。
「・・・つかないよ、嘘なんか」
嘘のない真っ直ぐな瞳と、柔らかな、それでいて力のこもる声。触れあう小指が、胸が、熱い。不意に、涙が亜美の目から大粒の玉を結んでこぼれ落ちた。
「誕生日、おめでとう。ちょっと早いけど」
九月三日、日付の替わる二時間前。
それは、一週間早い誕生日の贈り物。
−−−約束・終
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