竪琴

深森 薫

  

 遠く、近く。 
 朗々と、切々と。
 打ち寄せるように、さざめくように。
 カーテンの足元で踊る夜風に乗って、竪琴の音は聞こえて来た。一日を終えて眠りにつくまでのひととき、疲れた体をソファーに投げ出し、グラス片手に窓の外を見るともなくぼんやりと眺めていたあたしの耳元を、優しく愛撫するように琴の調べは流れ来る。
 あたしはこの竪琴の弾き手が誰かを知っている。------もっとも、あたしに限らずこのパレスの住人ならば誰でも知っていることではあるが------そして、そのことがあたしの胸を躍らせた。アルコールが少し入ってるせいかもしれない。あたしは手にしたグラスの残りを一気にあおってテーブルの上に置き、のそのそとバルコニーへと歩み出た。
 外の風は火照った頬に心地いい。
 その風に乗ってやって来る、琴の音。
 あたしは音のする方に振り向いた。
 ストゥールに腰掛け、銀の竪琴を膝に抱え爪弾くマーキュリーがそこにいる。------そこ、といっても一つおいて隣のバルコニーで、すぐ側というわけではないが。
 澄んだ琴の音と透明な夜の空気。一日の終わりを告げるような緩やかなメロディー。微笑みともつかない穏やかな彼女の表情。それら全てが心地よく調和している今、横やりを入れるのはひどく野暮なことのように思えて、あたしは話しかけたい気持ちをこらえ、傍らの手すりにもたれてそっと目を閉じた。

 ぽろ・・・・・・ん

 やがて最後の音が小さくなって消えていく。夢から醒めたような心地で拍手を送ると、彼女は少しおどけた仕草で一礼して照れくさそうに笑った。
「こんな時間にごめんなさい。うるさかったかしら?」
「まさか、そんな滅相もない。嬉しいよ、マーキュリーの竪琴、久しぶりに聴けて。今日はいい夢見れそう。」
「嫌だ、あんまり誉めないで。最近ずっと弾いていなかったから、思うように指が動かなくて。」
 きまり悪げに肩をすくめる彼女の頬が、ほのかに赤く染まったように見える。
 うーん。
 可愛い♥
「そうかな。そんなこと、ないと思うけど。
 ・・・もう一曲弾いてよ。もし、嫌じゃなかったら。」
「え。・・・でも、そんな」
「・・・・・・駄目?」
 視線で懇願すると、彼女はちょっと考えて、
「・・・・・・そうね、じゃ、何がいい?」
 やがて困ったように微笑んでそう問い返してくれた。
「えーっと、うん、ほら、この前の晩餐会で弾いてた、あれ------
 あれ、何て曲だっけ。」
 しどろもどろなあたしのリクエストを受けて、彼女はおもむろに竪琴をかまえた。
 震える弦の澄んだ音が辺りいっぱいに響き、細い指先が聞き覚えのあるメロディーをたどりはじめると、木々の梢を渡る風もしばし聞き入るようにさざめきを止める。
 そう、この曲。
 柔らかく、深く、胸にしみ入る音色。
 優しく、メロウな、でもとても切ない旋律。
 あたしは手すりの上頬杖をついて、もの思いのうちに眠りにつく心地で眼を閉じた。
 たゆたうように、流れるように。
 緩急のゆらぐリズムに心をゆだねて息をひそめる。
 微笑むように、見つめるように。
 泣いて、泣き疲れて眠るように。
 たまらなくなって駆け出すように。
 途切れることなく音楽は溢れ出す。
 彼女はどんな気持ちでこの曲を弾いているのだろう。
 彼女の胸にもこんな切ない想いが?
 ある、としたら------それは一体、誰のために?
 あたしはうっすらと眼を開けた。彼女の姿が宵闇の真ん中に浮かぶ。辺りには他に人影はない。少し憂いを帯びた、伏し目がちな横顔。肩から足元へ流れるシルバーグレイの衣が曲に合わせて時折小さく波打つ。並んだ弦の上を踊る白い指が、途切れることなくメロディーを紡ぎ出す。
 彼女の心は読めないけれど、少なくとも今、この瞬間だけは、あたしの------あたしだけのために弾いてくれていると、
 そう思っても、罰は当たらない・・・かな。

 ぽぉぉ・・・・・・ん

 彼女がゆっくりと顔を上げ、静かに輝く瞳があたしを見る。
 胸にきゅんと締めつけられるような痛みが走る。
「・・・いい曲、だね」
「そうでしょう? 私も好きなの、この曲。」
 そう言う彼女の表情からは憂いの色は消えて、いつもの爽やかな笑顔。
「けど、駄目ね。普段弾いてないから、イメージに指がついていかなくて・・・ごめんなさい。」
「え、あ、ううん、そんなこと、ないよ。」
 うわの空で答えるあたし。
「全然。すごく、いいよ、ほんとに。」
 知りたい。
 彼女の胸の内。
 誰か想い人がいるのか、あたしのこと、どう思っているのか。
 いっそ、思い切って訊いてみよう、今。
「ねえ・・・そっちに行っても、いいかな。」
「え?」
 彼女がいるのは、一つ置いた隣りのバルコニー。飛び移るのもわけはない。あたしの台詞が唐突だったのか------確かに唐突だったと思う------彼女は一瞬何のことか判りかねた様子で問い返した。
「そっちへ行って、いい?」
「え・・・・・・」
 急に彼女の表情が困惑の色に曇る。
「あの、少し、話が、したいんだ・・・迷惑、かな。」
「え、あ、ううん、そういうわけじゃない、けど・・・」
 迷惑か、なんて言われたら、きっと彼女は無碍に断れない。そういう人である。知っててそんなことを言うなんて、我ながらずるいと思う。やり方が誰かさんに似てきたかな。
「いいよね。今、行くよ、そっちへ。」
 返事を待たずに、バルコニーの手摺の上に飛び乗った。彼女の唇が何か言おうとするより早く、あたしは隣の部屋のバルコニーへと跳ぶ。
  すたっ
がごぐぉぉぉぉぉんっっつ!
「のわあぁあぁあぁぁぁぁぁっっっっつ!」
 ひるるるるるるるるるるるぅぅぅぅぅ・・・・・・
 ぼてっ。
 ☆$∞#♂÷ΣЖ@※≒&★!

 ------それはあっと言う間の出来事だった。あたしは突然部屋の中から激しく吹き出した巨大な火柱に体ごとさらわれ、そのまま中庭の芝生の上に墜落した。
 なっ、ななななんなんだ、一体!
「・・・嫌ぁね、」
 聞こえてくる、吐き捨てるような溜息と刺々しい呟き。あたしは落ちたままの姿勢------別に好きでそのままの格好でいるわけじゃない、動けないんだ。声も出ない------で、バルコニーの方を見上げた。
「他人の部屋に勝手に入って来んじゃないわよ。」
 風をかたどる長い黒髪を、うるさそうに片手で押さえる人の影。
 隣の部屋の、主である。
 マーズ・・・いたのか・・・
 いるのが分かってたら、あんな無茶しなかったのに・・・。
「ったく、こんな所から忍び込もうなんて、行儀の悪い。恥を知りなさい、恥を。」
 こっちを覗き込みながら、非難がましく言うマーズ。
「・・・っ、ばっ、ばっかやろー! いきなり火ィ吹き出す奴があるか! 危ねーだろが!」
「黙って入ってくる方が悪い。」
「ちょっと降り立っただけじゃんか!」
「あのねぇ。こんな時間に、こんな場所から他人の部屋に忍び込むのは、賊と相場が決まってんの。警告無しでどつき倒されて当然よ。」
「うにゅっ・・・」
 うっ、それを言われると・・・
「あなたも仮にもプリンセスの側近なら、それ相応の振る舞いをしなさい、恥ずかしい。」
 マーズは涼しい顔でそう言って小さな溜息一つつくと、今度はあまりの出来事にあっけにとられている隣人の方を向いた。
「マーキュリーもマーキュリーだわ。駄目なんだったら駄目って、はっきり言わないと。ああいうタイプは、普段のしつけが肝心なのよ。」
「え・・・ええ」
 ちぇ、余計なお世話だ。
 それにしても、近頃マーズはやたらあたしに対して意地悪だと思う。
 あいつ何かあたしに恨みでもあるのか?
 くそう、マーズのばかやろー!
 くすんくすんくすんくすん・・・・・・・・・

*        *        *

「ねえ。」
 マーズは部屋の中に帰ろうとするマーキュリーを呼び止めた。
「・・・・・・何?」
「今日はやけに気前がいいのね。」
「え?」
 脈絡のない質問にマーキュリーは頓狂な声で聞き返す。その顔をしげしげと眺めた後、マーズはぽつりと言った。
「前に私がリクエストした時は、貴女、断ったじゃない。」
「・・・そうだったかしら。」
 一拍置いて、ふいと困ったような笑みをこぼすマーキュリー。マーズはやがて軽く肩をすくめると、
「ま、いいけどね、別に。おやすみ。」
 ひらりと体を返して自室へと引き上げた。
 いつもより少し焦げ臭い、銀千年王国の夜は静かに更けてゆく。

  

−−−竪琴・終

  


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