Once upon a Dream

深森 薫

  

 彼女の抱擁はいつも、安らぎを与えてくれる。
 背に回された腕の確かさと胸の暖かさに、私はただ目を閉じて身を委ねている。
 ふと、私を抱き締めていた腕の拘束が少し緩んだ。
 長身の彼女の肩越しに、宵闇に浮かぶ蒼い星が見える。
 一寸だけ顔を上げると、待ちかまえていたように彼女の手が私の頬を撫でる。指先がするりと顎へと滑るのに促され、見上げれば、深い色をした彼女の瞳。目が合うと、彼女は嬉しそうに微笑んで。
 ------。
 言葉より先に、口づけが降りてくる。
 離れては、何度も啄むように繰り返されるキス。
 その仕草が随分慣れた風なのがふと気に障って、私は思わず顔を背けた。
「マーキュリー?」
 私の不機嫌の理由が分からず、彼女は怪訝な顔で尋ねる。それでも私が黙っていると、
「・・・マーキュリー?」
 表情がみるみる不安に曇ってゆく。
 そんな顔を見ているのが忍びなくて、仕方なく訳を告げると、彼女は一瞬きょとんとした顔をして、そしてすぐに破顔した。
「妬いて、くれるんだ」
 幸福にとろけるような笑みで見つめられたら、もうそれ以上何を言う気も失せて。
 私はただ、彼女に抱き締められるままにこの身を委ねた。

*     *     *

 この一週間で、亜美とまことの仲は急速に進展していた。
(・・・夢の中の話だけど、さ)
 朝の空気の清冽さには不似合いな重い足取りで、まことは学生鞄を手に、しかし学校とは反対の方向へと歩いていた。目指しているのは、うさぎの自宅。
(亜美ちゃん、もう来てるかな)
 学校とその行き帰りのプリンセスの護衛は、同じ学校に通う自分と亜美の役目だ。
(・・・来てるだろうな。亜美ちゃん、そういうとこ真面目だし)
 自分が月王国の守護戦士の生まれ変わりだと知り、仲間達とともに月へと飛んでから五日。以来、まことは夜ごと夢を見るようになった。夢の舞台は、月の王国シルバー・ミレニアムの王城ムーン・キャッスル。登場人物は、プリンセス・セレニティ------うさぎの前世の姿------と、仲間の守護戦士たち。夢に見るのは、気の置けない仲間たちや同じ年頃の主君との、楽しかった日々のささやかな出来事。それだけなら特に問題ないのだが。
(この間告白したと思ったら、とんとん拍子でまぁ)
 夢の終わりに必ず登場するのが、マーキュリー------亜美の前世の姿------との逢瀬だった。互いの気持ちを確かめ合うところから始まって、手を取り、抱き合い、夢の中の二人は日に日に親密度を増し。
(もうキ・・・ス、だもんなぁ)
 このぶんだと、今夜あたりは------
(十八歳未満お断り・・・?)
 どうなることやら。
 だが、今はそんな先のことよりも目の前のことを心配しなければならない。この角を曲がれば、うさぎの家はすぐそこだ。
(ああ。やっぱり)
 一足先に着いていた亜美が、本を片手に、月野家の門柱に背をもたれて待っている。
(平常心、平常心)
 まことは、両手でぺちん、と自分の頬を叩くと、そう自分に言い聞かせながら前へと足を踏み出した。
「あーみちゃん」
 まことが呼びかけると、亜美は本から顔を上げて振り向いた。
 しかし、先刻の決意はどこへやら。目が合いそうになった瞬間に、気まずさが頭をもたげて思わず視線を逸らす。
 代わりにまことの目に飛び込んだのは、亜美の持っていた本のタイトル。
 『大学入試必修 多読英単語』
「おはよ。朝から難しそうなの読んでるね」
「・・・たぶん、待つことになるだろうと思って」
 亜美は苦笑して、うさぎの部屋がある、月野家の二階の窓を見上げた。
「なるほどね」
 まことも一緒に、月野家の窓を見上げる。とりあえず、お互いより他に目を向けられるものがあるのは、救いだった。
 耳を澄ますと、時折どたどたと廊下を走る音が聞こえる。
「やれやれ。プリンセスが聞いて呆れるね」
 まことは肩をすくめて、ちらりと亜美の方を見た。
「本当」
 亜美も、横顔でくすりと笑う。
   ばんっ!
 そのとき、勢いよく玄関の扉が開いて。
「お待たせっ!」
 現れた問題児のプリンセスは、まだ自宅の門も出ないうちから息が上がっていた。



 昼休み。
 校庭の隅での三人のランチタイム。例によってまことは少し多めのおかずと気合いの入った弁当を、亜美はパームトップのパソコンを持ち寄ってのミーティングである。
「ねえ、亜美ひゃん。さっひはらふっと、何ひらへへんほ」
 骨付きの唐揚げをくわえたまま、うさぎ。
「うさぎちゃん。喋るんならそれ飲み込んでからにしな」
 唐揚げは逃げないから、とまことがたしなめる。
「いろいろ、気になることがあってね」
 亜美はコンピュータのディスプレイを見つめたまま答えた。いつのまに平らげたのか、彼女のサンドイッチはもうなくなっている。
「今調べているのは、この間月から持って帰った石の剣のことと、太陽の活動状況に、地球の磁場の変動と地殻変動の状況よ」
「へー、そうなんだ。・・・よくわかんないけど」
「亜美ちゃん・・・よく聞き取れたね、うさぎちゃんの質問」
 うさぎとまことは、それぞれ別のポイントに感心する。
「今は」
 紙パックのレモンティーを一口吸って、亜美は言葉を継ぎ。
「少しでも早く、この状況を打開したいでしょ。だから」
 優しい微笑みをうさぎに向けた。
「・・・うん」
 ありがとう、と微笑み返すうさぎの表情は、どこか悲しげだった。
 そして、今日一日、まことは結局亜美と一度もまともに目をあわせることができずに終わった。

*     *     *

 漆黒の闇に独りきりで輝く標のような蒼い星を、私は窓辺に立ってぼんやりと見上げていた。
「何か面白いものでも見える?」
 頭の上から声がして、背中を抱きすくめられる。
 彼女の長い腕が、私の体に巻き付いた。
「・・・別に」
 何も、と気のない返事をする。右手のグラスの中で、氷がからんと音をたてた。
「そうかな。近頃、空を見上げてぼんやりしてること、多い気がするけど」
「・・・そう?」
「そう」
 彼女の右手が私の右手からグラスを取り上げる。
「気のせいよ」
「そう?」
「・・・そう」
 グラスを傍らのテーブルに置いて、自由になったその手が私の頬を撫でる。その手に促されるように振り向くと、肩越しに視線が絡み合い。
「本当に?」
 その問いに私が答えようとする先に、唇を攫われた。開きかけた唇へと、しなやかに滑り込む舌。口の中で与えられる愛撫に、思考が奪われる。無理な姿勢の苦しさに首を捩る度、離れかけた唇の間で聞こえる水音が互いを煽った。腰に回された腕はいっそう強く私を引き寄せる。もしも今その手を離されたなら、私はそのまま床にくずおれてしまうだろう。
 ------潮時。
 眩暈のようにくらりと揺れたかと思うと、背中に軽い衝撃。
「マーキュリー」
 目を開けば、私を見下ろす彼女の翡翠の瞳が少し切なげで。
「------今。何、考えてる?」
 私の顔の横に彼女の手があり、彼女が体重を乗せるのに合わせてスプリングが軽く軋んだ。そう、彼女のベッドは私のそれより少し硬い。
 私は手を伸ばし、彼女の頬に触れた。
「・・・あなたのことよ」
「他には?」
 ふ、と目を細め、顔を近づける彼女の仕草に合わせ。
「それだけ」
 目を閉じれば、唇に触れる柔らかな感触。
 唇から頬、瞼から、耳許へ。
 満天の星が降り注ぐような、優しいキスの雨に暫し身を委ね。
 やがて口づけが止み、頬に掛かる吐息にそっと目を開けば。
「本当に?」
「本当よ」
 すぐに、唇を塞がれた。
 先刻までの柔らかさとは裏腹な強引さで貪られ。
 息苦しさに、縋る物を求めて彼女の首に腕を回す。
 胸元に挿し込まれた彼女の指先が私の纏っていた布をするりと滑り落とす。露わになった肌のひやりとした感覚に身が竦んだのは最初だけ。彼女の掌が吸い付くように触れた場所が、すぐに熱を帯びる。
 やがて、彼女の唇は私の唇を離れ、顎から喉を伝い、胸元へと降りていった。それに合わせ、彼女の手は胸元から脇腹を伝い、腰へと遊ぶ。焦らすように、煽るように。
 浅く、早くなる呼吸。塞ぐものがなくなり、ともすれば漏れそうになる嬌声を、私は彼女の頭を胸に抱き締めてただひたすらかみ殺している。
「っあっ------」
 体の芯から突き上げるような衝動に、弾かれたように仰け反る背中。思いの外大きな声が漏れてしまったことに気づき、私は思わず両手で口を覆った。
「我慢。しなくて、いいのに」
 熱を帯びた瞳で見下ろしながらくすりと笑う彼女。
 私は小刻みに首を横に振る。
「・・・いいね。試してみようか、どこまで我慢できるか」
 彼女は新しい悪戯を思いついた子供のようにそう言って、私の首筋へと顔を埋めた------

*       *       *

「Open your textbooks to page 35」
 始業のチャイムが鳴り、教壇で先生が声を張り上げはじめた。
 まことは眠い瞼が落ちそうになるのを懸命に堪えながら、のろのろと教科書を開く。
「Repeat after me. ------ Judy was watching TV.」
 先生が読み上げると、教室中が一斉に声をあげ。
「It was half past eleven at night.」
 いつもと同じ授業風景を、まことはぼんやりと水槽の中をたゆたう魚のような気分で眺めている。
「Her mother said to her,」
 理由は、たぶん、睡眠不足。昨夜は夜中に目覚めて、それから明け方まで眠れなかった。
「"You must not sit up late."」
 まことものろのろと口を動かす。声はほとんど出ていない。
「"You must go to bed early."」
「ゆーますとごーとぅーべっど・・・」
 ベッド。
 ベッド。
 ベッドという単語だけが頭の中でリフレインする。
「"But I want to see it," Judy said.」
 『------ジュピター』
 耳の奧で、自分を呼ぶ亜美の声が蘇る。
 ベッドの中で、自分を見上げる濡れた瞳。思考はあっという間にジャックされた。
 重ねた頬の温かさ。
 『ジュピター』
 吐息混じりに、少し湿った声が耳朶を震わす。
 触れ合った肌は溶けそうなほど熱く。
 掌に残る、柔らかな感触。
(〜〜っっ! 昼間っから何考えてんだあたしは!)
「・・・さん?」
 脳裏に浮かんだ昨夜の記憶を追い出すように、まことは自分の頭をぐしゃぐしゃと掻きむしった。
「・・・野さん」
(だいたい、キスの翌日いきなり、って、そんなのありかよ)
「木野さん」
(健全な中学生に刺激強すぎ・・・え?)
「あ、は、はい!」
 顔を上げると、目の前が一面のピンクだった。
 「春だ」先生------本名を桜田春菜という------のスーツの色だ。左手に教科書、右手を腰に、少し不機嫌そうにまことを見下ろしている。
「今は授業中でしょ。教科書も開かずにぼんやりしてちゃ・・・あら。木野さん、顔が赤いわ」
「え、あ、その」
 「春だ」にのぞき込まれ、まことは舌がもつれて何も言えなくなった。頭の中まで見透かされそうな気がして落ち着かない。
「熱があるんじゃない?」
「ええ・・・っと。調子は、あまりよくないみたい・・・です」
 どうやら先生の勘違いのお陰で救われたようだ。もっとも、女子中学生が授業中にいかがわしい妄想をして赤面しているなんて、一体だれが想像できようか。
「保健室に行って、計ってみた方がいいわ。具合が悪ければそのまま休ませて貰いなさい」
「あ・・・はい。すみません」
 まことは机の上に手をついて立ち上がると、のろのろと教室をあとにした。



 明るい日差しの射し込む人気のない廊下は、異次元のようだった。扉一枚隔てた向こう側は授業中という日常。六組の教室の隣は五組で、その中には亜美がいる。
 亜美が現実の世界の住人なら、ここにいる自分は何者なのか。
 昨夜夢の中で感じた灼けつくような欲望は、自分自身のものなのか、それともただの前世の記憶なのか。そもそも、今の自分と前世の自分は同じひとりなのか、それとも別物なのか。考えれば考えるほど、ますますわからなくなってゆく。
 あれこれ考えているうちに、気がつけば、いつの間にかまことは保健室の前まで歩いてきていた。
「失礼します」
 そう言って扉を開けると、白衣を纏った若い女性の先生が、机から顔を上げてこちらを見た。気分がすぐれない旨を伝えると、先生はまことを長椅子に座らせ、すぐに熱を計らせた。
「ふぅん。・・・熱はないみたいだけど、具合悪そうな顔してるわね。これから熱が上がるかもしれないし、少し休んで様子を見ましょうか」
 先生は、計り終わった体温計とまことの顔を交互に見て、部屋の隅に置かれたベッドの方を指しながら、そう促した。
 はい、と答えて、まことはゆらりと立ち上がる。
 ベッドは三床。
「あ。待って木野さん。そっちは」
 先生が引き留めるより先に、まことは一番手前の白いカーテンに手をかけた。
「いま休んでる子が------」
 毛布に隠れた顔は見えなかったが、白い枕の上で柔らかな短い曲線を描く黒髪は、亜美のそれとよく似ている。いや、本当は少しも似ていなかったのかもしれない。ただ、今のまことにはそれでも十分すぎる刺激だった。
 不意に、しかし鮮明に、昨夜夢に見たヴィジョンが蘇る。
 白いシーツの上、小さく広がるブルーブラックの髪。
 上気し、桜色に染まる白い肌。
 狂おしく、縋るように絡みついてくるしなやかな腕。
 体の奥に燻っていた火種が唐突に燃え上がるような感覚に、まことは激しい目眩を覚えた。目の前の風景は何かに押し流されるように形を崩し、周囲の一切から現実味が失われる。それ以上立っていられなくて、その場にくずおれるように膝をついた。
「ちょっ、き、木野さん! 大丈夫?」
 それでも目眩は治まらない。瞳を閉じれば、さらに大きくぐらりと揺れて、肩に軽い衝撃を感じて。
 まことは、意識を手放した。

*       *       *

 どのくらい、眠っていただろう。
 空にどす黒い煙が立ちこめ、辺りが焦げ臭いところをみると、そう時間は経っていないのだろう。
 不覚にも四方を敵の大群に囲まれて、もはやこれまでと我が身もろとも吹き飛ばしたつもりが。
(まだ命があるとは。しぶといね、我ながら)
 守るべき我が姫は、先に逝ってしまったというのに。
 守護者の中の守護者と謳われた闘神ジュピターの名が、聞いて呆れるね。
 自嘲気味に、笑う。
 起き上がろうとするが、体がいうことをきかない。
 腕が上がらない。脚も動かない。
(・・・まいったな)
 首を巡らすことすらできないようだ。
(これじゃ、鼻の頭も掻けないか)
 辺りに生きているものの気配はなく、はるか遠く、人々の叫ぶ声が遠いさざめきのように聞こえた。
 時折、風に乗って聞こえてくる爆発音。遠い地響きに、腹の底が微かに揺さぶられる。戦闘は、まだ続いているようだ。
 ------みんなは、今頃どうしているだろう。
 あの爆発音は、たぶんマーズが頑張っているんだろう。彼女は何者に対しても容赦がない。もちろん、自分自身に対しても。
 そして、マーズが健在なら、恐らくヴィーナスも一緒だろう。
 それから------
(マーキュリー)
 彼女の最後の務めは、月王国の技術の粋を集めたメイン・コンピューター・ルームを敵の手から守ることだ。
(大丈夫、かな)
 こんな状況でも、彼女の無事を願わずにはいられなかった。そして、彼女にもやがて訪れるであろう最期の時を思うと、胸が潰れそうな思いがした。
 はにかんだようなあの笑顔を、もう一度見たい。
 声が聞きたい。
 この手にもう一度、抱き締めて、口づけたい。
 それが叶わないなら、せめて。
 指の一本でもいい、彼女に、触れたい。
 それさえも、叶わないのなら。
  ---------
『リンネテ・・・何?』
『輪廻転生』
 いつか寝物語に、彼女から聞いた言葉がふと脳裏をよぎる。
『地球人の民間伝承でね。人が死んでその肉体が滅びた後も、魂だけは生き続けて、やがて新しい肉体を得て生まれ変わるんですって』
『ふぅん』
『どう思う?』
『どう思う、って言われても』
 あたしは寝そべったまま、天井に自分の手をかざし、くるくると返してみたり、指を曲げたり伸ばしたりを繰り返してみる。
『今ひとつピンと来ないな。体がなくなって魂だけ、ってのが。死んじゃったら、そこで終わりなんじゃないの』
『ジュピターらしいわね』
 彼女はくすくすと笑った。
『そういうマーキュリーはどうなのさ』
 逆に問いかけると、彼女はそうね、と暫し考え。
『短命の地球人らしい発想ね』
 でも、とゆっくり言葉を継いで言った。
『もしもそんなことができるなら、本当に永遠の命を与えられているのは、地球人の方かもしれないわね』
  ---------
 もしも本当に、そんなことができるのなら。
 何百年先でも、何千年先でもいい。
 どんなに姿形が変わっていても、かまわない。
 彼女の魂と、もう一度出会って、愛し合いたい。
 もしもそれが叶うなら。
 その時は、絶対に、もう二度と側を離れない。
 絶対に。
 絶対に。
 絶対に------!



「!」
 痙攣するように大きく身を震わせ、まことはベッドの上で跳ね起きた。そこは白い壁とカーテンに囲まれた小さなスペースで、思わず自分の手を見れば、目に入るのは見慣れたセーラー服のカフス。
「・・・・・夢・・・・・・か」
 大きく息を吐いて、少し早くなった呼吸を整える。顔にかかる髪をかき上げようとして、まことは自分が涙を流していることに初めて気づいた。
「・・・まこちゃん?」
 セーラーの袖で涙を拭っていると、不意に、カーテンの外から声がした。
 亜美の声だ。
「へっ!?」
 狼狽えるまことをよそに、声の主は薄いカーテンを静かに開いて姿を現す。心配そうな表情で、手には二人分の鞄を持って。
「倒れた、って、聞いたから。・・・大丈夫?」
 亜美は鞄を床の上に置くと、ベッドサイドに置かれた丸椅子に腰を下ろした。
「あ。ああ・・・うん」
 おずおずと答えて、まことは久しぶりに亜美と目を合わせた。不安げな彼女の表情に、胸が痛む。
「今・・・何時?」
 だが、気まずさに耐えかねて話を逸らしてしまう。
「もうすぐ四時よ」
 左手首の時計を見ながら、亜美。授業も終礼もとっくに終わっている時刻だ。
「あ・・・そ、そういえば、うさぎちゃんは?」
「事情を話したら、レイちゃんと美奈子ちゃんが迎えに来てくれたわ」
「そ、っか」
 迷惑かけちゃったね、とまことは肩を落とした。
 しばし、沈黙。二人とも、膝の上に置いた自分の手をじっと見ている。
「・・・近頃、ね」
 意を決して切り出したのは、亜美の方だった。
「夢をみるの。毎日」
 そこまで言って、しかしそこで詰まり、再び沈黙が訪れる。
「あたしもだよ。ここのところ毎日」
 次の沈黙を破ったのは、まこと。
「・・・どんな夢?」
「・・・前世の夢、だよ」
 亜美の問いに、まことはごく簡潔にそう答える。
「前世の、どんな?」
「それは・・・いや、その・・・」
 次の問に、まことは答えられなかった。視線は泳ぎ、言葉を継ごうとしても上擦るばかりで、全く話にならない。
「たぶん」
 それだけで、亜美にとっては答えとして十分だった。
「同じような夢を見てるのだと思うわ、私たち」
 再び、沈黙。
 放課後の学校は、様々な音があふれている。グラウンドからは、運動部の生徒たちのかけ声に混じって、ボールを打つ音、地面を蹴るスパイクの音、陸上部のピストルの音。校舎の中からは、他愛のないおしゃべりに興じながら階段を下りる生徒達の足音。その中にあって、今この場所だけは、周囲から切り離された異空間のように沈黙が支配していた。
「・・・わからないの」
 膝の上で拳を握りしめ、ぽつり、と亜美が言う。
「自分が、何者なのか。わからなくなったの。もしかしたら、私が自分の意志で選び取ったのだと思っていることは、実は何もかも前世ですでにインプットされていたことばかりで、ほんとうは私自身の意志なんて存在しないんじゃないか、って。そんな気がしてきたの」
 一旦話し始めると、堰を切ったように言葉はあふれ出した。
 そんな亜美に、まことは黙って耳を傾けている。
「私の性格も、得意なことも、好きなものも、好きな、人も。みんな、前世から決まっていることばかりで------もしかしたら、水野亜美なんて人間は、最初から存在してないのと一緒なんじゃないか、って。そう思ったら」
 ------怖いの。
 亜美はそう言って、自分で自分の体をきゅっと抱きしめた。俯いた彼女の横顔は、見知らぬ街に独り取り残された幼子のように怯え、心許ない目をしていた。
「・・・上手く、言えないけど」
 ぽりぽりと頭を掻きながら、まことは口を開いた。
「あたしは・・・亜美ちゃんのこと、好きだけど。それは、前世でジュピターがマーキュリーのことを想っていた気持ちとは違う------今のあたしの気持ちなんて、まだまだ。前世のジュピターには、全然敵わないよ。だから、ジュピターはジュピター、あたしはあたし、別人なんだ、って思える。そりゃ、根っこのところはたぶん一緒なんだろうから、好みとか、似てるところがいっぱいあって当然だろ。あんまり、気にしなくていいんじゃないかな」
 ね?
 語りかけると、亜美はおずおずと顔を上げ、小さく頷いた。
「・・・ついでに言うとさ。あたしに言わせたら、今の亜美ちゃんと前世のマーキュリー、かなり違うよ?」
 少し調子が出てきたのか、まことは指を立て、悪戯っぽく言葉を続ける。
「今の亜美ちゃんの方が、なんていうか。断然、可愛い」
「・・・ちょっと、複雑だわ、それ」
 苦笑しながら、答える亜美。
「まるで前世のマーキュリーが可愛くないみたいだわ」
「何だい、前世を引きずってるの、嫌なんじゃなかったの」
 二人は思わず顔を見合わせて、そして、笑い出した。
 ひとしきり笑いあって。
「ま、あたし達はあたし達のペースでやってこうよ。・・・ってなわけで、さ」
 少し顔を近づけて、声のトーンを落として。
「キス。して、いいかな」
 まことは囁くように言った。
「え、えっ」
 思わず顔を赤らめて狼狽える亜美。
「こ、ここで?」
「大丈夫。だれも来やしないって」
 現に、この部屋の中には二人より他に人の気配はなかった。主たる養護の先生も、今は会議か何かで席を外しているようだ。
 亜美も腹を括ったのか、はたまた連日の夢で免疫ができたのか。彼女は小さく頷くと、すっと立ち上がり、ベッドの端に腰を下ろした。
 亜美の手に、まことが自分の手を重ね。
おずおずと、近づく唇。
 瞳を閉じて。
 二人の唇が、しずかに重なって。
  がちっ
「痛っ!」
 お互いの歯がぶつかって、固い音をたてた。
 二人は暫く自分の口を押さえて痛がっていたが、やがてどちらからともなく笑い出した。
「本当。確かに、別人だわ」
 前世のジュピターは、もっと慣れていたものね。
「・・・ちぇ。って、亜美ちゃん、笑いすぎ」
 くつくつといつまでも肩を揺らして笑っている亜美に、まことは口をとがらせた。


 ------全ては、これから。

  

−−−Once upon a Dream・終

初出:2007年8月

  


(^^) よろしければ、感想をお聞かせ下さい。(^^)

↓こちらのボタンで、メールフォームが開きます↓
未記入・未選択の欄があってもOKです。
メールフォーム


小説Index へ戻る