† 原罪 †
深森 薫
その日は、少し様子が違っていた。
予定より早く単独での妖魔討伐から帰還した筈のジュピターが、夕刻を過ぎても姿を現さない。いつもなら何をおいても―――クイーンへの報告は別として―――真っ先にマーキュリーのもとを訪れる筈のジュピターが。
(・・・何か、あったのかしら。)
とりあえず今日のノルマを終えたマーキュリーは、廊下を歩きながらあれこれと考えを巡らせた。
怪我。
病気。
火急の用。
ふと、不安が胸を過ぎる。
相手は、怪我の手当もそこそこにコンピュータールームを訪れて、顔を見るなり抱き締めてキスをせがむような人である。それが音沙汰なしとは余程のことに違いない―――
我ながら自惚れているわ、とマーキュリーは独りで苦笑して肩をすくめた。
KNOCK - KNOCK
返事はない。
KNOCK - KNOCK
やはり返事はない。
鍵は掛かっていない。マーキュリーはドアを開け、そっと部屋の主の名を呼んだ。返事はなかったが、居間の真ん中のソファーの端から、見覚えのある栗色の髪がのぞいているのが見える。彼女は部屋の中に身を滑らせると、後ろ手にドアを閉めた。
「ジュピター」
返事はない。マーキュリーは様子をうかがいながら静かに部屋の中央へと歩を進め、ソファーの陰を覗き込んだ。
「・・・眠ってるの・・・?」
「―――起きてるよ」
「・・・どこか、具合でも、悪い?」
「いや」
掠れる寸前の低い声で答えを返し、ジュピターはのったりとした動作で身を起こした。俯いたその表情は解いた長い髪の陰に隠れて見えなかったが、ひどく暗い彼女の様子にマーキュリーは眉をひそめた。
「・・・どうしたの、一体」
「あたしに・・・寄るな」
「え・・・・・・?」
困惑するマーキュリーに、ジュピターが顔を上げた。
視線がぶつかったその瞬間。
ジュピターはマーキュリーの腕を掴んだ。
軽いショックを伴って、彼女の細い躰がジュピターの腕の中に収まる。次の瞬間、不意に部屋の景色が回り、背中にスプリングの弾む感触。華奢なその肩を、強い力で無造作に押さえつける手。
マーキュリーは、戸惑いながらジュピターの顔を見上げた。険しい表情に、言葉が閉ざされる。
「あたしは残酷な悪魔で―――」
ジュピターの手元で火花が弾ける。肩を走る軽い痛みに、マーキュリーは軽く顔をしかめた。
「その気になれば、こうして、電撃で焼き殺すことだってできる」
押し殺した声には、凄みがあった。
「それに―――」
ジュピターは右手を彼女の喉に掛け、
「こうして、この首を握り潰すことだってできるんだ」
そう言って、少しだけその手に力を込める。
マーキュリーは抵抗しなかった。冷酷な言動とは裏腹にどこか悲しげな色を湛えるジュピターの瞳を、彼女は何も言わずただ静かに見つめた。
やがて、ジュピターの右手からふっと力が抜け、
「・・・・・・ごめん」
ゆっくりと起きあがり、そう言って背中を向けた。
拘束を解かれたマーキュリーもソファーの上に身を起こす。軽く咳き込んだ呼吸の乱れを整えると、佇むジュピターの後ろ姿に視線を送った。少し癖のある栗色の髪の乱れが、痛々しい印象を与える。
「ジュピター」
マーキュリーは優しくその名を口にした。返事はないが、彼女はただ黙ってじっと待った。頑なな気持ちを解きほぐすにはそれが一番良いことを、彼女は知っている。
「何か、あったの?」
無言で首を小さく横に振るジュピター。
「・・・・・・別に、いつもと同じさ、敵の殲滅。
指令通り、一匹残らずぶち殺してきたよ」
平静を装う口調には険がこもる。
「ジュピタ・・・」
「『殲滅』、って、『皆殺し』ってことだもんな。
マーキュリー・・・きっと、軽蔑するよ、あたしのこと」
彼女の言を遮るようにジュピターは続ける。
その言葉の重みを受け止めて、マーキュリーは静かに問うた。
「何が―――あったの?」
しばしの沈黙。ジュピターは落ち着かない風で二、三度髪をかき上げ、背を向けたまま重い口を開いた。
「リザード・タイプの妖魔だった。奴等はあたしを見るなり襲いかかってきた。数は・・・多かったけど、あたしの敵じゃ、なかった。片っ端から倒して、倒しまくった。それからあたしは、メイン・コンピューターの指示通りの場所に、妖魔の巣窟を見つけた。切り立った崖の、小さな洞窟だった。その中に―――」
ジュピターは訥々と繰り出す言葉を詰まらせ、少し言い出しにくそうにためらった。
「その中に、妖魔の生き残りがいたんだ・・・
小さな、子供ばかりがね。」
背けられたジュピターの表情は見えないが、膝の上で拳が固く握り締められるのが彼女にも分かる。
「あたしの姿を見て、怯えていたよ。逃げることもできずに、ただきいきい鳴くんだ、子猫みたいに。妖魔っていったって、子供は子供さ。でも・・・指令は妖魔の『殲滅』・・・『皆殺し』・・・指令は絶対、だから・・・逆らえない・・・だから・・・」
途切れ途切れの声が震えた。
「だから、あたしは、殺した・・・怯えて震えるだけの、無抵抗な子供を・・・この手で」
ジュピターは前髪をかき上げ一つ大きな息をつくと、
「・・・何が『栄えある王国の守護戦士』だ。命令されれば、どんな汚い、残酷なことだってやってのける・・・ただの・・・・・・ただの、人でなしじゃないか!」
呟くようにそう言って鼻で笑い、それきり黙り込んだ。無言でその背中を見つめるマーキュリー。
沈黙が、再び二人の上に降りた。
「・・・そんなこと・・・」
やがて、マーキュリーがゆっくりと口を開いた。ジュピターの背後から、波をかたどる髪をかき分け頬に手を伸ばす。
「だって。もしもあなたが、本当に人でなしなら。こんな風に苦しんだり―――」
指先が、頬をつたうまだ温かい滴に触れた。
「涙なんて、流したりしないもの」
マーキュリーは柔らかな声でそう言うと、
「・・・ね?」
細い腕でジュピターの背中を抱きすくめた。
「私は、そんなあなたが―――あなたが、好きよ」
ジュピターは、背中を包む温もりとその言葉に、心を委ねるように眼を閉じて。
マーキュリーの手に、そっと自分の手を重ねた。
「ジュピター・・・あなただけが、そんな風に自分を責めること、ないの」
マーキュリーは、肩に巻き付けた腕にぎゅっと力を込めて。
「私たち―――あなたも、わたしも、この月王国に住まうもの全てが。同じ罪を背負っているの」
幼い子どもに言い含めるように、ゆっくりと、言葉を紡ぐ。
「私たちは、自分達の暮らしの平穏のために、他の生命を踏みつけにしているわ。『妖魔』と呼んで、ことごとく排除して。・・・それは、月の民としての原罪。この星の上で息をしている限り、決して逃れられない罪。自分の手を汚しているか、汚していないか、ただそれだけの違いで」
ジュピターは何も言わず、顔を背けるように俯いたままじっとしていた。納得のいかないことがある時、彼女はいつもこういう態度をとる。
「・・・ね、ジュピター」
暫く待って、マーキュリーが再び語りかけた。
「あなたがこんなに悩んで、苦しんでるのに。・・・私、あなたが無事に帰ってきてくれてよかった、って。そんなこと、思ってるの。どんな卑怯な、酷い方法を使っても、あなたが危険な目に遭わなければ、それでいいと・・・そんなことさえ、考えてる」
ジュピターの、栗色の髪に顔を埋め。自嘲するようにそう言って、首筋に頬を擦り寄せる。
「・・・だから、私は考えるの。みんなを危険にさらさずに、効率よく、敵を殲滅―――って言えば、聞こえはいいけど―――皆殺しに、できる方法を」
やがて、ジュピターの首を巡らす動作にあわせて、肩に巻き付く腕が解かれ。
互いに、その表情にやりきれなさを湛え、初めて真っ直ぐに見つめあう二人。
「・・・こんな、私を・・・・・・軽蔑、する?」
困惑したような、今にも泣き出しそうな目で微笑むマーキュリーに、
ジュピターは引き寄せられるように、口づけた。
そっと触れただけの唇は、すぐに離れ。
ゆっくりとした動作で、ジュピターの腕が彼女の細い体を抱き締める。
互いを強く貪り求めあうそれではなく、ただじっと、お互いがそこに居ることを確かめあうような抱擁。
「―――このまま―――」
やがてジュピターが、たどたどしい口調で呟いた。
「このまま、永久に、逃れられないのかな・・・この罪から」
「そうね、きっと。でも・・・」
腕の中で、マーキュリーが。
「でも?」
「・・・いくら罪にまみれても、私は―――あなたの傍が、いいわ」
そう言って、胸に深く顔を埋める。
「あたしも―――」
ジュピターは頷き、抱き締める腕に力を込めて。
「―――マーキュリーが傍にいてくれるなら・・・罪の重さに、耐えていける。たぶん、きっと」
彼女の髪に、頬を埋めた。
幾多の罪の上に、成り立つ平和。これまで安らぎだと思えた夜の静寂ですら、今は心に重く。
どんなに強く抱きあっても肌を合わせても、胸の疼きは消えないまま、夜は更ける。
やがて迎える朝は、新たな罪を重ねるための一日の始まりなのだと。
思い知らされた、今日。
−−−原罪・終
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