Intermezzo

深森 薫

 

目を閉じると、光の明滅が見える。


 目を閉じているのに、見える、という表現はおかしいだろうか。兎に角、目を閉じると、瞼の裏いっぱいに広がるディスプレイの光の中を、文字と数字の列が虫の大群のように凄い速さで流れてゆくのだ。
 それを払うように軽く首を振ると、頭がずきずきと痛む。
「あー…………」
 マーキュリーは思わず歩みを止めて、眉間を押さえながら小さく呻いた。
 不眠不休でディスプレイと睨めっこを続けて、体はくたくたに疲れているのに、脳は変に覚醒している。落としたいのに落とせない、なんて、まるでオーバーヒートしたコンピュータのようだ、と思う。
 大きく息を吸って、今度は声を出さずに大きな溜息を一つつくと、マーキュリーは重い体を引きずるように再び歩き出した。



 自室のドアを開けると、暖かな光の中に、人の居る気配がした。
「―――お帰り」
 ソファに沈んだ体をもそもそともたげて、ジュピターが微笑みで迎える。
「ただいま」
 応えて、マーキュリーも微笑んだ。動かしてみて初めて、顔の筋肉が随分と凝っていることに気付いた。そういえば、今度の仕事に取りかかってから今まで、一度も笑っていなかったような気もする。
「遅かったね」
 ジュピターはソファに座り直しながら、軽く背伸びをした。
「ごめんなさい。思ったより時間がかかって」
 その隣に腰を下ろして、マーキュリー。
「別に、謝らなくても。約束してたわけじゃないし」
「でも。待っててくれたんでしょう?」
「ん、ああ……まあ、ね」
「ありがとう」
 そう言って見上げる微笑みに、ジュピターはああ、とかうん、とか呟きながら、照れ隠しのように指で頬を掻いた。
「……ところで、お疲れのマーキュリーさん。何かして欲しいこと、ない?」
 気を取り直して、戯けたように、ジュピター。
「そうね……じゃあ、美味しいお茶をお願い」
「それだけ?」
 欲がないね、とジュピターが笑うと、
「そうかしら。結構贅沢だと思うけど。ジュピターの淹れてくれる、『美味しい』お茶」
 答えて、マーキュリーも少し悪戯ぽく、笑う。
「そりゃどうも。では、心してお淹れいたしましょう」
 ジュピターはそう言って、ゆっくりと立ち上がった。



 勝手知ったる人の部屋。
 程なく、ジュピターはポットと二人分のカップを載せたトレーを手に、香草茶の香りを漂わせながらソファへと戻ってきた。
「お待たせ。 ―――って。あれ」
 マーキュリーは少し首を傾げるようにしてソファの背にもたれ、穏やかな寝息をたてていた。
「……マーキュリ?」
 テーブルにトレーを置いて、ジュピターがその顔を覗き込む。少し微笑んでいるような寝顔は、いかにも安らかで。
「お茶、入ったよ」
 語りかけてみても、柔らかく閉じられた瞼は、当分開きそうにもない。
「……やれやれ」
 ジュピターは軽く肩をすくめると、ソファに沈んだマーキュリーの細い躰を抱き上げた。
「ん……」
 彼女は少し身じろいだだけで、そのまま眠り続けている。勿論、起こさないよう気を遣いはしたけれど、繊細な―――悪く言えば神経質な―――彼女がそれでも目を覚まさないのは、とても珍しいことのように思えた。
「よ、っと」
 人一人抱きかかえたまま、ジュピターは器用にドアノブを捻り、奥の寝室へと進んだ。そして、居間から漏れ来る光だけを頼りに歩き、大きな寝台の、中央に彼女を降ろす。数日ぶりに戻ってきた主を、寝台のスプリングが優しく受け止めた。
 ブランケットを胸元まで引き上げ、顔にかかる髪を指先で払い、額に軽く口づけて、離れようとしたその時。
 寝台についた手の袖口を、マーキュリーの手が掴んだ。わずかに開いた長い睫の隙間で、仄かに輝く瞳。
「悪い。起こした?」
「……ジュピタ……」
 囁く問いには答えないで。
「……いて」
「ん?」
「……ここに、いて」
 蕩けるように見上げて、強請る。
「……………………」
 これは巧みな誘いなのか、はたまた単に寝惚けているだけなのか。
 もし前者だったら―――
(―――どんな悪女だよ)
 ジュピターは苦笑して、彼女に請われるまま寝台の中に潜り込んだ。手枕を添えると、彼女はするりと擦り寄って、その細い腕を背に絡めてくる。
「ん……」
 少し鼻にかかったような、甘い声。
 これで寝惚けてるだけだというのだから。
(罪作りだね)
 胸元で穏やかな寝息をたてるマーキュリーの、無防備な寝顔を暫し眺めて。
 ―――目が覚めたら、何てからかってやろうか。
 そんなことをぼんやりと考えながら、ジュピターもいつの間にか、眠りに落ちていった。


Intermezzo act 1 --- Fin.



*       *       *



 蝋燭の炎のような、暖かな淡い光で満たされた部屋。
 仄かに漂う、サンダルウッドの香。
 ソファにゆったりと身を沈めて、軽めの本を、読むとはなしに読みながら、渋めの茶をすする。
 一日の勤めを終えたマーズの、これが就寝前の日課であり、お気に入りの時間でもあった。実際、巫女として祈祷に明け暮れる彼女は、張り詰めた神経をこうして時間をかけて弛めてやらなければ、とても眠りにつくことなどできない。
 目を閉じて、静寂に耳を傾けると、凝り固まった心身が柔らかく解れていくような気がする―――
  ばたーーん!
「たっだいま!」
 突如勢いよくドアが開き、金糸の髪を振り乱してヴィーナスが姿を現した。
「あー、疲れたっ!」
 彼女はつかつかと真っ直ぐにソファへとやって来て、マーズの隣にどっかと腰を下ろしたかと思うと、ごろりと横になって、その頭をマーズの膝の上にに載せた。
「はー、安らぐわー。やっぱり疲れたときはマーズちゃんの膝枕が一番!」
「…………」
 マーズは無言で、読んでいた本をぱたん、と音を立てて閉じ。
  ごすっ
「いだっ!」
 その本の背表紙の角で、ヴィーナスの額を直撃した。
「〜〜〜っっ……・マーズちゃん、酷ひ……」
 ヴィーナスは額を押さえて悶絶した。それでもマーズの膝から離れないのは、流石というか、天晴れというか。
「……ヴィー」
 マーズはぺちぺちと本の背表紙で自分の掌を叩きながら、まだ膝の上にあるヴィーナスの顔を見下ろす。
「何べん言わせんのよ。人の部屋に入ってくるときはまずノックして、それから、入ってもいいか、とか今大丈夫か、とか、お伺いをたてて入ってくるもんでしょう。それを何?ノックもせずに、いきなり、あんな乱暴にドア開けて、我が物顔で入ってきて、勧められもしないのにでーんとソファに座り込んで、しかも勝手に人の膝に、スッカラカンの癖にやたら重たい頭を乗っけて膝枕とか馬鹿なこと抜かしてんじゃないわよ。そもそも、こんなド真夜中に当たり前な風で訪ねて来るってどうなのよ。それに何?何で入ってくるときの台詞が『ただいま』な訳。此処がいつからあんたの部屋になったのよ!」
「ん……」
 当のヴィーナスは、ソファに体を投げ出して、目を閉じたまま、マーズの膝に頬を擦り寄せている。
「ちょっと、聞いてんの人の話」
「ん、聞いてる……よくそんな早口で、噛まずに怒れるわねー」
「…………」
 マーズは呆れ顔で盛大な溜息をついた。
 そうしている間にも、ヴィーナスは夢の世界に旅立ちそうである。
「……ちょっと。こんな所で寝ないでよ。そんなに疲れてんだったら、とっとと自分の部屋に帰って寝なさい」
「やーだ」
 ヴィーナスはごろりと仰向けになると、マーズの頬へと手を伸ばした。
「だって。今のあたしに必要なのは、休息もだけど、何よりマーズ分なのー」
「……馬鹿言ってんじゃないの」
 ヴィーナスの手がマーズに触れるより先に、マーズの手がヴィーナスの額をぺち、と叩いた。
「冗談じゃないわ。これじゃ私が寝られないでしょ」
「ん……」
 眠い目を擦る仕草のヴィーナス。
「んー、じゃなくて」
 マーズは仏頂面でその顔を覗き込む。
 ヴィーナスはへらり、と笑って、
「大丈夫。ちゃんと自分の部屋に帰って、シャワー浴びて寝るから。もちょっとだけ……ちょっとでいいから、このままでいさせて?」
 ね? と首を傾げて、強請った。
「……ったく」
 マーズは今日何度目かの溜息をついた。
「私が寝るときには、叩き起こすからね」
「ん」
 嬉しげに微笑んで、マーズの膝に頬を擦り寄せるヴィーナス。そうして大きく深く、息を吸って、吐くと、その次にはもうすやすやと寝息を立て始めた。
「ヴィー?」
 呼びかけても、返事はなく。
 額にかかる髪を払ってやったところで、目を覚ます気配もない。
「……たちの悪い子どもね、まるで」
 暫くその寝顔を眺めていたマーズだったが、やがておもむろに先刻まで読んでいた本を拾い上げると、再びページを繰り始めた。


 蝋燭の炎のような、暖かな淡い光で満たされた部屋。
 仄かに漂う、サンダルウッドの香。
 静寂の中、微かに聞こえる寝息。
 膝に感じる、重みと温もり。

 こんな一日の終わりも、悪くないのかもしれない。

Intermezzo act 2 --- Fin.

  


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