から騒ぎ

深森 薫

 

 コンピューター・ルームに珍しく通信が入ってきたのは、夕方のことだった。緊急のものではないので、部屋の主は例によって呼び出し音を横顔で聞きながら作業を続けている。相手もそれを知ってか、辛抱強くいつまでもコールを続ける。やがて、走り書きの原稿を一ページ半ほど打ち込んだ所でキーボードの上を走っていた指がもつれた。画面に現れた意味不明の文字列を溜息とともに眺めながら、彼女は初めて手を休め、サブモニターのスイッチを入れた。
「はぁい。 マーキュリー、ご機嫌いかが?」
 傍らの小さな画面に、ヴィーナスが現れる。
「・・・それがあまり良くないのよね、生憎」
 マーキュリーは消去キーを叩きながら、半ば呆れたように答えた。
「誰かさんの持ってきた急ぎのお仕事のせいかしらね。こういう物は早めに持って来てくれないと困るわ、こっちはこっちで予定があるんだから」
 よほど疲れているのか、普段は愚痴一つこぼさない温厚な彼女が、今日は珍しく険のこもった物言いをする。
「−−−とにかく、今忙しいの。用がないなら」
「あああ、うん、用事はあるの。ジュピターのことで」
思いがけず出された名前に、一瞬マーキュリーの心臓が跳ねた。
がしかし、そんなことはおくびにも出さず彼女は問い返す。
「何?」
「うん。彼女、つい今し方帰ってきてね。それはいいんだけど・・・」
 ヴィーナスには珍しく、奥歯に物が挟まったように答えあぐねた。その口ぶりからはそれまでのふざけた調子が消えている。ちなみに、帰ってきた、とは妖魔討伐の遠征先から帰還したことを意味する。
「けど?」
「・・・うん、今、救急処置室でね・・・」
 救急処置室。
 マーキュリーの胸を一抹の不安が過ぎった。が、少しでもそんな素振りを見せれば、どんな冷やかしを受けるか分からない相手である。彼女は出来うる限りの平静を装った。
「ここまで連れてきたのはいいけど、どう手当したらいいかよく分からなくて」
「ジュピターの様子は?」
「一人じゃ歩けなくて。あたしが肩貸して連れてきたわ」
「・・・って、そんなにひどい怪我なの? 応急処置はしたの?」
「そんなに心配?」
 しめたとばかりにヴィーナスが茶々を入れる。
「当たり前でしょ。茶化さないで、ちゃんと質問に答えて」
 真剣な顔でぴしゃりと返し、それ以上のおふざけを許さないマーキュリー。こういう時は却って下手に否定したり取り繕ったりしない方がいいものだ。
「・・・そうね、当たり前ね」
 ヴィーナスは意味ありげにその言葉を繰り返したが、マーキュリーの心中は、モニターに映し出された表情からは計りかねた。食えない奴−−−知りうる限りでは二番目に食えない奴だ。ヴィーナスはそう思った。
「とにかく、あたしの手にはおえないの・・・ってことで、急いで来てね、お願いよ」
「って、ちょっと、ヴィーナス!」
 やや狼狽気味に引き止めるも、つれない音をたてて通信は途切れた。
 暗くなったモニターをしばし見つめていたマーキュリーは、コンピューター・ルームを飛び出して行った。

 

 ぴんと背筋を伸ばし、真っ直ぐに前を見つめ、マーキュリーは施療棟へ続く回廊を急いだ。ほんのすぐそこまでの事だが、その間にも想像はどんどん、しかも悪い方向へと膨らんでゆく。
 −−−救急処置室。
 −−−歩けない。
 −−−手におえない。
 キーワードだけがぐるぐると頭を巡る。打ち込みかけのデータを保存もせぬまま放り出してきたことなど、すっかり頭の中から消えていた。廊下ですれ違った侍女たちは、いつになく厳しい表情で早足に通り過ぎてゆく彼女の後ろ姿を物珍しげに目で追った。
 救急処置室は、施療棟の一番手前に位置していた。各部屋のドアは、王宮の他の部屋同様に彫刻の施されたアンティーク調の外見を持っていたが、そこは銀千年王国の技術の最先端を行く医療の場、実際には自動ドアだ。長い廊下をずっと早足に駈けてきたマーキュリーは、少し早くなった呼吸をととのえる間も惜しむように扉を開けた。
「?・・・・・・あれ」
 入口に立つ彼女の姿を見て、少し間の抜けた声を上げた者がいた。声の主は、長い脚をベッドの上に投げ出して、壁にもたれてくつろいでいるようにも見えた。
「マーキュリー? どうしたの、顔色悪いよ?」
「・・・ジュピター・・・?」
 今度はマーキュリーが、まだ少し息を切らしながら頓狂な声を上げた。歩くこともままならぬほどの重傷のはずの人間が、怪我どころか呑気に、しかもそんなことを尋ねてくるので、彼女はすっかり混乱してしまった。
「え・・・? あっ、その・・・お帰り、なさい」
「えっ? あ、た、ただいま」
「ジュピター、あの・・・その・・・怪我・・・は?」
 マーキュリーがやっとの事でそう尋ねると、
「へ? ああ、これ。なんで知ってんの?」
 ジュピターはそう言って、投げ出した長い脚の先に目をやった。マーキュリーがつられてそちらに目をやると、足に無造作に巻き付けられたタオルに血がにじんでいるのが見て取れた。床の上にも点々と小さな血の滴の跡がついている。
「いや、それが、昼寝しようと思ってね・・・。着替えてたら、蹴っつまづいてゴミ箱ひっくり返しちゃってさ。で、この前壊したグラスの破片が床に散らかって、そいつを思いっきりぐしゃっ! ってね」
 ぐしゃっ、のところで顔をしかめながら、ジュピター。
「いやもう痛かったのなんのって、声も出ないんだもん。グラスの底んとこの、こーんなでっかいガラスのとんがったのがころっと出てきてさ、そいつを上からモロにぐさっっ! って・・・痛つつつつ・・・」
 まるで腕白な子どもが自分の怪我を自慢するように、嬉々として、半ば得意げに話すジュピターの様子を、マーキュリーは呆然と眺めた。
「で、とりあえず廊下に出たら丁度ヴィナがいたから、ここまで来るのに手貸してもらったんだけど・・・あ、そーいえば、ヴィナ見なかった?」
「・・・・・・え? さ、さあ」
 マーキュリーは気のない返事をしながら、初めてこの騒ぎの張本人のことを思い出した。
 −−−やられたわね。
 でも、不思議と腹は立たないで。
「あんにゃろ、手当してやるから待ってろ、なんて調子のいいこと言って、どっか行ったっきり帰って来やしない」
 人の気も知らずに話し続けるジュピター。
 マーキュリーの表情が和らぎ、小さな笑みがこぼれた。
「・・・私じゃ駄目?」
「え?」
「手当、私じゃ、駄目かしら?」
「っ、とっ、とんでもない! いいの?・・・あ、でも」
 ジュピターはぱっと顔を輝かせたが、すぐに何か思い出したように声をしぼませる。
「他に何か用があったんじゃないの、急ぎの」
「・・・うん」
 処置用具を乗せたワゴンを引き寄せながらマーキュリーは小さく頷いた。
 『あなたのことが心配で飛んできたのよ。』
−−−そう言ったら、このひとはどんな顔をするだろう。
 おかしいくらい簡単に、想像はついた。
「でも、もういいの、それは。急ぐ必要なくなったから。・・・ガラスの破片は全部取った?」
「うー、ん、たぶん。」
 そう尋ねてみたものの、返ってくる答えなど初めから当てにしていなかった様子で、彼女はジュピターの足元に腰をかけて傷口と対面した。
「・・・普通の人には十分『大怪我』ね」
 少し眉を顰めつつ、患部を丹念に調べ。
「ああ、ほら、やっぱり残ってる」
 そう言ってピンセットを手に取ると、普段の穏やかな物腰に似合わぬ思い切った手つきで、それを傷口にぐしゃ、と突っ込んだ。
「いでっっ!」
 途端にびくっ! と体を強ばらせるジュピター。
「ほら、じっとしてて。動くと余計に」
「づっ、あ、足の裏は鍛えてないんだよぉ・・・ぉひゃぅわぁ」
 歴戦の勇者とは思えぬ情けない様でわめきちらすジュピターをあやしながら、ガラスのかけらを丹念に取り除き。
「・・・さ、次はちょっと滲みるかも」
「次『は』? さっきのも十分−−−はぐっ!」
「何か言った?」
 液で傷口を洗うように消毒を施しつつ、にっこり笑う。
「いいへ・・・何でもありまへん」
 その後マーキュリーの豪快且つ丁寧な手当の間中痛いのしみるのと騒いでいたジュピターだが、手当が終わると包帯の巻かれた足をさも嬉しげに眺め回した。
「ありがと。その・・・助かったよ、すごく」
 満面に笑みを浮かべるジュピターに、マーキュリーも心からの笑顔を返すと。
「・・・それじゃ、私、仕事の続きがあるから」
 ふと我に返ったようにそう言って、風のように処置室を去っていった。

  

 こつこつとリズムを刻む足音がふと止まった。
「はぁい。 マーキュリー」
 回廊の柱にもたれて、ひらひらと手を振るヴィーナス。
「どうだった?ジュピターの様子」
 彼女は肩に掛かる髪を払いつつ、足を止めたマーキュリーに笑顔を向けた。その笑顔は優美な女神の微笑か悪戯好きな小悪魔の含み笑いか、それは意見の分かれるところであろうが。
「ええ、『思ってたより』大したことなくて、良かったわ」
 マーキュリーも微笑を浮かべて、さらりと答える。
 そう、と言って少し探るような視線を投げるヴィーナス。マーキュリーの表情は変わらない。
「それは何よりだわ・・・じゃ、仕事の途中で悪かったわね。お願いした例の件、よろしく」
「ああ、そのことなんだけど」
 ぽん、と肩を叩いて立ち去ろうとするヴィーナスを、マーキュリーが呼び止める。
「なかなか思うように進まなくて、おまけに予定外に中断しちゃったし・・・今日中には無理かも」
「え・・・・・・・・・・・・」
 ヴィーナスの表情から、余裕の色がさっと消えた。
「・・・・・・・・・・マジ?」
「私はいつでも真面目よ?」
 珍しく泡を食ったような顔をするヴィーナスに、
「冗談よ」
 マーキュリーは肩をすくめてくすっと笑った。
「思うように進まないのは本当だけど。今日中には何とかするから安心して」
 彼女はそう言って、じゃあ、と再び回廊の向こうへと歩き出した。
 −−−食えないわね。
 やっぱりからかうならジュピターやマーズがいいわ。
 その後ろ姿を見送りながら、ヴィーナスは独り頷くと、踵を返して歩きはじめた。

−−−から騒ぎ・終

  


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